2018年 03月 09日
感度の違い ~ 啓蟄の頃‘18
桃の節句あたりからのどの痛みを訴えていたのですが、この時期になると毎年のように花粉症に悩まされている私は、またいつもの花粉症だろうと軽く考え、のどの症状をそのまましばらく放置していました。ところが、気が付けばすっかりひどいカゼを引いてしまったことに気づき、慌てて近所の病院へ駆けつけても時にすでに遅く、結局お医者さんから数々の感冒薬を処方され、しばらくの安静を指示されるはめになってしまいました。もっと早めに病院へ行っていれば、これほどこじらせて日常生活や仕事に支障をきたすことはなかったのです。おかげでブログの更新もすっかり遅れてしまいました。
何かと時間に追われ、なかなか休むということができない私(たち)は、こんなとき、「今カゼやインフルエンザも流行っているから、ひょっとするともっと重い症状かもしれない」「早めに医者にちゃんと診てもらおう」「大事をとって休むべきだ」などとは考えられず、「いつものまた花粉症だろう」「たいしたことない」「今休んだら周囲に迷惑をかける」「あと数日辛抱すれば週末で休めるから」などとつい自分をごまかしがちです。
個人的な願望や置かれている現状をできるだけ肯定的に解釈し、それを維持したい、変えたくないという思考傾向をもともと持っている私たち人間は、ものごとをいわば保守的な方向で推測、判断してしまいがちなちょっぴり(もしかしたらかなり)うしろ向きな生き物です。
心理学では、こんな私たち人間は元々ある種のバイアス(現状認識についての齟齬(そご)あるいはズレ)を有していると考えます。ちょっと難しいですが、たとえば以下に挙げるようなこころのメカニズムです。
✽正常性バイアス:
身の回りに起きるすべての事象について、同じように警戒注意レベルを保ち、正常異常を判断し区別するのは大変なので、ある程度の異常をも誤差の範囲内であると処理して、異常を無視すること
✽一貫性原理:
それまでとってきた行動や思考パターンを、直面する状況に応じすぐに変えることに抵抗を感じる傾向
✽現状維持バイアス:
現状を変えることは、良いことをもたらすより悪い結果へとつながる可能性を強調し、特別強い要因がない限り、変化を回避しようとする傾向
✽楽観性バイアス:
他者には起こっても、自分に限ってはそんなことにはならないだろうと、様々なリスクに自分が陥ることについて低く見積もろうとする傾向
その他にも、自分にとって耐えがたいあるいは直視しがたい事柄から生じる不快な情緒体験を回避するため、心の平穏とバランスを保とうと、自己防御のための多くの心の対処方法を私たちはとることが知られています(「防衛機制」などといいます)が、これもまたある意味類似するこころのメカニズムといえます。
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けれども、こうした意識的あるいは無意識的なバイアスが、常に不適切で間違ったものであるとは必ずしも言えないようです。少し話は飛びますが、かつてまだヒトが弱肉強食、食物連鎖の環の一部であり、生きる糧をめぐり生存と獲物獲得競争を繰り広げていた頃、厳しい自然環境のなか生存と子孫繁栄を確保するためには、周囲のあらゆる未知の危険を予知し回避し、対処する能力は必須のものでした。野生動物同様、リスクに敏感で警戒を怠らないことが、生き残るうえで常に必要とされていたわけです。
けれどもその後数百万年もの長い進化の過程において、私たちヒトが獲得したのは、狩猟採集や定住農耕の効率を上げ、あるいはまた複雑な社会生活がもたらす様々な問題の解決に本当に必要な情報を適切に取捨選択するために、周囲の情報について時に適度に無視・回避し、逆にあることについては過度に警戒するという柔軟で効率的なこころのメカニズムでした。ましてや安全と安心がいわば日常的なものであり、めったなことでは生命や生存の危険を感じることのなくなった現代の私たちは、常時リスクを警戒する必要性から解放され、「安心して」さまざまなバイアスに身をゆだねることができるようになったのです。
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もう少しわかりやすく言うと、私たちには火災報知器やガス警報器のような「こころのセンサー」が備わっており、日常生活や仕事、人間関係など社会生活全般において、注意や警戒、判断や意思決定が必要な事態に直面すると、いわばそのセンサーが発動し私たちが適切な行動や判断へと移れるよう指示してくれているのです。ただし、その感度が敏感になりすぎたり、逆にほとんど反応しないことにならないよう、絶妙に調節されているのが本来の私たちの「こころのセンサー」なのです。
ところがこのこころのセンサーは、実はとても複雑で繊細なものです。さらにやっかいなことには、私たちはそのセンサーの発するメッセージに逆らうことがなかなかできません。センサーの判断指示を疑うことをしないのです。ときにちょっとおかしいかもしれないと感じつつも、心身はほぼ無意識的自動的にそれに従って反応してしまいます。もともと私たちのセンサーは、遺伝的要素や個人のパーソナリティ、それぞれの生育環境を構成する諸要素条件、学習や経験などが無限かつ複雑に絡み合って、それぞれがオリジナルな感度を持っています。極めて周囲の状況に敏感に反応するよう設定されている人もいれば感度が鈍く設定されている人もいます。センサーの設置環境(つまりは私たちの人生)にさまざまな変化が生じれば、センサーの働き方はおのずと変わってきます。長年の使用によって経年変化をきたすこともあれば、ときに誤作動を起こす可能性は誰のセンサーにもあるのです。
そうしたセンサーに微妙なズレが生じると、しばしば私たちは心のバランスを失い、人生や社会生活にさまざまな支障が生じます。それは例えていうなら、目玉焼きを食べようとキッチンで卵を調理しているだけなのに、センサーがそれを危険と判断し、火事だガス漏れだと過剰に警告を発し、その誤った警告を事実であると判断してしまうようなものです。ガス警報器や火災報知器と違い、このセンサーは私たちのさまざまな心のメカニズムと分かちがたく結びついているため、センサーのほうが誤っているとして無視することはなかなかできず、過剰に反応したり適切な反応を欠いてしまったりするのです。これが極端になると、「調理=危険」、「卵=危険」とまで受け取ってしまうばかりか、挙句には食べ物全般にまでその危険性と嫌悪感情を一般化し、料理することも食事もとれず、それどころかそこには住めない、といったたとえにも似たふるまいを、人生のさまざまな場面においてしてしまうことにもなりかねません。そしてセンサーの誤作動が原因であることに気づかず、ひたすら自分の性格や人間性を「欠陥のある」ものとして責め苦しむことになるのです。
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私たちカウンセラーの仕事とは、ある意味において、こうした適切に作動していないかもしれないこころのセンサーの微調整あるいは点検・メンテナンスを行い、適度な鈍感さと柔軟性ある感度を維持すること、そしてカウンセリングを通じて、クライエント自らが自己調整できるよう導いていくことにあるといえます。残念ながら、センサーを新しいものに交換することはできませんが、センサーをほどよく調整し直すことは可能です。適切に点検・メンテナンスを行えば、私たちの一生の間まずまず破たんなく作動するようできているのです。
ここで大切なのは、あくまで問題はセンサーの感度に問題にあるのであり、決してその人間的価値なり人格とは何ら関係のないということを、自身もそしてとりわけ周囲の人も理解することです。これは私たち誰しもに起きることです。そしてひとたび起きれば自分でコントロールすることは難しいのです。つまり外から見てどうにも理解のできない行動や症状であっても、それは「無理からぬ」ことなのだという認識を持つことが重要なのです。心の不調は、目に見えたり原因物質を特定することもできないため、私たちはその症状だけをとらえ、その人の本質そのものと勝手にとらえ、時に精神的に弱い人間としていとも簡単に見下してしまうのです。インフルエンザや胃潰瘍を患っている人に対し、たとえそのことで周囲に何らかの迷惑がかかっていたとしても、「だからあいつはダメな人間だ」とか「何とか根性で乗り越えるべきだ」と言うことが、いかに理不尽なものかを考えればよくお分かりと思います。
本来はセンサーの感度の問題であるはずの症状に対して、お前(性格)に問題がある、他の人にそんなことは起きない、と決めつけることが、こうした悩みを抱え精神的困難に陥っている人々へ周囲が抱きがちなバイアスです。そしてそれは行き過ぎたバイアスであり、そうした考えを抱く人(こそ)が、こころのセンサーが不調なのかもしれない、ということに気付いて欲しいのです。
最後までお読みいただいてありがとうございます。
メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂
