2017年 09月 09日
9月の憂鬱 ~ 白露の頃’17
今年の東京の8月は、結局夏らしい日々もほとんどないまま終わりを告げ、9月に入ってもどんより鬱陶しい曇り空が続いていました。やっと白露の頃の最近になって少し秋らしい気配が漂い始めたでしょうか。朝夕ともなれば、真夏とは打って変わってめっきり勢いの衰えた蝉の鳴き声と秋の虫の奏でる澄んだ音色とが、入り交じるように遠くから響いてきます。日中の日差しはまだ強いものの、湿度が下がり澄んだ大気を通して映る夕焼けの空は心なしか鮮やかさを増し、遠く飛ぶ飛行機のジェット気流もよりくっきりとその航跡をたどることができます。
カウンセリングルームの窓からは、近所の高校の校舎屋上にあるテニスコートを遠くに臨むことができます。時々私はかなりの早朝にやってきて仕事をすることがあるのですが、そんな時間でも夏休みを終えいよいよ新学期が始まったことを告げるかのように、すでに慌ただしく早朝練習に励む高校生の姿を目にするようになってきました。声こそ届いてはこないものの、元気あふれるエネルギッシュな若い彼らの遠影はうらやましくもありまた少し懐かしくも感じます。
けれども、そうしてごく普通にあるいは楽しげに夏休み明けのスタートを切る少年少女達がいる一方で、新学期のことを思えば憂うつと不安がつのり、あるいは恐れの感情すら抱きながら押しつぶされそうな日々を送り、登校拒否や引きこもりの状態で周囲を拒絶してしまう児童や青少年が数多く私たちの身のまわりにいるのもまた事実です。新学期を控えた8月の終わりあたりになると、各相談機関には多くの相談や悩みが寄せられます。
原因もさまざまなら、その症状や日常の生活実態、行動や振る舞いといった様態も様々です。思春期の繊細に揺れ動く傷つきやすいこころの不安定さなどと相まって、複雑な要因が絡み合い本人も含めはっきりとしないケースも多いですが、いずれにせよ、学校生活に虚しさや居場所のなさを感じ、登校することに不安や恐怖すら覚えるようになるその根底には、様々な原因を機序とするある種の傷つき体験や自信の喪失、周囲への不適応感への焦りからくる精神的苦痛や逃避願望が見られます。
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こうした事態になると、当然のことながら周囲の人間はショックを受け、戸惑い、しかし早急に問題を取り除くべくあれこれ手を尽くそうとします。そしてそうした配慮や関心を一心に向けられる対象である子どもたちもまた、それらを敏感に感じ取ることになります。「あれだけ休んだんだから。」「休みは結構楽しんだじゃん。」「家族が優しく応援してくれている。」「行かなくちゃ。」「頑張らなくちゃ。」「みんな普通にやっていること。」そう考えれば考えるほど、彼らの目に映るごく普通の日常風景や周囲の人々の笑顔や明るい話し声がとても苦痛でつらく感じてしまう。
「やっぱりダメ...」
苦しんでいる彼らを何とかしよう、自分たちの側へ何とか引き戻さなければ、と周囲から押し寄せる有形無形の配慮や努力の洪水がかえって彼らを遠ざけてしまう、つまり信頼を得られないことになかなか私たち大人は気づくことができません。かける言葉は優しいし何とかしてあげたいとさまざまに気を使おうとしながらも、症状の背後に隠されたいわば謎解きと原因の解明に奔走し、半ば彼らを追い立てるかのようにあれこれ策を講じてしまいがちで、彼らに起こっている心身の実際について、実感をともなったものとして理解しよう、一緒に在ろうとする実践なりメッセージの発信が時としておろそかになりがちです。
かつてないほど複雑多様化した社会構造や制度、価値規範や人間関係の中でそれぞれの生き方を模索していかなければならない私たちは、大人から子どもに至るまで、世の中にさまざま適応することを求められて生きています。しかし同時に、適応している、適応することが当たり前のこととして蓄積されてきたことと引き換えに、周囲に存在する些細ながら人が生きるために発しているとても大切なサインやメッセージに十分な注意を払うことができない、ということになかなか気づくことができません。問題が深刻化し、結果、理解不可能なものとしての「違和感」をなんとか解消しようとその背後を探り意味や原因を見出そうとするあまり、違和感そのものと腰を据えて向き合うことをしません。「腰を据えて」とは、相手を理解するためにむしろ自分たちが自身と徹底して向き合い、自分で一から振り返って考えてみることといってよいかもしれません。
また、私たちは、自分の理解しがたい現象や説明のつかない出来事のような違和感に直面すると、どうしてもそれについて自分が了解可能な範囲である理由付けや原因を見出したがるものです。違和感を解消し、空白を埋めずにはいられないのが私たち人間なのです。そして結果どうしても、その個人の性格や人格に問題の根本原因の多くを押し付けることになりがちです。自分たちは普通にできているのだから、というわけです。気が小さい、プレッシャーに弱い、神経質、周囲に溶け込めない、さらにはわがまま、甘えや未熟などと評価されあるいは世間からレッテルを貼られ(ることを自覚し)、当の本人は余計に苦しむこととなります。
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一般的にこうした傾向を持つ人を、内向的な人あるいは内向性(的)傾向の強い人などと表現されます。もちろん多くの外向的な性格傾向の人々もまた同じように問題を抱え苦しんでいます。ここで内向的あるいはまた外向的パーソナリティの話には触れませんが、ただ言えるのは、内向的か外向的かを判断するのは容易ではなく、行動や振る舞いだけで簡単に性格を判定することなどできないということです。私たちは多くの相矛盾する要素が同居し、それがさまざまな様相で出現するもっと複雑な存在です。内向的と外向的の間の無限に段階分けされるどこかに私たちは位置する存在であって、しかもそれは固定された位置ではなく、状況や環境、時期で私たちはいとも簡単に別の違った「私たち」になることができるのです。内向的であったと思われたりした人が実際には外向的特性を多く持っている人だったということは珍しくなくその逆もまた言えます。内向的な性格傾向の人々が少数派かというと簡単にそうであるとも言えないのです。
問題なのは、外向性豊かな人間が望ましく適応的であり、人はそうあるべきだ(あらねばならない)というプレッシャーが支配的な世の中にどうやら私たちは暮らしているということです。本来さまざまなポジティブな評価が与えられるはずの内向的傾向に、「外向的ではない」というネガティブな評価しか与えられない性格特性を指し示す評価が支配的で、お互いが等価値なものとして人間性を様々形成する特性であるという本来的な考え方には立っていないという現実があります。あたかも「ポジティブ」「適応」「社交性」でない残念な人としての評価しか与えられないかのようです。したがって、本来内向的な性格なのだが、懸命に外向的を装って生きる人がかなりの割合にのぼると考えられるのもうなずける話です。
すでにそうした社会においては、内向的な傾向を持つ人は十分にハンデを背負っていることに加え、常にそこに合わせるべく自分を変えるように振る舞いそして演じ、他の誰かのフィールドで頑張ろうと必死に自分の居場所を探し求めることになります。学校であれ、仕事であれ、人間関係であれ。決して周囲は気づくことのできないところでたくさんのエネルギーと努力を費やし、人知れず疲労困憊のため息をつくことになります。これは本当につらいことです。「明るくなったね」「見違えるようだね」「大人になったね」これが果たしていいことなのかどうなのか、ときに疑問を感じることもあるはずなのです。
あたかも、内向的な性向を持った人がついには外向的に生まれ変わることが、人間としての成長であり発達過程であるかのような考え方には、はっきりとそうではない、といわなくてはならないと思うのです。私たちはもちろんさまざま成長していくことが求められる存在ですが、その方向性は決して一方向でもなく、ある種の性格特性を獲得した人がその完成形ではあろうはずがないからです。「内向的」のどこがいけないのでしょう?「外向的」な性格傾向にも多くの問題は潜んではいないでしょうか?何か一方的な心の健全性の尺度でもって人を判断し、なんとか外向的な特性へと矯正しようすることは、それだけで悩める多くの人々にとっては十分すぎるほどの恐怖なのかもしれないのです。
「OKわかった。内向的でもいいさ。ひとそれぞれなんだから。でもとりあえずは学校ぐらいは行こうよ。みんながふつうにやっていることぐらいはできなきゃ。だってこれから長い人生いろんなことがあるんだぜ。そのたびにつまづいていちゃ生きていけないぜ。そうだろ?だって俺たちみんな頑張ってるんだからさ。」こうしたことを薄々、でも心の底から信じている人が多いなら、そしてこれが今の時代の支配的空気であるなら、それはそれでまた深刻な問題ではないかとふと考えてしまうのです。
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私たちは一見同じような状況や環境に置かれても、ほんのちょっとの微妙な違いでその心身の状態がガラリと変わるものです。であるならばすべてではないにせよ、悩んでいる人々を救う手立てとは、問題の原因を究明することや大きな変化や方策を講じたり、本人の性格や生き方にまで立ち入って変容を促すよりも、むしろずっとささいな日常の環境の変化や微調整への気づきなのかもしれません。微調整とは言い換えると本人を変えるための働きかけよりも、本人の安全安心感を優先した、そのひとそれぞれの現状の生活にとってメリットがあると感じられるささやかな配慮や提案の積み重ねあるいは試行錯誤といえるでしょうか。
ただ、その微調整が何かを知り、その必要性に気づき実践していくためには、私たちはあまりにすべてにおいて忙しく適応することを求められる世の中に生きている、ということにまず気づいていくことが必要です。悩みを抱えている人を前に、一足飛びに問題の背景をさまざま解明しようとする前に、本当は見えているのに見えていない、見ようとしないものを見えるようにする態度や日常の生き方が必要かもしれません。当事者本人への働きかけだけではなく、周囲の私たちそれぞれが自分と向き合うことが求められているのだと感じています。
その場ではなく、何日かたったある日、何かの拍子にポツリと漏らした何気ない言葉や仕草に重く痛切なメッセージが込められている。そんなタイミングに私たちは注意深く耳を傾けることができるでしょうか?ボタンの掛け違いはいとも簡単に置きてしまいますが、あとでそれに気づき修復することは、たとえ親しい関係であっても困難であることを忘れないようにしたいものです。
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8月も終わろうとするある週末、仕事場近くのレストランで食事をしていると、隣に中学生の子供を持つ身なりの良い30代後半から40歳ぐらいとおぼしき母親2人が、自身の子どもについての悩みをあれこれと語り合っていました。失礼ながら聞き耳を立てれば、お子さんはいずれも名門私立中学校に通っているのですが、どうやら一方の母親のお子さんが時々登校の拒否を経験し、いまもその気配があるのでとても心配されている様子が伝わってきます。
「ウチの子のあの内向的で気の小さいところを何とか直したいけど。誰に似たのか…」お母さんが最後に苦笑まじりのため息をつきながらこうおっしゃったように聞こえました。
ああ、お母様!どうか娘さんをもう一度よく見てください。彼女にしかない素晴らしい可能性の広がりに満ちた世界に目を向けて下さい、その芽を摘まないで。いっときの適応だけを気にして変えようとするのが成長とは限らないのですから...
詳しい事情も知らず無責任にも、私はそう心の中でつぶやいてしまいました。
中学生の少女が何を不安に思い苦しんているのか自分と相手を重ね合わせてじっくり考え抜いてみること。始められる微調整がどこにあるのか、彼女とともに辛抱強く在ろうとすること。外からどう思われようと、周囲と比較してどうであろうと。
ようこそ、素晴らしい内向的世界へ!お母様!
最後までお読みいただいてありがとうございます。
メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂