2018年 08月 07日
かべ工場(こうば)~ 立秋&処暑の頃’18
ところで蝉の鳴き声もそうですが、夏は花火や風鈴の音、かき氷を削る音や盆踊りの歌声、テレビから漏れ聞こえる夏の甲子園の応援と歓声など、私たちそれぞれの記憶深くに刻み込まれ、さまざまな感情体験を思い起こさせる特別な「音」の行き交う季節といえるかもしれません。
私にも、夏といえばなぜか思い出す遠い昔の「音」の記憶があります。
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横浜の戸塚はかつては東海道の宿場町で、今でも町の中心部を旧東海道がJR東海道線と交差するように走っています。駅前再開発の波が押し寄せている昨今ですが、周辺にはまだ昔日の面影をしのばせるたたずまいもちらほらと散見されます。駅前をちょっと離れた周辺は低い山や丘陵が多く、そこを切り開き斜面や高台に沿って住宅やマンションが幾重にも立ち並び、バイパス高速道路がその間を縫うように走る緑と坂の多い町です。
昭和40年代終わりにさしかかる頃、まだ幼かった私が暮らしていた父の会社社宅も、そんなゆるやかな坂道に沿って団地や住宅がずらり建ち並ぶ地域にありました。駅からだいぶ離れていたためかとても閑静な住宅地で、それでいてすぐ近くには清水湧き出る小山や水田もあり、子供にとってはたくさんの遊び場のある恵まれた環境でした。
小学校へ入学した当初は駅近くの小学校に通っていましたが、半年してほどなく、社宅近くの山を切り開き歩いてもほんの数分という距離に新しい小学校が完成し、以来そこへ通うこととなりました。社宅のすぐ前の道路はアスファルト舗装の結構な幅の道でしたが、当時はまだ車を持っている家はとても限られていたせいもあって、車の通行はまばらで静かで安全な界隈でした。その道路は緩やかな坂道でそのまま新しい小学校の方角へ伸びており、道路向かって左側は私の住んでいたような会社社宅や独身寮などがずらり並ぶ一方、反対の道路右側にはコンクリートや大谷石を積み上げた長い壁がそそり立ち、その上には快適な一軒家が立ち並び、そのまま丘陵に沿うように上へ上へと段々に住宅が並ぶ地区でした。学校とは反対方向に坂を下れば、ほどなくバス通りである旧鎌倉街道へと突きあたり、交差点あたりにはお肉屋さんや食品雑貨など小さなお店がいくつか固まる昔よくあったストアが1軒あるだけ。それ以外周辺にさしたる施設もなく戸塚の中心街はそのずっと先で、私の住んでいた社宅周辺はいたって静かな郊外住宅地でした。
そんな住宅地にどうしたわけか、その小さな工場(こうば)はただ1軒ぽつんとありました。1軒ぽつんとという言い方はちょっと違っていて、その工場は、社宅前の道路をはさんですぐ反対側の、上には住宅が立ち並ぶ、コンクリートで塗り固められた灰色のごつごつとした高い壁の中に埋め込まれるようにしてあったのでした。すりガラスの入った一間分の木製の引き戸と工場の名前が書かれた小さな木製看板があるだけ。一見すると物置小屋の扉のようだし、知らない人だったらそのまま通りすぎてしまいそうなほど、壁に溶け込んでいるほんの小さなまち工場。そんな工場が小さかった私のお気に入りの場所でした。
小学校の低学年だった私は、夏休みともなればそれこそ一日の大半を社宅内の庭や公園、近くの山野などいくつかお決まりの遊び場で友達と一緒に過ごしていたものでしたが、かべ工場はそんな遊び場のひとつでした。暑い昼下がり時の蝉の鳴き声以外はひっそりとした中、その工場の引き戸の奥からはいつも規則正しいガチャンガチャンという独特の機械音が心地よく響いていました。

古い引き戸を少しだけガラッと開け首だけをのぞかせる。いきなり増幅された機械音が耳に飛び込んでくる。と同時に、機械油と錆びた金属を削ったような独特の匂いが私たちの鼻をつく。いつも一番手前に座り汚れた作業着を着た、無精ひげを生やした色黒のおじさんが一瞬手を休めてこちらを向き、白い歯をのぞかせニヤッと笑いながらうなずく。私たちもニヤッとうなずく。お互いなぜだか無言。音がうるさいため声など聞こえないとお互いわかっているからだったかもしれません。そして素早くみな中へ入り戸を閉める。
中はかなり薄暗く作業場全体が銅褐色一色に包まれ、天井も低くエアコンもなくとても蒸し暑い環境でした。大抵2~3人の大人が作業をしていて工場はほぼそれで満杯という狭さ。丈夫そうな古い木製の机の上に機械や部品やらが雑然と置かれ、おじさんたちは手元だけ眩しくライトを照らしながら機械を操作し、プラスチックを加工した成形部品のようなものを次々と作っていく、そんな本当に小さな下請けのそのまた下請けのような工場。
私たち子どもは体を摺り寄せるようにして立ち、おじさんたちの仕事ぶりを後ろからしばらく見学します。見飽きるとまたニヤッと顔をお互い見合わせ、私たちはさよならして無言で出ていく。ほんのひと時何か別世界に紛れ込んだかのような秘密の社会科見学。
「ほら、これ」たまにおじさんが帰りがけに作っているプラスチックの成型部品をくれたりする。琥珀色のちょっと分厚いプラスチック部品。何なのかわからないけれどなんとなく内緒のおみやげみたいで嬉しかったのです。
外へ漏れる機械音はごく控えめでしたが、朝早くから一日中、学校の登下校時もそばを通るといつもその機械の音がしていました。おじさんたちが工場へ入ったり帰るところを見たことは一度ありません。いつ来ていつ帰るのかしら?お昼はどうするんだろ?あそこトイレはあったっけ?ひょっとしてあそこに住んでいるのかな?でも奥にドア何かなさそうだし。いろいろと疑問を持ちつつも一度も尋ねたことはなく、知らないほうがなんだか謎めいて自分達だけの秘密の場所という感じがしたのでした。お互い何もしゃべらない。おじさんたちは黙々と機械を操作して部品を作っていく。私たちはただそれをじっと眺めている。その繰り返し。時間はほんの10分くらい。でもそれだけでなぜかとても楽しいひと時。引き戸をぴしゃんと閉め、再び陽光を浴びながら深呼吸。楽しい映画を観終わって映画館から出てきたような満足感をいっとき覚えつつ、次の遊び場へと駆け出していったものでした。
当時は、工場のおじさんたちに限らず、私たち子どもたちの周りには日常身近なところにいつも働くおじさんやおばさん、たくさんの大人がいました。野菜売りのトラックに豆腐屋さん、チリ紙交換屋さんに郵便屋さん、そして酒屋さんに交番のおまわりさん。彼らが毎日のようにやってきては仕事をこなす間、短時間ながら私たちの話し相手になることで、大人の世界をほんのちょっぴり垣間見せてくれたものです。それは私たち子どもにとっては学校では学ぶことのできないとても貴重でワクワクするような経験だったのです。
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私はしばしば一人でも時には下校途中ランドセルを背負ったままで工場へ遊びに行きました。工場へ遊びに行っていることは親には内緒にしていました。最初工場のことを話した時、危ないからと叱られたからでしたが、もっと嫌だったのは、工場の話が出るたび工場のすぐ真上の立派な家に住む家族の話を何度となく聞かされていたからでした。一流高校に合格した長兄をはじめ、勤勉で秀才ぞろいの子どもたちの話を羨ましそうに話す母を見ると、何故だか落ち着かない気分になったものでした。
タイミングの悪いことに、私は夏休みに入る直前の春学期、成績が下がり散々叱られお小遣いまで下げられる始末で、今度成績下がったら塾へ行かせるなどと凄まれ、どうしてそんなに勉強しなければならないのだろう、怖い顔して母に言われるたびになんだか暗い気持ちになったものでした。
思えば、右肩上がりの経済成長が続く一億総中流社会と言われた昭和のこの頃は、一方で学歴・偏差値偏重社会を象徴する受験戦争や受験地獄、教育ママ、モーレツ社員などの言葉があたりまえのことのように受け入れられていた時代でした。
さらにそのころ私を憂鬱にさせていたのは、来春には社宅を引っ越すと両親から高らかに宣言されていたことでした。両親が念願の一戸建てを買ったため他県へ引っ越すことになっていたからです。いつかは社宅や借り住まいを出て一戸建て、というのが当時の家族(親)の夢であり目標でした。住み慣れ親しんだ町と友達と離れるのが絶対に嫌だった私でしたが、喜ぶ両親の表情を見て何も言えず、つい自分も楽しみに振る舞いながらも密かに悩んでいたものでした。
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そんな夏休みも終わったある日の朝、いつものように登校し工場の近くまで来た時のこと。工場の前に何人かの大人が立って大声でしゃべっている姿が見えました。良く見ると工場のおじさんと1人の女性が激しく口論しており、その横にもう一人中学生くらいの男の子がなにか所在なげに立っていました。見ればその女性にそっくりで、ぶ厚い黒ぶち眼鏡をかけ神経質そうな感じの子でした。
私は、そこで初めて工場のおじさんの姿を屋外で見ることになりました。思ったより背が高く、色黒でがっしりとした体格。陽の光に照らされた作業着は工場の中で見るよりもずっと汚れてくたびれて見えました。私は緊張しながら道路の反対側を通り過ぎて行きました。
「冗談じゃないわ。毎日毎日朝から夜遅くまで騒音巻き散らして。受験を控えて今が一番大事な時なのにもういい加減にしてよ、ウチの息子は半分ノイローゼなのよ」
「奥さんどうか落ち着いてください」
落ち着かせようと冷静な口調でした。そういえばおじさんの生声をはっきりと聞いたのもはじめてでした。おじさんがなだめようとして手を伸ばそうとしました。
「すぐに機械を止めて!もう我慢の限界よ。いい加減ここから出て行って。受験に失敗したらどう責任とるつもり?早く止めなさい!」
「よくわかります、でもすぐには無理です。とにかく話し合いましょう」
「なにのんきなこと言ってるの。この子の将来がかかっているのよ!」
朝の静かな住宅地にヒステリックな金切り声が響き渡りました。登校途中の私たち小学生は立ち止まりはしないものの、何が起きたかと喧嘩の方へと視線が釘付けでした。私にはショックでした。あれは前に母が話していた工場のすぐ上に住む家の母親と子どもに違いないと。
僕らのおじさんが困っている!責められている!どうしてそんな...言い争いをしているおじさんと母親、そしてその横の少年の姿を見たとき、私の頭を直感のようなものがよぎりました。あのおばさんはまるでうちの母さんみたいだ。そしてその横の少年、きっとあれは僕なのだと。いつか将来、引っ越したら、大きくなったらああなるんだ。変わってしまうのだと。どうやっても僕はおじさんの側にいられないのだ。何か自分の秘密が明らかにされてしまうような恥ずかしさを覚え、おじさんと目を合わすことができずうつむいたままそこを通り過ぎました。やっぱり引っ越しなんかイヤだ。このままいたい、また昼下がりのあの工場へ行きたい…そう心の中で叫んでいました。
ひょっとしたら、あの工場は上の家と何らかの関係があったのかもしれません。工場が場所を借りていたとかご主人の会社関係の工場だったとか。記憶は定かではありませんが、その後工場の前を通っても機械音のしない時がありました。朝もあまりしなくなったように思います。壁に埋め込まれそのまま上から押しつぶされそうなそんな引き戸を見るたび、おじさんたちはどうしているのか、中へ入りたい衝動にかられました。でもどうしてもできませんでした。そしてその後二度とその戸をあけて中を覗くことなく、やがて私は戸塚を離れました。いつまでも何か自分がおじさんを責め立てたそんな気がしていました。

あれから何十年も経ちますが、そんな今でも私はごくたまにふっと懐かしさがこみあげ、戸塚へとぶらりひとり足を運ぶことがあります。戸塚駅前は大規模な再開発がおこなわれ、かつてアメ横を思わせる雑然とした賑わいを見せていた駅前の商店街は、そのほとんが姿を消していきました。駅からあんなに遠いと思っていた社宅周辺も歩いて15分くらい。あたりの閑静な雰囲気は昔とさほど変化はないものの、全てが小さく感じられそしてやはり古くなっていました。ずらっとならんでいたかつての社宅や独身寮は姿を消し、いくつかのマンションと立体駐車場へと変わっていました。社宅前の道路は記憶の中よりもずっと狭く、今ではそこを車がひっきりなしに通ります。
今ではもう新しいマンションが建ってしまいましたが、何年か前までは私の住んでいた社宅はそのまままだありました。すでに取り壊しが決まっていたのか、入口に立ち入り禁止の黄色い看板が立てかけられていました。その奥にひっそりと立つ4階建てのコンクリート社宅はこんなにも小さかったのかと思うほど弱々しい姿でした。
驚いたことに、道路反対側の斜面に立ち並ぶ家々は、私が小さな頃とその印象と大きさにほとんど変わりはありません。今でも快適そうでした。建て替えた家もあまりなく、私がいたころのままの懐かしい住宅がそのまま残っています。何人かのクラスメートの家々もそのままです。決して豪華な邸宅ではありません。そこそこの土地に端正な住宅と庭がバランスよく配置され、入口の門の通路の先にドアが見えるそんな幸せそうな普通の家々。でももはや都市部ではほとんど見ることができなくなってしまった普通の家たち。私たちは一体あれから本当に幸せになったのかしら?ふと考え込んでしまいます。
そして高台の住宅の下、かベ工場の跡は今も残っています。入口の引き戸だった場所には、物置小屋か車のガレージのような使われ方をしているかのような小さなシャッターが下ろされているだけ。そこではかつて、朝から晩までガチャンガチャンと音をたてて、数人の職人が働くだけのちいさな町工場があったことをうかがい知る形跡はありません。覚えている人ももうあまり残っていないでしょう。
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私はそこを訪れるたびに、いつの日かここを訪れることもなくなるときが来るのだろうか、それともやっぱりまたふらっと来てしまうのか、などとぼんやりと考えてきました。そこで暮らした日々は、私の人生で一番素敵な時代だったのかもしれません。悩みや不安はそれなりにあるものの、皆に愛され、将来に限りない夢と希望を抱く、好奇心あふれる単純で幼い日々だったからでしょう。
人には皆帰るべき場所や日々があるといいます。自分の原点、人格形成に深く影響を与えた日々や想い出や出来事、そうしたものは私たちが生き、成長する上で愛すべき大切なものなのかもしれません。しかし、それらは所詮もはや帰らざる日々なのだと痛感することもまた人生なのでしょう。過去の延長線上に今の自分があるとは限らない。また、今現在の自分がこれから10年20年後の未来の自分へと続いているかどうかは実は定かではない。あの頃の私は今の私とは全く違う自分。今は今、明日は明日。過去は事実であっても今の自分にとっては必ずしも真実でなく、私たちの明日はどのようにも変化し、今ある自分が明日の自分であると断言はできないとするなら…
だから人生とは、ただ前に進むこと、そのものなのでしょう。
そしてそれがいつもできるのなら、私たちはどんなに幸せでしょう。
最後までお読みいただいてありがとうございます。
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