2016年 10月 23日
おりがみ教室 ~ 霜降の頃’16
体調を崩したり風邪をひいたりしている人が、私の周囲でも結構いらっしゃいます。10月に入り、朝晩かなり肌寒い日があるかと思えば、時折強い日差しの夏日が顔を覗かせたりと、猫の目のように変わる陽気に身体がなかなかついていけず、秋の花粉症の時期とも重なり、のどや鼻をやられてしまうようです。かく言う私も、最近は鼻をすすりながら身体のだるさや日中の眠気と闘っている有様です。ところが、秋の収穫の時期を迎える農家にとっては、この寒暖の差こそがまさに季節の恵みであるようです。信州で林檎農園を営む知り合いの方からは、「こうして夜寒く昼間暖かいという気温差が激しいほどリンゴは熟してきます。今年もおいしいと喜んでいただけるリンゴに育ちそうです。お身体にはお気をつけてくださいね。」などと返され、都会育ちの軟弱さに恥じ入りながら、かの地の澄み切った秋の青空に、林檎の赤や黄が色鮮やかに映える季節の到来の便りに、今年もまたあのりんごの味を待ち遠しく思ってしまいます。
さすがに紅葉にはまだ早いだろうなと思いつつ、2週間ほど前ふと思い立って箱根を訪れました。仕事の合間を縫うようなほんの短い一泊旅行。何やかにやと日常に忙殺され(流され)、結局休みを取ることもなく季節が2つ過ぎて行ってしまったためか、しばらく前から都会を離れて、ほんのいっときでもいいから自然の中に身を置きたいとのモヤモヤとした欲求がずっと自分の中にくすぶり続けていました。何か自分に足りないものへの欲求が自然とこみ上げてくる感情というのは、つくづく不思議というかありがたい私たち人間の体質といえるかもしれません。逆にそうした感情なり欲求が自然に出てこなくなったら、それが私たちの身体と心からのSOSサインなのかもしれません。
バスで箱根に向かいました。当初は観光などいっさいせずに、奥深い山中にひっそりとたたずむ旅館で温泉と食事を楽しむだけで、あとは部屋でゴロゴロ読書でも、の計画だったのですが、現地にいざ降り立ち、記憶の中にあった以上に険峻な山々と森の香り豊かな空気に包まれると、ついあちこち行ってみたいと欲が出てきてしまい、結局旅装を解くやいなや、とりあえず箱根登山鉄道へ乗り込むこととしました。東京から近いこともあって、一年を通じて観光客が絶えない箱根は海外からの観光客もとても多く、実際登山鉄道の車内は、日本に居住されているであろう方も含め外国の方がほとんどだったのにはちょっとびっくりでした。あたりの景観をじっくりと味わってほしいかのように、ゆっくりゆっくりと登っていく登山鉄道の車窓からは、やはりまだ紅葉には早かったものの、優しく色濃い緑一面の渓谷美がじっくり堪能でき、疲れが溜まっている目にとても心地よく映ります。
登山鉄道からケーブルカー、ロープウェイへと乗り継ぎ、火山の噴火によりしばらく立ち入りが規制されていた大涌谷へと向かいました。ロープウェイが次第に高度を上げ、周囲の箱根の山々を眼下に収めることができるあたりにさしかかり、東京からわずか数時間で随分と遠くまで来たような感覚を覚えていると、緑豊かだったあたりの山々の景色が一変、一切の木々が消え、荒々しく剥き出しの岩肌全体から硫黄を含んだ火山ガスがもうもうと吹上げる、まさしく地獄絵図と呼ぶにふさわしい大涌谷のダイナミックな景観が眼前に現れました。ほぼ無音の静けさだった最新式のロープウェイの車中も、その瞬間だけは乗り合わせた人々の驚嘆と感動の歓声が響きわたり、誰もが熱心にカメラやスマホのシャッターを切ったり映像に収めたりしていました。
帰りのロープウェイの車中は、大涌谷を堪能した後だけに多少の疲労感もあったのかいたって静かで、誰もが静かに去りゆく大涌谷を眺めていました。とそんな沈黙の中、なにやらごそごそと音がするのでふと横に目をやると、隣に座っていた日差し除けの帽子を目深にかぶった年配のご婦人が何やらバッグから取り出そうとしているようでした。ははぁ、疲れと硫黄ガス漂う空気のせいで、きっと関西で言うところの、『アメ(飴)ちゃん』でも出すのだろうと勝手な憶測で密かにほくそ笑んでいると、意外なことに彼女が取り出したのは、ビニール保存袋に入っている小さな折り紙の束なのでした。小柄なそのご婦人の手が大きくさえ見えてしまうような、普通のサイズよりもずっと小さい折り紙を袋から取り出し、わずかに震える手先で、慣れた調子で器用に折り始めたのです。それこそあっという間に色とりどりの鶴や風船、うさぎに馬が出来上がっていきました。私たちにとっては子どもの頃から見慣れた光景とはいえ、なかなかの手つきについ感心して眺めていました。とふと目を上げ周りを見ると、窮屈なロープウェイ車中で身を寄せ合うように腰かけていた周囲の外国人観光客のほぼ全員の視線が、外の景色そっちのけに彼女の手先に集まっていたのでした。そして彼女は、出来上がった折り紙の作品をニッコリ微笑みながら黙って彼らに差し出していったのです。自分達の目の前で繰り広げられている細かで奇妙なパフォーマンスに、彼らの表情が戸惑いと好奇心から驚きと喜びへと変わる様は、何ともほほえましい光景でした。
「ORIGAMI!」「Beautiful!」「So cute!」「ドウモアリガトウ!」の歓声が沸き起こり、旅先で出会ったささやかな感動を写真に撮る人、ツイート実況する人、大切に手帳に挟んでお土産にする人と、大いに盛り上がりを見せ、その即席のorigami教室は、ロープウェイを降りた後、強羅駅まで下るケーブルカー内でも繰り広げられたのでした。
その後の箱根登山鉄道車中まで、そのご婦人とずっと一緒だった私は、彼女から色々な話を聞くことができました。折り紙を始めたきっかけは、視力が弱くなり本を読むのが億劫になってきたための、暇つぶしと老化予防、そして手作業に集中することによる、日常の憂うつ感とストレスの解消のためだったといいます。ところが、会社を退職されたご主人と一緒にイスラム圏の国々を盛んに旅行で訪れていたある時、観光客に対して必ずしもフレンドリーではなく、むしろ慎重に距離を置きがちなイスラムの人々を前でその折り紙パフォーマンスを何度か披露したところ、皆一様に驚き喜び、以後とても親しく接してくれるようになったそうです。特に子供たちやそのお母さん達の反応と喜び様はどこへ行っても想像以上で、そのことをきっかけに彼女は言葉のいらないコミュニケーション手段としての『origami外交』にハマってしまったとのことした。年齢を重ね海外旅行へ行くこともなくなってしまった今でも、老人施設やボランティアなどの場面でそれはとても役に立っているとのことでした。
彼女によれば、自分はずっと専業主婦で、大した学歴も教養も持ち合わせていないし、ほとんどのことが人並みにはできない人だと言います。何もできない自分、生きることで精一杯だと思うと、自分に気疲れし虚しくなることもあったそうです。ところが、小さい頃からただ遊びのつもりで覚えていた折り紙が、こんなにも人を喜ばせ、人と人とを繋ぐ力を持っていることは、彼女にとって新たな発見であり出会いだったようでした。
「結局、人のために私ができることって、『気持ち』を差し出すことぐらいだから。」彼女のその率直な言葉と行動に、私は羨望を超えある種の嫉妬さえ覚えるほどの人間的な魅力を感じたのでした。
最近、旅行やレジャーへ出かけると、自然や観光資源よりもむしろ出会う人により多くを魅せられることが多い気がします。今回の小旅行もそうです。自然に浸りたいとの思いから出かけた箱根でしたが、心に残るのはあの折り紙のお母さんとの出会い、バスに乗り合わせた仲良しおばさん3人組との交流、話好きのお宿の仲居さんとの尽きない会話だったりするのでした。いえ、むしろこうした人との繋がりを求めて旅に出てしまう、そんな気さえしてしまいます。私にとって秋とは「出会い」の季節でしょうか。何だか人恋しくなってしまう季節です。普段日常では結構な数の様々な人とお付き合いをこなし、言葉を交わすことも多いにもかかわらず、この人恋しさって何でしょう?何故でしょう?歳でしょうか?あるいはまた都会人の人間関係の貧困さゆえなのでしょうか?
「出会い」とはまた、「少し勇気を出して行動してみること」の大切さを教えてくれることでもあるかもしれません。何をどれだけ深く重く思っていたとしても、行動に移さなければなかなか誰にも理解されないし、何も変わらない。そんな当たり前の事に背を向けてしまいがちな私の背中をちょっと後押ししてくれるのがこの季節かもしれません。会いたい人、ちょっと話しかけてみたい人はたくさんいます。たとえ少しずつでも、たとえ今日は駄目でもまた人に会いに出て行こう。人を理解し、自分を発見するということはつまりそういうことなのかもしれません。
何かにつけなかなか思い通りにいかない、気がつけばモヤモヤするばかりの日々が続くこともあるかもしれません。そんなときは思い切って旅へ出ましょう。ちょっと素敵な旅人を演じてみましょう。いつだってどこにいたって大空は私たちのものです。
いつお読みいただいてありがとうございます。
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