2017年 03月 03日
行き雲 ~ 啓蟄の頃’17
わたしたちには超能力が備わっていて、しかもそれは年齢性別を問わず赤ちゃんから老人にいたるまで、誰もが普段の日常生活において毎日のように発揮している驚くべき能力です。さて、それはいったい何でしょう?
そんなばかな、そんなものあるわけがない、と思うかもしれませんね。確かにわたしたちが普段「超能力」と言う言葉から連想するような、オカルト的あるいはスピリチュアル的な意味合いからすると、そういった能力はひょっとしたら存在するかもしれないが、誰もが持っていると言われると異議を唱えざるを得ないのが大方の見解でしょう。
では超能力をたとえば、「鳥の飛翔能力や視力、犬の嗅覚のような、他の生物では絶対にありえないヒトだけが持つ驚異的あるいは圧倒的な能力」と考えるとどうでしょう?つまり超(絶)的能力と捉えるとちょっと考えが変わるかもしれませんね。
すぐに思いつくのは、やはり人間の「知性」あるいは人間が営む「知的活動」でしょうか。知覚や記憶、言語から、さらには認識、理解、思考といった、ヒトの高度に発達した脳世界の働きが実現する知的能力や機能です。抽象的あるいは論理的な思考、発明や科学技術、芸術を生み出し理解活用する能力も言われれば確かに超(絶)能力といえるでしょう。他の生物には決してまねのできないことですから。しかし「誰もが」「毎日」発揮しているとなると、やはりちょっと首をかしげてしまうかもしれません。
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その答えは、顔を認知する能力(顔認識能力)です。どういう意味?どうしてそれが超能力?と思われるでしょう。ですがこれは、認知心理学や認知神経科学といった心理学分野においてはごく一般的な知見といってもさしつかえないものです。
わたしたちヒトは、顔表情(顔色を含めた)から発する多様な情報を極めて敏感かつ瞬時に察知し、その後のふるまいや態度、意思決定や行動に機敏に反映させる不思議な能力を有するに至った霊長類です。顔を見てそれが誰であるのか、自分の知った人であるのか知らない人であるのかという個人の識別や、顔かたちを見て美しさや醜さ、好み等の一定の価値判断をすることに加え、どのような感情や健康状態にありそれが何を訴え意図しているのかといった表情識別を行い、微弱な視線移動にも敏感かつ情動的に反応し、さらには口の動きから言語情報をある程度察知することまでもできることが知られています。実際、脳神経科学や認知神経科学などの分野では、ヒトの大脳には、顔の処理に特化した独立の脳神経メカニズムないし顔処理中枢システムが存在しているとする知見も存在するほどです。
しかしよくよく考えてみればこれはとてもすごいことです。なぜならわたしたち人の顔にはほとんど違いがないからです。当たり前ですが、頭(頭頂部)の下、ほぼ同じ位置に眉毛と眼が2つ横に並び、その下の中央に鼻が位置し、さらにその下に口があり、顔の左右の同じ高さ位置に頬や耳がある、というレイアウトは決して変わらず、つまり人の顔はほとんどみな同じといっても差し支えありません。にもかかわらず、そこにわたしたちは考えられないほど多くの情報を表現し受け取り察知することができるのです。わたしたちは言語活動を抜きにして、誠実な笑顔と作り笑い、嘲笑を区別し、目や眼差しに思いやりと軽蔑を読み取り、その視線移動に指示や協調の意思を察知し、相手の本心あるいは本心とは裏腹の感情をその表情から察知することが可能なのです。顔や目鼻口を用いた慣用句やことわざは各国の言語にも数多く、その言い回しにも多くの共通性があることなどはよく知られていますが、わたしたちにはほとんど違いのない顔かたちの表情や視線から、さまざまな意味や意図、身体の情報を発信し受け取るという驚異の能力、超能力が備わっているのです。
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わたしたち人間は、時々刻々変化する厳しい自然環境だけでなく集団的社会環境にできるだけ迅速かつ柔軟に適応し種の存続を実現するため、きわめて高度な思考・情報処理能力を有する脳を発達させてきたと考えられています(『社会脳仮説』とも言われます)。しかもヒトは所属欲求が根源的に強い、言ってみれば寂しがり屋の生き物です。集団を作り、集団の構成員が相互に協力することで生き延びてきました。集団生活内で、拒絶されることなくいかにうまくやっていくかが生き延びる条件でした。こうした適応的な社会行動を実現していくために様々に進化していった高度な知的機能のひとつが顔認識能力であったと考えられています。言語の発達が不十分であったり獲物に気配を悟られてはならない太古の狩猟現場においては、お互いの動きや意図を表情や目(まさにあうんの呼吸、アイコンタクトです)から読み取るのはとても重要な能力であったでしょう。また日常生活において誰が優しく親切で親しくすべきか、誰が仲間で誰が敵なのか、この人は今どのような感情状態や健康状態にあるのか、では自分はどう振る舞うべきなのかなどを考えることは、生存に直結した重大な問題だったでしょう。そうした集団の中で自分がいかなる位置にいるのかといった相互関係のダイナミズムを敏感に察知するためにも、さまざまなニュアンスをやり取りする顔認識能力はとても重要であったと考えられています。このようにしてヒトは、周囲に適応し生き延びていく必要から、ほとんど同じである他者の顔や表情を繊細に区別する経験と学習を幼いころから延々と継続することによって、極めて高度な顔認識能力を身に着け進化させていったといわれています。
「人の顔色をうかがって(生きている奴)」とか「(嘘をついても)目は口程に物を言う」「(言わなくても)顔に書いてある」など、何かとネガティブな意味に使われがちなのがわたしたち人間の顔表情です。あまりに他者や周囲の文脈の中で生きることは良しとすべからずというのは、たしかにもっともな意見ですが、「(口ほどに)目でものを言い」、「(人の顔色)をうかがいながら生きて」きたからこそ今のわたしたちがあるのもまた事実です。それらは厳しい環境を生き延び、種を維持存続させるために欠かすことのできないまさしく処世術でもあるのです。
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かつてわたしたちの祖先は、集団内で限られた資源を分かち合いながら、日々の食糧や住み家、安全を確保し、子孫を残していくという極めて基本的で根源的な願望を満たすために生きてきました。そうしたシンプルな願望が満たされることが幸福であり満足のいく人生でもありました。
しかし、ここ百数十年の間に急速に発展した近代文明、さらにはここ数十年の社会の高度情報化とグローバル化といった人類史上過去に例をみない複雑多様で流動的な社会状況では、生きる基本が十分に満たされる保証のないまま処理困難な問題が日々生まれています。そうした世の中に必死に適応していくことにエネルギーを費やすことを余儀なくされる現代の人々には、もはや周囲や顔色をうかがい目を読む余裕すらなく、またその意味すら次第に希薄になっていっているかもしれません。
物質的には明らかに満たされ、脳のある一部の機能は極めて進化してきたものの、ヒトをヒトならしめている心と身体のゲノムはやはり頑固かつ強固なのであって、変化のスピードがあまりに速すぎる現代文明社会に適応できるよう十分に進化するには、ひょっとしてまだ途方もない時間がかかるのかもしれない、そんなことをふと考えてしまいます。
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久し振りに晴れ間ののぞいた桃の節句の東京の朝、どんよりと重たく雲が広がることが多い冬には珍しく、シュークリームのような積雲の群れを南の空、遥か遠く太平洋上の空に臨むことができました。澄み切った青空にのんびりと浮かぶふわふわとした雲を眺めていると、心なしか気持ちもなごんできます。春も間近なんですね。いずれ梅や沈丁花がほのかに香る優しくみずみずしい空気があたりを漂い始め、心待ちにしていた新しい季節が今年もやってくるのでしょう。寒く厳しい季節が過ぎ空気が緩み始めると、何故か毎年のように、つらい時期を何とか乗り越えたような安ど感と、「今年こそ何かいいことがあるかもしれない。」という何の根拠もない希望と変化への期待感が心に満ちてきます。決して冬が楽しくなかったわけでもないのですが、これはもう生き物の習性に近いものかもしれません。
「唯一、人間という動物だけが未来について考える」(ダニエル・ギルバート)ですが、まだ起こっていない先のことについてあれこれと考えることは、期待と不安、ポジティブとネガティブの両面を複雑に併せ持っていることでしょう。でもたとえ根拠のない曖昧模糊とした心情だとしても、明日への希望をどうにか何とか抱き続けることが、人が生きていく上でどんなに大切なものか、それがなければ決して前に進むこともできなければ周囲の人を思うこともできないということを常日頃つくづく感じます。
「わたしたちには明日がある」とりあえずはそうわきまえつつ、わたしたちそれぞれに今日一日がどんな日であろうと、明日のことは脇へ置いて今と今日をまず丁寧にじっくりと生きてみる。それはその時その時のやることに集中し、一所懸命に取り組むことそのものに人生の生きる意味がある、という禅道で言う「喫茶喫飯(きっさきっぱん)」の心構えに似ているかもしれません。そして空に浮かぶ雲であろうとそよぐ風であろうと行き過ぎる人の笑顔であろうと、何かにどこかにすがりつき生きる喜びの手がかりをたぐり寄せながら、過去が、未来がどうであれ、ただ前に少し歩を進めていく。人生とは前に進むことそのものです。そしてただそれができるだけで、本当はわたしたちは幸せなのかもしれない、ふとそう思うのです。
最後までお読みいただいてありがとうございます。
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