2018年 12月 22日
トモダチ大作戦 ~ 冬至&小寒の頃'18
― 子どもの時 カエルを飼ってた
― 何言っているんだ?
― これだけ話させてくれ
フロッギーって呼んでた
一番の親友だったんだ
友達が少なくて...
本当はひとりもいなかった
それで
そのカエルにいつもキスしてた
もしかしたら―
いつかお姫様に変身するんじゃないかって...
母親に
俺 母親に捨てられてさ
父親は育児放棄
だからフロッギーだけが友達だった
大好きで いつも一緒
それがある日 自転車のカゴから飛び出して
後輪で ひいちまった
死んだよ
マジで死ぬほど悲しかった
唯一 愛した親友だった
で 出会った
お前とロジャーだ
2人とも本当によくしてくれた
― そうでもない からかったりいじめてばかりだろ
― いや いいんだ 俺は気にしない
君らは家族だ
友達だ
フロッギーとは違うが 友達だ
まあ...こんな話でも役に立つかな
じゃ俺 もう行くよ
― (レオが去り、亡き妻の墓標を見つめながら)
変な天使を送ってくれたもんだ 話は通じた 分かったよ
君はいつもここにいてくれ ありがとう また来るよ
(ある映画のワンシーン)
*
カウンセリングに訪れる人のなかには、人間(対人)関係やコミュニケーションに何らかの困難を抱える人がいます。家族内であれ、仕事や学校といった社会生活上の関係であれ、何らかの人間関係につまずき、それがきっかけとなって精神的な苦痛を訴え病気まで発症するケースもあれば、逆にもともと抱えてきた精神上の問題なりパーソナリティの課題が、人間関係の悪化あるいは他者との親密な関係の欠如という形で現れ、日常生活に支障をきたすというケースもあります。
しばらく前に出席したあるメンタルヘルス関連のセミナーで、専門家講師が最近に見られる対人関係の傾向、特に若い世代の友達に関する特徴として、①(本人の主張する)友人の数が多い。100人程度は当たり前、中には数百~1000人いるとサラリと答える人も珍しくない、②「親友」という言葉を多用したがる、③それにもかかわらず、その関係性は淡泊で継続性がなく、短期間での友人関係の増減が激しい。ほんのささいなきっかけでよく事情を確かめないまま友達関係を絶ってしまう、といった趣旨の話をされていました。
あくまで仕事上の限られた経験の範囲にとどまりますが、私も似たような感想を持つことが多いように感じます。若年世代からの相談は、友達や職場などの人間関係にまつわる悩みが多いのです。広く若い世代一般がそうであるとは言えませんが、ひとつの特徴といっていいかもしれません。
インターネット、携帯を介して構築される人間関係が次第に大きな存在感を示し、生身の付き合いが相対的に貧弱なものとなりつつある社会文化的な背景もあって、人間関係の在り方は昔とはずいぶんと様変わりしていることもあるのでしょう。友達をどう認識するかはある意味各自それぞれの受け止め方の自由ともいえるわけですから、とやかく言うのもおかしいのかもしれません。
けれども、「親友だと思っていたのに裏で陰口言われていた」「悩みを親しい友人に打ち明けたら、それを勝手に広められた。即友達リストから削除した」「文句を言ったら逆ギレされ悪口を流された」「知らない人との間で一晩中ネット上で非難中傷の応酬が続いた」などの話を実際に聴くと、不確かな情報や誹謗中傷、ひそひそ話が無制限に交錯するインターネット空間で人との距離感を図ろうと、表や裏での探り合いに右往左往するような人間関係がむしろ当たり前のようになってしまった社会において、お互いひとまず正面から向き合わないで済むような交流を優先し、ある意味押し付け的な承認欲求ばかりが肥大化してしまっているとすれば深刻な問題です。
それは、自分なりの線引きで判断した相手への期待の押し付けの連続や積み重ねを友達あるいは人間関係とごちゃ混ぜにしているように思えなくもありません。「~してくれるはずだ」「(相手が)~すべきだ。~と考えるのが普通」といった無自覚的な思いが互いのやりとりの基底に強い場合、それは言い換えれば、「(相手がすべきこと)は(本人ではなく)自分だけが知っている」と主張することと大差ないということに気づけないでいるのかもしれません。
いい友達関係がなかなか作ることができない、表面上の人間関係はそれなりにあるがそれ以上発展させることができないでいるという悩みを抱える人もいれば、上述のように人間関係は多彩に見えるが、その出入りは激しく、友人だ親友だといいながら関係が継続せずに、その関係が壊れてしまう(あるいは壊してしまう)ことに首をかしげる人もいます。前者は孤独を感じている人、後者は拒絶されることを恐れるがゆえにのめり込むような人と言えるでしょうか。一見するとこの両者の悩みは正反対にも見えますが、カウンセリングを通じて感じるのは、実は根っこは同じなのではないかということです。どちらも、他人よりも何よりもまず自分を大切な存在に思えていない、まずもって自分への尊敬を欠いている、自分がまず自分の「いいお友達」になろうとしていないようにも思えるのです。
これは一般的には、自尊心(自尊感情)あるいは自己肯定感の問題といえそうです。自尊心とは、自分自身を何の条件もつけることなしに、価値ある存在であるとただ素朴に信じている心の状態です。自分の能力や行動、性格などについて自分で下す評価(自己評価)は様々あっていいのですが、それでもなお自分の価値や存在は変わらないと受け入れ肯定できる程度のことを意味します。
ここで大切なことは、それは周囲との比較により生じる優越感や劣等感、差異の意識とは異なるということです。何らかの課題や条件をクリア・達成することによって外から与えられる評価(成功か失敗か、優れているか劣っているかなど)によって決まるような、「自信がついた」といった一般的な感情とも少し違います。自分にはいいところも悪いところもある、他者に比べると劣っていることもあるだろう、けれどもそれはさておき、そんな自分を「でもまぁ気に入っている」「これでもいい」とそれなりに感じることができている程度が自尊心の高さを示すのであって、日常生活や人生で起きる出来事に多少とも揺らぎはするものの、私たちの精神活動のすべての基底にある自分への素朴な「信頼」のようなものです。
自尊心は、ある意味人間にとって水や空気と同じようなもので、生きるに最低限必要とされるものと言っていいのですが、普段自分達にそんなものが備わっているか欠けているか、その程度が低いか高いかななどを意識して生きてはいません。自分の人格の一部として、生まれつきの資質なり気質として備わっている部分もあるでしょうし、さらに成長過程でおかれた環境や様々な経験を通じて獲得・学習する部分もあるでしょう。人それぞれです。
ただ何らかの要因から健全なレベル(多すぎても少なすぎても問題があるので)の自尊心を育むことがかなわず成長してきた場合、生きるに困難な状況に様々直面することとなります。常にどことなく不安やあせり、周囲との比較意識の感覚が心の基調にある状態で生きるのはなかなか大変なことです。それに費やされるエネルギーは大変なものであり、最初から生きるハンデをしょい込んでいるようなものです。そのような悩みをずっと抱えてきたことを知らずに、「なぜ自分だけこうもうまくいかないのか」とひそかに感じながら生きている人が、実はかなり多いのではないか、と感じています。
こんな2つの質問を自分にしてみてください。
質問1:「あなたは、あなた自身をノーベル賞受賞者やスポーツアスリート、成功している企業経営者といった著名な人々と同様、ひとりの価値ある存在の人間だと思いますか?」
質問2:「あなたは、両親や配偶者、あるいは親しい友人や同僚を、彼ら(質問1で挙げたような)同様に存在価値のあるひとりの人間だと思っていますか。」
もし、素直に両方イエスと答える(多少は逡巡するにしても)ことができるなら、まず健全な自尊心を持っているといえるでしょう。しかしもし、前者が「ノー」であるなら、そしてとりわけ逆に後者は「イエス」と考えているなら、ひょっとすると自尊心に少し問題があるといえるかもしれません(あくまで目安や可能性です)。自分にとって大切な存在である家族や友人達は、たとえ普通一般人であるとしても価値ある人間であると思えるにもかかわらず、自分自身にだけは厳しい評価を下してしまうというのは、自分が最も大切に思い優しく扱わなければならないのは、まず「自分」である、という素朴な認識が抜け落ちてしまっていることを意味しているのかもしれません。
この自尊心向上に取り組むのはなかなか難しい問題です。自尊心が充分でないまま人生を送ってきた本人にとっては、何の根拠もないのにいきなり「あなた自信を持ちなさいよ」といわれるようなものだからです。教わってすぐ得心するものではありません。
また、すでに述べたように自尊心は精神活動の基底にある自分への素朴な「信頼」ようなものであって、その獲得を「目的」にするような性質ものでもありません。ですから自尊心を得ることが目的化してしまうと、自意識の肥大を招いて過度に周囲に承認や称賛、従属を求めたり、他人の言動や成功に干渉してばかりの人にもなりかねません。自己顕示欲が強く尊大な振舞いが目立つ人は自尊心が高いのではなく、むしろ自尊心渇望症とでもいえます。健全な自尊心を持っている人は、自分や周囲に対してなんら証明する必要を感じないものです。
実社会では、自尊心の低い人よりもむしろそうした自尊心が肥大している人の方が珍しくないので、むしろ彼らの方こそ精神的に問題視されるべきですが、社会経済的な地位や身分の上下関係、影響力の大きさなどといった実社会事情から受忍あるいは許容され、どころか称賛や積極的評価の対象にすらなっていることは気にかかります。
自尊心の回復については、過去の生活史上の心理的葛藤や傷つき体験なども探りながら、同時に現実的な対人関係の在り方に具体的に検討を加えていくような丁寧な取り組みも必要です。ですがまずは「人はみな違うのだ」という当たり前のことについてよく考え心底信じていくことが第一歩になるでしょう。人はみな違う、だからこそ、その目標も得意不得意も願望も適性も人生歩みのペースやプロセスもみんなそれぞれでいい。そうしたことを無視して皆が同じ山の頂を目指そうとすると周囲の圧力に負けてしまい苦しくなります。
誰もがそれぞれに目指すべき山があってよく、それを探し求め、頂きをめざすことについては努力や苦労を惜しまないことこそが、私たちの人生のあるべき姿です。こうしたことは字面上理解するのは簡単ですが、心底得心し実践していけるようになるのは難しいことです。ですから一歩一歩、「丁寧な取り組み」が求められるのです。
そして自分を大切に思い、何が自分に必要なのか、自分が本当に望むものは何なのか、何が自分にはできないのか無理なのか、ということに素直に向き合ってみることが次のステップです。そのうえで道を定めて迷わず進んでいく。その進む道の途中でふと出会うのが「友達」なのでしょう。数でもなければ出会う時期でもありません。望まない道で出会った人は、たとえいい人であったとしても、苦しい本人の目には友達とは映ってこなかったかもしれません。親友や尊敬できる人生の師と呼べる人とは、人生の終わり近くになってようやく出会える人だっているでしょう。遠い昔のあの人が親友だったと、後年気づく人だっているはずです。今、友人がいなくても、好きな人に出会えていなくても、それは今はまだ出会いの時ではない、そうとらえなおすことは大事なことではないでsひょうか。
今は自分を大切に見つめなおす時期、やるべきことが他にある時期かもしれません。単なる気休めと思わず、このようにより多くの可能性に対して心が平等に、等距離に開かれているかどうかも自尊心を高めるには問われていきます。
難しいでしょうか?でも大丈夫、少しずつで構わないのです。それに冒頭の映画のレオのような「天使」は、意外や誰の近くにもいるものです。今は見えてないだけかもしれません。それにはまず、自分をしっかり自分の「トモダチ」にしてあげてください。
素敵なクリスマスと新年がやってきますように。
*リーサル・ウェポン4(1998年アメリカ)
製作・監督リチャード・ドナー/主演:メル・ギブソン、ダニー・グローバー、ジョー・ペシ
最後までお読みいただいてありがとうございます。
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