「家族」という事情 ~ 秋分の頃’18


数か月ほど前のある日、毎日のように届けられる封書手紙や荷物にまじって、小ぶりな郵便物ひとつが届いていました。差出人もあらためずつい無造作に封を切ると、中には大きめの手帳サイズぐらいの薄い本1冊が入っていました。同封の手紙や説明案内書きもなし。本のタイトルは、「歌集 欅(けやき)の広場」とありました。そんな本を注文した覚えのない私は、そこではじめて差出人をあらためると、それは私の伯父(父の兄)からでした。さらによく見れば、歌集の著者もまた伯父その人でした。ごく普通に会社に勤め家族を養ってきた伯父が、文化芸術に深い造詣と愛着を抱く人であり、仲の良かった弟である私の父もそれに深く影響を受けていたことを何となく知っていた私は、さもありなんと思いつつしばしその歌集に見入っていました。ごく身内向けのいわば私家版として出版し配った旨があとがきとして添えられていたその歌集は、自らも年を重ね、老いと病に向き合いながら過ごすここ何年かの日々の日常を、季節と家族、音楽や文学を織り交ぜ綴ったものでした。

その多くの歌の中に、3年ほど前に肺病でこの世を去った弟である私の父を歌ったものがあることに気づきました。「永遠の別れ」と題された数首の短歌俳句ののうちの一首にはこう歌われていました。


「疲れ果てたよ」独りで耐え来たこの言葉鮮烈なるか弟の声


亡くなるまで56年に及ぶ一人暮らしの病気療養生活を送り、老いてしまった自分を自虐まじりに多少卑下するところはあったものの、私たち子には、弱音や気弱なところを決して見せなかった父が、自分の兄にだけはその絶望にも似た悲痛な心の叫びを吐露していたことに、深いショックを受けたのでした。

幼くして早々に両親を失くし、貧しい中助け合い支え合って生きてきた父の兄弟4人のあいだには、私たち子に伺い知れない深い絆があったであろうことは理解できます。それでもやはり、私の中にはなんとも行き場のない戸惑いと後悔、苛立ちのようなものが沸き上がるのを抑えられなかったのでした。多少離れているとはいえ、病気になってからもできるだけ父のもとへ顔を見せ、会話をし、気づかいと支えになってきたつもりであったのに、せめてひと言私たちにそれを告げてくれなかったのか?

歳を重ねても親は親で、親であるからこそ打ち明けられなかった。実生活でも面倒かけていた分、それ以上の弱音を聞いて欲しいとは求めづらかったかもしれません。でも本当のところは、上述の「~つもりであった」の通り、私たちの思いとはこちら側の勝手な解釈でしかなく、私たちに打ち明けたとして何が変わるわけではないことのあきらめが父にはあったのではなかったか、と思うのです。結局私は父に対し、その兄弟ほどには信頼も安心も与えることができなかったことを悟ったのでした。



今も昔も、家族にまつわる問題や相談をカウンセラーが扱うことは多いかもしれません。相談者自身の悩みの主訴はまったく別のところにあるようでいて、結局掘り下げれば自分の家族(原家族や現家族)に行きつくということは珍しくありません。また、たとえ悩みが家族以外の全く別のところにあったとしても、真の意味で家族の支えがあったなら、それら抱える問題の負担はずっと軽いものとして受け止められたり、何とか対処する見通しも立てられるものです。私たちの社会が「人間関係」で成り立っている以上、その最も基本的で重要な関係が家族であることは疑いもなく、だからこそ家族は私たち一人ひとりの人格形成にどこまでも深い影響を与え続けるのです。

家族はまさに「有り」難い、つまり他にはない稀有な存在といえます。有難いその理由の一つは、生きる上に何よりも誰よりも一番頼りになる(はずの)存在だからです。家族とは、たとえどんなことが起きようとも、どんな結果がもたらされようとも、決して見捨てることなく一人にはしない、自分の側にいてくれる、どのような言葉や気持でも無条件に受け止めるよというメッセージを送り続ける、他の人間関係では決して経験されることのない「根源的」な安心と相互信頼そのものです。私たちは別個の人格でありながら家族はひとつであり、不可分一体の存在として意識しているものなのです。



けれども、家族はそれほどまでに近しい存在であるがゆえに、同時にまた厄介な存在でもあることが、「有り難い」存在であるもう一つの理由でしょうか。お互いが自分との区別、それぞれの領域に境界線を引きにくい存在であるがゆえに、ありとあらゆることにおいて、「他人事」ではいられない、という意味でまた稀有な関係です。

だからこそ、実は一番相談しづらく打ち明けづらく、自分を明らかにすることができない存在と感じる人もまた多いのです。迷惑をかけたくない、きっと悩む、言ったら家族がもっと困るだろう。そんなことに向き合う勇気はとても持てない。もっと多いのが、話してもむなしく(返ってくる言葉や反応があらかじめ予測がつくから)、結局ひとり自分で解決するしか方法はないと信じているから、という思いが心のどこかに潜んでいるのかもしれません。

一方、他人事でないがために、自身の心配や不安の解消、期待や願望の実現に執着してしまい、悩んでいる本人に向かってあれこれ求め、管理しようとしていることに気づくことがなかなかできない周囲にいる私たちは、つい妥協なき辛口コメンテーターや評論家と化してしまいます。悩んでいる本人の欠点や弱みを平気であげつらい傷つけるかと思えば、ただ無責任に励ましたり勇気づけたり、優しさたっぷりの愛情表現をしたり、ときに誇ったりもする。本人以上に深刻に悩みそれは自分の責任に違いないと苦悩を深めたりもする。そして、何もできないことが分かると途方に暮れてしまう。ちょうど私が経験した「~してきたつもりなのに...」のように。


そうした言葉や行動は、悩んでいる当の本人にしてみれば結局のところ、つまりあなたの悩みは分からなくもないが、それはやっぱりあなたのほうが間違っている、あなた自身の問題なのだ、そして私たちは家族に「過ぎない」、と突き放されているようなものかもしれません。だからつい自分にこもってしまう。世間体や周りの状況、社会的正論、家族の都合という条件付きの愛情で説得され、返り討ちに合うことがあまりにも自明だから、何も言えないのかもしれません。傷つき、敗北感を味わうことが分かっている相手に勇気を振り絞って心を開くことに、わざわざ無駄なエネルギーは使いたくないのです。

つまり、周囲の人々が何とかしなければのあまり、無条件にただ「聴いて」あげていないのです。悩む本人に、無条件に受け入れられ安心できる存在として家族が映っていないのです。あまりに長い間、私たちはただ「家族でいた」ために、安心と信頼の関係が、親子だからという理由だけでオートマチックにいつでも発動されるわけではなく、そうしたメッセージをお互いが受け取るためのそれなりの配慮や努力が欠かせないことに気づくことができないのかもしれません。ただ「家族でいる」それだけでは十分ではないのでしょう。


どうしたらいいのでしょう?

家族にできることの選択肢は多くはないかもしれません。ただ家族にしかできないことがあります。それが少し上で書いた、根源的な安心と信頼そのものである「有り難い」存在のままでいることです。

私たちは、コメントも質問も解決策も口にせず、ただ、「打ち明けてくれてありがとう」「ごめんね」「ゆっくりでいいんだ」「勇気がいったね」と穏やかに寄り添うことができるでしょうか。辛抱強くただ聴き続けること、本当の気持ちが表れるまで、本人が納得のいくまで聴き続けることができるでしょうか。何度かせいぜい数十分のところ話し合いを求め、その後は疑問への回答を求める質問の雨嵐。ひとたび言葉に詰まれば、思いやり半分にありがちな正論という名の条件付き愛情の表現をちりばめてはいないでしょうか?それらは、単なる予期された回答への説得でしかないかもしれません。


 無条件に受けとめられ安心できる存在として、悩んでいる本人に家族が映り始めるには、時間がかかるかもしれません。そんなときの一番の近道は、自分達もまたしくじり間違いを犯す存在であり、だから失敗しても実はまったく構わないのだと、心の底からまず認めることかもしれません。本人よりもまずは自分達の心に問いかけることが大切なのだと思います。まずもって自分達が開かれているからこそ相手も開かれる。悩む本人がかたくなであるなら、それは自分達もまた開かれてこなかったことを意味します。親子は、夫婦は、家族とは似た者同士なのです。

家族のことは自分が一番よくわかっているという幻想を捨て話しを聴くこと。たとえ周囲からはどのように映ろうとも、本人にとってはリアルな実感であることを認め、気持ちや苦しさに寄り添い想像する努力をしてみること。そして家族だからこその心からのありがとうや謝罪、支えの言葉を口にできる素直さは誰しにも必要なのではないでしょうか。たとえ今は、自分達には何の問題もなくよい家族だと思えるとしても。誰しもにいつかは訪れるであろう、家族の危機のときを乗り越えていくために。



伯父から「欅の広場」を送られてからというもの、カウンセリングを終え相談者の背中を見送るたび、果たして私にあの人達の相談に乗る資格があるのだろうか、との疑念が頭をよぎります。家族という存在のあり難さとむずかしさとの複雑なアンビバレンツのはざまで揺れ動き、思い悩む人々と日々向き合い、そうしたことを日頃痛いほど分かっているはずなのに、何のことはない、自分とその家族のことには全くの無知蒙昧であったのかと思うと、気持ちが萎えてくるのです。

けれども同時にまた、自分がカウンセラーを職業として選択したことを、父に深く感謝する気持ちがなぜかふと沸き上がってもきます。私もまた複雑でアンビバレントなただの人間でしかないのだと気づかされます。

人はどうしてかくもややこしい存在なのか?きっとそれが分かったとき、私が相談者の背中を見送ることをやめるときなのでしょう。

それがまだはるか遠い先の事のように思えてしまうのが少し悲しいです。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

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by yellow-red-blue | 2018-09-23 11:10 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、カウンセラーとして、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。ブログのどこかに、読む人それぞれの「わたし」や「だれか」を見つけてもらえたら、と思っています。


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