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「わたし」であるとは? ② ~ 小満の頃’20

 

 しばらく前、自宅で入浴の準備をしていたときのことです。いまどきの風呂の湯沸かしは全自動制御のため、希望温度を設定しボタンを押せばあとはただ待つだけという簡単さです。アラームが鳴ったので早速服を脱いで、つかる前の湯浴びを、と思わず「冷たっ!」と叫んでしまいました。おかしいと思い温度のデジタル表示を見るとあろうことかお湯の温度はまだ37℃。よく見もせずに低い設定のまま湯沸かしをしていたのでした。

 ぶつぶつ文句をいいながらも、服をすでに脱ぎ湯浴びで下半身も濡れていた手前、もう一度服を着て待つのも面倒だと、愚かにもやせ我慢を押してそのまま浴槽につかり、しばし冷たさに耐えながら温度が上がるのを待つという失笑ものの選択をした私でしたが、そんな中、ふとある疑問がわたしの心に湧いてきたのです。

 「なぜ自分はいまこの37℃を冷たいと感じるのだろうか?」と。考えてみれば、37℃といえば、人体でいうところの平熱(基礎体温)か微熱がある状態で、それは冷たいとは感じないはずだし、むしろちょっと熱っぽいという感じなのではないだろうかと...

 

 そんなことを考えていると、ふとまた過日見たテレビの天気予報番組での気象予報士のコメントが頭をよぎりました。「今日はところによっては36℃を超える予報となっています。これはもう人間の体温に近い大変な暑さ(!?)ですから...」

 いったいこれはどういう意味なのか?

 確かに、気温36℃といえば身体にこたえる耐えがたい暑さであるけれど、考えてみればそれは私たちの平熱そのものではないか!普段私たちの身体の中は36℃に保たれていても暑さなど感じないのに、どうして今のそれはそれほど耐え難いのかだろう?皮膚表面と体内の違い?気象予報士のたとえに、こりゃ今日は大変な暑さだと反射的に反応してしまったものの、その表現はひどく矛盾しているのではないか、などと考えだしたのでした。

 そこではたと気が付いたのは、つまりなぜだか私たちは、自分(の体温)については、「感じない」のだということ、あるいは実際には温度として「ある」のだが、なぜかそれは「ない」と「感じ」ているのだ、と。

 


 さらに不思議なことがもうひとつ。私たちが感じ「ない」のは、ほぼピンポイントの基礎体温の平熱のみであって、それからほんのわずかでもはずれた温度について、私たちは奇跡的にも「感じ分ける」ということです。

 私の平熱は36.3℃ですが、それよりゼロコンマ5高いだけの36.8℃を私は察知します。熱っぽさを覚えたり体調の違和感などをおぼえるのです。ほとんどの人も同じように基礎体温よりほんのわずかなズレを感じ取ることができます。

 さらに私たちは、自分や他者の額に手を当てて「熱があるね」などという行為を日常的におこなっていますが、よく考えればこれはちょっとすごいことではあるのです。なぜなら例えば気温や水温について私たちはそんな繊細な温度感覚を持ち合わせていないからです。気温15℃と15.7℃を区別することなんてまず不可能です。であるのに、体温についてはわれわれはきわめてセンシティヴな反応が可能なのです。これはひょっとすると超(絶的な)能力なのではないだろうか?

 

 これらはけっこう大きな問いかも知れません。こんなとき、詳しい専門家ならば説明はできるだろうし、知識を持たない私のような素人でもググってみれば正解は得られるかもしれませんが、それでは答えをただ知るだけで、そこにダイナミックな知的体験のチャンスはないかもしれません。前回ブログで幼少の私が抱いた疑問の数々に対してと同じように、いえ大人になった今だからこそ、普段何気ないものごとに素朴な疑問を感じたら、そこにしばしとどまってあれこれ思考を引き受けることはいっそう大切なようにも思えます。たとえ正解にたどり着かなかったとしても、そのプロセスはとても意味のあることだと考えたいのです。



 ヒトは、長い年月をかけ進化を遂げてきた動物です。厳しい環境のなかを生存し続け、子孫の繁栄・存続を維持するため必要なさまざまな能力を価値あるものとして選択し、進化させ今に至っています。

 つまり、私たちの身体に備わる構造や機能のそれぞれに環境適応的な意味や理由があって、とても役に立っているということです。そう考えると、さきほどの「ある」はずの基礎体温を私たちが感じることが「なく」、しかしそこからのわずかな逸脱については、逆に極めて繊細に察知するという能力の獲得にも、何らかの適応的な意味があり、何かに役立つ理由があると考えることは、けっして不自然ではありません。

 それではいったいそれは何のために進化したのでしょうか?その適応的な意味とは何なのでしょう?

 動物としては比較的弱小な身体骨格ですらあったわれわれヒトは、その身体を脳に代表されるように極めて複雑かつ精密な機能構造とメカニズムを持つ、まるで精密機械装置かコンピュータのように進化させてきた結果、他の動物を圧し食物連鎖の頂点に君臨する地上の支配者となるに至りました。しかし、そうした卓越した身体機能を維持するためには、きわめて繊細な制御が不可欠であって、ほんのわずかな変調が誤作動や不具合を起こしうるという代償をも伴うこととなったのです。

 きわめて精緻な身体メカニズムをうまく機能させるには、たえず適切な温度管理や熱量として十分な量のエネルギー供給と血流が欠かせません。そうした体の管理に問題が生じた場合、とても厄介なことが起こります。たとえば体温が一定程度低くなってしまうと免疫力が急速に衰え、細菌やウィルスなどの外敵の侵入や悪性腫瘍などの発生を簡単に許し、生命自体が脅かされることとになり、また逆に高温にふれてしまうと侵入者を死滅させることはできるが、逆に自分の健全な細胞や組織もまた深刻なダメージを与えてしまうことにもつながります。

 実は人間は、気温など周囲の環境のような(夏は暑く、冬は寒い。火は熱く水は冷たいなど)アバウトな変化や感じ方とは次元の違う細やかな制御が必要な、とほうもなく狭い温度の範囲内でしか生きることのできない脆弱な生き物である、ということがわかります。わずかな温度のズレが人体には深刻なダメージを与えてしまうのです。



 そう考えると、私たちがその基礎体温を感じ「ない」とはどういった進化なのかといえば、わずかな差異「あらゆるすべて」を異常として察知するための一番確実な状態、つまり普段をなにも感じ「ない」、「ゼロ状態」として知覚して「いる」ことを獲得した、ということなのです。そのゼロ点が平熱、基礎体温です。

 普段問題のない状態として感じ「ない」ことが、何か異常が「ある」ときを繊細に弁別できる最も確実な方法です。普段からたえず何らかの温度を感じていれば細かな区別は困難になってしまいます。本当は「ある」のだけれど「ない」ものと感じておくことで、その他の感じるすべてを精緻に見分ける能力を私たちは身につけるに至ったのです。

 もっとわかりやすいのは、私たちの味覚と唾液の関係かもしれません。私たちの味覚はとても繊細なもので、正常であればだれでもほんの小さな塩数粒でさえそのしょっぱさを知覚します。それを可能にしているのは、常に口内の環境を「ゼロ」設定としている唾液の機能といえます。口に入れたものが万が一ほんのわずかでも毒なり体に有害な物質が含まれていれば、即生命に重大な影響がでます。したがって私たち人間は、ほんのわずかな味覚のズレすべてにまんべんなく警報が出せるよう、実に繊細にチューニングがされているのですが、それには唾液で満たされた口内が無味無臭(実際には違うといわれていますが)なものとして常に「ゼロ知覚」されている必要があるというわけなのです。逆に常に何か味わっている状態の口内はなかなか想像することはできないかもしれません。

 簡単に説明してはいますが、この基礎体温や唾液にみられるような、「ゼロ状態」として知覚されずに「ある」ということは、私たちの複雑な人体機能を支える実に高度な「超(絶)」能力と言えるかもしれません。



 前回私の幼少の頃の素朴な疑問の話で、今回は大人の私の素朴な疑問について私の個人的な見解を述べてきましたが、本来のテーマは「わたし」であることについてでした。

 人間という存在は、身体と精神という2つの次元から成り立っています。身体が進化の産物であると同時に、私たちの心の働きもまた進化の産物であり、さまざまな精神機能も進化という淘汰圧によって選択獲得されてきた能力であるとすると、この「わたし」であるということの進化的な意味は何かとても気になるところです。

 次回そのことについて考えてみたいと思います。





最後までお読みいただいてありがとうございます。

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# by yellow-red-blue | 2020-05-20 22:07 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、仕事について、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。記事のどこかに、読む人それぞれの「わたし」や「だれか」を見つけてもらえたら、と思っています。


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