ミッフィーなんて大きらい ~ 清明の頃’16

 

 知り合ってもう何年も親しくお付き合いをさせていただいている年配のご夫婦がいらっしゃいます。たびたび自宅に招かれ食事やおしゃべりを楽しむ仲で、今でもそれは変わりません。

 そのご夫婦のお宅のリビングの壁には大きな油絵が一枚掛けられています。だいぶ以前に知人から譲り受けたものだそうですが、標準的な広さのマンションのリビングに掛けるものとしてはかなり大きなもので、おそらくは150号ほどはあるでしょうか。

 荒涼悠然たる海と赤色黄金色に染まる夕闇のほぼ中央、水平線に沈む夕陽という、絵柄としてはとてもシンプルな日没の風景画。作者は不明だそうで、これといった際立つ特徴や色彩感覚があるわけではないものの、決して小さくないサイズのキャンバスを破たんなく手堅い筆致でまとめ、一般家庭のリビングに飾るにはちょうどふさわしい「無名画家の佳作」といった表現がぴったりのなかなかの作品です。

 そのお宅にお邪魔するのはたいてい夕食時で、一日も終わってホッと一息、美味しい料理とお酒を囲みながら気の置けない同士で過ごすという心地よい雰囲気の中、ふと見上げる視線のその先にいつもこの油絵があり、ついドヴォルザークの名曲「家路」(遠き山に日は落ちて)の素朴で情感あふれるオーボエの旋律がBGMよろしく頭をめぐります。ところが


 ある晩いつものようにご夫婦宅に招かれ家族知人を交え和やかな雰囲気で食事が進む中、これまたいつものようにこの油絵が目に入った私は、会話の途切れついでに、「いつも思うけど本当に心安らぐいい絵ですね。どこの夕陽でしょうね。こんな日没見に行きたいなぁ。」と口にしたのです。

するとそのご夫婦一瞬ポカンとした表情を見せ、私の油絵への視線を一瞬追った後、ご主人が、「あ~夕陽ね、そう見える?なるほどね。」とやや意味ありげなトーン。そしてすかさず奥様が、「これね、朝日なのよ。つまり日の出を描いた絵なのよね。もう何度も来ているから知っていると思ったけれど」とクスクス顔。


 え!?あ、これはつまり朝ですか。そうですか、いやでもまさか

 「珍しいね。大概の人はこれ見て日の出というから。縁起のいいご来光好きの日本人だからかもしれないけれど。」

つまり、流れるべきBGMはドヴォルザーク(「家路」)ではなく、正しくはグリーク(ペールギュント組曲「朝」)だったと….


 その後何度もこのお宅にお邪魔するたび、「今度こそは日の出に見えるかも」と意味不明の密かな願望虚しく、見上げるたびいつも流れるメロディは「家路」であり、「朝」が流れることはけっしてなかったのでした。

そりゃ人それぞれですから、別にいいじゃないですか。夜勤の人にとっては、日没は気合の入る一日の始まりかもしれないし、日の出は長かった一日の終わりだろうし、夕陽を見ながらロマンチックな希望と夢に胸膨らませる恋人達もいれば、楽しい一日が終わり明日からまた仕事かと心沈む私たちだっている。そうそう人それぞれ。別に気にすることなんて…

 どうしても夕陽にしか見えないと困惑する私をじっと見つめ、あるとき奥様がポツリと言ったのでした。

「あなた疲れてるんじゃない?ストレス溜まってるでしょ?」

「……」

✽✽✽✽✽✽


以前地元の地域活動の折知り合いになったA子さんには3歳になる娘さんがいて、母親似のいつも元気でお絵かきと遊園地が大好きな女の子です。アニメキャラクターも大好きで、ディズニーやスヌーピー、ジブリのキャラクターなどは親子そろって熱狂的なファンで、関連グッズにはもう目がないといった感じの、今どきどこにでもいそうな普通の母娘といったところです。何かの折にそうしたアニメキャラクターものを私がお土産に持っていくと、そろって満面の笑顔を浮かべるところが何ともいえず微笑ましい2人です。

あるとき、バレンタインデーにいただいたチョコレートのお返しにまたなにやらそうしたアニメキャラクターのグッズでもと考え、仕事の帰りがけついでにお店を物色していた時のこと。しかし何をあげればよいやら。なにせ相当なコレクションを持っているようだし。と、ふとミッフィーキャラクターのグッズはどうだろうと思い当たりました。幼い頃ディック・ブルーナの描き出すキャラクターと絵本の世界が大好きだった私は、そういえばあのおちびちゃん、ミッフィーものは持っていなかったのではと思い、親子で気に入りそうなものをいくつかギフトラッピングしてもらい、会ったついでにA子さんにお渡ししたのでした。

後日たまたまお会いした折、A子さんは丁寧にお礼を述べてくれました。

そうですか、よかったよかった。僕もディック・ブルーナ大好きですよ。いいですよね~今でもお金があったら原画なんか欲しいぐらいなんです。 ところが…。


「それが実は」とA子さん苦笑顔。「仲いいから言っちゃいますけど実は私ミッフィー嫌いなんです。」

 え!?あ、ダメですか。

「せっかくいただいたのにごめんなさいね。いまだに苦手なんです。なんでだかさっぱりですけど。ヘンテコなキャラやお化けもへっちゃらだったのに、ミッフィーだけは小さな頃からイヤなんですよ。なんというか見ていて悲しくなるんです。」

そうですか、いやでもまさかう~んでもなるほど、なんとなくわかる気もする。いつも真正面を外さない目線や変化のない表情、言語的・非言語的コミュニケーションのほとんどがそぎ落とされ、他のほとんどすべてのアニメキャラクターが持っているような人格性や個性(つまりは人間っぽさ)の排除によって生み出される独特でシンプルな静寂性が支配するミッフィーの世界は、そこがまさにブルーナの大人をも魅了する芸術性の本質だとしても、まだ幼く繊細で敏感な感性の持ち主の幼児にとっては、普段見慣れたキャラクタ―にはない違和感を超え、不安や悲しみ、さみしさ、あるいは恐怖に似た感情をも引き起こすかもしれない、と大袈裟ながら思い当たったのです。

 するとひょっとしてまさか

 Aさん妙に納得げに、「で、ウチの子もミッフィー怖いんです。」

「……」

✽✽✽✽✽✽


「いや~先生、効きましたよあのオイル。びっくりです。一晩あっという間にぐっすりです。」

 数年前ひざを怪我したおりにお世話になって以来、その後もなにかと公私にお付き合いのある理学療法士の先生が、毎年花粉症に悩まされている私を見かね、友人の勤めている外資系精油メーカーから評判の天然植物由来成分100%の濃厚ナチュラルエッセンシャルオイルを手に入れプレゼントしてくれたので、早速試した後の感想がこれでした。睡眠も十分にとれずモヤモヤするのが花粉症の時期なのですが、ほんの微量をこめかみに塗り寝たところ、本当に気持ちよく眠れたのです。ところが….


「え、どういうことですか?」と先生キョトン。

いや、ほらこのあいだいただいたあのオイルの小瓶ですよ、花粉症で眠れないってぼやいていたらくれたでしょ、アレ。

「ええ、はい。でも私が差し上げたのは、鼻づまりや頭のモヤモヤがひどいとおっしゃっていたので、かなり強めのリフレッシュ効果がある成分の入ったオイルですよ。ですから就寝前には使っちゃダメなんですよ。眠れるなくなりますから。」

 え、そうなんですか?でも、いや、よく眠れましたけどアレ?

 かなり怪しむ先生は、改めて気持ちを落ち着かせリラックスさせてくれる精油を何種類もブレンドした濃厚なオイルも渡してくれたのでした。こっちは間違いなくぐっすり眠れるはずですからと。

 ところが、何度試しても、やっぱりよく眠れるのが最初のオイル。2番目のリラックスオイルは全く効果がありません。説明書やインターネットで成分効能を調べてもやっぱり先生の言う通りだったのですが。

 ま、でもとにかく改善がみられたことは確かだし….

 「え~そんなのあり得ないですよ、冗談抜きで特異体質かなにかですか?」

 「……」

✽✽✽✽✽✽


すべての定義が失敗するほど、

人間は幅広く、多岐多様な存在である。   

    (マックス・シェーラー)


個人的な日常のしくじりエピソードをダラダラとご紹介してしまいましたが、シェーラーが喝破する通り、私たち人間は、それぞれが様々な差異や特徴を持って生きる多様で複雑な存在です。つまりは、私たちは「違う」のであり、個人を個人たらしめているものはまさにこの違いです。そしてそれゆえ私たちは人間なのでありそうであることが私たちの存在意義そのものに違いありません。違うこととは、人格や性格、気質、気質(かたぎ)や性質(たち)、あるいはひととなりといったもので、いずれも(人格)心理学的には異なるものではありましょうが、ようするにこうした人間のこころには個人差があるからこそ、様々な物事の考え方やとらえ方、身体反応や行動様式もまた異なり、コミュニケーションや他者関係、周囲への適応もまたそれぞれに違うのです。同じ類のことを経験しても主体とその状況が異なればそこから導き出される経験則もまた微妙に異なることでしょう。そうしたことに良い悪いはなく、ましてや正しい間違いであるという考えが入り込む余地は本来ないはずです。


私たち人間には、「一緒でいたい」「仲間になりたい」という本能があります。そうした社会的動物としての本能が、何らかの帰属グループの一員でありたいと願い、家族や学校、会社や電子ネットワークその他様々な組織を作り社会を形成してきました。一人で生きていくことは難しい。相互が助け合い、補い合い、ときに自分を犠牲にすることによって全体として社会が機能していく。集団や周囲への適応力が必要となるということです。そしてそれは、今の私たちの暮らす社会においてもまた変わることはありません。

しかし、一方で人間には自己保存本能と一貫性(自己同一性)を保ちたいとの根源的な欲求があります。これが「違い」の本質であろうと思います。


こうした社会と自己、適応と違い、この両者の間にうまく折り合いをつけ、バランスを保ち、多様な価値観の実践を担保しつつ健全な心身を育み生きることが本来の成熟した価値ある社会であるはずです。しかし、私たちを取り巻く環境や価値観の変化・多様化・複雑化が急速に進み、ITテクノロジーの加速度的進歩がもたらす今の高度情報科学技術社会は、どうやらそれらの間にかつてないほどの緊張関係とアンバランスをもたらし、両者の折り合いが極めて難しい社会へと突き進んでいるように思えてしまいます。多様な価値を担保する社会を目指すどころか、むしろ、ただでさえ複雑な課題に対しスピードと効率、結果を最優先に適応することへ一方的に自己を差し出すことを求める社会へと進んでいるというのが現実なのかもしれません。


私たちは「違う」、このような当たり前のことをことほど左様に強調するのは、そんなことは百も承知のくせに実践できていない、それについてついそ知らぬ顔をついしてしまうのが私たち人間と私たちの暮らす社会なのでは、と思うからです。そしてなぜ冷淡になってしまうのかといえば、そうした「違い」を容認するためには、「待つこと」「試行錯誤」「無駄」「余裕」「間」「失敗」に対する懐の深さが求められるにもかかわらず、そうした心構えは今の社会に生きる私たちがもっとも苦手とすることのようだからです。

違うこと、弱いこと、足りないこと、しくじることは、本来決して「間違い」でも「悪」でもありません。にもかかわらずそれが理解容認することはできないとべっ視の視線をむけるという勘違いを起こしてしまう。だからいじめ、差別、暴力、精神の消耗が止むことがない、そうふと考えてしまうのです。

社会と自己、適応と違いの折り合いを健全に保ちえない社会のはざまで苦悩する人々に真摯に寄り添うことにこそ、私たちのような心理療法家の存在意義がある、そう日々実感しています。

~いつもお読みいただいてどうもありがとうございます。~

メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 麻布十番


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by yellow-red-blue | 2016-04-06 21:05 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、時にカウンセラーとして、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。ブログのどこかに、読む人それぞれの「わたし」を見つけてもらえたら、と思っています。


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