2016年 07月 06日
芸術と私たち ~ 小暑の頃’16
前回のイチロー選手についてのブログに引き続いて、今回も美と心の関係、とりわけ芸術と私たちの心の関係について取り上げたいと思います。芸術を理解するために私たちの心はどんな働きをするのか、何を感じそれは何を意味するのか、そしてそれらは私たちの人生や日常にどのように役立っていくのかなどについて、私なりに理解し日頃考えていることを書いてみたいと思ってます。
なぜこのようなことを考えているのかと言いますと、これも以前のブログ『フロイトと絵画』で少し触れたのですが、芸術体験と、カウンセリングやカウンセリングスキルの向上、広い意味での対人援助行為とには一脈通ずるものがあるのでは、と薄々感じているからです。
アメリカで初めて心理学の講義を開き、独創的な心理学研究でも歴史的評価の高い、心理学者・哲学者のウィリアム・ジェームズ(1842-1910)は、以下の言葉を残しています。
「心理学が心の法則の科学であるからといって、教室ですぐに使えるような教育のプログラム、計画、方法などをそこから導き出すことができると考えるなら、それは大きな間違いである。心理学は科学であるが、教育は芸術であり、科学から直接的に芸術が発生することは決してないのである。その間には創造的な精神が介在し、自己の独創性による応用が必要である。科学がなしうるのは、せいぜい、我々の推理や行動が誤り始めた時に、自らを捉えてチェックし、また誤りを犯したときに明確な形で自己批判できるようにすることである。」
(W.ジェームズ 大坪重明訳 (1960)『心理学について:教師と学生に語る』日本教文社)
カウンセリングは、元々アメリカにおいて心理学よりもむしろ教育学の分野において始まったものです。教育現場において、学ぶ人々それぞれの特性に合わせ適切なアドバイスや教育方針を取り入れていったり、社会人となる青少年の職業への適応を援助するいわゆるガイダンスにその起源があり、それがその後、教育分野を超え心理学領域でも取り入れられ、幅広い社会問題の解決や精神疾患の治療と結びついていったと言われています。
こうした背景から私は勝手ながら、上のジェームズの引用文中の「教育」と言う言葉をそのまま「カウンセリング」に置き換えて考えることにしています。そうして考えてみると、日々のカウンセリング実践の場においてとても納得し、また腑に落ちるところがあるからです。もちろん心理学が、カウンセリングの実践における基礎と原則を提供することに間違いはないのですが、それをストレートに適用するだけでは、あるいは心理学的専門知識に頼り、トレーニングで習い覚えたことを再現しようとするだけでは、カウンセリングとしては充分とは言えないと思うからです。
さりとて、心の問題をあまりに哲学的観念的に捉えようとすると、具体的な問題解決の的確な処方箋になりにくいのもまた事実です。ジェームズにならい、「カウンセリングは芸術である」などと強弁するには無理があるとしても、私はカウンセリングが、その個々のケースにおいて独創性と創造性とを要求する実践活動であることは間違いないと考えています。なぜなら私は、カウンセリングにおける心の問題の、科学実証的側面よりもむしろ芸術世界との親和性の高さをどうにも日々痛感するからなのです。法則性や共通性、あるいは集合性といった人の心の普遍的な要素へ焦点をあてることより、依然としてその固有性や特殊性、イレギュラーな様相への感受性に着目することにその本質を感じているからなのです。
ところで、芸術は一般的には「楽しむ」ものであるでしょう。芸術を「する」と言う意味での創作、自己表現活動としての楽しみもあるのですが、そのような技量や才能、趣味性を持ち合わせない私のような普通の人にとっては、芸術はもっと気軽に鑑賞し楽しむもの、一級の芸術作品に接することによって心豊かな気分になり、またそのことが潤いある日々を送る一助になると考えるわけです。もう少し芸術に造詣の深い人々にとっては、その作品に潜む時代的、思想的、個人的背景に焦点をあてたり、筆致のテクニックや表現技法を探るなど、より専門的総合的に作品に接するということもあるでしょう。これもまた普通に知られる楽しみ方です。その一方で、芸術の意味については別の見方もあると私は思っています。
「自分が何者であるのかを知ること」
私なりに芸術を定義するとそのようなものになるでしょうか。芸術が問いかけてくる無限の可能性と向き合い、真摯に理解し経験しようとするプロセスを通じ、みずからをさまざま問い直し、自己の変容と心理的・人格的成長を促進するもの、そしてまた多彩で複雑な人間関係や価値観が錯綜する社会のなか、内面的な豊かさと自由を保ち、今とこれからへの希望を育むための心の拠り所となるものでもあると言えるかもしれません。
例えば、私たちがすぐれた小説を読む際、その物語の主人公や登場人物の生き方に共感したり反感を覚えたり、また主人公の体験を自分のものとして引き受け感情移入をするといった、さまざまに心が揺り動かされる体験をすることを通じて、自分自身に対する省察が深まり、内面的な成長を遂げる経験をしばしばするように、絵画の鑑賞もまた、私たちの内面をさまざま刺激する心的体験です。しかもそれは、額縁とキャンバスという極めて限定されたサイズのしかも平面的な枠組みに無言のうちに展開されるある芸術家の主観の世界を、決められた場所と期間において、「それ」と「私」が同時に存在するときのみ成立するという、考えてみればなんとも独特な制約の中で味わう一期一会の体験、「いま・ここ」の世界の極みといってもいい体験です。けれども、かえってそうした外的世界の制約がもたらす手がかりの少なさゆえに、それらは私たちをよりいっそう内的世界へと誘い、自分の内なるものとの対峙を促進します。こうした芸術体験は、心理臨床の場において様々な表現療法(芸術療法)が用いられたり、描画法やロールシャッハ、TATといった、そもそも意味するところがあいまいで、解釈における個人差と自由度が著しい視覚的刺激を提示することで、被験者の人格や性格を把握しようとする心理検査手法が用いられたりすることと、決して無関係ではないと考えるのです(ちなみに、上で引用したジェームズは若い頃は画家を目指していたそうです。)
と、ここまでは心理学をからめてちょっと堅苦しいお話になってしまいました。次回は、現在国立新美術館で開催中の展覧会が話題の、西洋絵画の巨匠ルノワールについて触れたいと思います。
”自分の精神の貧困の中でもがいてみても何も生みださないが、内面的に高揚するものと関わりあえば真に得るものがあるものだ”(ヘルベルト・フォン・カラヤン)
最後までお読みいただいてありがとうございます。
メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂