2019年 05月 21日
ライフスタイル ~ 小満の頃’19
先日ひさしぶりに東北へ旅行に出かけた時のことです。日中昼間にはほどんど人通りのないひなびた風情の小さな町中をしばしぶらぶらした後、どこかでひと休みしようかとあたりをきょろきょろしていると、東京ではお馴染みのグリーンが基調のカフェチェーンの看板が目の前に唐突に現れました。ありがたいやら、でもせっかく東京からこんなに遠くに来てまで、とがっかりするやらなんとも身勝手な気持ちにさせられる一方で、今やのどかで懐かしささえ覚える日本の原風景のような小さな町にまでス〇ーバ〇クスがあるのかと少々驚かされました。ほんの数年前、地方都市に住む友人の誕生日に、たまにはちょっと風変わりなものでもと今どきのカフェで使えるプリペイドカードやマグカップを贈ったところ、「東京じゃあるまいし、そんなこじゃれた店こっちにあるわけないよ」と一笑に付されたことがもうはるか昔のことのように感じられます。
シアトルという名前で何を思い浮かべるでしょうか?
アメリカ太平洋岸の北西部ワシントン州の大都市であることは多くの人がご存じのことでしょう。また、ボーイングやマイクロソフト、アマゾン、任天堂、ベンチャーITといった今時のグローバルトレンド企業の誕生の地でもあることでも有名です。野球に詳しくはなくても、イチローが現在でも在籍するシアトルマリナーズの本拠地としてお馴染みでしょう。
加えてシアトルの名を最も有名にしたのは、冒頭旅先で私が出くわしたいわゆる“シアトル系”といわれるカフェ文化の発祥の地であることかもしれません。都市部を中心に今や世界中いたるところにあるこうしたカフェに、いい香りの飲み物と自分だけのくつろぎの時間、あるいは勉強・仕事の場を求め多くの人々が日々集まっています。
80年代後半から90年代頃のアメリカにおいて、シアトルという街や言葉の響きには、従来のアメリカの政治経済文化の中心である東海岸でもまたカリフォルニア西海岸でもない、新たな生活や生き方を予感させるトレンドとしての象徴的ニュアンスがあったように記憶しています。"ライフスタイル"という言葉がさかんに使われトレンディな表現として定着したこともこのいわばシアトルスタイルと無縁ではなかったでしょう。今では日本でもごく日常的にとかく便利使いされる言葉です(ちなみに欧米では、このライフスタイルという言葉に込められたニュアンスやイメージは世代や地域事情、職業階層などでポジティブであったりネガティブないしシニカル的であったりとさまざまです)。
そのシアトルという地名が、かつてこの土地で暮らしていたアメリカ先住民(ネイティブ・アメリカン)一族の酋長の名に由来することを知る人は日本では少ないかもしれません。アメリカ先住民といえばアメリカ西部のほんの一部の地域に暮らしていた部族集団と思っている人もいるかもしれませんが、実はかつてアメリカ全土隅々までたくさんの先住民族が存在し、それぞれが独自の伝統文化を持ち暮らしていました。彼らの多くが、やがて新たな人生と生活を求めヨーロッパから大挙押し寄せてきた入植者によってその生命や住み慣れた土地を追われ、先祖代々受け継がれてきた誇り高い精神性と伝統文化までもが半ば否定され、強制的な同化政策をはじめとするアイデンティティのはく奪という悲劇が長い時代続いたとことは周知の歴史的事実です。
現在のシアトルの先住民達もそうした歴史の例外ではなく、19世紀の半ばアメリカ政府との条約締結によって、代々住み慣れた豊かな土地からの退去と不毛な居留地への移住を余儀なくされたといいます。
母なる地を追われた人々にとってその後に残された人生が、白人中心の社会秩序と文化を生き適応するためのライフスタイルという選択肢しか残されなかったのだとしたら、それは悲劇以外のなにものでもなかったかもしれません。現代人の自分らしい創造的な暮らし(life style)のルーツともいえる都市が、かつてアメリカ先住民の素朴で深遠な生命(life)の営みが根こそぎにされた地でもあることは何とも皮肉な話といえるのかもしれません。
私たちもまた、急速な時代と環境の変化に耐えそれに素早く順応することを陰に陽に強く要請される社会に生きているといえます。そうした要請に対し心理的な抵抗感や疎外感をひそかに抱えながら生きている人が世代を超え数多く存在しているという実感を仕事を通じ私は持っています。なんとか頑張ってゆこうとする個人の努力を放棄する方便として、問題の責任を時代や社会のありかたに一方的に押し付けようとする姿勢は安易な発想であり、決して価値ある人生をその後にもたらしはしないでしょう。
けれども、喜びも実りもなくただ生きるだけに精一杯にならざるを得ないさまざまな事情を抱え、自分を呪いたくなるようなほど厳しい人生の苦悩が、看過しがたいほどの切実さをもって私たちの身近に存在していることもまた事実です。そのこととアメリカンネイティブの辿った道とになにがしかの接点を見出すというのは、あまりに無謀だろうとわかりつつも、両者の精神的存続を危険にさらす心理社会的脅威にどこか共通しているものがありはしないかとも思うのです。
旅の途中で見かけた日常ありふれた景色からふと、とめどもなく思いが巡る。日常を離れ、あるいは離れたいと願えば、かえってその日常が別の道をたどり姿を変え旅の途中でさえ否応なく自分に迫ってくる。肉体だけでなく心もまた旅をする。旅気分に一見水を差すそんな感情体験が実は、今の自分に必要ななにものかだったりする。それもまた旅することの得難い魅力なのかもしれません。
最後までお読みいただいてありがとうございます。
メンタルケア&カウンセリングスペース C2-Wave 六本木けやき坂
