普通の人々(Ⅱ)~ 大雪の頃’17


“人がこんなにも哀しいのに、晩秋はあまりに金色に美しく、音楽はあまりに甘美と調和に満ちている。”

ロバート・レッドフォード監督の映画「普通の人々」(1980年)を端的に表現するなら、遠藤周作の表現を模してこんな感じかもしれません。幸せに暮らしていた善良なあるアメリカ人弁護士一家が、長男の不慮の事故死という悲劇によってそれぞれが深い心の傷を負ったことで徐々にその歯車が狂い始め、互いが幸せを望みながらも精神的苦痛と葛藤の連鎖から逃れることがかなわず、やがて家族が崩壊していく様を、初秋から冬へと移りゆくシカゴ郊外の美しい街と自然を背景に静かにきびしく描いた作品です。


 

ジャレット家の長男のバックは社交的でユーモアあふれる陽気な性格、壮健な肉体を誇り高校では水泳の花形選手、誰からも好かれ両親の誇りでもあるまさに理想的なアメリカ男子。そんな彼が、弟のコンラッドを連れて乗り出した海でのヨット転覆事故であっけなく短い生涯を閉じてしまう。

いっぽう次男のコンラッドは、バックとは対照的に繊細で物静か、まじめで心優しい性格の持ち主。大好きだった兄を目の前で失ったショックと兄を救うことができず自分だけが助かった自責の念に囚われ、精神のバランスを崩しリストカットなどを繰り返し、ついには自殺未遂騒動まで起こし精神病院に入院してしまう。退院後も精神科医のカウンセリングを受けながら、なんとか高校生活を送る日々を過ごしている

母親のベスは、度重なる子どもたちの不幸な出来事から立ち直っているかのように振る舞ってはいたが、実は長男の死をどうしても受け入れられず心を閉ざす一方で、精神的困難を抱え自殺未遂にまで陥ったコンラッドを哀れに思いつつも、どこか冷めた目しか向けられずに距離を置き話題にすることすら嫌う。そして悲劇的な過去と家族の現実と向き合わないために、彼女はひたすら外の世界へ目を向け、過剰なまでにエリート階級の社交生活にのめり込み、今をひたすら快楽的に生きることで幸せを実感しようとする。いっぽう優しく穏やかだがどこか気弱で、息子や妻に対して一歩深く踏み込めずに常に腫れ物に触るかのように接し続け、家族の間の板挟みに苦悩するエリート弁護士の父カルビン。



けれども3人が長男の死という危機を乗り越えることができなかった真の原因は、4人家族の時から各々が抱えてきたいわば心理的原罪にありました。そして、長男の死をきっかけとしてそれら原罪の圧力が限界にまで高まった結果として、家族の絆が断ち切れていったことが次第に明らかにされていきます。

母親は、彼女なりに精一杯優しく愛情を持って息子たちと接して来たと信じてきた一方で、すべてにおいて対照的だった二人の息子にどうしても平等に愛情と関心を振り向けることができず、どこか自らのほとんど理想の男性像としての長男への偏愛の情を隠せずに2人を育ててきました。長男バックの死というあまりに大きな喪失を体験した彼女には、自責的に自殺未遂までして精神に変調をきたした次男コンラッドの行動が、長男の死でただでさえショックを受けている家族が負った深い傷に塩をすりこむかのようなあまりに身勝手で弱い人間の振舞い、そして自分達両親への当てつけにさえ映り、どうしても次男を心から思いやることのできなかったのです。

一方コンラッドは、母親の兄への偏愛と、自分(コンラッド)のことを否定も肯定もしない父親の寛容さとを、自分への無関心と失望、愛情の薄さとして敏感に感じ取りながら成長してきました。常に充分期待に応えていない、愛されていないに違いない自分との内的葛藤を生きてきたのです。表面上は常に平静を装いながら、懸命に愛されたいと願い両親の望む(兄のような)人間になるよう自らを鼓舞叱咤し、でもそうすればするほど本当の自分らしさとの乖離に常に悩み疲れるコンラッド。そして、そうした苦悩の末の彼の日々の言動に戸惑い、理解を示すことができない両親と友人たち周囲の人々。兄への深い愛情と羨望そして嫉妬、両親への愛の渇望と不信、自分への失望とが複雑に入り交じり、常に家族の顔色を伺いながら内的葛藤の圧力に抵抗と挫折の日々を繰り返してきたのでした。

 そして子育てのすべてを母親に押し付け人生の成功のためにひたすらにすべてを捧げ、功成り名遂げたいわば代償としての結果、そんな息子と妻のこころの機微を理解することができないまでに彼らとの距離ができてしまっていたことに、どこで間違ってしまったのか静かに悩む父親のカルビン。

互いに愛し愛されたいと願いつつも、自分では抱えきれない原罪の重さのもたらす心理的な歪みに沿う形でしか相手を理解し得ず、お互いが抱くどこかわかってもらえない不全感ゆえに、あえてお互いの関係性を深めないことで何とか幸せを演出し維持してきたジャレット一家。その貧弱な家族の絆を繋ぎとめていた唯一の存在であった長男の死を境に、三者三様の心の不協和が拡大しながら、ちぐはぐな家族の物語は進行していきます。

 


 この映画で特徴的なのは、彼らを取り巻く美しく調和と均衡のとれた世界をさまざま作品に織り込み、それらと家族内3人の姿とを対置させ、両者の激しいまでのコントラストを巧みに演出している点です。美しい自然、豪華な邸宅や庭、高級な車、きちんと整理が行き届いた、品のいい調度品で彩られたインテリア、社会的に成功を収めた人々との華やかな社交生活やレジャー(こうした物質的豊かさの代償でもあったのですが)、そして美しい音楽。そんな中ただひとり3人の世界だけ、一番親密なはずの家族だけが、苦悩と不安、猜疑心と虚しさにバランスと調和を欠き苦闘する存在として、巧みに浮き彫りにされていきます。

 とりわけ映画全体の底辺をつらぬくように響く、前回ブログでお話したパッヘルベルのカノン(正式な曲名は、『3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ』)の使い方は秀逸ともいえます。カノンという形式は簡単にいえば合唱などでおなじみの輪唱です。複数のパートが同じ旋律を時間差でずれながら追奏し、他のパートへと受け継がれながら進行していく音楽形式です。特にこのパッヘルベルのカノンは、その正式曲名の通り、曲の全般を一定の小節単位で規則正しく循環して演奏されるシンプルで親しみやすい通奏低音(コード)進行の上を、3つのパートが全く同じ旋律を追唱するというものです。映画は、全編を貫くように流れるこの3つのパートのシンプルで調和のとれた美しい旋律の調べに載せて、全く逆の混乱していく3人の心理状態を巧みに浮かび上がらせていきます。

 このカノンは、映画の冒頭でコンラッドが所属する合唱部の練習のシーンでも使われます。彼が本当に好きだったのは音楽であり、合唱で歌を歌うことでした。スポーツや外向的な活動を好むよりもむしろ物静かな芸術家タイプだったコンラッドは、家族内のいわばアイドルだった兄とは対照的に、家族内では毛並みの違ういわゆる「変わり者」のタイプだったかもしれません。

コーラスも、歌い手が複数の声部に分かれて各々の異なるパートを歌うことによって美しい音楽を奏でる演奏形態です。コーラスの美しい音楽の中に身を置くときのコンラッドの歌う喜びにいきいきとした表情と、家族生活での彼の苦悩の表情とのコントラストの痛々しさの演出と演技は見事で、観る者の胸を深く打ちます。



さまざまに提示されるこうしたコントラストはまた、真の調和と寄り添いを促す家族へのレッドフォード監督からのメッセージでもあったでしょう。そのことを象徴するシーンが、コーラス部で一緒に歌う同級生のジェニーン(のちにガールフレンドになる)との間で交わされる会話の場面です(記憶にある会話なので正確ではありません)。

「合唱団の後ろにいるでしょ、美声の持ち主さん。」

「君がぼくの前にいるの?」

「ええ、あなた元気一杯ね。」「僕が?」

「あそこのソロのパート、あなたが歌うべきだわ。本当にいい声よ。すぐわかる。」

「君自身歌いながらどうしてわかるんだい?」

「歌いながら周囲に聞き耳を立てるのよ。いろんなことがわかってくるわ。例えばメアリは凄く下手。ジャネットは口パクで歌ってないしね(笑)。」

「本当にいい演奏家とはいい耳を持っている人のことだ。聴くことのできない人はいい演奏家にはなれない。」ある著名な音楽家のこの言葉にあるように、美しい音楽を奏でるには、自分が上手に歌うだけでなく、きちんと周囲の音や声に耳を澄ますことが大切。ミスなく正しく歌えばいいものでもなく、自分だけの解釈を周囲へ押し付けるのでもない。すべてが調和してこそ一つのいい音楽になるのであるように、自己主張や勝手な解釈や憶測、相手を説得しようとすることよりもまず、ただじっと相手の気持ちに耳を済ませ、受け入れ寄り添おうとする真摯な姿勢をレッドフォード監督は静かに語っているのです。



「普通の人々」は、俳優としてすでに成功を収めていたレッドフォードが、どうしても作り世に問いたかった作品でした(こうした映画を作るために自分は俳優をしていたかもしれない、と彼自身が語っていたような記憶があります)。彼自身の人生体験や抱えてきた心理的葛藤と決して無関係とはいえないこの作品に込めた彼の思いを解く一番の鍵は、この映画のタイトル「普通の人々」にあるかもしれません。

 この映画を観終わった後で、なぜ「普通の人々」というタイトルがつけられたのか、ふと疑問に感じられる人もいるかもしれません。ジャレット家は庶民一般階級という意味での「普通の人々」ではないし、また彼らの身に起きる出来事は所詮フィクションの域を出ずとても普通とは言えない、との感想をもつかもしれません。しかしそれでもあえてレッドフォード監督が用いた「普通」に込められたメッセージとは何でしょうか?普通であるはずの家族が何故崩壊していかなければならないのでしょうか?

ここで「普通」の意味するものとは、ひとつには、この家族が体現あるいは象徴する、望ましい家族や人間存在の在り方として永らくアメリカ社会に君臨してきた、強く豊かで、楽天的かつ保守的な白人キリスト教(プロテスタント)的価値(いわゆるWASP)としての「普通」であり、そうしたWASP的価値が支配する社会への皮肉と異議申し立てです。

懸命の努力と勤勉の末に手に入れる学歴とキャリアが約束する明るい将来、男にとって理想的な美しい妻、女にとって豊かな生活を保障してくれる有能でたくましいエリート夫、明るく健康的な子どもたち。豊かな物質生活に裏打ちされた家族生活とエリート支配階級への階段をひたすら上ることこそが成功と幸福を意味し、いずれはそうなることを願い、皆一様に目指すのが望ましく良しとされてきたアメリカの「普通」への疑問がこのタイトルには込められているのです。


 映画の最後あたり、深夜の夫婦の会話の中で、常に弱腰で神経質であった父カルビンが、次男コンラッドを理解しようとしない妻のベスに涙しながら静かに宣言するくだりがあります。

 「わたしは今、本当に自分がお前を愛しているのか、愛してきたのかわからなくなってしまった。お前は本当に私を愛していたのか?(長男)バックを愛しすぎて、誰も、自分すらも愛せなくなってしまったのか?いや、君が愛しているのは自分だけかもしれない。わたしたち夫婦とはいったい何だったのか。」彼女はその夜家を出ていきます。

アメリカ社会のあるべき姿、望ましい姿として手に入れたものの陰で、最愛かつ人生の基本であるはずの家族がその足元から崩れていく様は、いったい何を私たちは目指してきたのか、どこで間違ってしまったのか、なんのための結婚と恵まれた生活だったのか、そして真に望んでいたのは愛なのか社会的成功物語だったのかを、この映画を観る者に強烈に問いかけてきます。こんな生活があるのだから、家族のだれもが幸せでないはずがないと言い聞かせるかのような家族の姿は痛々しく、同時に生々しいリアルな人間の姿としてあまりに「普通」であるのです。



もうひとつこの映画が語る「普通」とは、かつて4人家族だったときのように特別な問題があるようには見えない家族内にこそ、それぞれに理解の及ばない苦悩や葛藤、適応困難を抱えて生きる人が常に存在しうるという意味での「普通」であり、「普通」とはとりあえず「普通でいられる」側からの都合の良い、ある意味バイアスのかかった見方でしかないことへの警鐘です。

ある人が人生において、たまたま置かれた望ましいとはいえない環境(たとえば養育環境や両親の養育態度、母性行動、貧困など)に適応しようとして懸命に獲得した生き方や行動特性が、それ以外の普通の環境や状況下では理解しがたく望ましくない特性だと周囲から判断され、その後の人生において精神的社会的に犠牲を強いられ、さまざまな可能性に開かれることのない生き方を選択せざるを得ないという危険は、私たち誰にでも起こりうる(コンラッドだけでなく、実は母親ベスもまたそうした犠牲者であるかもしれない)ことをこの映画は示唆しています。そしてこのことは現代社会においてはなおのこと深刻であるといえます。



全ての物事に光と影、プラスとマイナスがあるように、「普通」であることは大切でいいことでもある。しかし、私たちが考えているほど普通であることで私たちが理解していることは少なく、知らずに気づいていないことが多いのだ、ということに気づくこともまたこの映画のメッセージです。レッドフォードは、私たちもまたこの映画の登場人物の誰かなのだと語り掛けているのです。ジャレット家の人間の誰かかも知れないし、彼らを取り巻く友人や同僚たち、隣人や学校の教師やコーチ、精神科医セラピストやガールフレンドであるかもしれません。突き詰めて考えてみれば、この映画の登場人物の中に悪人はひとりもいません。しかし、問題の本質が見えている人もまたほとんどいないという意味において、「普通」とは何であるかをそれぞれが考えるべきである、との痛切な訴えがこの映画には込められているのです。

「普通」であるとは、決して固定されたひとつの状態なのではなく、吟味され、選択されるべきものでなければならない。そしてそのためには、互いの心の語りの良き聴き手であろうと受容的、共感的にかかわる想像力を決して失わないこと。家族という人間社会の基本単位を舞台にレッドフォード監督がそう静かに語るこの映画は、私たち普通の人々こそ、「耳を澄ませて」見るべきすぐれた作品なのです。



【ご参考に】

家族と社会を考えるちょっと古めの秀作をいくつか挙げてみました。

「普通の人々」は、とりわけジェームズ・ディーン主演作品との共通点が見て取れるかもしれません。


『我が谷は緑なりき』(1941年アメリカ)監督:ジョン・フォード

『われらが生涯の最良の年』(1946年アメリカ)監督:ウィリアム・ワイラー

『エデンの東』(1955年アメリカ)監督:エリア・カザン

『理由なき反抗』(1955年アメリカ)監督:ニコラス・レイ

『ジャイアンツ』(1956年アメリカ)監督:ジョージ・スティーブンス

『秘密と嘘』(1996)、『人生は時々晴れ』(2002)『家族の庭』(2010)監督:マイク・リー(英)

『海辺の家』(2002年アメリカ):監督:アーウィン・ウィンク


最後までお読みいただきありがとうございます。

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by yellow-red-blue | 2017-12-07 19:39 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、カウンセラーとして、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。ブログのどこかに、読む人それぞれの「わたし」や「だれか」を見つけてもらえたら、と思っています。


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