お餅つきのコツ、人づきあいのコツ ~ 大寒の頃‘16

 昨年末、地元の特別養護老人ホームで行われたお餅つきに参加して参りました。入居されている方々の目の前で、ホームの職員やボランティアの皆さんがお餅をつき、あんこやきな粉、ゴマダレに味付けしたお餅をみんなで食べ、新年を迎えようという年末の恒例行事です。
 ひと昔前までは地域の自治会や学校・団体、企業や一般家庭などでも時期が来ると、餅つきはよく行われていたものですが、高齢化の進行と若年層世代の減少、生活環境や習慣の変化、事故や衛生等安全上の配慮の理由からこうした行事は次第に少なくなっているそうです。
 それでも、介護施設に入居されている方々にとって、餅つきは新年を控えた、縁起のよいおめでたく特別な行事であるようです。昔の頃を懐かしむお話を語りだしたり、車いすから立ち上がって職員さんに支えられながら杵をふるう方がいらっしゃったり、餅をつくペッタンペッタンの音に合わせて「ヨイショ!!」の掛け声を挙げたりと、普段はずっと静かな施設がいっとき入居者のいきいきとした表情と声に溢れ、ボランティアとして参加した私もとても心和む1日でした。もちろんつきたてのお餅はなんとも格別な味でした。

 ところで、私はこのイベントに主にお餅のつき手として参加していたのですが、これが大変な重労働(!?)で、餅をつくなんて本当に何十年振りかのこと、慣れない作業や動作のおかげで新年を全身筋肉痛で迎えることとなりました(痛)。
 ところが驚いたことに、わたしよりずっとご年配で体力も体格も劣るはずの方々が、重い杵を巧みに扱い餅つきをされるのです。一見ゆったりとしたリズムながら、りきむことなくテンポよく杵を振り上げ臼の中の蒸したもち米を上手についていきます。餅をつく音も小気味よくそれは室内会場に響き渡り、しかもなぜか餅がつきあがるのが早い!私のような比較的若い世代がついた時とは何もかもが大違いで、私たちは逆にゼ~ハ~いう始末。「あれ~、どうしてだろう?」と首をかしげてしまいました。

 ははぁ分かった、これはきっと何やら「コツ」があるに違いない。そう考えお手本となるような方の餅つく姿をしばらく観察して試してみるのですが、これがやっぱりなかなかうまくいきません。
 「あのさ、餅つきはね、いくつかコツがあるんだよ、力じゃなくてね。こればっかりは慣れてないとね。」

 というわけで、それから基本的な体の向きや動作、杵の持ち方や振り上げおろし方、返し手とのタイミング、そもそもつく前の準備の餅米のつぶし方など、なるほどということを、あれこれと指図を受けながら実地に悪戦苦闘の結果、やっと最後あたりになってなんとか餅つきらしい恰好がつきました。入居者の方からも、「随分うまくなったじゃないの」とからかい半分のお褒めの言葉を頂き、やれやれといった感じでした。
 
 ものごとにはコツがある、とはよく言われることです。ものごとのやり方や見方にちょっとした変化を加えることで、今まであれこれと試してもうまくいかなかったことが嘘のように簡単にできてしまうというあれです。
 ただしその「コツ」の中身は分かったとしても、コツはいってみれば「知識」でしかありません。教わったことを頭で理解・納得したからといってすぐにその効果が表れるわけではありません。それがある程度の近道にはなるかもしれませんが、大切なことはこのコツを「掴む」ために必要な「悪戦苦闘」「試行錯誤」そのものにあるわけです。「コツ」というお手本を手掛かりにそれを身体で感じ取ることに必要な材料集めを自分であれこれしてみる。何事もそうなのでしょうが、近道をして正解だけを求めようとすると、自分なりの努力の結果としてたどり着くことのできる本当の意味での物事の理解を放棄してしまいかねない、というわけです。
 
 外から見えるものと、内から見えているもの、実感しているものとは違う。その違いのすり合わせと習慣化を、知識として見たり考えたりするよりも、五感と身体で観察し感じ取ることで学び覚えていく。それにはやはりちょっと時間がかかるもので個人差もあるのでしょう。
 なるほど、インターネットでお餅つきの方法などすぐに情報を得ることはできるし、他者と共有することは簡単かもしれません。けれども、実際に餅をつきながら、周囲からもたらされる人々の表情や反応、餅や臼から発する音や杵の重み、自分の身体の動きやバランスを感じ取ることで、調整していく過程とその大切さを味わってはじめて、何とかおいしいお餅がつくことができるようになるのですね。

 ちょっと大げさです。
 でも人間関係や人付き合いもこれに似ているかなと思います。
 パソコンや携帯・スマホの画面といった視覚によって得られる文字情報を頭で「処理」し「考える」ことに偏り、かつて自然と経験的に会得していたはずの、五感や身体を駆使することで様々な情報を観察し感じ取り、人を理解するための材料集めをしていた術(すべ)を忘れがちな今の社会のあり様と重なるような気もしないではありません。いってみれば感じ取るために現場に身を置き、自らの五感をフル活用して行動することが基本であるのに、材料集めをせいぜいインターネットに頼り、あとは思考することに偏り、結果その思考過多がアンバランスな不快感情や不安感情を生み、それが果たして事実なのか妥当な考えであるか疑わしい不確かなものごとにばかりとらわれ、ネガティブ思考の渦にはまり込んでしまい、かえって人間関係を不自由なものにしがちなところが今の私たちにはあるような気がします。

 実際に会って相手の発する言葉や顔に込められた表情やニュアンス、仕草や振る舞い、発する音や匂いなど様々な非言語的なメッセージのやり取りを通じ、互いに共鳴、承認、調整しあって人間関係の理解を深める。そうした行動から物事を判断し決断していくことが大切で、感じ取り理解するための材料を様々集める行為そのものが人間関係であり、人との付き合い方の基本であったはずだと思います。
 時や場所、相手を選ばないIT技術は、生きていくための道具としてとても便利で助かるものです。ただ同時にそれは私たちが思っているほど私たちなりの判断や選択をすることを求めてはこないし、実際私たちはしばしば『流されて』おり、『敷かれたレールの上を歩く』ことに気づかずになりがちです。手段と目的とを取り違えてしまわぬよう注意しなければなりません。
 
 いつしかこうした習慣が定着してしまうと、人間関係や人との付き合い方のような社会的スキルを日常の生活から自然に経験・知として掴み、各々の個性に落とし込むのではなく、テキストやマニュアル、セミナーによって教室で誰かに「教育」されるものになっていきはしないかなとふと考えてしまいます。様々な非言語的メッセージを相手から読み取ることも、また自分から表現することにも困難を感じ、なかなかうまく成長することができない人が増えている傾向は現実に見られるようですが、このことはけっして若い世代の責任なのではなく、今の社会を形作ってきたもっと上の私たち大人の世代の責任でもあると思うのです。


 お餅つきの翌日、歳も押し詰まり人通りもめっきり減る街中で久し振りに会う友人と待ち合わせをしました。かく言う私も普段忙しさにかまかけメール程度で済ませていたことに多少の罪悪感を持ちつつ、静かで落ち着いた界隈でゆっくりと食事と会話を楽しむのはやはり格別のひとときです。お互いの声や顔の表情、料理を口に運ぶ仕草や視線を交わしながら親交を確認しあう行為には、やっぱり何やらホッとさせるものがあるものです。ただでさえ複雑で陰翳(いんえい)に富むわたしたち人間のこころが発する言葉の意味や内容の底に見え隠れする相手の気持ちを「聴く」謙虚な気持ちにさせられる、といった感じでしょうか。傾聴を主体にコミュニケーションのもたらす相互作用を通じて、相談者の抱える問題解決の促進に貢献するカウンセリングの手法と似ていなくもありません。

 それで何が変わるものでもないかもしれません。わたしたちが現実に抱えるものの重さ、これからの自分自身と人生の不確かさなど変わりはしないでしょう。でも何とか一日、また一日と頑張っていける、そんな元気を少しもらえるような人間関係を大切にしたいですね。
 そしてそれはもちろん、今からだってこれからだって誰にだってできることなんです。本当に。(2016年1月15日)

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by yellow-red-blue | 2016-01-15 20:00 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、カウンセラーとして、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。ブログのどこかに、読む人それぞれの「わたし」や「だれか」を見つけてもらえたら、と思っています。


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