2016年 12月 09日
記憶と記録 ① ~ 大雪の頃’16
冷たく乾いた木枯しが、路面を埋め尽くす枯れ葉をせわしなくかき乱し、葉が落ちきって寂しげな裸の街路樹の間をすり抜けていくようになりました。すっかり雪化粧を施された富士山の姿を眺めていると、ここ東京でも本格的な冬の到来と年の瀬を感じずにはいられません。年末に向け仕事のラストスパートにクリスマスや忘年会、正月の準備と、毎年変わらず慌ただしくそしてあっという間に過ぎ去る師走の始まりです。様々な物事にとりあえずは何とかひと区切りをつけ、すっきりした気持ちで新年を迎えたいと思うのもまた、わたしたちの自然な気持ちでなのしょう。カウンセリングルームでも、カウンセリングを終える方もいらっしゃる一方、新たに相談に見える方など入れ替わりと変化が目立つ時期のような気がします。
相談といえば、最近カウンセリングで相談に訪れる方がスマートフォンや携帯を持ち出す場面が多く見られるようになりました。と言っても、かかってくる通話やメールにカウンセリング途中に応対するということではなく、相談内容に関連したメール文や写真、文書などを画面に出し、それをわたしの眼前に差し出す場面が多くなった、という意味です。現在の状況や起きた出来事、あるいは今の心の状態など様々なことについて話し合っていくなか、考えを整理して言葉を口にするよりも、「あ、そうそう」とスマホを取り出しささっと指先を動かし、「そうです、コレコレ。」あるいは「というわけでなんす。で、どうしたらいいでしょうか?」とこられます。
言葉に出すよりも先に指先が動き、頭の中の記憶や思考よりも記録を探す作業に没頭するとでもいいましょうか。それ以上のことについて自分から何かこう話を発展させる様子のない人が少し目立つかな、と感じることがあります。口ではなかなか説明しづらいこと、正確に覚えていないこと、その時の事実関係や状況について明らかにする必要があるような場合には、携帯やスマホは確かに頼りになる便利な道具と言えます。それが確かな人間の進歩なのか、と言われれば疑問符もついてしまいますが、とにかく世の中変わりつつあるのだとつくづく感じます。
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「記憶」って何でしょう?記憶とは脳の中に大きな情報の保管庫のようなものがあって、そこに過去の様々な記憶がそのままの形で貯蔵保管され、必要な時に検索して出し入れできる(ときには忘れてしまい記録が見つからない場合もあるでしょうけど)ものと考えていらっしゃる方がひょっとすると多いかもしれません。ところが実際はそうではないことが、様々な研究によって確認されています。アメリカの認知心理学者として記憶の研究に数々の業績を残したエリザベス・ロフタスは、記憶について『記憶とは水で満たされたボウルに入れ溶けたひとさじのミルクのようなもの』という巧みな比喩を用いて表現しています。ミルクの一滴をひとたび水面に落としてしまえば、もう二度と水と分離させることはできないと同じように、記憶の内容について事実と想像とにはっきり分けることはできない、どこまでが事実でどこまでが想像や思い込みの働きによるものなのかもはや区分することは不可能である、ということをロフタスの言葉は意味しています。記憶は様々な事実や情報をそのままの形で溜め込んでいるのではなく、置かれる環境や状況等にさまざま影響を受けた主観的な知覚や感情、経験などによって、無数の記憶の断片が都度再構成、意味づけされ、想起される(意識に上ってくる)もののようであることがわかっています。
つまりわたしたち人間は、客観的事実をありのまま見て積み上げるように記憶し、それらを単に出力しているわけでは必ずしもなく、見聞きした物事や情報を積極的に編集、脚色、取捨選択し、ときに見えるものを見なかったと信じ、見えないものを見てしまう、なんともやっかいというか不思議な生き物であることが分かってきたのです。もっと端的に言ってしまえば、わたしたちの記憶に限らず知覚、注意や意識はいとも簡単に「勘違いをする」のです。
これをよく示す有名なエピソードがあります。聞いたことのある方も多いと思いますが、それは太平洋戦争が終戦に近づいた昭和20年8月15日、昭和天皇によるいわゆる玉音放送のあった日についての記憶です。戦後から現在に至るまで実に多くの人々がこの日のことについてよく記憶しており、それによれば、『朝から真夏の太陽がじりじりと照り付ける、とても暑い夏の一日』だった点ではほぼ共通しているそうです。ところが、終戦日の天気図や気象情報を調べて見てわかったことは、実際には日本列島の多くの地域が終戦日の当日は曇りで、陽の差した地域はごくわずかであったそうです。
また、わたしはかつて祖母から、大正12年関東を襲った関東大震災にまつわるエピソードを聞かされたことがありました。それによれば、祖母は地震の起きる直前、おびただしい数のネズミが、ものすごいスピードで祖母の目の前の道路を横切ってどこかへ逃げていったのを目撃したというのです。その時わたしは、なるほど危険を察知する野生動物の予知本能とはそんなものか、と納得したものでした。どころが、ずっと後になって祖母は、いや、あれは大東亜(太平洋戦争)の東京大空襲の際に見た出来事かもしれない、と前言を撤回し始めたのです。それどころか、果たしてそれを自分で見たものか記憶が定かでなく、あるいは誰かの伝聞だったかもしれない、などとさらに言う始末でした。
そういったことですから、現代のわたしたちが記憶機能を脳内からより確かな外部機器(スマホやパソコン)へとアウトソーシングするほうが、より確かな社会生活を営むことができると考えるのも無理からぬことかもしれません。
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今の時代は、「記憶」よりも「記録」優位の時代のようです。インターネット、クラウド、ビッグデータなど、絶えず連続的にすべてを「記録」し、無限に蓄積し、それを自由に検索取り出す世の中になりました。それはわたしたち個人の生活史においても言えることです。スマホで自分達の一日、食事の風景、友人との語らい、昼食のメニュー、通勤途中を撮影あるいは自撮りしそしてつぶやき、文字と映像を絶えずインターネット空間に載せ実況し共有する世の中です。それは日常、非日常の区別なく、絶えず連続した私たちと今を明らかにし続けることができる世の中であり、記憶や想像、思考に頼ることなく、膨大な記録とその情報処理を自分とは切り離された外部装置に頼り、指でたたけばすぐに結果が出てくる世の中へと変わりました。いや実際、そのほうがいい場合だって役に立つことだってたくさんあるわけです。日常の暮らしでもビジネスでも、人類の福祉や進歩、歴史に貢献する学術・研究分野などはとりわけそうです。ただ、こと人の心や人間関係についてそれでいいのだろうか?ふと考え込んでもしまいます。
カウンセラーはしばしば相談相手の「語り」に注目します。語りは単なる事実や起きたことの申述や感想ではない、その行間に語る人の主観や感情、隠された欲求などさまざまな心象風景が込められる、言ってみれば相談者の豊かな自己表現といえます。事実や理屈はどうであれ、彼らの心情、彼らが心からそうであると信じていることは何であるのかに耳を傾け、その人となりや抱える問題の理解を深めていくことにつながる大切な手がかりが「語り」といえます。ですから、相談者の内面や考えていることを彼らがどのように口にして表現するのか、その頭の中身を知りたいわたしからすると、語るを通り越してスマホをサラサラと操作し、「ハイこれです。」と証拠資料のように呈示されると「なるほどわかりやすい」、でもなんだか妙に肩透かしを食らったような感じがしてしまうのも正直な気持ちなのです。
「論より証拠」「百聞は一見に如かず」で、なまじっかな記憶よりも記録のほうが正確な事実関係を知ることができることもまた事実です。ただ、証拠、記録があるからといって、それらがわたしたちの「心の真実」をよく伝え表現するものであるかといえば、必ずしもそうとは言い切れないところが、人の心の営みの複雑で難しいところなのです。
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