記憶と記録(Ⅱ)~ 大雪の頃’16


 『記録の王、記憶の長嶋』

昭和以前の世代の方ならこの言葉はよくご存知かもしれません。昭和のプロ野球黄金時代、9年連続日本一に輝いた読売巨人軍の二枚看板スターだった王貞治と長嶋茂雄の二人は、同時に一(いち)スポーツ選手としての存在を超え、戦後日本の国民的英雄として、時代を象徴する尊敬と憧れの的でした。しかし二人の個性は対照的でした。ストイックで誠実な人柄とたゆまぬ鍛錬によって完成した正確無比なバッティングで、圧倒的な記録を打ち立てた世界のホームランキング王貞治がまさに『努力の人』であったのに対し、どことなくひょうきんで喜怒哀楽豊かな表情やプレーぶりがクローズアップされ、ここ一番のチャンスに無類の強さを発揮するバッティングセンスで人々を魅了し続けた『天才肌』の長嶋茂雄。この二人が合い並び立ったればこその巨人V9だったわけですが、勝利への実質的な貢献や記録をみれば、王さんに軍配が上がるにもかかわらず、その人柄と独特のカリスマ性ゆえに王さん以上に人気のあったのが長嶋さんでした。野球少年や高校球児達が王貞治にあこがれる一方、多くの国民は今でも長嶋茂雄のハッスルプレーや人間的な魅力をより鮮明に記憶にとどめているようです。人柄といって、長嶋さんを一般の人間がよく知っていたわけもなく、せいぜい有名人としてのエピソードやテレビ中継などのプレーを通じてしか知ることはなかったにもかかわらずです。いえ、むしろそうであったからこそ、わたしたちは生きた時代の空気やそれぞれが抱く夢と願望とでそのすき間を埋め、自らが期待する人物像なりヒーロー像を彼らに投影させ、それぞれの胸に刻み付けていったのでしょう。王さん長嶋さんは実在するひとりの人間でしかないにもかかわらず、彼らへの想いはそれこそ日本人の数だけ存在し、それぞれが記録や実像を超えた心の記憶としてわたしたちの心に深く刻み込まれ語り継がれていく存在だったのです。

前回のブログで紹介した2つのエピソードも同じです。昭和天皇の玉音放送を日本国民がこうべを垂れ、涙しながら聴き入ったというあの終戦の日は、その時代を生きた人々だけでなく以後の時代の人々にとっても、灼熱の太陽が照りつける、うだるような真夏の晴天の長い一日の出来事であるはずだったのでしょう。またわたしの祖母にとって、ネズミの大群の大移動という異様な光景は、関東大震災ほどの天変地異であったればこそ起きた出来事でなければならなかったに違いありません。こうしたことがたとえ事実や記録とは異なるものであったとしても、それらは心の真実、心の風景としてわたしたちの脳裏に深い痕跡となって刻まれてきたのでしょう。アメリカの映画監督で、「駅馬車」「荒野の決闘」「怒りの葡萄」「我が谷は緑なりき」など映画史上数々の名作を残した巨匠ジョン・フォードが発したある言葉が思い浮かんできます。

『真実か伝説かのどちらをとるかと問われれば、私は迷うことなく伝説を選ぶ。』



記録過多、すなわち情報過多の世の中では、ある種の「怖れ」の感情が心に棲みつきます。情報を知らないことへの怖れ、それを周囲の人と共有していないことへの怖れ、流行についていっていないことへの怖れ、仲間の輪から取り残されることへの怖れ。さらにはとにかく何かしなくてはならないのではないかという怖れ。またこうした世の中は、今入ってくるさまざまな情報に束縛される硬直した「今」にわたしたちの心を束縛します。「今」にがんじがらめになってそれを受け入れるだけで、物事の本質やあるべき姿とはどのようなものなのかを一度考えてみること、それを行動に移してみるということからわたしたちを遠ざけていきます。自分が考えている以上に主体性を持った思考や行動が阻害されているのに、わたしたちは「選択」していると錯覚し、そのことに気づかずに人生が進んでいってしまう。目に見える結果や解決策が簡単に素早く、しかも効率的に得られるものばかりに飛びつくことを強いられる。だから、必ずしも期待通りの結果に直接に結び付かない思考や行動の試行錯誤そのものに実は深い意味があるとは考えられず、それを試す心の余裕も時間もないと決めつけてしまう。一向に変わることのない経済優先社会の中で、物質的にはそこそこ満たされごく限られた内輪向きのための努力は惜しまないものの、外部からの入力情報をそのまま無条件的に受け取るばかりで、世俗的な価値観を相対化し複眼的に人生の意味や社会の在り方について考え、自らの内なる指針に心を割いて行動することへの気づきの欠如や無関心さが、わたしたちの心に影を落としてはいないでしょうか。

記録することだってもちろん大切です。大切ではあるけれど、記憶し想像する力は、もっと大切にしなければならない人間の持つこころの機能です。情報交換の記号としての記録に頼るのではなく、記憶と想像がもたらす豊かな心象風景を自らの人生の語りとして大切に育むことが、私たち相互の心の理解と他者への共感を生み出だす大切な原動力となります。私たちが社会生活を営むうえでの基本ですら言える、と考えています。



「写真ないの?料理とかみんなの顔とか

つい先日の忘年会の後、都合でやむなく欠席した友人へ報告のメールを送ったところの、その不満顔が目に見えるような返信がこれ。いやしまった、と毎度のように後悔しつつ、普段から写真を撮る習慣のないわたしにとって、これができる様でなかなか難しいのです。

「大丈夫、撮ってるから送りま~す。」と、別の友人が割って入ってくれる。助かった。いや、でもいつの間にそんな写真を撮っていたのか...さっぱり覚えていないわたしなのに。

「ありがと~、楽しそうで残念。次絶対参加するから!」

記憶も結構だけど、こういう場合やっぱりまず記録かなぁ。なにかこうタイムリーに記録する癖をつけるいい方法やコツってないものでしょうか?これ結構真剣な悩みでもあるのです。

「その前に、そろそろスマホぐらい持ったら?」

そう言われるのがつい癪で、沈黙を守っているのですけれど。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

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by yellow-red-blue | 2016-12-14 14:34 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、カウンセラーとして、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。ブログのどこかに、読む人それぞれの「わたし」や「だれか」を見つけてもらえたら、と思っています。


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