2015年 10月 13日
ものごとの見方とらえ方 ~ 寒露の頃'15
ブラームス 交響曲第1番ハ短調作品68
・レナード・バーンスタイン指揮、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団(1983年)
・カルロ・マリア・ジュリーニ指揮、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団(1990年)
クラシック音楽を鑑賞するということは、過去の偉大な作曲家たちが残した数々の楽曲を、以後の時代の演奏家たちによる演奏を通して楽しむことと言えます。
ところが、同一作曲家による同一の楽曲であっても、それを演奏する演奏家や演奏された時代的背景、演奏環境や録音技術、そこに関わるスタッフなど、様々な要素が絡みあい生み出される作品は、決して同じではありえず、それぞれがまた違った音楽世界を持っています。
ましてや、そこに今度は聴き手あるいは受け手としてのわたしたちという要素が加わり、それぞれの印象なり解釈をもって感動と感慨にふけるわけですから、様々どころか無数の音楽の世界がこの分野には存在するといっていいかもしれません。
そして、クラシック音楽最大の魅力は、まさに今述べた同じ「事実」としての作品から、演奏やわたしたち聴衆の受け取り方によって、無数の音楽世界という「真実」が広がっていることにあるといってもいいかもしれません。
もちろんこのことは他の分野でも言えることですが、殊にクラシック音楽ではその傾向が顕著なのではと思えてしまいます。クラシック音楽が好きな方なら、ある作品についてどの演奏を選ぶか、いえ実はその全部を聴いてみたいと思うのが本音なのかもしれません。
(あまりクラシック音楽に興味がない方は次の*まで飛ばしてお読みください)
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レナード・バーンスタインが久々にウィーンで、世界最高の舞台とオーケストラと組んだこの名曲の演奏は、発売当時は少々の驚きと圧倒的な喝采とをもって迎えられた記憶があります。
自らの溢れんばかりの独創的な情念と理想を憑依させるかのような音楽的表現を得意とする彼らしからぬ、バランスのとれた冷静かつ端正な演奏、重厚な響きを終始崩すことなく、この古典的名曲をドラマティックに見事に描き切り、それまでとはある種別境地に辿り着いたかのような評価を受け、私も同じような印象を抱いていました。
ところが、今回改めて聴いてみると、より大きな普遍性と完成度の高さのオブラートに包み込まれつつも巧みに見え隠れする彼らしさ、すなわち、伝統への執着から自由でかつ独創的、自身の内面的欲求と理想を表現すべく妥協なき完璧主義を貫くその演奏姿勢は健在であり、それらとの巧みな融合こそが、彼に新たな別境地に辿りついたかのような印象を与えたのでは、という感覚を強く持ったのです。むしろバーンスタインらしさがよりはっきりしたコントラストとなって多面的に曲に織り込まれているのではとすら思わせます。
第一楽章全編にわたる弦楽器の音色、官能的に過ぎるともいえなくもないほどこの上なく甘美な余韻を奏で、楽曲中ベストの出来栄えと言っていい第2楽章、そして冷静かつ重厚な響きを堅持しつつ、クライマックスへの高揚感をエモーショナルたっぷりに掻き立てる重層多面的な最終楽章の構築ぶりはその顕著な表れといっていいでしょう。
バーンスタインにとって音楽は、いわば自らの理想世界に到達するためのプロセスであり、楽曲の背後にうごめく情念や意思を表現することこそ重要なテーマです。そしてそれは時に作曲者自身や原譜のメッセージを超越し、溺れるほど心地よい自らの心象に灯る聖なる理想郷へ暴走と混沌とをはらみながら突き進んでいきます。そこには偉大な作曲家にして天才指揮者であるバーンスタインならではの音楽への姿勢とプライドがあり、その境地に浸るのはまた格別です。
一方イタリアの生んだ孤高のマエストロ、ジュリーニのブラームスは、あくまで作曲者の意図あるいは楽譜に忠実に留まりながら、一音一音噛みしめるかのように丁寧に響かせることそのものに重きを置いていきます。ジュリーニにとって大切なのは、精緻なスコアの読みと丹念なリハーサルから紡ぎだされる音符一音一音そのものであり、全体の構成や楽曲間の繋がり、フィナーレへの布石や終曲に向かってのストーリー展開などには無関心を装い、ひたすら「今」「この時」に埋没し、旋律や曲はその積み重ねの結果にすぎないかのようなストイックな演奏姿勢に終始します。
ところがこうしたリアリズムともいうべき、ドラマ性や幻想を排し、事実を淡々と丁寧に積み上げる姿勢に終始するそのぶれることのない安定感と余裕は、イタリア的な明快で流麗なタッチと巧みに溶け合い、かえって言いようも知れぬ心地よさと圧倒的な感動をわたしたちにもたらし、これぞブラームス第1の白眉といっていい演奏となっているのです。
完璧主義者で理想主義的なバーンスタインとリアリズム重視の正統ロマン派のジュリーニ、精緻なスコア読み込みとリハーサルを忠実に再現しようとするジュリーニに対し、同じことを完璧に求めつつ、惜しげもなくそれらすべてを白紙に戻し演奏に臨むかのようなバーンスタイン、自らの全人格的情念や理想を音楽に投影させ、人間の内なる世界を野心的に表現しようとするバーンスタインに対し、ジュリーニの演奏はそれ自体が宇宙そのものであるかのようです。
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同じ曲(事実)であっても、それが意味するところのもの、それが語り掛けてくるもの(真実)は複雑かつ多様であり、人それぞれに受け取り方も異なる。こうした類の話は、たとえば黒澤明監督の名画「羅生門」にも描かれたように、わたしたちの言うところの真実とはいったい何か、真実へ至る道はひとつではなく、いやそもそも真実がたったひとつであるという保証はどこにもない、という哲学的な議論にまで行き着くのかもしれません。
ですがここまで、なにやらマニアっぽい物言いやたとえをつらつらと綴ったのは、こうした考え方は心理カウンセリングの世界においてもとても重要な視点であるからです。
人が深く悩んだり心に問題を抱える原因の多くは、起きた事柄そのものよりも、むしろそのことについてどう感じ解釈(認知)するのか、そのいわば情報処理過程に問題の本質があり、その認知の方法が様々な辛い感情や身体反応を引き起こし、その後の行動まで影響を及ぼすと言われています。わたしたちは、出来事を構成する多くの要素の中から自分が感じたり気づいたりしたもの、つまりわたしたちの主観が構築したものを事実ないしは現実として捉えてしまっている可能性がある。したがって、自分にはある意味特別な認知のパターンあるいは思い込みの法則、行動パターンがあるということに気づき、そこに検討と修正を加えていく。遠い過去や潜在意識の問題にせまることも大切だが、むしろ客観的で検証可能な「事実」と「今」とに焦点を当て具体的に問題を検討していくことによって、様々なこころの問題が解決に向かっていく。こうした考えが、精神(心理)療法などで趨勢を極めるいわゆる認知療法あるいは認知行動療法の基本にあります。
起きた事実は変えられないし、心の反応としての苦痛を消し去ることはなかなか難しい。でも、認知や行動パターンについては選択したり変化を加えることは可能であり、それによって不安を和らげていくことも可能である。そこに問題解決の糸口があることを語り掛け、相談者と一緒に具体的に検討していく作業が、この心理療法には必要になってくるのです。
ところが当たり前の話ですが、音楽や芸術上での話ならともかく、ことカウンセリングの領域では、その違いや多様な真実性を楽しむなどという悠長なことは言ってはいられません。その多様で複雑な物事の捉え方ゆえに、人は苦しみ悩みや不安を抱えていると考えるからです。そして、わたしたちはその悩みの本質を見抜いた上で、問題解決へと導いていく必要があるからです。
でも、なかなかうまくは言ってくれないのがこの世界でもあります。認知行動療法は決して万能薬的な効果をすべての人にもたらすものではありません。これこそまさに、十人十色、同じ悩みでも問題解決へ同じ道のりは一つとしてないのは今も昔も変わりはありません。しかしそのことは同時に、わたしたちひとりひとりが、かけがえのないそれぞれの価値をもった人間であることの証でもあります。
カウンセラーは人の抱える悩みだけではなく、それぞれの人に確かに備わっている「もの言わぬ価値」にも気づき寄り添う必要について、常に肝に銘じておく必要があると思っています。(2015年10月8日)
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