2017年 11月 07日
サザエでございます ~ 立冬の頃‘17
例年よりずいぶんと早い木枯らし1号が吹いたかと思ったら、さっそく東京でも冬の訪れを実感するような日々が一気にやってきたようです。昼夜の温度差は急速に広がりそのせいもあってか、さまざまに色づきつつ冬枯れを始めた街路樹や公園の木々からひらひらと舞い落ちる葉が目につくようになり、通りを吹き抜ける風にカサカサと音を立てながらあちこちとさまよい始めています。窓から差し込む日差しからも随分と太陽の低さを感じます。ハロウィンの喧騒が過ぎ、クリスマスと年末までのほんのわずかの間の静寂、晩秋から冬へと足早に過ぎゆく季節が今なのでしょう。この時期の朝日を浴びて輝く木々の葉の美しさといったら、他の季節では味わえないほどたとえようもないもので、それを愛でるためだけに早起きする価値があるほどです。
*
美しい季節の話から始めながら申し訳ないのですが、先日カウンセリングルームの化粧室のトイレットペーパーが切れているのに気づき、近所のスーパーへあわてて駆け込もうとしたときのことでした。面接の時間が迫っていたため、そのスーパーと隣り合わせのオープンスペースにあるカフェの中をちょっと近道して横切ろうとした矢先、「あら、おはようございます。しばらくですね。」と明るい調子で声をかけてきたのは、カフェのスタッフでずっと以前からの顔見知りのAさん。「あ、Aさんこんにちは。お久しぶり。元気そうだね。」少し前まで、ほぼ毎朝のようにそのカフェを利用していたため親しくなっていたのですが、最近は忙しかったりカフェを利用する時間がばらばらだったせいかAさんとお会いするのがとても久しぶりだったのです。お互いの近況について二言三言交わした後、そういえばカフェのスタッフの顔ぶれも随分と様変わりして、知っている人が少なくなったかなぁなどと話していました。
「そういえばHさんは元気?最近見かけないけど。最近僕も来たり来なかったりだから。」
すると、「Hさんなら、しばらく前にもうここ辞めて今は別の仕事をしているみたいですよ。」そういいながらちょっと困惑気味の表情のAさん。
「そうだったの。彼女には随分とお世話になったから。辞める前にもう一度会いたかったな。」
じゃまた今度ゆっくり来るね、と本来の目的へ向けて話を切り上げようとしたら、
「でも、Hさんからそれっきりどうしているか誰にも連絡こないしちょっとショックなんです。あんなにみんなともすっごく仲良しで、仕事も抜群にできてリーダーでしたから。お客さんともすごくいい関係で。この仕事が本当に好きだと話していて、オフの日でもここによく遊びに来て時間潰していたくらいなのに。」とAさん。
「新しい仕事しているんでしょ?だったらやっぱり忙しいんじゃないかな、きっと。」
「でも辞めた途端音信不通になっちゃったのがちょっと。ここはバイトも多いから辞めていく人は珍しくないですけど、大抵その後もみなと何かしらで繋がっていて、休みの日なんかに寄ってくれる。いちばんそんなことしそうだったHさんがその後全然会えないのがちょっと。もうそろそろ1年たつのに。元気は元気みたいなんですけど、みんなもどうしてだろうなんて…」。携帯でのやり取りもほんの一時だったとか。
何とも答えようのない私でしたが、肝心の要件を思い出し、当たり障りのない言葉を残してスーパーへと突進したのでした。
しばらくそのHさんのことは忘れていたのですが、先日クライエントのМさんと話をしていた時にHさんのことを思い出すことになりました。長年ボランティアとして高齢者介護福祉施設で活動なさってきたМさんが、仲良しでとてもお世話になったというある施設管理職の方について触れたのです。その方は長年その施設に勤め、昨年定年退職なさったのだそうです。入所者やその家族、そして職員みんなから慕われ、いつも決して笑みを絶やさず、ボランティアスタッフに対してもいつも丁寧に優しくそして辛抱強く向き合って指導してくれた素晴らしい女性だったそうです。
比較的近所にお住まいだったので、惜しまれながら退職した後も、きっと暇を見つけては顔を出したりお手伝いに来てくれるに違いない(実際そうするOBの方が多いのだそうです)、そんなことを真っ先に率先してやりそうな人だから、そうすればみんなきっと喜ぶし、などと言う周囲の期待と予想とは裏腹に、その方は仲の良かった人達と一切の連絡を絶ち、その後一度も施設に顔を見せなかったそうです(どうやら本人はご健在だとか)。職員を含め皆が何故だろうと心配にもなり不審にも思い、施設にも何だか大きな穴がポッカリ空いてしまったようで、何やら寂しく感じるとのことなのでした。挙句に「近所に住んでいるんだから、ちょっとぐらい顔を見せても罰が当たらないんじゃない」などの本音も周囲からちらほらだったりしたそうです。
そうです、冒頭のカフェスタッフのHさんとほぼ同じようなお話。もちろん個人の事情はそれぞれ、理由ならいくらでも考えつくでしょう。お話を伺う限りは、お二人に共通するのは、まじめで仕事熱心、優しく気配り上手、リーダーシップもあってみんなのまとめ役相談役として責任感が強く、自分の主張よりも周りの意見に耳を傾けることに長けている。つまりは対人関係において申し分のないとてもいい方なのです。
*
カウンセリングでもしばしば出会いますが、もしかすると、お二人はいわゆる長女タイプ、お姉ちゃんタイプの方だったかなぁという気がします。家族において一般的に想像する長女(お姉ちゃん)の役割はいわば一家の番頭さん、もっといえば「影の大黒柱」のようなものかもしれません。長女として親の期待を一身に集めながらも、愛情を注がれる対象としての地位を弟や妹に早々に譲り、自分は逆に親代わりとなって下の子どもたちの世話をする役割も求められます。ときに親のしつけの盾となって幼い兄弟姉妹たちを守ることもする、しっかり者としての役割を運命づけられていきます。親や兄弟姉妹を支え、彼らの間を取り持つ橋渡し調整役として家族内に限らず、ときに一家のいわば顔としても周囲から何かと信頼・期待されていきます。本当は自分だって子供らしく甘えたり、ときには親の愛情を独り占めしたい、本当はこうしたかった、という思いがありながらも、いわば一足飛びに大人にならねばならないさまざまな現実に直面し、充分に甘えることはかなわずまた自分にもそれを許さず、周囲にとって好ましく望ましいお姉ちゃんを演じてきたのです。「しっかりしてるね。さすがお姉ちゃんだ。」「お姉ちゃんでしょ。もっとしっかりしなきゃ。」
生得的な性格傾向などもあって、自分でもそれなりの適性や使命感、充実感を抱きながら、真面目にその役割をこなすことを続けていきながらも、しかし周囲にわかってもらえないどこかに満たされないものを抱え、人知れず孤独感を味わいながら成長していく。そしてそれがまた大人びた魅力を身にまとうことにいっそう一役買ってしまうこともあります。ちなみにこうしたタイプの方は、なにも長女に限りません。妹であろうが弟であろうが、また、職場やその他の社会関係上においても見られ、元々そうした適性なりそれぞれの置かれた環境の要請に応じて長女タイプの役割を演じることになります。
*
あるがままの自分とかくあるべき自分、肯定する自分と束縛する自分、甘えたい子どもの自分と甘えてはいけない大人の自分、そうした揺れ動く葛藤が生み出す親や兄弟、社会関係への複雑な思い(愛着と憎悪、尊敬と忌避、希望と孤独など)はつねにお姉ちゃんの人生につきまとってきたのかもしれません。子供らしく親や周囲に十分に甘えることや家族と真に安定した関係をもつことがかなわず、どこか基本的な安心感の内在化がなされないまま、成長せざるを得なかったかもしれません。また、ときにそのことが人生のずっと後の時期になって、容易に言葉にはできない内的欲求が何らかの行動や症状として表面化することもあるかもしれません。
こうした長女(としての)コンプレックスを抱えてきた人を、私は「サザエさん」と呼んでいます。もちろんサザエさんはアニメですから、一家の大黒柱的存在ではあるものの、いつも明るくあっけらかんとあまり悩むことはあまりしません。でもサザエさんのような立場の人に、内と外からのしかかる正体不明のプレッシャーは想像以上に大きく、また強固なものです。それをしっかりと受け止めながらそれなりに人生を送ることのできる人もいれば、ときに中途で燃え尽きあるいは役割放棄をせざるを得ない人、精神的困難に直面する人も出てきます。そしてそんな葛藤があることをたいてい周囲の人間はもちろん本人自身も気づきません。決して硬直した性格の持ち主であるわけではなく、むしろ柔軟で弱音も吐き、助けを求めることもできます。しかし、周囲の基本的信頼感がそのことを真剣に捉えることを邪魔し、どこか特別視され、結局かつて繰り返し聞かされたセリフを密かなため息まじりとともにまたしても聞くこととなります。「さすが~さん。頼りになる。」「~さんしかやっぱりいないね。」「~さんなら大丈夫だ。」
明るく優秀で抜群のコミュニケーション能力を誇ったカフェのスタッフHさんや、献身的で誰からも評価の高かった福祉施設管理職の女性。そうだったとは断言できませんが、しばしばカウンセリングで出会うお姉ちゃんタイプの方の相談事例にとても共通するイメージを感じます。周囲からはいつも明るく自信を持って振る舞い、豊富な人間関係を築いているように見えていて、実は自分に自信が持てず、本当に親しい関係を築いたり維持することにとてもストレスに感じてしまうのです。親密さを孤独と同じくらい恐れてきたかのように。
*
お二人が深刻な精神的困難に陥っていたかどうかはもちろんわかりません。なんとなくですが、そんなことではなかったと思います。ではなぜ彼らは職場を去っていったのでしょう。あるいはその後誰とも連絡を取らずに。
クライアントのМさんはふとぼやくようにつぶやきました。「なんだか、辞めたらもう二度とこないと辞める前から決めていたような…」
そう、それです。決めた、決めていた。そこに様々な理由はあるのでしょう。でもそれをいくら周囲の人間が憶測したところでくみ取れるような、そんな浅いものではないのだと思います。本音を言えば仕事や職場仲間が好きではなくずっと我慢していた、であるとかそういうことでもないのです。みんな好きだし悪い人などいようはずもない、でもどこか心穏やかならざるものを胸に抱きつつ揺れ動く「お姉ちゃん」たちのこころ。すでに述べたさまざまなアンビバレントな思いを周囲と仕事に抱え込みつつ、それならここまではしっかりとやる。完璧にやり遂げる。でもその後はキッパリと別れを告げる。あとは振り返らない。ただそう決めたかったのではないでしょうか。それはいわば次なる人生へのステップとしての健全で前向きな離脱(離陸)だったかもしれません。たとえ「サザエさん」である自分との葛藤はこれからも続くのだとしても。
*
ではそんな人に周囲はどう接したらいいでしょう?そんなことを考えるかもしれません。でも実は簡単な事なのです。あなたは何をしてあげたらいいと思いますか?もし自分が同じ立場に置かれたとしたら、何を考えまたどうしてほしいでしょう?周囲に問う前に自分で真剣に考えてみることです。そして何か考えが浮かんだら、それが正しいか間違っているかは関係なく、自分ひとりからその人にあれこれ接してみればいいだけです。正解なんてありません。たとえそれがとんちんかんな事だったとしても、心からの行動や言葉だったらお姉ちゃんはちゃんと察してくれるのです。それが「サザエさん」なのです。そんなことがなかったからこそ悩んできたのですから。
コンプレックスと聞くと、劣等コンプレックスやらマザコン・ファザコンなどいいイメージはないかもしれません。コンプレックスとは、ある特定の出来事や場面状況、他者からの言動に直面することによって、気持ちが大きく動揺し、ストレスから自分を防衛する必要を強烈に感じとり、時として自己のコントロールの及ばないほどの心理的反応や行動をみせたりすることをいいます。そこには自分自身についてどこか受け入れられない、自分を愛せない何かがあるということを意味する場合があります。周囲から理解され評価されたいと願いつつも、そこだけは隠したい、表面化するのは困ると思っている部分です。そのバリエーションは無数であり、私たちは誰もがそれぞれのオリジナルなコンプレックスを抱え生きています。それは弱みでもありしかし同時に強み、魅力ともなり得るものです。コンプレックスを理解して時にそれに翻弄されながらも、それもまた自分の一部であると大切に愛情を持って抱えながら生きる。
強い人は弱い人、弱い人は強い人。
私たち人間は本当に複雑で不思議です。
今日もどこかでたくさんのサザエさんは頑張っています。
最後までお読みいただいてありがとうございます。
メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂
(※当ブログの各記事の中で言及されているエピソードや症例等については、プライバシー配慮のため、ご本人から掲載の許可を頂くかもしくは文章の趣旨と論点を逸脱しない範囲で、内容や事実関係について修正や変更、創作を加え掲載しています。)