2016年 05月 07日
こころの整理 ~ 立夏の頃’16
立夏といえば暦の上ではもう夏の始まりということになります。まぶしい太陽の光と目の覚めるような青空、そして色鮮やかな多彩な新緑に彩られた、なんともすがすがしい空気に心なしかウキウキとした気分にさせられる頃です。ちょうど世の中はゴールデンウィーク真っ只中で、旅行やレジャーにはまさにうってつけの時期。普段は多くの人で賑わう私の仕事場周辺界隈も、都会脱出組が多いのでしょう、この時期の人出はやや控え目、どことなくのんびりとした空気も漂います。
で、何やらすべてがキラキラと光り輝いて見える美しい今のこの季節に街なかを歩いていると、ちょっとそうした空気とは場違いな存在にしばしば出くわします。廃品回収業者の小さなトラックです。それなりの音量の宣伝をスピーカーで鳴らしながら、人の歩みよりもまだ遅くのんびりと街中を流す、たいていがちょっと薄汚れ古びたトラックです。昨今の複雑なゴミ処分やリサイクル規制などの事情ともあいまって、私の幼少の頃などひと昔前までは毎日のように見かけていた、古紙回収業者(いわゆるチリ紙交換屋さん)は消えてしまいましたが、代わってより大きな家財道具や家電製品、粗大ゴミなどを扱う廃品回収業者のトラックをよく街で見かけるようになりました。そのトラックの荷台の廃品の山を見ると、どうやら今の時期、業者さんにとっては「書き入れ時」でもあるようです。
知り合いの引っ越し業者さんに訊けば、新年度を控えた3月からせいぜい4月の初旬頃までだと思っていた引っ越し時期のピークは、ゴールデンウィークの前半あたりまで続くそうです。なるほどこの連休中も引っ越し業者の大型トラックがそこここに止まっているのを見かけます。そんな中、こうした小さな廃品回収業者さんのような便利屋さんにもそれなりに大切な役割もあるのだなと思うと、今のさわやかな季節に場違いな云々...などという気持ちを抱いた自分に恥じ入りつつ、今どきの街中では珍しいほどのそのゆったり緩慢な動きを見せる存在に、ちょっぴり懐かしさと新鮮さを覚えてしまいます。
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先日またその廃品回収業者のトラックを見かけた際、おや、と思ったことがありました。まだにカラに近かったその荷台には、ちょっとくたびれ汚れの目立つ大きめのクマのぬいぐるみがチョコンと置かれていました。その前の週末に同じトラックが界隈を巡回していた際、いずれ処分されてしまうであろうたくさんの不要品に交じって、同じぬいぐるみが荷台に置かれていたのをなにやらちょっぴり悲しい気分で見ていた私は、その処分を一時的にせよ免れたぬいぐるみを見て、思わずホッとしてしまったのでした。ゴミとして捨てられたぬいぐるみや人形が、行政のゴミ収集の職員や廃品回収業者によって拾われ、そのまま処分されず作業車に載せられたりしているような光景を皆さんも時々見かけたことがあるかもしれません。
引っ越しや転勤、子どもの成長や家族の数の変化等さまざまな理由から、持ち主に長い間ずっと大切されてきたぬいぐるみや人形にもやがてその居場所がなくなり、やむを得ず廃棄処分されるといったことは特に珍しいことではないでしょう。考えてみれば他の廃棄物同様、「モノ」には違いないし、どうしても不要となってしまったものは捨てるということに何ら変わりはありません。
ところが私たち人間は、人形(ひとがた)や生き物をイメージし擬人化された対象としてのぬいぐるみや人形のようなモノに対しては、個人の想いをさまざま投影させてしまいがちで、したがってそれを単純な「モノ」扱いして諦めるということがなかなかできません。
たった今私も、ぬいぐるみや人形に対して「居場所」という言葉を使ったように、つまり「生きもの」として無意識に感じています。ですからなかなか捨てがたい。諦めがたい。でも、廃品回収業者さんの荷台に乗せられたあのぬいぐるみの元持ち主にとっては、その人なりの「こころの整理」をつけることができたからこそ、廃品として差し出すことができたのでしょう。もうちょっと上手な言い方に換えれば、そうしたモノが担ってきた役割が終り、自分の人生をこれまで豊かなものにしてくれたことに感謝しつつ、廃棄・リサイクルされる新たな運命へ気持ちよく送り出すことができた、という感じかもしれません。
けれどもやっかいなことに、そうした当事者の気持ちとは裏腹に、全くの他人であるにもかかわらず、どうやら回収業者さんは処分することが仕事でありながらも捨てることを躊躇し、通りすがりの私もその行く末に一喜一憂してしまう。何のことはない、文字通りひとごとであっていいはずのことに「こころの整理」をつけられず、他人事ではどうしても済ますことができない身勝手でおせっかいな存在の自分たちがいる、ということにふとおかしさを覚えてしてしまいます。人の心とは何とも複雑でままならないものかもしれません。
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ぬいぐるみでさえそうなのですから、これが犬や猫など本物のペットであったりしたらそうした傾向はなおさらです。いえ傾向どころか、実際に生きている存在なのですから、それはもうペットの持ち主にとっては、家族であり友であり、時に自分を映し出す鏡であり人生のパートナーであり、まさに自分とは不可分の存在に違いありません。
『しょせん、犬猫にはかなわない。』
いつも何かと教えを乞う先生によれば、昔から心理援助に携わる人の間でよく言われる言葉だそうです。カウンセラーあるいは心理臨床家としていかに懸命に勉学に励み知識を蓄え、そして経験を積み上げ、心のプロフェッショナルとしての自負を抱きクライエントに向き合あおうとも、ときにそれらが無力とも思えるほど圧倒的な心を癒す力をペットは持っている。何ら特別な働きかけをせずとも、そこに存在するだけ、生きているだけ、触れるだけで、人に穏やかな心ばかりか生きる勇気さえ与える力を持っている、ということなのでしょう。ペットと接していると自然と心が和み、呼吸や血圧が落ち着き、心穏やかになり、病気の治癒をも促進する等といった効果はさまざま実証されていることですが、これはいったいなぜなのか今さらながら考えさせられます。
なによりもペットの愛らしい存在や姿、仕草に人は心惹かれるものがあるでしょう。あるいは、ペットという人生のパートナーを得ることで孤独感が和らぎ、喜びが生まれることもあるでしょう。とかく世話がかかり弱い立場の小動物の生命への責任感と使命感が自然に生まれ、共に生きていく勇気と力がみなぎることだってあるかもしれません。
子どものころの金魚や昆虫はさておき、犬猫のような本格的なペットを飼った経験のない私の個人的な意見ですが、ペットがかくも人の心に対して効果的に作用する最も大きな理由は、その何ら見返りを求めることなく、ただ飼い主のそばにいつもあり続ける存在自体にあるのでは、と感じています。
シャンソン歌手、舞台俳優として活躍される一方で、長年人生の悩み相談に応じ珠玉の金言を数々生み出す美輪明宏さんが以前こんなことを言われたそうです。
『花が美しいのは、何も見返りを求めず見る人を慰め、ひたすら献身的だからなのよ。』
人生と花を重ね合わせての言葉だと思いますが、ペットもまた同じなのでしょう。彼らが心を癒そうと思って生きているわけではない。近しい存在でありながら決して何ら見返りを要求せず、傷ついたこころに土足で踏み込むことなく、いつまでもいてくれる、待っていてくれる、頼りにしてくれる。こうしたことが私たち人間の持っている自然治癒力と最も良く響きあう関係なのかもしれません。
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逆に言えば、どんな状況であれどんな立場に置かれるにせよ、どうかすると直接的あるいは間接的に常に何らかの「見返り」を心に抱いたり、他者のことはさておき、自分にとって大事な「見返り」に近いものごとを求めて生きていかざるを得ないのが人という存在かもしれません。社会貢献やボランティア、使命感や目標達成感、モチベーション、やりがいや人生へのチャレンジ、どんな言葉に置き換えようとも、何やかにやで周囲の人々を煩わせることで何とか生きているのが私たち人間であるといったら言い過ぎでしょうか。
私たちの動機とは自分で考えているよりずっと複雑で、一切の見返りを期待しない行いをすることはとても難しく、それが一見正義と崇高さとに満ちあふれる考えや行動であったとしても、それを受け入れられない他者の感情や反発と時に向き合わなければならないことは避けられないに違いありません。
考えてみれば、カウンセラーとて苦悩を抱える人に対して、報酬をいただくという点ですでに見返りを求める存在です。そのような生きるための直接的な見返りではなくとも、どこかに相手を救いたい、心を楽にして差し上げたい、悩みを聴いてあげたい、喜ぶ顔や感謝の言葉を聞きたい、などと自分本位の肩に力の入った使命感や達成感をどこか求めている自分がいるはずだと感じるのです。
先日、ある知り合いの方が熊本の被災地にボランティア活動のため赴いた際、訪れた避難所には、「カウンセラーはお断りします」との貼り紙があったそうです。これは心のケアが不要ということではないでしょう。日赤の救護チームや行政の保健スタッフ、支援する医療機関等から心理臨床の専門家が数多く派遣され、災害弱者である子どもやお年寄りを中心に心のケアを行っていることでしょう。そうではなく、今もって余震被害の絶えることのない被災地現場の混乱を却って助長するようなある意味不確かな存在の人間の介入ほど、被災者の心を痛めることはないからでしょう。この貼り紙は、良かれと思いつつ結果、土足で人の心に踏み込みんでしまいがちな周囲の心と当事者との心のズレを、私たち人間はなかなかくみ取ることが難しい存在でもあることを教えてくれています。『しょせん、犬猫にはかなわない。』のかもしれません。ペットであったら、いやそれこそ、くまモンのほうがずっと人の心に響き、悩めるこころの整理に一層貢献するであろうことの意味を、人はよくよく考えなければならないのかもしれません。
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そうだからといって、人が単純に欲深く、自分本位の身勝手な存在である、と見切っていい存在かといえばそもちろん決してそうではありません。
考えてみれば私たち人間は、動物であれ植物であれ、本来すべてが平等であるはずの地球上に数多く存在する生命の犠牲によって、つまり他の生命を奪うことによってしか生きる術を与えられていない何とも厄介な存在です。
そして同時に、私たちは社会という複雑で多様な文脈の中でしか生きられない存在です。地球上の他の生命に対すると同じように、その社会の中ではどんな人であれ立場はどうであれ、誰かに甘え、迷惑をかけ、犠牲を強い、お世話になり、周囲に何かを求め続けなければ生きていけない存在です。
カウンセラーとしての私もまた同じです。他人の「こころの整理」をお手伝いすることがカウンセラーの仕事である一方で、自分自身もまた何らかの「こころの整理」を求めて、一人一人と相対する存在に違いありません。ぬいぐるみにもペットにもなることはできないことに何度となく気づかされます。
何ら見返りを求めず限りなく純粋な存在として、相談者を映し出す「鏡」であり続けることはとても難しいと感じます。けれども、ときに有難迷惑な存在にもなり得るとしても、また人の心に土足で踏み込んでしまうような失敗があるとしても、そこにあり続けること、ひるまずにけっしてひとごとではない姿勢を維持表明し続けること、そうした存在もまた社会の中に存在するのだ、というおせっかいな役割を引き受け続けることもカウンセラーの大切な役割だと感じます。
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古びて少々薄汚れたトラックの荷台に私たちのたくさんの整理されたはずの物や想いを詰め込み、周囲の交通事情や流れに逆らうような歩みで、絶えず「不要品ありませんか?」の声を辛抱強く周囲にかけ続け、今日も街を巡回する廃品回収業者さんのトラック。それこそ不要な人にとってはこれほど迷惑な存在はないかもしれません。けれどもカウンセラーもまた、私たちの生きるこの社会の中ではこうした存在であるべきなのでは、とふと思います。一見何事もなく平和に過ぎ去っていくように見える周囲の日常や目まぐるしく変化していく社会の中で、いつかはしなければならないこころの整理に苦慮し、人知れず悩む人々の側につねに見える存在であり続けること。
『人の中へ、街の中へ』
模索する日々はこれからもずっと続いていきます。
いつもお読みいただいてありがとうございます。
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