2016年 05月 21日
おまじない ~ 小満の頃’16
「こもれび(木漏れ日)」
「まちかど(街角)」
「ひるさがり(昼下り)」
ブログのタイトルにもなっている(※現在ではタイトルは変更されています)この3つの言葉に共通することっていったい何だと思いますか?
名詞であるということ、もっと詳しく言うと2つ以上の名詞等を組み合わせてできる言葉、複合名詞ということになります。(木漏れ)日、昼(下がり)、街(角)と言った感じです。名詞を複合的に組み合わせることによって、元の名詞の意味内容をより詳しく深く表現したり、変化を加え別のニュアンスをその言葉にもたらしたりするものです。
こうした言葉がなんとなく好きです。眺めたり聴いたりするだけで、時にひどく感心したり気持ちが安らぐことがあります。「ひるさがり」なんてなんと絶妙な!という具合です。きっとこうした言葉は、文字として使う以前に、実体験として本来さまざま味わうものなのでしょう。言葉の実際を日常で体験し、そこにさらに個人的な過去の思い出や情緒体験といった、容易に表現しつくせないこころの機微が加わり想像力を高め、なにやら味わい深いニュアンスを生み出すのかもしれません。
●想像その1
【木漏れ日】
木々に生い茂る枝葉の隙間から降り注ぐ日の光
【街角】
道の曲がり角あるいは一定のスペースのあるまちなか、街頭
【昼下り】
お昼のあとにやってくる、そして夕方を迎えるまでの午後の時間帯(勝手になんとなく午後3時30分くらいまでかなと)
●想像その2
【木漏れ日】
いま「木漏れ日」が一年のうちで一番気持ちの良い季節かもしれません。青い空を背景に目にも鮮やかに確かな自然の生命力を感じさせる新緑と、その揺れ動く枝葉の隙間からまぶしくも優しく差し込む太陽の光。青と緑、光の調和とコントラスト。その光のシャワーは私たちを取り巻く空気をとてもやわらかで爽やかなものにし、気分までなぜかウキウキとしたものにしてくれます。紫外線直撃がツライ女性にもちょっぴり優しく、やわらかな日差しと緑に身も心も委ね幸せを感じる季節。
【街角】
様々な人が集まり行き交う通りが交差する曲がり角にある空間。そこは人が行き交い、集まり、そして去っていく終着駅にも似た空間。広さに関係なく通るだけで何やら心地よい場所。角にある店に入ってひとときを過ごしたり、人と待ち合せたり、ひとりぼーっと行き交う人や車の波を眺めたり仲良しと溜まったり。街並みを区切り秩序と四方への眺めと広がりを生みだすだけでなく、人にスペースがあること自体の贅沢さと心の余裕を感じさせてくれる。そして自分にも何かが始まることを予感させる場所。
【昼下り】
午前中を終え活気ある昼食どきを過ぎ、人は再び屋内に引きこもり、街はほんの一時静寂が支配するような時間が訪れる。昼食を終え胃袋も落ち着き、何となく昼寝を誘うけだるいようで心地よいひととき。街に人が増え再び活気づく夕方に差し掛かる前のほんの2時間くらい。何かできる、何でもできる。午後とひとくくりにしたくないなにやら別枠の贅沢な時間。
●想像その3
【木漏れ日】
そんなやわらかな日差しと緑に身も心も委ね幸せを感じることなんて最近あった?。普段そんなこと意識する時間なんかないし、休日といえばどこも人で一杯。だいいちそんな木漏れ日が降り注ぐ木々や並木なんて最近は簡単には見当たらないでしょ。今あるといったら、やおら再開発で騒がしいどこも似たような高層ビル施設や、その谷間に申し訳程度にある不自然な自然空間(⁉)とそれを揺らすビル風ぐらいじゃない?。
→まぁでも「木漏れ日」がなくても生きていけるし別に困らないし…
【街角】
そりゃ都会の中心部や大規模再開発地域ではそれなりにはあるだろうけど、普段の身の回りにそんな気持ちのよい余裕なんてめったにお目にかかれない。街角作る余裕あったら道路を広げて建物大きくするか隙間にビル建てたり、駐輪駐車スペースや広告看板で埋めてビジネスに使われるほうが今の世の中よほど効率的でしょう。
→まぁでも「街かど」がなくても生きていけるし別に困らないし…
【昼下り】
そんな時間もちろん仕事しているでしょう。そんな時間を特別味わう余裕なんて滅多にありません。休日はどこでも人で一杯、家で昼寝かテレビ、スマホやインターネットかな。
→まぁでも「昼下がり」がなくても生きていけるし別に困らないし…
この3つの言葉には、最近はあまりというかほとんど実感したり味わうことのなくなり、したがって人の意識にのぼらなくなってしまった世界の匂いが漂います。あるいは、本来は決して贅沢なものではないはずのなのに、今の世の中ではムダあるいは必要ないことを理由に、私たちの周囲や生活から次第に消えつつある余裕(ムダ、スペース、時間)といえるかもしれません。
もはやそれらは普段の私たちの日常生活では必要のない、どこかへわざわざ行って味わうものとなってしまったという妙に贅沢なものになってしまったような気もします。見た目の豊かさや贅沢さとは別次元の、こころで感じるとる人にとって必要な余裕がどんどん何かにすり替えられていってしまっている気もします。
おそらくその何かとは、代わりに大きな存在として私たちの生活と心を占める、携帯やスマホ、パソコンといった電子メディアを介したインターネット空間というもうひとつの世界あるいは社会、そして他者との関係なのでしょう。私たちは今や、現実物理的に存在する世界と電子空間の2つの社会とを絶えず行き来しながら生きているといえるかもしれません。今や現実とバーチャルの世界の区別云々の見方はもはや意味はなく、電子空間は私たちが生きる世界とは別であるとはいいながらも、ひとつのリアルな世界として私たちの生活に深く浸透しているのが現実です。ここでは従来の公私の領域といった区分はもはや存在せず、それらは混在一体と化して時空を超え、私たちを容赦なくどこまでも追いかけ、巻き込んでいく存在です。
そうした今の社会では、じっくりと腰を据えた「私」が存在する余地はもはやないのかもしれません。自分の存在とスマホ携帯を同等の天秤にかけ、利便性と迅速さ、手軽な親密さの獲得と引き換えに電子空間に自分を差し出し、絶えず周囲との繋がりを「期待」し押し寄せる情報に「反応」することを余儀なくされる。そして実際には自分を見つめ信じ、自分で考え選択・決断することをしなくなっているということにあまり頓着せず、結果かえって不信と孤独のリスクと隣り合わせに生きていくことから逃れられないでいるかのようです。
ほんの少しの時間の隙間でさえ、スマホの画面にひたすらうつむき続ける私たちにとって、あの3つの言葉に代表されるような複合名詞の織りなす世界は、それ自体物理的には存在はするものの、リアリティの欠如したほとんど意識し顧みられることのなくなった存在といえるでしょう。
私たちにとって言葉はとても大切なものですが、言葉はそれ自体の持つ意味とともに、私たちが言葉を見聞き使うことによって心に様々な情景やイメージ、よりクリアな体験の想い出などを思い浮かべることができるものです。こうした言葉の持つ多様な意味合いとそのことへ思いを馳せつつ日々を暮らしていく過程で醸成されていく想像力の引き出しの多さは、心の豊かさ、他者への理解と思いやりを生み、現代社会を生きる私たちが当然に受け入れている価値観とは別のより深い世界観を垣間見せてくれる可能性の源泉であるように思えます。言い換えるなら、言葉に対する感受性の豊かさが、今を暮らす私たちの日常の生活の中で一番失われているもののひとつでもあるような気がします。
そうはいっても、インターネットの作り出す世界についてあれこれ批判するだけでは意味がないのは明らかです。皮肉なことにそれとは無縁の暮らしは今後ますます「現実的」ではなくなるからです。本来とても役に立ち頼もしいはずの「文明の力」といかに理性と節度、良識をもって上手に付き合っていくのか、私たち一人一人が考えていかなければならない時期に今あらためて来ていると感じています。
というわけでこの「木漏れ日 街角 昼下がり」、なんだか懐メロのタイトルや歌詞に出てきそうな何やら昭和のニオイぷんぷんですが、実はこれ、かつて慣れ親しんできた私的領域の空間や時間に容赦なく流れ込んでくる諸々を止めることが難しい今の時代への私なりの対処法、変化への不断の適応の圧力や効率とスピード、利便性に収斂されていくかのような世の中を生き抜くためのちょっとしたコツ、私にとっての息詰まるツライ時、密かに唱える「おまじない」なのです。
木漏れ日が気持ちのよい昼下がりに、街角でゆったりする時間を味わう、ただそれだけのために休みを取るなんてバカげた贅沢といえるかもしれませんが、実際できないことはありません。結局自分の考えや決断次第です。こうした光景に出会うために時間をやりくりしてみる。そうした能力も仕事のうちと、ムダを味わってみることの贅沢さに気づいてみれば、豊かさとは何かを考え、今自分に何が必要なのか、何をしてみるべきなのかを気づくヒントが浮かんでくるかもしれません。
当たり前ですが、スマホや携帯、パソコンがなくなったとしても、自分は存在し続け人生は続いていきます。私たち人間は、集団生活に適応しながら生きていくことを求められる社会的動物でありながら、しかし同時に、世間の大勢や周囲の人間関係、社会の同調圧力がどうあろうとも、また専門家や権威ある者、お世話になり尊敬に値する周囲の人々が何を言おうと、自分の意思と判断に従い行動する力も勇気も、そして権利も持った生き物です。世の中はどうあるべきか、自分はその中でどうしたいのかをじっくりと見定め、自らに忠実であることに恐れず生きていくことも大切なことです。そんなことをふと気づかせてくれる社会により近づいて欲しい。そしてそれにはまず、どんなささいなことからでもいいから、自分からとにかくあれこれ始めてみることなのだとも感じています。
みなさんには「おまじない」なんてあるでしょうか?
~最後までお読みいただいてありがとうございます。~
メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂 (旧C²-Wave 麻布十番)
