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ただ理由(わけ)もなく ~ 春分の頃’16


「その音楽止めてくれない?」 

「え?」

「それ聴いているとものすごく気持ち悪くなる。」


 ある時、訪ねてきた親しい友人が私に会うなりこの言葉を漏らしたとき、私の仕事部屋に静かに流れていたのはモーツァルトの管弦楽曲でした。神童と呼ばれ不朽の名作の数々を残し、それらは今もって人々を深く魅了し続け音楽の歴史にその名を刻む偉大なこの音楽家の作品は、現代では傷ついた心に安らぎと安定をもたらし、さまざまな実験や実際の現場においてその高いリラクゼーション効果があるとされるいわば癒しの音楽の代表格でもあることはよく知られています。私も幼少の頃から聴き親しんでいたもので、たまに仕事の合間やプライベートな時に部屋の中で音楽を流すことがあります。この友人が訪れたのはそんなときでした。

 人それぞれ音楽には好みがあり好き嫌いがわかれるのは当然のこと。また、その時の気分や置かれた環境や状況で音楽を聴きたいときもあれば聴きたくないときもあります。でも、モーツァルトを聴くと「気持ちが悪い」といきなりやられるとこちらも正直「気持ちが悪い」のです。もちろん好き嫌いはあっていいのだけれど、「モーツァルトを聴くと気持ちが悪くなる」という表現にはついぞ今まで出会った経験がなく、なんとなく自分もまるごと否定されているような気分にもなってしまう。つまりある意味ショックでもありました。いったい私の友はどれほど気持ちがささくれだっているのかと。

苛立ちにも近い戸惑いに「でも、何でダメなの?」

と、こちらをキッと睨み付けるようにその友人は言ったのでした。

「理由が必要なわけ?嫌なことに。」



 その言葉に私は思わずはっとしました。表情からはうかがい知れない友人の苦悩する心の内を鋭く突き付けられた気がしました。そして理解したのは、時に私たちに理由(わけ)なんてきっと必要としないのだということ。人が何かを好きになったり嫌いになること、何かをしたいと思ったりやめてしまいたいと思った時、辛いとき、悲しいとき、寂しいとき、泣きたいときに、私たちは本当の理由(わけ)訳なんて知りたくないし、わからないかもしれないのだ。ただそうだからそれをしたりしなかったりする。ただそうしたいから、そうせずにはいられないから。そして私たちはそのことをときに無条件に全面的に認めてほしいときがあるのだ、と。



なにがしかの原因や背景はあるのでしょう。突き詰めれば思い当たる理由が芋づる式にあれこれと出てくるのかもしれない。でもそうだからといって、それが今の自分の気持ちや感情を正確に表現しきっているものなのか、うまくそれらを言葉に落とし込めているのだろうか?それはひょっとすると本人にだって、ましてや他人にはおよそ容易には理解できないことかもしれない。だから「理由(わけ)などない」というのが実は、一番真実に近い心の吐露かもしれません。


理由を探そうとする、求めようとすればするほど、説明しようとすればするほど嘘になってしまう気がする。真実から遠のいて、誤解を招いてしまうような気がする。時が経てば別の思いが頭をよぎるかもしれない。でも本当はわけなどない。ただそうなのだ。その気持ちだけが真実。その気持ちが一番大切。そんなことをふと考えることってあるのではないでしょうか?ただ理由もなくなんてあり得ない、と考えるのは周囲の勝手な思い込みかもしれません。私は少なくともカウンセリングの場でそのような経験をしばしばするのです。

友人の例でいえば、「気持ちが悪い」その「つらさ」そのものを、理由や原因を求めずにただわかってあげる、その気持ちを受け取ることが本当はそのとき必要だったのでしょう。理由もなく辛い思いを表していることそのものに対して真剣に配慮していくことへの大切さが求められていたのでしょう。

でも言葉では「わかった」と言いながら、その舌の根も乾かないうちに「でも、どうして」と原因探し、犯人探しを始めてしまった私。実のところ何もわかってはいなかったのです。私自身が納得あるいは安心したいためにいやもともと気持ちに寄り添う気がなく、あるのは「何故なのか」を知ろうとする欲や自己防衛に過ぎなかったことを思い知らされたのです。



理由は?、何のために?、解決策は?、とたたみかけることはすなわち、「待てない」「信用していない」周囲が存在すること、苦しみを抱える人を受け入れることよりも、自分や組織や社会への適応を早急に促し、物事を迅速に普段通りに普通に対処することへの体のいい働きかけでしかない、と時に思ってしまいます。無関心ではいられない理由の大半は、相手へのおもいやりとはかけ離れたこうした他人事的な欲求なのかもしれません。

周囲を説得するため、自分を納得させるため、円滑な社会生活を営むために私たちには何かにつけ理由が必要なのでしょう。しかし、理由など所詮後知恵でしかないとときに思ってしまいます。

私たちは原因や理由を探りがちであり、いつも客観的な根拠、納得できる根拠を探し因果関係を明らかにしたいという欲求を満たそうとしがちです。自分が安心したいがために。

でも本当は、ものごとを感じたり考えたり行動する真の理由なんてときに意味をもたないのかもしれません。原因はあるのだがそうなってしまう理由は本人にだってわからないのかもしれません。原因や理由が明らかになるまでには、長い道のりがありそれは常に変化し複雑なものです。私たちのこころはとても複雑で不確かな世界です。こころのしくみ、こころの病について、科学実証的データや研究知見に基づくクリアな説明が可能な領域はまだほんの一部にすぎないといってもいいのかもしれません。


人それぞれに自分の思い描く景色があり、しばしば「理由などない」自分がいる。そうした自分を互いに尊重し認め合うことができれば、「理由などない」と胸張って人は前に進むこともできる。自分を信じることの大切さを他者と共有することもできる。何かを考え込んだり苦しむとき、したくない、できないことに理由(わけ)なんかない、そういうことは起こるしまったく自然なことなのだ、ということにもっと想像力と理解の眼差しを向ける必要があると思っています。苦悩や葛藤、矛盾やモヤモヤとしたものをすぐに説明をつけて取り除こうとせず、それらに敬意を払い抱えていく力がいかに人に大切なのか私たちは理解する必要があるのかもしれません。


理由の見えないところ、容易に理由はこれだからといえない苦しみに寄り添い、決して見捨てず、待つ勇気を持てる社会。理解を示す度量と柔軟さと思いやり。国が高らかに掲げる「1億総活躍社会」の含蓄に、こうしたメッセージもどうか含まれていてほしい、そう願わずにはいられません。


メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 麻布十番

~いつもお読みいただいてありがとうございます。~

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by yellow-red-blue | 2016-03-18 20:47 | Trackback | Comments(0)

メンタルケアと心の相談室 C²-Waveのオフィシャルブログです。「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、思いつくまま綴っています。記事のどこかに読む人それぞれの「わたし」や「だれか」を見つけてもらえたら、と思っています。


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