優しい気持ちでいられるために(Ⅰ)~ 立冬の頃'15

 先日街を歩いていると、目の前のお店から出て前を歩く若い女性2人の会話が自然と耳に入ってきました。
 どうやらそのお2人、店先に行列ができるような最近流行りのパンケーキのお店で食事をしたようなのでした。

 「あ~食べたぁ、どうだったここ?」
 「美味しかった。ワタシ的にはアリかな。」
 「ハァ~(しばらくして)、久し振りに深く癒された。」
 「だよね。じゃ、あの新しくできたZARA的な店次行ってみる?」

 ウ~ン、なるほど。深く癒された、か。若い世代の感性というか言葉の選択に、違和感を超え正直感心してしまいました。なにやらとっても実感がこもっていたものですから。
 
 随分と前から、「癒し」という言葉やそれに類する表現が、現代社会を象徴するキーワードとして、街や日常生活、はたまたビジネスへと広く浸透しています。その言葉としての使い方というか使い勝手たるや、それこそ無限大といった感じが正しいかもしれません。尊敬するある年長の方に、以前こう指摘されたものです。「最近何かって言うとすぐ癒し癒されたいのって不快ね。だいたい使い方が間違っているわよ。言葉としての表現が貧しすぎるのよ。」とまぁかなり手厳しいです(わたしが叱られたわけではないのですが)。たたみかけるように、「あのね、書いたり読んだりするのが難しい字には、それなりの奥深さと含蓄があるものなんです。」とも。

 おそらくは、そんな日常的にそして安直に言葉として表現されるものでなく、心のもっと深い部分で感じ取り、理解すべき含蓄深い精神世界の話だということでしょうか。そして、その言葉が使われるべき本来の領域にたどり着く前に普通にもっとできること、表現があるだろうに、と。「癒し」という言葉を使う必要のある領域に行かざるを得ない状況の前にできること、言葉の持つ含蓄の深さを学習、経験することなしに生きてきたがために、そうした難解な言葉に安易にすがりつく結果として、本来それが本当に必要な場面や人を飛び越え、上滑りの安直な言葉だけが世の中に漂っている、ということでしょうか。

 そんな大袈裟真な、と思いつつも、いまだに「癒し系~」なんて聞くと正直背筋がゾクッとしてしまうわたしにとって、たしかにそういうこともあるのかなぁ、といまだふと感じることもあります。
 ただ同時に、そうした奥ゆかしいはずの言葉が頻繁に登場しなければならないほど、わたしたち現代人は、ここずっとしばらくある意味病んでいるか、あるいはそれらを渇望しているのでは、とも思うのです。

 「絆(きずな)」という言葉も同じでしょうか。
 東日本大震災という未曽有の大災害によって、多くの日本人の心と脳裏に深く刻み込まれたこの意識感情は、その後も、「絆」「きずな」「キズナ」はたまた「kizuna」として、世の中を席巻していきました。「癒し」と「絆」、この二つの言葉に何らかの形で接しない日はないのではないかと思うほど、いまもって世の中には満ちあふれているようです。

 わたしたち人間には、ある種の強い不安や生存をおびやかされるような脅威を感じたり経験したりすると、誰かと一緒にいたい、誰かとつながっていたい、一人ではいたくない、皆で一致結束したいという欲求が働きます。このようなものを「親和欲求」といい、そういう欲求を満たすために「親和動機」が働きます。

 たとえば、東日本大震災のような大災害が起きた場合もそうですし、オリンピック競技やワールドカップ大会のように、真剣勝負で勝ち負けがかかっているようなスリリングである種不安定な緊張感情が支配するような場合、気分が高揚し、普段意識しない「国」や「国民」「日の丸」が感情として共有される場合もそうです。「絆」もそうした動機から自然と浮き出てきた感情表現です。今さらながら良い響きだと感じられずにはいられません。

 ただ気になるのが、さきほど「癒し」でも触れたように、スローガン的な言葉だけが上すべりして、ある種の虚しさ漂う陳腐な表現が満ちあふれていると感じさせる状況がある一方で、わたしたちの身のまわりには(大震災の被災に遭われた方々に限らず)、救いの声が届かぬ世界に囚われ、決して癒されることもなければ、周囲との絆など意識できようはずもない、深い悲しみと絶望に打ちひしがれ、出口の明かりすら見えない長い暗いトンネルをさまよう人々、時間が止まってしまっている人々が数多く懸命に生きていらっしゃいます。あるいは逆に、「頑張ろう日本」や「前を向いて」の空気や社会的配慮に自分を封じ込め明るく振る舞いながら、その実心には苦悩が蓄積していることに気づかない人もいるに違いないと思うのです。

 そうした方々にとって、高らかに宣言されるこうしたたぐいの言葉や空気は、果たして心に届いているのだろうか?本当に意味があるのだろうか?逆に彼らを遠くへ隅へと追いやってはしないかと、ふと考えてしまうのです。
 困難に立ち向かう大勢の人々がいる一方、その真の苦悩からは実は距離も境遇も遠く離れた自己満足と功利性剥き出しの表現手段を、わたしたちは濫用してしまっているのではないか?そして、本当の意味の「救い」、「癒し」と「絆」とは、いったいどのようなもので、悩める人とどのように関わっていくべきなのか?

 仕事柄とはいえ、若い世代の何の気なしの会話の断片から、大袈裟にも言葉の持つ重みについて、猛省あるいは考えさせられました。(2015年11月5日)

メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 麻布十番

d0337299_15550464.jpg



 




 

[PR]
トラックバックURL : https://c2waveblog.exblog.jp/tb/22463498
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
名前
URL
画像認証
削除用パスワード
by yellow-red-blue | 2015-11-06 22:45 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、時にカウンセラーとして、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。ブログのどこかに、読む人それぞれの「わたし」を見つけてもらえたら、と思っています。


by yellow-red-blue
プロフィールを見る