外の世界、内の世界 ~ 清明の頃’18


桜前線は徐々に北上するため、日本列島全体で見れば桜を楽しめる時期は相当長い期間になります。でも私たち普通一般の人の認識は、桜の見ごろはあっという間に過ぎ去ってしまうというものでしょう。ある調査によれば、桜が開花する季節、お花見を目的としたレジャーで何らかの外出をする人は、全国で毎年およそ6000万人にも上ると推計されるのだそうです。つまりおおよそ日本人の2人に1人はお花見を目的にどこかへ出かけ、何らかの金銭的支出を行い、そこに莫大な経済効果が発生しているというのです。こんな情報に接すると、やっぱり日本人は桜が好きなんだな、それにしても凄い人数だ、と思うことでしょう。

ところがこれがもし、ニュースなどで淡々と次のように報道されたらどうでしょうか。「桜も満開の季節となりましたが、ある調査会社がおこなった花見に関する調査によれば、日本人の2人に1人、人口にして6000万人以上の人は、実は桜の季節になっても特にお花見などに出かけないという推計結果が出たそうです。」意味するところはまったく同じにもかかわらず、随分と受け取る印象が違ってくるのではないでしょうか。「へぇ、意外とどこにも行かない人もいるんだ」「そりゃそうだ。年度末で忙しいだろうし、私なんかも通勤途中でチラリ見るぐらいで済ませるよ」「来年もあるわけだから」「もう会社や自治会で花見なんて時代じゃないだろうしね」という具合に、接した情報の認識に沿う考えやエピソードが頭を占めることになります。



 私たち人間は、このようにあるものごとについて構成される枠組みや切り口が変わることで、その対象の主観的価値や重みを容易に変えてしまう心のメカニズムを持つ傾向にあります。特に、インターネットやテレビなどといったメディアへの長期的あるいは反復的な接触は、私たちの想像以上に人の判断や行動に影響を与えます。つまりその人の現実認識を、メディアが描いているものに沿った形でいわば「培養」するのです。メディアである争点や話題が繰り返し、あるいは大きく取り上げられるほど、その争点やトピックを重要なもの、優先して取り組まれるべきもの、世の主流となっているもの、今世間の多くがそのように考え選択していると、意識的無意識的に信じてしまう傾向を持っています。結果私たちは、そうした普段接することの多い情報を、事実や実際の頻度とは異なるにもかかわらず、実例としてすぐ頭に思い浮かびやすいがゆえに、この世の中でよく起こっている「事実」であるとしばしば判断してしまうことになるのです。

 つまり人は、自分達を取り巻くさまざまな事象について、多様性ある視点から正しく認識解釈したうえで、じっくり腰を据えた意思決定や行動をおこなっていない可能性のほうが高いかもしれないのです。もちろん多すぎる選択肢は必ずしもベストな選択を生み出しはしないのですが、問題は、多様な情報媒体とネットワークを持ち、溢れんばかりの情報に接しているにもかかわらず(そしてそうであるがゆえに)、ある一方的な認識が自己増殖的に拡大していき、それでよしと考えさせていることになかなか気づけないでいることなのです。私たちを取り巻く広い意味でのネットワーク社会の最大の落とし穴はそこにあるといえるかもしれません。



でも人間である以上、こうしたかならずしも適切とはいえない認識傾向を持ってしまうのを避けられないとすると、いったい私たちはどうした方略を持って物事を判断しあるいは行動すればいいのでしょうか。

 世の中のすべての事象には必ず表と裏が同じくらいの量や割合で存在することを意識しておくことは簡単な一つの方略といえるかもしれません。私たち人間は、自分が望むポジティブなものには積極的に目を向ける一方で、同量の関心を払うべきネガティブ・ポテンシャルにはいわば盲目になってしまう心理傾向があります。どんなにバラ色に見え、いいことしか考えられないものごとでも、かならずプラスとマイナス、メリットとデメリット、光と影があるはずと認識することです。ITやAIのように素晴らしいポテンシャルを持ち、私たちの生活を変え劇的に変え得るものでさえ、やはり同じくらい深刻なネガティブ・ポテンシャルがあるのです。

 今日本では、海外や外国人の間で広がる日本人や日本文化伝統への高い評価がさかんにさまざま取りざたされていると聞きます。テレビやインターネットでもそうした情報や番組コンテンツに人気が集まるために、そうしたいわば「ニッポンは素晴らしい」的傾向に沿った情報が供給されることになります。日本人の私たちにとっては、自分が帰属する集団への周囲の高い評価に、自分を同一化させる機会が増えることになるため、とても気分が高揚しクセになる体験になってしまいます。それは悪いことばかりではありませんが、本当に私たちが関心を持つべきは、「クールでない」ジャパンという裏の視点への同量の配慮と関心かもしれません。これこそが真の国際化と相互理解と信頼の心理的基盤となるものです。

 たとえばクール・ジャパンの代表格である「おもてなしのこころ」の裏の顔とは、滅私奉公や空気を読めとの社会的同調圧が適正な限度を超え強く、精神文化的な凝集性が過度に高い社会が陰に陽に要求する、あうんの呼吸や細かすぎる他者への気遣いと過剰なまでのサービスや便利への忖度、日常社会生活における自己犠牲と耐えることへの暗黙の称賛の空気であり、そうした結果としての痛ましい過労死や自死、いじめやハラスメント、繰り返される企業や政官界の不祥事、低い労働生産性や疲弊する仕事現場での人手不足の悪循環などです。そこにはむしろ外面(そとづら)を維持するあまり、自分や自分にとって本当に重要な近しい関係の他者(たとえば家族や職場同僚や従業員など)を犠牲にする、いわば「釣った魚にエサはやらない」的な損得勘定の人間関係を無意識のうちに構築してしまう危険がひそんでいるといえます。



 もう一つの方略は、外からやってくる情報をときにシャットアウトし、内なる情報とじっくりと向き合うことをおそれないことです。今や「沈思黙考」と言う言葉がもはや死語となりつつある時代なのかもしれませんが、私たちをとりまく社会的な環境情報の処理に終始することに偏重し、自分の中に正しく判断するための能力や材料が元々あるにもかかわらず、その内なる世界へ関心と注意が向かわず、ものごとを根本から考え決断し、試行錯誤してみるという習慣を欠くような日々の精神活動は、自己信頼や自尊心といった健全な精神が育まれにくい心の素地を生み出してしまいます。外から入ってくる情報は所詮有限なものですが、私たち誰もが持つ内なる世界はある意味無限の可能性をも秘めているとも言えるのです

カウンセリングには様々な問題を抱えた方がおいでになりますが、結果としてシンプルに「もっと自信をお持ちになってよろしいのですよ」「あなたが悪い、間違っているというわけはないのですよ」というひと言がカウンセリングの入り口であり出口でもある場合が多いかもしれません。つまり今までそれぞれが抱いてきた常識や考えが本当であるかどうかについてよく見直していきましょうということでもあります。それは簡単なことではありません。問題を抱えているときは誰でもそんなこと考えられないし、ゼロから自信などは生まれません。自分の中にはネガティブなものしか思い浮かんでこなかったのが今までの普通だったからです。

私たちの人生とは、答えの見つからず見通しもつかず不安ばかりに圧倒されそうな現在や未来、そしてときには過去について、常に何らかの決定を迫られる過程そのものといえます。そうした只中にあって、相談者のこころに無条件に寄り添い、困難を転機に変える決して気休めではない実際の大きな力としての『希望』を説きつづけるのも私たちの仕事です。心理専門職との対話、コミュニケーションを足がかりにして、内なる世界に広がるポテンシャルを引き出す過程を体験することもまた、問題解決の大きな一歩になりうると考えています。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂

過去のブログ記事

d0337299_14105076.jpg


[PR]
トラックバックURL : https://c2waveblog.exblog.jp/tb/26642141
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
名前
URL
画像認証
削除用パスワード
by yellow-red-blue | 2018-04-05 13:52 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心安らぐ経験や出会いなど、時にカウンセラーとして、時に仕事から離れ、思いつくままつらつらと綴っています。


by yellow-red-blue
プロフィールを見る