2016年 09月 11日
私の知らない世界 ~ 白露の頃’16
ここ数十年の間に人間の脳の機能や中枢神経系の情報伝達システム等に関する研究が飛躍的に進化し、人間の知覚、思考、記憶、判断あるいは視覚情報や感情の制御や処理、行動の計画・企図といった、より高次な認知機能や脳活動に関する知見が飛躍的に蓄積されました。脳を科学することにより、人間の様々な営みや疾病疾患のメカニズムを説明したり改善したりすることができるという、いわば「脳科学神話」とも言うべき時代に私たちはいます。
精神医学の世界でもそれは例外ではありません。脳の活動や活性状態をリアルタイムで視覚的に捉え分析することが可能となったいわゆる脳機能画像技術が高度に発達し、特定の疾患に特有な脳の活動状態が徐々に明らかになってきました。また、分子生物学や神経生理学などの研究の進歩によりさまざまな精神疾患と関連があるとされる遺伝子情報なども特定されるなど、多くの精神疾患の原因が、脳の機能障害や遺伝的素因など生物学的要因にあると推定されるようになってきたのです。もちろん生物学的要因の特定イコール精神疾病の真の原因とは必ずしもいえず、むしろ疾患発症の前提条件のひとつに過ぎないとも言えるのですが、いずれにしても、今やいわゆるこころの病は脳の病ととして理解することが時代のすう勢となっているようです。
しかし、その実態や定義が定かでないとはいえ、なんとなく「こころ」という言葉にある種の実存感を前提に仕事をし、科学実証的世界ではとらえきれない何かが人とその営みのはざまにはさまざまあると信じたいに私のような人にとっては、脳科学の世界のちょっとドライで硬い理詰めの言葉と方向性につい居心地の悪さを感じてしまいます。ただ理系の話についていけない文系の人間だから、というのが本当のところかもしれませんが、カウンセラーとして「こころ」の存在と向き合うほうがよりしっくり馴染む私にとって、ある意味厄介な時代といえばそうかもしれません。
ただ、同時にいずれこうした脳研究や生物学的研究がさらに進むことによって、私たちが普段認識している世界、つまり人間の通常の五感感覚の可視聴域では、どうにも説明のつかない現象や世界の存在、あるいは「こころ」とは何かについてもっと鮮明にされるのではないかと期待していることも確かなのです。何とも説明のつかない出来事や相談事に遭遇し、途方に暮れるときはなおさらです。今回はそんなエピソードをひとつ。
学生時代に何かとお世話になった先輩のご実家に、以前夕食に招待されたときのことです。先輩とそのご両親、そして私の4人でとても和やかで打ち解けた雰囲気の中夕食は進み、当時普段からいい加減な食生活を送っていた私は、先輩のお母さんが用意してくださった食べきれないほどの食事とお酒をすすめられるまま堪能し、すっかりいい気分になっていました。
4人しばらく無言でナイフとフォークを動かしていた時のこと。突然先輩のお母さんが手の動きを止めました。
「あ、地震。」
彼女の声を聞いた私もしばらく手の動きを止め周りの気配を伺ってみました。が、揺れている気配やその予兆のようなものは感じられません。お酒も入っていたし、多少は緊張もしていたのでほんの小さな揺れなど感じなくても大して気にも止めませんでした。気のせいかもね、と思いながら私は、「あ、そうですか。」と言葉を返しました。
ところが、その後しばらく無言で4人で食事を続けていると、先輩のお母さんがまたつぶやいたのです。
「かなり大きかったわね、今の地震。」
「え?」
今度はさすがにわが耳というか自分の感覚を疑いました。多少酔っているかもしれないが揺れてはいないし、ましてやそんな大きな地震だったらいくらなんでも気づくはずだし。いや、やっぱり絶対に揺れていない。ところが今度は先輩のお父さんが料理から顔も上げず一言、
「あ~、そう。」
待てよ待てよ、訳がわからない。しかし私は食事を続け、平常を精一杯装いながらさりげなく、
「今地震、ありましたですかね。」
「そうね。でもかなり遠そうだけど。」冷静に切り返すお母さん。
「ふ~ん。」とまたお父さん。そしてまた沈黙。
まったくの意味不明。何かのこの家独特の言葉の遊びか、客人にはわからない秘密の合言葉なのか、酔った頭でも一瞬の間に様々な推測が頭をよぎりました。しかしついに私は食べる手を止め、先輩ご家族3人の表情を覗き込みながら訊ねました。
「あの、今揺れましたか?僕全然気がつかなかったですけれど。」
すると、横に座っていた先輩が事情を察して笑いながらこう説明してくれました。
「そっか、知らないよね。うちの母さんね、地震が起きるとわかるのよ。」
「いや、それは誰でもわかりますよ、揺れるから。」
「ううん、そうじゃなくて、遠く離れた場所で起きた地震がわかっちゃうのよ。特に大きいのが。」
な、何ですかそれ?
「じゃ例えば、東京が全然揺れてなくても、北海道とか九州とかで地震があればすぐわかるっていうこと?」
「そんな感じ。でもそういうあまり近くのは逆に感じない時があるらしいの。感じるのはもっと遠いところの地震ね。」
「遠くって?」「たとえば地球の裏側とかずっと遠いところ。」
ハァ?いや、やっぱりまったく訳がわからない。つまり先輩のお母さんには全地球の鼓動を感じ取るセンサーがついているっていうこと?超精密人間地震計?まじめな話なのか冗談なのかよくわからないまま、適当な返し言葉が見つからないので、とりあえず無難な感想で会話をつなぐことに。
「すごいですね、超能力みたいですね。じゃひょっとして地震の予知なんかもできるとか。」
「あ、そういのはないのよ、そうでしょ母さん。」
「ええ、それはちょっと難しいわね。」
「ちょっと変わっているのよ、うちの母さん変なところ敏感で。」
「あら、あんたもそうじゃない。敏感なのは。」
翌日の朝刊で、中央アジアあたりで局地的な大地震があって、かなりの被害が出たとの大きな記事を目にした時は文字通り仰天しました。地震発生時間(日本時間)がピタリと一致…うわ。
でも単なる偶然でしょう?という私の希望的観測を打ち砕くかのように、実はその後も同じ経験をすることとなりました。こうなるともう偶然ではなく、何だか説明がつかないけれどとにかくこの方には、特別な何かセンサーみたいなものが備わっていると考えるしかなくなりました。
後日、「それってなにか専門的に説明できる?それとも超能力?」との先輩の問いに、
「まったく、わかりません。」と素直に答えるしかなかったのでした。
私たち人間には五感があり、人それぞれに敏感の度合いがあってそれはその人の生活環境とか体質とか遺伝的なものによっても異なるのでしょう。しかし、それにも限度があるのでは。なんというかまさに「超」能力というか一般常識の理解を超えたものを「もってる」人が世のなかにはいる、ということを思い知らされたのでした。
オリンピックやプロスポーツのアスリートを見るまでもなく、鍛えたりトレーニングを積めばそれなりに私たちの肉体は進化したり、卓越した身体能力を身につけることも可能です。人間の感覚や精神といった領域においてもそれは同様であると考えるのはごく自然なことかもしれません。犬の驚異的な嗅覚や鳥類の圧倒的な視力などはまさに「超」能力の見本のようなものですが、人間という生き物もかつてはこうした現代人類からは想像もできない「超」能力を持っていたいのかもしれません。それが進化の過程、文明の発達に伴い次第にそうした能力は必要でなくなり、結果として退化していったという仮説はかなりの説得力を持つといえるのではないでしょうか。ただ、おそらく人間全てが一様にそうした能力を忘れてしまったわけではなく、人によっては過去持っていた様々な「超」能力を受け継ぎ、その断片を身体に留めながらこの世に生を受けている人もいるということなのかもしれません。普通の人にはわからない、見えない、感じ取れないものがわかる人がいる。五感ではなくもっと別の、そう第六感とか霊感とかいった類の「私の知らない世界」のお話なのかもしれません。そうして考えると、特別なものを明らかに何も持たない私は損してる平凡な人間なのかなぁ、とちょっと寂しく思ってしまうのです。
いつもお読みいただいてありがとうございます。
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