2016年 08月 07日
それでも夏空を仰ぎ ~ 立秋の頃‘16
梅雨も明け、本格的な夏がやってきたと思えば暦の上ではもう立秋。秋の始まりということですから、少しずつ涼しさが増すとともに秋の気配もちらほらのはずですが、もちろんほとんどの地域ではまだまだしばらくは夏真っ盛りの厳しい暑さが続きます。
「随分日に焼けてない?忙しいといっていたけど、もうどこか夏行ったの?」先日会った友人が、私の顔をしげしげと眺めながら、開口一番そう切り出しました。色白のせいで少し日焼けしても目立つだけでしょ、とサラリと受け流したものの、実際レジャーにいそしむ時間もなく、そうかといって炎天下の営業回りに汗かく仕事でも屋外スポーツに励むでもない自分が、何故日焼けしているのか言い訳がましく口ごもりながら、「だって今夏じゃないの、外に出ないでどうするよ。」と本音を言ったところで、なかなか理解してもらえないだろうなぁ、と思ったりします。
8月生まれのせいか本当に夏が好きです。強烈な日差しと熱中症を気にするほどの猛暑、睡眠不足を誘う寝苦しい熱帯夜が続くにもかかわらず、仕事の合間にもちょっとのすきまの時間を見つけては、屋外に出て熱気に身をさらし、空を見上げ蝉の声を聴く、ブラブラすることが無上の喜びなのです(このあたりは以前のブログ『お寺の標語』でも少し触れました)。
四季あるいは12ある月の中で、8月(葉月)ほど私たちの日々の営みと時や人生のうつろいとが密接に響きあう心象風景が、五感と記憶に強く訴えかけてくる季節はありません。時代が変わっても誰もが幾度となく経験し、心の片隅に大切にしまっておきたいほどのいとおしさと懐かしさ、苦々しさを秘めた数々の想い出や記憶、そしてそれが今もって自分の周囲に変わらずに存在していることへの幸せを感じる季節が夏なのかもしれません。
あきれるほど大きな入道雲と絶えることのない蝉の鳴き声、海の香りとプールの塩素系消毒剤の匂い、かき氷にスイカ、ラジオ体操に高校野球、花火やお祭の喧騒、旅先の山並みに草土の香り、肝試しと怪談、昼寝に風鈴の音、麦藁帽の友達から漂う汗とひなたの香り、街中に幾重にも鳴り響く夏休みを満喫する子どもたちの歓声と笑顔、蚊取り線香の煙に動きのにぶくなる蚊、お盆、広島、長崎、終戦記念日。エアコンの効いた屋内ではその多くを決して味わうことのできないこうした夏と夏休みの記憶は、いとおしくときに切なさが胸に迫り、そして自分の過去を想い、今を見つめる機会を与えてくれます。こうしたある種の感情体験は、個人的というよりも日本人に集団的集合的に繰り返し回帰してくる遠い彼方の無意識の記憶・情動といってもいいのかもしれません。
大きくなっていくにつれ休む暇もなく外に出ることも減り、受験や仕事、インターネット空間へどっぷりの生活に明け暮れ、普段と全く変わらぬ日々の延長にすぎなくなってしまったかつて夏休みとして過ごした日々を、なんとか忘れずにいつか取り戻したいと密かに願う、余裕を忘れた現代人のぼやきのようなものですが、こうした夏がもたらす、何やら胸疼く落ち着かない、でも例えようのないいとおしさこみあげる心情をいつまでも大切に忘れずにいたい、そんなはかない思いが、つい炎天下の外へと足を運ばせてしまうのでしょう。

仕事場の電話が鳴り、受話器を取ると、受話器の向こうからはかすかに耳に届く息遣いと重苦しい沈黙がしばし続きます。
「もう死にたいくらいつらいんでね...」「死んでしまえば本当は楽なんだけど...」と、絞り出すような声が聞こえてきます。
何の前置きも社交辞令的挨拶もなく、あたかも今までもずっと続いていた会話の途中であるかのように、沈黙と溜息まじりにぽつりぽつりと絞り出すほとんど聞き取れないような声、そんな電話が時折かかってきます。そんな電話は、一人暮らしの孤独な人間が、人の寝静まる深夜帯に眠れずにかけてくると想像される方もいらっしゃるかもしれませんが、そうとばかりともいえません。同居する周囲の目をはばかり、家の人が留守の間の昼間にこっそり受話器を取る人たちも多いのです。こころに沸き立つ疎外感や絶望感は、一人暮らしであろうとなかろうと、昼夜問わず私たちに忍び寄ってきます。
先日かかってきた電話もそうでした。年齢は判断がつきません。ご高齢のようでもありずっと若い女性でもあるような声。生気がなくか細い声は前に出ないため、ほとんどの内容が漠然として聞き取ることがむずかしい。整理して話すこともなく、ただ今の自分の状況と気持ちの断片が脈絡なく語られていきます。ご主人のこと、戻ってきた息子さんのこと、日常の暮らしのこと、ご自身のけがのこと。本人の中ではすべてがわかっているのですが、こちらではその内容のほとんどを想像するしかありません。話の内容や前後因果関係を知りたいと思う、もっと情報を整理したいと思う、でも、決してこの話の流れを遮断してはいけない、そんな直観から電話の先にいる女性の存在と気持ちを推し量るよう息を殺して耳を傾けていきました。
聞けばかなり近所の、立派な家が立ち並ぶ界隈にお住まいのようです。ほんのわずかの質問に対するお答えと言葉の抑揚、こちらからの説明への理解度からは、しっかりした知性もまた感じられ、それがかえって切実な状況を物語って余計に胸に迫ってきます。さまざまな理由から現在の自分にほとんど何の希望も幸せも見いだせず、死にたいと思っていらっしゃるご様子でした。腰を痛めているらしく時折通院しいろいろなことも医師にも訴えるのですが気分もすぐれないようです。何もする気になれず外出もままならない。犬を散歩にも連れていけず。気持ちも肉体も八方塞がりの様子がささやくような声から感じとれます。
「また電話いただいて構いません。またお話聞かせていただけますか?」
でも、電話はなかなかできないし家では話しづらい。こちらからお伺いすることも提案したみたものの、やはり家の人の目があって駄目。
「怪我の具合を見て先生からいいと言われたら、タクシーにでも乗っていければねぇ...」
「そうですね。まずはお怪我を治して前みたいに少し散歩でもできると随分違うかもしれませんね。お待ちしてます。ね?」
長い沈黙のあと、「はい、一度話を聴いてほしいなと思います...」それを最後にまたしばらくの沈黙の後、電話は切れていきました。
「あの、私のところをどこでお知りになりましたか?どなたからかご紹介ありましたでしょうか?」パソコンや携帯を身近に操る世代には感じられなかった私は、ふと電話の最後のほうで訊いてみました。
「あの...新聞に入っていたチラシね、あれ見てね...あ~こんなところもあるんだと思って....」
それは、地元の印刷会社が発行する地域事業者用の小さな宣伝広告のことでした。新聞の折り込み広告として近隣地域内月に一度5万部ほどが配布されています。カルチャー教室や食品雑貨店、工務店に飲食店、町医者に葬儀屋さんなど、さまざまな業種の地元中小事業者のほんの小さな広告が、紙の両面に肩を寄せ合うようにして地味に掲載されている文字通りの「チラシ」。
不動産や金融投資、ブランド品や輸入車、会員制高級スポーツジムからお受験進学塾など、豪華で上質な紙を用い、眺める人の関心を煽るかのような少々大袈裟なキャッチコピーやイラスト、写真が踊る多くの新聞広告の中にあって、ややもするとそんな広告が折り込んであることすら気づかれずに処分されそうなほど、質素でレトロな庶民的二色刷りの紙の両面には、多少の個性はありながらも本当に必要な情報が淡々と掲載されているだけです。
でもそんな広告を見るたびに、なにやらホッとさせられつい手に取ることも多かった私は、いつの頃からか私のカウンセリングルームの広告も時折掲載していただくようになりました。正直なところその宣伝効果のほどは計り兼ねつつも、向こうから勝手に飛び込んでくる小さなチラシを私と同じような気持ちを抱いて、いっとき目を留める人が結構いらっしゃるのだなと、ときに驚かされることもあります。
たった一人残された年老いた肉親に暴力暴言を止められない会社重役、一人暮らしの寂しさを紛らわすことの叶わない年金生活の男性に中年キャリアウーマン、暴力を振るわれ中絶を強制されながらもどうしても恋人との関係を断ち切れず涙が止まらないまだほんの若いOLさん...インターネットへの万能感情が肥大する日常において、こんなにも小さな新聞折り込み広告の、またその中のほんの数センチ四方の宣伝に目を留め、あたかもそれが最後の頼みの綱であるかのようになんとか力を振り絞ってお電話をかけてこられたそのお声に接し、逆にこちらが何やら救われる思いがするとともに、かえってその追い込まれている心のつらさがしみじみ伝わってきます。
情報は満ちあふれている、多様なアクセスとネットワークがある時代だからといって、それが届く人たちもいればどうしたって届くことのない人たちもまたいる。そんな分かり切ったこととはいえ、経済格差や世代格差、情報格差などの一語では括ることのできない、根本的な人のこころのあり様と現代社会の渦のはざまに横たわるやるせない齟齬(そご)を痛感するのです。

夏真っただ中、吸い込まれてしまいそうなほど抜けるような青い空に浮かぶ夏雲を見上げることは私の趣味です。そこに私のあの「夏休み」があるから。
いつも思います。物事って本当に全く自分の思うとおりには運ばない、生きるってやっかいでときにつらいものだと。それを味わうのもまた人生の意味なのかもしれません。でも、悲しい時、つらくさびしい時、そして本当に何もかもが絶望的に思えるそんな時、「空を見上げて」前へ進もう、と何とか心に言い聞かせることにしています。そこに私の「夏休み」があると信じて。
どんな試練や苦しみも小さく思えるほどのスケールの大きさと無限の希望の広がりを時として感じさせてくれるのが大空であるならば、この空の下、電話をかけてきた女性と同じような悩みに苦しめられている多くの人がいることを思い起こさせるのもまたこの大空です。また電話をかけてきてほしい、そんな願いで夏空を仰ぐ日々が過ぎていきます。
最後までお読みいただいてありがとうございます。
メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂
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