幸せの場所(Ⅰ)~ 秋分の頃’17

夏の終わりと、冷気ただよう秋の夜長の季節の到来とを告げる今日秋分の日は、お彼岸の中日でもあります。今は亡き家族や先祖をしのび、御霊の安らかなることを重ねて願い、そして命ある私たちの今を感謝する墓参の季節です。

 私の狭苦しい仕事場のあるエリアは、東京都心の真ん中に位置するにもかかわらず、商業地区や高層ビル群の谷間、首都高速や交通量の多い大通りのうねりに隠れるようにひっそりたたずむお寺や墓地が多いのです。今どきの都会生活では、あまり法事に代表されるような、古くからあるしきたりや行事といった習俗は次第に影が薄くなってしまっているようです。とはいいながらこの時期あたりは、街を歩いていてもまた仕事場にいても、やはりどこからかお線香の匂いや読経の音がときにかすかに漂ってきます。

 お彼岸の今日の日中、人通りの多い街の中心の通りを足早に歩いていました。ふと前方を見やると、週末レジャー気分たっぷりの服装に身を包んだ人込みの中、色濃い地味な服装に身を包んだ老夫婦の小さな後ろ姿が目に留まりました。手にはお供え用の花束と風呂敷包みを抱え、心なしか前かがみに進むお二人のあゆみはお歳のせいもあってかとてもゆっくりです。それを尻目に周囲の行き交う人々は普段のペースを崩すことなく、それぞれの目的を果たすべく足早にすれ違いあるいはどんどん追い抜いていきます。都会のそれとは明らかに違うリズムを刻むその小柄な二人の姿は、今にも雑踏にかき消されるかのように映ります。そして、それはどこにでもある都会の普通の景色です。

 人の背中は、その正面よりも多くのものを語り掛けてくれるものですが、このお二人のゆるりとした動きの黒い背中にはなにがしか意味のあるかのような、それに従うことが求められているかのような、そして心地よい音楽か読経を聴いているかのような気分にさせられ、つい私の歩くペースもお二人に合わせてゆったりしたものとなっていたのでした。ふと、きっとこの方々は都会には暮らしていらっしゃらないのかもしれない。そんな気もしました。

 しばらく同じ方向へと歩いたお二人が、首都高速と高層のマンションビルに挟まれた谷間のような傾斜地にひっそりとたたずむ小さなお寺の門に吸い込まれるようにして消えていくその後姿をしばし目で追いながら私は、あたりの都会の喧騒が一瞬止んで異次元の空間に迷い込んだ錯覚と、なにやらホッと心が安らぐ感じとが入り交ざった不思議な感覚にとらわれていました。


  

 私たち人間は、複雑な行動や思考を要求される集団の中で周囲とうまくやっていかなければならないという、非常に困難な課題を処理するため高度な知性を必要とするにいたった生き物です。人間が他の動物に比べ、その体格に比して極めて大きな脳を持つに至ったのもそれが理由であると考えられています。人間はまた、そうした高度な知的営みを身につけるとともに、さまざまな願望や欲求も持つに至ります。それらはいってみれば、ヒトが長い長い肉体的および知的進化の過程において手に入れた、生きるに必要不可欠な感情ともいえるでしょう。遺伝子深くに刻み込まれたこうした願望や欲求が満たされるとき、私たち人間は「幸せ」を感じるのでしょう。しかし皮肉なことに、人間が進化の結果生み出した近・現代社会には、こうした根源的願望の実現に寄与してきたはずの多くの習慣や伝統、規範の力とそれらの継承の重要性を軽視し、自然の営みへの畏敬の念を忘れさせ、地域共同体の絆を希薄なものにさせてきたばかりでなく、根源的願望や欲求の実現を妨げあるいは挫折に追い込む社会問題や課題を多く生じさせてきたという歴史的な側面があります。こうした側面が様々な人間の苦悩や心理的困難の多くの根底にひそんでいると考えられます。

 伝統的なしきたりや行事や習慣、地域共同体のあり方が、今の社会やくらしに合わせるかのように、つまり不要とまではいわないが、いまの社会を生きる上では優先順位の低いものとして次第に簡素化・省略され、私たちの視界から次第に消えて行ってしまうと、常に「わたし」が存在の主体である人間は、そうしたことを意味ある対象として捉えることをやめてしまいます。「わたし」を越えたある従うべき枠組みによって包まれているというさまざまな安心感を捨て去るかわりに今の私たちが手に入れたはずの自由は、「型」がないゆえのもろさと皮肉なことに不自由さをもかかえているといえるかもしれません。


 “式目(連句などに見られるルール)は一見不自由な人工的型に身を置かせることを通して自由な世界へと導くという導きの方式である。この性質・方法論は、わが国の多くの芸道の「型」に共通のものである。「型より入りて、型を脱する」と言われるように、それらの型はすべて自由へと導く方便としての不自由さであり、すでに型を越えている先達からの後進への手引きなのである。ちなみに、自ら型を越えていない凡俗が捉えた型は不自由への罠となる。”

  (神田橋條治「連句と対話精神療法」『俳句・連句療法』創元社1990から)


 詩歌はその様々な規則やしばりといった、制限された型のなかで練られ厳選された言葉や句であるがゆえに、そこに無限の奥行を秘めた自由な自己表現の世界が開けるのと似て、私たちには人生という荒波ゆらめく大海へと漕ぎ出すための船には、今ある場所にしばし静かに留め置き、安全な出航に備え、よりよき日和を待つに欠かせない重い錨という見えない縛りもまた欠かすことはできないのです。

           


 

 ここ何年もの間、いわゆるパワースポット詣がブームとなり、観光目的や特別な思いや願望を満たしたい人など、さまざまな動機から古来からの言い伝えや伝説をもった場所へ多くの人々が訪れているのはご存知の通りです。こうしたことはすでに古くからお伊勢参りや札所巡りなど、浮世をしばし離れ、癒しと願い、許しを求めるいわば究極のレジャーとして庶民の間で定着していたことで特に珍しいことではないのかもしれません。ただ、身の回りにあったさまざまな「型」が変容・消滅していくことに気づかない私たちは、「パワースポット」「スピリチュアル体験」といった言葉や知識から入るあまり、自分のすぐ身近なことよりも、一足飛びにどこか見知らぬ場所や体験への期待へと飛びついてしまいがちな傾向がより顕著なのではとも感じてしまいます。

 仕事柄のせいでしょうか、時折こうしたパワースポットなりスピリチュアルといったたぐいの話を向けられることもあります。そうしたことに無知な私はただ、自信をもってこう答えることにしています。「わたしが考えるあなたにとっての最高のパワースポットは、ご先祖のお墓だと思いますよ。墓参りはとても効果のある癒し体験になると思いますがどうでしょう。」

 根拠はありません。それで何かが変わることを期待するとか、願いが叶うとか、お墓参りをおろそかにしていると罰が当たるとかそういったことではないと思うのです。ただ自分という存在にとって深いゆかりのある場所がそこにあるのだから行く。きっと昔の人は身の回り日常の暮らしのすぐそばにある先祖供養や墓参することが、すなわち今で言うところのパワースポット詣ででもあるということを経験的に知っていたに違いないと感じるのです。

 墓参しようと心に決め、時間をやりくりし、準備し、そこへ向かい、お墓を訪れ手を合わせる。墓前に立つまでの行動すべてが、儀式であり型のようなものです。日常を少し離れ、余計な事を考えずそんな過程にただ身を置き、ただそうすることで、自分の中で流れる時間がいつもよりゆったりしたものに感じられ、日常の生活で疲れ傷つきがちな心がなにやら調(ととの)い、ただいまそこに存在するだけでありがたく自由な自分の実感があるものです。そんなことを感じさせてくれる先祖のお墓参りは、少し大げさですが「幸せの場所」への小さな旅のように感じるのです。

 これまであまりお墓参りにあまり関心がなかった、あるいは半ば義務的にただこなしてきたなら、これからお墓参りをちょっと違った見方で捉え直してみるのもいいかもしれません。「最近行ってない」「行ってみようかな」「なんだか心が重苦しい」「どうすればいいのだろう」「気力がわいてこない」たとえばそう思ったら。お盆やお彼岸であろうとなかろうと。ひとりでもいつでも必要と感じたなら。


 “神秘的なことは、馴染み深い場所で起きると思っている。なにも、世界の裏側まで行く必要はない。”(ソール・ライター)


最後までお読みいただいてありがとうございます。

メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂

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by yellow-red-blue | 2017-09-23 23:16 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心安らぐ経験や出会いなど、時にカウンセラーとして、時に仕事から離れ、思いつくままつらつらと綴っています。


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