2016年 06月 20日
イチローさん ~ 夏至の頃’16
今回は今どきの巷の話題を少し。アメリカのメジャー・リーグ、フロリダ・マーリンズで活躍中のイチロー選手が、日米通算4,257安打目を放ち、非公式ながらピート・ローズ氏の持つメジャー記録を抜いたことは、先週大きな話題になりました。長年に渡り日米の野球界で異次元レベルの走・攻・守を維持し続け、次々と記録を塗り替えていった天才に、輝かしい称号がまたひとつ加わったわけで、次なる大目標メジャー3,000本安打達成ももはや時間の問題ということころまできています。驚くべきは42歳を迎えた今シーズン、限界説が囁かれるほどのここ数年の低迷が嘘のように、あたかも時計が逆戻りしたかのような全盛期を彷彿とさせるプレーと成績を残していることです。徹底した自己管理と最先端の科学的トレーニングを常に怠ることなく、クールでストイックな完璧主義者の姿勢を貫き通すイチロー選手ならではの離れ業なのかもしれません。不振を乗り越えるためおそらく彼は自分の全てを見直し、そして多くを変えたのでしょう。そしてそれを確かなものとするために、今まで以上に厳しいタスクを自分に課してきたに違いありません。しかし、その変化は外からはうかがい知ることはできず、本人も口にすることのない相変わらずの淡々としたプレーぶりは、まさにプロフェッショナルとしての“矜持”を見る思いがして、その姿勢にはほとんどため息が出るほどです。
私はちょうどその試合のテレビ中継を見ていましたが、彼がピート・ローズの記録を抜いたヒットを放ち、二塁に到達した際、大型ビジョンに「4257」の数字が表示されると、ファンや両軍ベンチは総立ちで彼を祝福していました。彼はそれに応え、二塁ベース上でヘルメットを取り球場の四方に向かって頭を下げたのですが、そのシーンにハッとさせられました。年齢を感じさせない若々しい容姿とプレースタイルとは対照的に、白髪ですっかりゴマ塩頭になった彼はまさしく42歳を超えた男の姿なのでした。
そのアンバランスは、彼がここに到達するまでの尋常でない努力と辛抱、そして苦労を想像させるには充分でした。決して天才なのではなく、いやむしろさまざまな逆境にもめげず自分の才能を信じ、懸命に一つの目標に向かってなりふり構わず走り続けてきたからこそ到達できた境地であるのでしょう。
記録達成後に受けたインタビューの中で、彼は興味深いことを言っていました。
-(04年マリナーズの打撃コーチで現在はツインズ監督の)モリターやボンズなど、リスペクトしながら話せるというのは、自分がそのレベルに来たからという幸せを感じるものか?
「そのレベルにいるって、僕は別に思ってないですけどね。ただ、数字を残せば人がそうなってくれるっていうだけのことですよ。ただ、いろんな数字を残した人、偉大な数字を残した人、たくさんいますけどその人が偉大だとは限らないですよね。偉大な人間であるとは限らない。むしろ反対の方が多いケースがある、と僕は日米で思うし、だからモリターだったり、近いところで言えば、ジーターだったり。すごいなと思いますよね。だからちょっと狂気に満ちたところがないと、そういうことができない世界だと思うので、そんな人格者であったらできないっていうことも言えると思うんですよね。その中でも特別な人たちはいるので、だから是非そういう人たちに、そういう種類の人たちにこの記録を抜いていってほしいと思いますよね。」
(http://www.daily.co.jp/newsflash/mlb/2016/06/16/0009192290.shtml?pg=3 より引用)
この言葉は、歴史に名を残す記録を打ち立てながら自身の問題で野球界を永久追放となり、イチロー選手の記録にもケチをつけ続けるピート・ローズ氏への揶揄とも受け取られているようですが、むしろイチロー選手自身の心情の吐露というほうがより理解できるような気がします。
「偉大な人間であるとは限らない」「人格者であったらできない」「狂気に満ちたところがないと」とは、イチロー選手の成熟したひとりの人間としての自身についての語りであり、自分の野球人生を振り返り、数多くの得難いものを得るために、多くを犠牲にし、多くを失ってきたことの告白なのかもしれません。彼は、常に周囲から笑われてきた、バカにされ誤解されてきた悔しい歴史があるとも言っています。そうした周囲から自分を守り、ぶれることのない目標に向かって一心不乱に邁進する術を必死に身につけてきたのでしょう。そうした悔しさをバネにできたからこその今のイチロー選手なわけですが、しかしひょっとするとそれらは、私たち普通一般の人間が経験するレベルをはるかに超えるある種の喪失感を伴ってきたのかもしれません。野球人として野球に必死に打ち込み偉大な選手と称えられながら、同時に良識ある社会人として周囲に優しさと配慮を怠らず、自己犠牲と社会貢献をいとわぬ人生を送っている、身近に接してきた同僚やチームメイト(前述のモリターやジータなど)を見るにつけ、自分にはそれはとても難しいことだと感じてきたのかもしれません。
周囲の反応に誰よりも敏感で繊細な神経の持ち主であると言われているイチロー選手は、ことによると自分がむしろ弱い人間でさえあることを自覚してきたのかもしれません。そうした感情に抗い続け、変わることのないこころざしと周囲の期待とに高いレベルでストイックに応え続けるため、人知れず孤独な道を走り続けてきたのだと思います。私たちが決して到達することのできない高みに達し、なおその先を目指す境地に至った彼の目には、いったい今の社会や私たちはどのように映るのでしょう。
周囲の一部、特にマスメディアあたりからは、イチロー選手の閉鎖性や秘密主義に批判的な声が上がることもしばしばだと言います。ですが、個人的にはそれはまさに「足るを知らない」人々の、かつてイチローが経験したところの「悔しい歴史」の再現のようにも思えます。わかる人にはわかる、それで十分ではないのか、と。
彼の一挙手一投足は、私たちにそれらが何を意味するのか、想像させ考えるよう促すエネルギーを持っています。それらはずっと多くのものを暗示しており、そうしたことを理解する経験やプロセスを通じて、決して大袈裟でもなんでもなく、私たち一人一人の人生にもまたある種の変化がもたらされる、そうとさえ思えるのです。
彼の研ぎ澄まされたバッティングや華麗な守備、その衰えを知らない走力は、イチロー選手の魅力のほんの一部に過ぎないでしょう。彼が凡退しダグアウトに下がっていく時の姿、ボールのこない外野守備で立つ姿、常に身体を動かしいかなる状況にも即応可能なウォームアップをする姿、自分のアイデンティティを確認するかのような数々のルーティン、チームメイトとのやりとり、自分の体の一部であるかのようなバッドやグラブ、スパイクといった道具へのこだわりとそれらに向ける視線。彼の動き、彼が身に着けるもの、それらすべてに意味があり意図がある。
言葉はときにまったく不要であり、インタビューで苦悩を語らずとも、プライベートを公開しなくても、ツイートしなくても、バラエティー番組に出演しなくても、彼は他の野球選手の誰よりも自分をさらけ出してきたのであり、言葉を超えた雄弁なメッセージを私たちに投げかけてきたような気がします。私たちは、より多くの情報があるからその人についてよりよく理解していると考えがちです。しかし、そのことと人間の本質を見抜くこととは全く別であることを、私も仕事柄痛感しています。
すでに他界されている俳優の高倉健さんや渥美清さん、原節子さんなどとも共通するある種の完璧主義的美学の背景にあるのは、繊細で大胆、不器用で柔軟、気配りと閉鎖性、ナルシシスティックな自己顕示欲とストイックな倫理観といった、両面性と複雑さをさまざま併せ持った、ある意味で「弱さ」を抱え続けた人間像なのかもしれません。しかし、そうした弱い自分を背負いながら懸命に生きる姿はやはり美しいのです。鈴木一朗というひとりの人間が、常に「イチロー」でありつづけ、「イチロー」という野球史に永遠に残るであろう選手を演じ続けることを選択した矜持とプライドを、同じ時代を生きる人間として見ることは幸せであり、その姿は素直に美しいと思います。
「美」を見出した時、私たちは希望を抱くものです。美とは自然や才能あふれる人が放つパフォーマンス、創作物だけに宿るものではありません。受け身の姿勢だけで受け取ることのできるだけの単純なものでもないでしょう。そこに美を見出すにはときに葛藤と探求とが必要です。一見何か語っているようには見えない単純な物事、あいまいで難解な現象や人間の営みから、その背景にある何かを感じようと懸命に働きかけ探っていく行為そのものもまた「美」的体験です。そうした結果、より本質的で根源的なものについてなにがしかの理解と洞察に到達し得たと感じた時、私たちは私たちの中に変化、すなわち「希望」と言う名の、曖昧模糊として捉えどころのない感覚ながら、生きていくうえでとても大切な精神的エネルギーを得ることができるのではと思うのです。それがあれば私たちは何とか生きていくことができる、人生に喜びや安心が確かに存在することに不信感を抱かずに済む。
イチロー選手の類まれな成功と記録は、悔しさや負けず嫌いの性格や必死の努力もさることながら、いつかプロ野球選手に、いつかメジャー・リーグの選手に、いつか歴史にその名を残すスターになれるかもしれない、という希望の灯を心に常にともし続けてきたからこそ実現したに違いありません。私たちには、イチロー選手のようなはっきりと言葉にできる明確な形での希望を描くことはできないかもしれません。ずっとささやかなものであったり、昨日と今日とで希望の見え方、感じ方は違ったものになるかもしれません。たとえそうであるとしても、人生に一番必要なこと、それはやはり「希望」を持ち続けることであると思うのです。そして、その希望をもたらす近道のひとつが、自分の周囲と普段の生活の営みの中に「美」を見出していくこと、「美」を生み出そうとする努力にあるのではと感じます。
最後までお読みいただいてありがとうございます。
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