子どもたちの夏 ~ 大暑の頃’17


梅雨明けが発表され本格的な夏の到来といいたいところですが、全国各地の記録的な集中豪雨による大きな被害の報道に連日のように接していると、果たして本当に梅雨は明けたのかと思ってしまう人も多いかもしれません。東京も日中は確かに真夏の陽気なのですが、明け方近く早朝の外の空気にはいまだ梅雨明け前の清涼感ある風の香りが漂います。朝型人間(になってしまった)私にはまだちょっぴりうれしい季節です。


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まわりが夏休みモードに入る今頃の時期になると、時々ある人のことを思い出します。父の会社の社宅で暮らしていた私がまだ幼かった頃、同じ社宅に住んでいた夫婦の奥さまのことです。当時の社宅で唯一子どものいないご夫婦でした。子どもがいなかったため私たち子どもからは「~ちゃんのママ」「~ちゃんのお母さん」とは呼ばれずに、苗字を取って「いなむら(仮名)のおばちゃん」と呼ばれていました。私たちの親よりもひと世代ほど上のご夫婦で、とても穏やかで優しい方々でした。なかでも奥さまは、ほとんどが専業主婦である周囲の母親たちや学校の先生とは一味違う肌合いを持った大人の雰囲気があって、社宅の子供たちの間では人気がありました。

何かしら社宅内で会合や子供会などの集まりがあると、2人世帯でスペースに余裕があるためなのか、たいていはなにかとそのご夫婦宅にみんな集合したものでした。その際皆で持ちよる食べ物が出されるのですが、彼女が用意するものは、普段食べたことも見たこともないような料理やその頃はまだ珍しかった焼きたてパンにお菓子なのでした。世の中にこんな美味しいものがあったかしらと、ドキドキワクワクしながら他の食べ物には目もくれず、普段親からお小言を言われる小食や偏食が嘘のように、むさぼるように食べていたことを覚えています。

社宅のコミュニケーションや情報交換は子どもを通じてなされるのが常で、事情通はいつも子どもたち。親同士それほど会話はなくても、私たち子どもが情報流通の媒介者となって各家をお互いが飛び交っていたものです。職場の同僚ということで親たちは子供たちほど率直な関係を築くのは難しかったかもしれませんが、社宅全体が一つの家族、そんな雰囲気が普通の時代でもありました。そんな中、いなむらのおばちゃんだけは、周囲と良好な関係を保ちつつ、そうした空気から距離を置いた言ってみれば自由な雰囲気を持った方でした。

当時たいていの家庭には2人以上の子がいて、ひとりっ子はちょっぴり贅沢でわがまま、共働き親の子どもは鍵っ子などと言われ、親が面倒見れない気の毒な子というより、自宅の鍵を持ち歩けるちょっと自立した大人っぽいイメージといった感じで、今と比べるとずいぶんと素朴な家族の時代でした。そんな中、子どものいない夫婦はめずらしく、どんな事情があるのか分からないが、変わった夫婦かあるいはとても気の毒な人達、という眼で見られるのが常でした。彼女についても子供たちに人気があるのを知ってか知らずか、「でも子どもがいなくて、かわいそうなのよ。」「寂しいわよね。どうしてかしらね。」などと大人のひそひそ話がどことなく伝わってくると、思いやりの言葉の裏に憐れみと優越感相半ばするニュアンスを子供ながらにどことなく察知し、おばちゃんびいきゆえのちょっとした不信感を親たちに覚えたものでした。


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いなむらのおばちゃんは、普段から子供たちに自宅を気軽に開放しており、仕事のため外出しない在宅時は、私たちがぶらっと立ち寄りドアのベルを鳴らすといつもこころよく招き入れてくれました。中に入れば、ここがウチと同じあの狭苦しい社宅の部屋かと思うほど清潔感のある快適な空間でした。質素ながらセンスのいい室内は、子持ち世帯にありがちな足の踏み場もなく物で雑然とあふれかえる空間とは別世界。室内にいつも漂うほのかないい香り、窓際に吊り下げられた小さな鳥かごで飼育されているインコのさえずり、食器棚のガラスからのぞく上品なティーセット、柱時計ではなく静かに時を刻む置時計のどれもが何やら特別で、なんともいえぬ居心地の良さを感じたものでした。

けれども本当に居心地が良かった理由は、いなむらのおばちゃんのお人柄ゆえだったでしょうか。決して過度に子どもである私たちにおもねるような態度や話題づくりをするでもなく、魅力的なお菓子で誘うでもなく、言葉少なげにあくまで私たちの過ごすままに、ただそばに一緒にいるという安心感と優しい眼差しを向け続けるそんな受容的な態度に、いつしか子どもからあれこれとしゃべり始め、それにもまた自分は家事を続けながら朗らかな笑みでじっと耳を傾ける。今にして思えば、彼女の作り出すそんななんとも包容力のある共感的な空間に私たち子供たちはさまざま反応していたのでしょう。

そこには他人の子どもであるという節度もあったにせよ、お互いが対等な存在としてのなんとも表現し難い穏やかな心のやりとりがあったように思います。大人たちのひそひそ憶測話しが醸し出す、「子」にまつわる無念や執着、さみしさとはなんら別次元の、彼女が示す自然体の子どもへの理解と態度がひたすら心地良かったのでした。


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まぶしい夏の太陽の照りつける夏休みのある日の午後、社宅の庭で一人遊んでいると後ろから声をかけられ振り返ると、いなむらのおばちゃんは日傘をさしながら微笑んで立っていました。白地にブルーの花柄のワンピースというお出かけ支度の彼女はこれからちょっと仕事に行くのだと言います。

「美味しいメロンパン買ってくるわね。あとでいらっしゃい。」

 彼女は手を振って駅までのゆるやかな坂道を下っていきました。まぶしい陽光の中をスラリと背を伸ばし心なしか弾むように去っていく後ろ姿を見送りながら、おおぜいの子どもたちの黄色い声が飛び交う社宅で子供なく過ごす毎日は、ほんとうはとても寂しいのかな?ふとそんなことを思い、ああ、自分がおばちゃんのところの子だったらなぁ、と子どもにありがちなひと時の妄想にふけったものでした。結局その日なにやら夕方の外出を禁じられた私は、その素晴らしいメロンパンを口にすることはなかったのでした。


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時に子どもは、褒められたくも叱られたくもなく、教わりたくも比較されたくもなく、ただ受け入れられたい、いることで満足したいと願うことがあるのでしょう。そして、そのことを知る大人が実は少ないのだという現実をいつの日か感じとってもいくものなのでしょう。実は私たち人間は、自分は周囲の世界をそこそこ客観的に正しく認識しているはずだ、そしてまた自分の意見や判断はごく普通なものであり、他人だってだいたい同じ考えを持っているはずだ、という素朴でちょっぴり自己中心的な認識傾向を持っていると言われています。カウンセリングの仕事をしていて時にひしひしと感じるのは、私たち大人とて本当は自分のことをよくわかってはおらず、親子だからといってお互いを一番理解しているというわけでもなく、また結婚し子供を産んだからこそ真の愛情を知り、子どもという存在を理解しているとは必ずしも言えないということです。そうした考えはひょっとすると、大人の都合のいいある種の思い込みであり錯覚かもしれません。

言えるのはただ、たとえお互いいくつ歳を重ねようと立場が変わろうとも、私たち大人が子どもを知っているのではない、子どもたちが大人を「知る」のだということです。どのような人生であれ「知っている」のは子どもであり、人生とはその繰り返しなのだということを日々教えられます。

「いなむらのおばちゃん」の部屋は、もしかすると私のカウンセリングルームの原点なのかな、とふと思うこともあります。

 子どもたちの夏休みは、今年もまだ始まったばかりです。



最後までお読みいただいてありがとうございます。

メンタルケア&カウンセリングスペースC²-Wave 六本木けやき坂

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by yellow-red-blue | 2017-07-23 18:37 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、カウンセラーとして、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。ブログのどこかに、読む人それぞれの「わたし」や「だれか」を見つけてもらえたら、と思っています。


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