普通の人々(Ⅰ)~ 小雪の頃’17


紅葉の美しさは、木々の葉すべてがほぼ同時期に同じように色づくからではなく、木の種類や置かれた環境や場所によって、それぞれがそれぞれの個性とタイミングでバラバラに色づき、そのバラバラゆえに無限の色彩の連続体が生まれ、全体としての調和と美しさをかもし出しているからだと気づかされます。

私たち人の社会もそう(あるべき)なのでしょう。同じ両親から生まれ、あるいは同じような成育環境で育ったとしても、一人ひとりの体験は固有であり一人として同じ人はいません。性格や気性、体力や体質、思考力や想像力、適応能力や感受性など、ありとあらゆることに差や違いがあるのが私たち人間です。それがゆえにかえって私たちの社会はうまく回っている(はず)のです。


ところで今「社会」と書きましたが、社会という言葉の持つニュアンスや連想されることについては日本と欧米では少し異なります。日本における「社会」とは、国の体制や在り方、法制度基盤や、企業や役所などさまざまな機関組織を意味し、さらにはより抽象的な暮らし向きや世相、経済状況などを意味するところが多く、どちらかといえば、自分を取り巻く漠然とした周囲というニュアンスが強く、どうかすると生きる当事者としての「私」や「人」の所在をあいまいに使われることが多いような気がします。

いっぽう欧米における社会とは、最近よく使われるいわゆるソーシャルという意味での関係性としての意味を持ちます。つまりは社会とは人の「関係」そのものであって、親子や夫婦、友人や会社や地域の対人関係、ビジネスなどすべてが「社会」であると言えるでしょう。ソーシャルは社交的とも訳されますが、社交的であることが望ましい人間像とするのもまた欧米の価値基準といえます。ですから「社会不安」や「社会問題」、あるいは「いまの社会は~」「~な社会になりつつある」などと表現される場合、本来それは人の関係になんらかの問題があるという意味だと考えてもいいかもしれません。日本語でも「人のあいだ」と書いて「人間」であることを考えると納得できます。社会とは人間でもあるのです。

 社会がソーシャル(関係)である以上、私たち人はひとりよがりで自分勝手に生きることは許されないことになります。しかしまた同時に、私たちはやっぱりそれぞれが違う個性を持った固有の生き物です。ですから人のあいだでバランスをとる、ずっとシンプルに言えば、半分は相手に譲らなければ成立しないのが社会、自分の意見や願望はせいぜい通って半分であるのが正常な社会であり人間関係であるともいえます。社会的場面においては、他者と競合的なこともあれば協力的な場合もあるでしょうし、自由や競争も時に必要です。しかし、あくまで腹八分目ならぬ腹六分目程度でまずもって良しとする、それを他者も自分も受け入れる相互扶助と思いやりが、人間社会のいわば「本懐」であるはずではないでしょうか。

 ところがややもすると私たちは、何とか自分に都合のいいよう有利なように考えて相手に意見を押し付けてしまう、自分の意見をなんとかあれこれと正当化し、ときに相手に対し過度にさまざま求めてしまう、つまり説得と主張という名の交渉こそが対人関係であるような生き方をしてしまいがちです。いま世界が抱えるあらゆる問題の根底には、自己に都合のいい関係を諦めきれない人の欲があるようにも思えてきます。関係とはその解釈や中身、それぞれの受け止め方によって時々刻々いかようにも変わるものです。決して安易に結論づけられるものではなく、関係を持つ相手を理解することにおいて、努力と時間を費やさなければ気づかないことだってたくさんあります。それは家族、夫婦、友人、職場の人間関係、ビジネスなどすべてにおいて言えることなのでしょう。

 「ひとのあいだ」と書いて人間、人の関係が社会であるという意味とともに、人と人とに「間をとること」もまた私たちに必要です。一歩引いて相手をわかろうとすること、相手にもまた「間」があり固有の体験があることに想像力を働かせ、さまざま思い描くこと。そしてなによりも間を詰めることを求められるあまり、自分を過度に追い詰めてしまわないこと、そうしたこともまた私たちの社会においてとても大切なことに思えます。




 昨年の同じ時期のブログでも書いたのですが、寒さが本格化する今の時期、外へ出かけた折に何かと途中でお茶を飲んで温まりたくなってしまいます。冬へと変わりゆくあたりの様子を眺めながらのあたたかな飲み物や店内に穏やかに流れる心地よいBGMのサウンドは、仕事や日常で疲れた心身を温かく包み込んでくれます。

 そうしたBGMに時に真剣に耳を傾けていると、クラッシック音楽をジャズやロック、ポップス、ボサノヴァやハワイアン、ラップに至るまでさまざまにカバー、アレンジした曲が多いことに気づかされます。ちょっと聴くとどこかで聞いたような気もするけどあれなんだったっけ、などと記憶の中をあれこれ探りながら耳を傾けることもしばしばです。

 「あ、これカノンか。」

こんなアレンジもあるのかと驚いたのがつい先日のこと。カフェで流されていたのは、パッヘルベルのカノンとして広く親しまれている17世紀末に作曲されたバロック音楽。「パッヘルベルのカノン」と言われてもピンとこない方も多いと思いますが、クラシック音楽好きや楽器を習ったことのある人はもちろん、誰でもきっと一度は聞いたことのあるクラシックの名曲です。あ~これね、聞いたことある、の典型です。この曲を晩秋のこの季節に聴くと、私はある映画のことを思い出します。実は、この曲が一般の人の間でもつとに広く知られるようになり、さかんに他のジャンルでカバーアレンジされるようになったのは、ある映画の主題音楽として使われたことがきっかけでした。

 それが、ロバート・レッドフォード監督「普通の人々」(1980)です。当時俳優としての絶頂期だった彼が初めてメガホンを取って製作したこの映画は、数々のアカデミー賞を受賞し、ハリウッド映画の名作として映画史に今もその名を刻んでいます。

 少し古い映画なので、まだご覧になっていない方がもしいらっしゃったら、是非一度ご覧になって次回のブログを読んでいただければと思います。


 真にいい映画とは、私たちにその作品への積極的な参加と関与を求めてくるものです。ただ五感で受身的に映像を見て感じるだけでは作品の真の魅力に気付くことはありません。映画製作者たちは、表面上のストーリーや映像、俳優たちの発するセリフを超え、作品中のそこかしこにその意図やメッセージを織り込み、密かに観る私たちの心にさまざま訴えかけます。そしてまた私たちがそれらを求め、感じようとすればするだけ雄弁に、そして豊かにそれに応じてくれる。そこに映画に限らず芸術の真の意味があります。人生とは、生きるとは、関係としての人とは何かについて深く気づかせ、私たちの心を豊かにし、生きる勇気と素晴らしさに気づくことを教えてくれるのがいい映画です。そしてレッドフォードの「普通の人々」は間違いなく「いい映画」です。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂

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by yellow-red-blue | 2017-11-22 11:35 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心安らぐ経験や出会いなど、時にカウンセラーとして、時に仕事から離れ、思いつくままつらつらと綴っています。


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