2018年 05月 21日
とても気になること ~ 小満の頃’18
“矛盾をはらんでいない文学はありえない、と言うのがわたしの信念だ。矛盾があるということは、文学はそれ自体が無意味なるものだということだ。作品が無意味なら、その作家の人生を知ることになんの意味がある?それだけじゃない。たいていの作家の人生は、ふつうの人間の人生と似たようなものだ。自分の欠陥や欠点を文章で補おうとしてむやみにあがく、その点が違うだけだろう。そんな人生、誰が見ても面白いわけがない” (デボラー・クロンビー『警視の死角』、西田佳子訳、講談社)
なるほど文学や作家についてこのような見方もあるのかと一瞬ドキリとしつつ、しょせん文学作品は、その作者が自分の人生や人間性の欠陥を言葉でとりつくろうとした結果の矛盾に満ちた無意味な個人的たわごとに過ぎない、と言われると、でもやっぱりそうではないだろうと抵抗を感じてしまいます。
言葉の持つ真の意味や重みをさまざま創造的に表現することによって、定量的な分析や統計データに基づく科学実証的検証では把握し難い人の心の深層の理解が、一層深くリアルな実感を伴って私たちに迫ることだってあるからです。
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私が「自殺」という言葉を本当の意味で理解したのは、医学専門図書を学んだからでも学校教育で教わったからでも、また保健行政機関が発行する啓発パンフレットで知ったからでもなく、随分と昔、文学作品中のある一節を読んだからでした。
“死んだつもりで生きていこうと決心した私の心は、時々外界の刺激で躍り上がりました。しかし私がどの方面かへ切って出ようと思い立つや否や、恐ろしい力がどこからか出て来て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そしてその力が私にお前は何をする資格もない男だと押さえ付けるように云って聞かせます。すると私はその一言ですぐぐたりと萎れてしまいます。しばらくしてまた立ち上がろうとすると、また締め付けられます。私は歯を食いしばって、何で他の邪魔をするのかと怒鳴りつけます。不可思議な力は冷ややかな声で笑います。自分でよく知っている癖にと云います。私はまたぐたりとなります。
波瀾も曲折もない単調な生活を続けてきた私の内面には、常にこうした苦しい戦争があったものと思ってください。(中略)
私がこの牢屋の中にじっとしている事がどうしてもできなくなった時、必竟(ひっきょう)私にとって一番楽な努力で遂行できるものは自殺よりほかにないと私は感じるようになったのです。あなたはなぜと云って目を瞠る(みは)かもしれませんが、いつも私の心を握り締めにくるその不可思議な恐ろしい力は、私の活動をあらゆる方面で食い留めながら、死の道だけを自由に私のために開けておくのです。動かずにいればともかくも、少しでも動く以上は、その道を歩いて進まなければ私には進みようがなくなったのです。”
(夏目漱石「こころ」筑摩書房)
そこで私が理解したことは、自ら命を絶ってしまわれる方にいわゆる「(自殺)願望」などないということです。つらい、死にたいと思って自殺を選択するという「願望」なのではなく、それ自体がうつ病など精神疾患の「症状」であるということでした。いかんともしがたい症状の一つであって、結果として彼らはいやおうなく追い込まれるのです。インフルエンザにかかってしまったら高熱発症をとめることなど不可能であると同じように、それはただ起こりうることです。病気の症状による不可抗力ともいえるものであり、自らの精神の弱さや人間性の欠陥などではなく、そこにもはや意思や体質、性格の入る余地はほとんどありません。精神医学や臨床心理学では、「希死念慮」といいますが、これはけっして「自殺願望」という言葉をマイルドなオブラートで包んだ言いまわしなのではなく、「自殺願望」という言葉が誤解を生むからなのです。
ですから大切なのは、その希死念慮を本人や周囲がタブー視するのではなく、むしろ病気であれば無理からぬ症状として受け入れられるよう配慮することです。本人は生きていたくない、周りに迷惑をかけて自分などいないほうがいいのではないかと内心感じながら、そうしたことを人に言えず苦悩しているものです。「生きていることがつらいと思うことはありませんか」「でも、死にたいと思う気持ちはこの病気の症状として誰しもに起きることで、無理もないことをぜひ知っておいてください」「ですからあなた自身が本当に自殺したいわけではないのです」「治療していけば症状はなくなり必ず楽になりますから、一緒に頑張っていきましょうね」こうしたやり取りがいつもではないにせよ、本人の心の安堵に役立つことも知っておく必要があります。
うつ病の患者さんには、とかく「励まさない」「自殺のきっかけになるような話題は触れない」などと言われますが、症状経過を気づかいながら、正しい知識と気持ちに寄り添うような励ましはとても大切なのです。ところが...
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「命を粗末にしてはいけない」「命の尊さを知って」「心の教育が大切」
悲劇が起こるたびに、とりわけまだ若い児童青少年の痛ましい死の際に繰り返されるこうした主張。言葉の意図を重々承知しつつも、所詮生きている側の自己満足としか思えないなんと虚しい言葉であることかともときに思ってしまいます。訴える相手も言葉も違うのではないかと。これらは必要な励ましでも知識でもありません。むしろそういう言動の空気が彼らを精神的に追い詰めるのです。なにかいかにも死を選択せざるを得なかった人たち(そしてその何十倍もの数にのぼる未遂の人たちを含め)が、命を軽視してきたかのような物の言い方なり風潮が依然として根強いのには、強い抵抗を感じます。生きている側の人間、生きるに不都合を感じていない人からすれば、理性ではわかっていても心から共感し納得できることではないのかもしれません。「私たちだって思い悩みながらも精一杯生きている」「命を絶つ勇気をなぜ生きることに使わないのか?」
彼らだって死にたくはなかったのです。生きていたかった。命を大切に思い、死ぬことがどんなことか彼らほど痛切に感じていた人もまたいないのです。そして彼らほどその恐怖と闘った人もまたいないのです。それでも自死せざるを得なかった。そこまで追いつめられる人が何故かくも多いのかについて、私たち側がまず深く省みなければなりません。医療やメンタルケアの支援の充実は何よりですが、私たちが変わらなければ、それらの効果は限られたものとなってしまうからです。
私たちが命を大切に思うこころは、ただ命を自ら断つことはしない、できないという生物的自己防衛本能と、「命」や「生」について、私たちが生きる中で日々数えきれないほどの社会経験や情緒体験、学習を経て、血肉となって徐々に習得されてきたそれぞれの「感覚」であって、知識や理屈で教え込まれる類のものでもありません。生きる中に根ざさない、単なる上からの命と人権の教育が、一線を越えてしまうことを防ぐ効果的なストッパーになる保証はありません。「生きる中」その中身について、その他を常に優先してきたがために貧相なものになってしまっている社会の現状こそ見つめ直さなければならないことを時として痛切に感じるのです。
参考ブログ記事(遠い夜明け)
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