2018年 11月 22日
別れの予感 ~ 小雪の頃’18
そういえば、東京ではいまだ木枯らし一号が観測されていないようです。本格的な冬への扉が開く小雪の頃といえ、冬の始まり数歩手前で足踏み状態といったような陽気でしょうか。街中はまだ晩秋の趣が強く、紅葉がますます色濃く深みを増していくそんな日々が続いています。イチョウやポプラ、ケヤキにモミジといった公園や通りの並木におなじみの木々の紅葉は、私たちの目をとても楽しませてくれますが、個人的に一番紅葉が美しいと感じる木はソメイヨシノです。桜のクライマックスといえばもちろん春先なのでちょっと意外に思われるかもしれませんが、ソメイヨシノほど一年を通じて四季折々の美しさと多彩な色と姿で人を魅了する木はほかにないのでは、と思っています。
場所や陽当たりの強さ角度によって紅葉と落葉の進み具合もさまざま、晩秋のやや力の落ちた陽光に照らされ五色鮮やかに輝くソメイヨシノの紅葉はとても美しいです。とくに、もうほとんど葉が抜け落ち裸同然となり、美しい桜の花には似つかないほど黒々武骨な木の幹や枝に、ほんのわずか数枚だけが寒風にさらされながら懸命に落ちまいと引っかかっている様子には、まもなく訪れる長く厳しい冬からそこを経てやがて初々しいピンク色の花咲き乱れる待望の早春の到来へと想像を掻き立てられ、その自然の大胆なまでの変貌と神秘性にしばし心奪われてしまいます。
***
私が物心ついて最初に体験あるいは実感した「別れ」は、幼稚園の卒園式の時でしょうか。入りたての頃は年長組のお兄さんお姉さんが巣立っていくのを見ていましたが、卒園といっても近くの小学校(というところ)へ行くことは知っていましたし、住んでいるところもみな変わらず近所で一緒でしたから、あまり別れという感覚はなかったのが当然といえば当然かもしれません。けれども、自分がいざ幼稚園での生活に別れを告げようとする卒園式で、担任の先生が目をはらしてひとりひそかに涙している姿を見て、これでもう先生や友達の何人かとは会えないかもしれない、ああこれがお別れなのだとおぼろげに理解をしたのでした。
人は人生の節目節目でさまざまな「別れ」を経験します。それはあらかじめ予期されたものもあれば唐突にやってくるものもあります。状況や対象によって、離別、訣別、喪失、分離そして死別など、様々な表現がなされるでしょう。人との別れや死、今まで有していた役割や身分、資格や境遇との別れ、所属したり帰属意識を持ってきた社会組織や場所、住み家との別れ、さまざまな物との別れ、さらには病気や事故、加齢など何らかの原因で自分の身体機能の一部や健康が損なわれることなど、考えてみればこれらすべてが「別れ」です。自らの意思で決断する別れもあれば、必ずしも望みはしないが、結局それはいずれやってくるもの、やむを得ないもの、避けがたく向こうからやってくるもの、それが別れであるといえます。いずれにせよ、別れの繰り返しとそこからの回復なり前進が人生そのものといえるかもしれません。
けれども私たちの人生には、別れを告げたい、別れなければ前へ進むことができないことが分かっていながら別れることができない、一刻も早くそれを消し去りたい、忘れたいのにどうしても自分から「別れがたく」自分の中深くにとどまり続けるものもあります。葛藤や不安、執着や恐れ、欲望や願望といった、私たち人の心の中に湧き上がるように存在する複雑で扱いの難しい心の動揺とでもいうべきものです。巧みにそれを「心の渦」と表現される専門家の方々もいます。どうにも自分では受け止めきれない感情や思い、直視しがたい出来事の記憶、悲しみや悔恨、罪悪感といった、意識するとしないとにかかわらず心に沸き立つそうした渦は、私たちと分かちがたく心深くに潜み、私たちの思考や感情、行動に強い影響力を持ち続けます。
消し去りたいのは自分のほんの一部であるにもかかわらず、あまりにも長い間自分の中に存在しているがために、あるいはあまりに受けた心の傷が深かったために、それはあたかも自分と不可分のものとして実感・意識され、自分がすなわちそれに過ぎないとの意識が捨てきれないこともあります。なぜだかそうした心の渦に限っては自分ではコントロールすることが難しく、否定しようとすればするほどその渦は心をかき乱し、それを否定することはまさしく自分の価値や存在そのものの否定となり、時に自分がいなくなればいい、消えてなくなりたい、決して周囲と交流することはできない、と人知れず苦悩するしかない日々を送ることすらあるのです。
その別れを告げたいものとは何なのか、離れがたく分かちがたい思いとは何であるのか、容易には言葉にできない気持ちを汲み取り、表面上の現象ばかりに振り回されることなく、その奥底にある深いこころに残っている渦に気づくことをお手伝いし、別れへの道を徐々に模索しながら一緒に進む役割がカウンセラーにはあるのだといえます。
カウンセリングの相談室には常に別れがあります。しかし、ここでの別れはたいていは喜ばしいことです。相談に訪れる依頼者が、新たな希望へ向かう準備が完了したことの証しとしての別れだからです。抱えている悩みや問題、症状が解消した、あるいは少なくとも改善し、将来への展望が見えてきたからこその別れであり、そんな時には笑顔と時として涙でカウンセリングの終結が宣言されます。でも、そこに何とはなしに一抹の寂しさもこみ上げてしまうのも事実です。それはいろいろなことがあったにせよ、自分が指導し幾時を共に過ごした子ども達が無事に学びを終え巣立っていくことを毎年見送る学校の先生の思いにも似た心情からかもしれません。確かに、カウンセリング終了後しばらくたって、元気である旨連絡をいただいたとき、そこで初めて嬉しさがこみ上げるということもよくあるように思います。
もちろんそうしてしっかりと終結が確認されるカウンセリングばかりではありません。理想的な別れで終了することのほうが少ないかもしれません。最初のカウンセリング後、もうやってこないのが薄々わかる場合もあります。じっくり話し合い、相談者が自分の思いのたけを存分に聞いてもらったことで満足を得ている感触が伝わる場合には、たとえ何の予告もなく来なくなっても驚きはありません。また明確に不満や怒りを示され、カウンセリングが中断になってしまうケースも、カウンセラーとしての力が足りずに反省すべきところはあれど、相手のメッセージが明らかなので受け入れやすく切り替えやすいので、これもまたむしろ前向きの別れだと思っています。
悩ましいのは、こうしたいわば明るいお別れとは異なる別れにしばしば立ち会わなければならないことです。順調にカウンセリングが進み、本人も少しずつ手ごたえを感じていた(とこちらは思っていた)のに、唐突にやってこなくなる人。明らかに症状や悩みはいまだ深いままなのに、二度と来なくなってしまう人。カウンセリング予約の電話を何度もしながら結局一度も姿を見せない人。相手の状態が気がかりで、何がいけなかったのか悶々と自らに問う日々が続くこともあります。こうした唐突な別れは、正直やはりしんどいものでこれもまた心の渦との別れの難しいところです。
しばらく前のある休日、仕事場から少し離れたとあるスーパーマーケットで、かつてカウンセリングに訪れていたある相談者の姿を偶然に見かけました。子供ふたりと奥様と仲睦まじそうに買い物をしていたその方は、数年前に唐突なお別れを告げた一人でした。
彼は、様々な事情から結婚と子育てを機に始まった、日常でのちょっとしたいさかいごとや対立が絶えない夫婦関係と、自分の生来の神経質で完璧主義的な性格が将来の子育てに及ぼす影響にとても悩んでおり、専門的な意見と自身の性格的な問題の解決を求めてカウンセリングに訪れてたのでした。こうしたケースは特に珍しいものではなく、たびたび出会います。
厳格なしつけが支配的だった生育環境に育ち、すべての面において優等生的で、そうしたエリート指向的人生に努力を傾けることに慣れてきた反面、周囲の評価や今の社会で支配的な価値観に敏感で、常に比較・競争意識を持って生き、周囲をその尺度で判断してきた自分がときにいやでたまらず、近しい人に対しかえって余計な不快感情や不信感をあらわにしてしまうことがとても不安だったのでした。社会的身分も高く優秀なビジネスマンの典型といった風情の彼は、その自信ありげでやや硬質な態度の下に、しかし涙で時折言葉が詰まるシーンで見せるような、自信なさげな不安定さと憔悴が同居しており、そうした時の表情はむしろ自然、素直な印象に私の目には映りました。本来はどちらかといえば内気で、内的世界と向き合うことに長けたとても感情豊かな人柄だったにもかかわらず、そうした自分の感情や願望を素直に出すことを自分に許してこなかった、許されないと信じてきた、そんな生き方をしてきたことが話し合いの中からわかってきたのでした。そして、彼は数回のカウンセリングの後、何の前触れも予告もなく姿を見せなくなったのでした。
久しぶりに見かけた彼の印象にさしたる変化はありませんでした。あれほど心配していた幼い姉妹はとても明るく楽しそうで、奥様とじゃれ合っている姿がほほえましい普通の家族でした。
以前も垣間見えた少し神経質そうな眼差しの表情を見て、一瞬不安がよぎりました。けれども、駆け出す二人の子供とそれに追いつこうとする妻から少し距離を置きながら、心なしか弾むようなステップでゆったりとついていくかつての相談者の後ろ姿にどことない朗らかさと余裕を感じた私は、少しだけホッとしたのでした。
この相談者は、私とのカウンセリングに失望し別れを告げたのかもしれないし、少し勇気づけられたから別れたのかもしれません。別れは「それでも私は進む覚悟を決めた」ことの証しでもあるのでしょう。心に沸き立つ渦は今もって消えてないかもしれないが、それを抱えながら生きていくすべを何とか探し当てようと模索することもまた、私たちの人生そのものなのかもしれません。
「心の渦」は、他の別れのように消えることはなく、それどころか渦との別れは永遠にやっては来ないものなのかもしれません。それもまた自分の一部として引き受けながら、人生を歩んでいくことに手を差し伸べるために、私ができることとはいったい何なのだろう、そして今まで自分は何ができてこなかったのだろう。普通の家族四人の姿を目で追いながら、私は自分に問いかけていました。
あなたの心に深く刻まれている「別れ」はどんなものでしょう?そしてあなたにひっそりと寄り添う心の渦はあるでしょうか?
最後までお読みいただいてありがとうございます。
メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂
(※当ブログの各記事の中で言及されているエピソードや症例等については、プライバシー配慮のため、ご本人から掲載の許可を頂くかもしくは文章の趣旨と論点を逸脱しない範囲で、内容や事実関係について修正や変更、創作を加え掲載しています。)