2019年 07月 23日
夏の海に寄せて ~ 大暑の頃'19
Мさんは建築士事務所を長年営んできました。建物の設計デザインがお仕事なので絵が上手なのもうなずけます。今と違って便利なコンピュータやソフトなどなく、設計図から何から何まで自分で線を引き手書きをするのが当たり前の時代は、建築家を目指すたいていの人はみなデッサンや絵が巧みだったねとお話になります。
瀬戸内の小さな港町に生まれ育ったМさんは、苦学のかいあって東京の一流大学に合格、建築家を目指し勉学に励み、大学卒業後はゼネコンの名門に就職、やがて一級建築士の資格も取得しました。本当は画家になりたかったといいますが、画家では食べてはいけないだろうと建築家をめざすことにしたのでした。
戦後高度経済成長期のただ中、建設ラッシュと好景気に支えられ誰もがうらやむエリート街道を進むことを約束されたかのようなМさんは、家族親族の希望の星であり、小さな田舎町である郷土の誉れですらあったといいます。大げさに思われるかもしれませんが当時はそんな時代だったでしょう。二十代半ばには結婚もし、周囲からすべてが順調に行っているように見られていました。
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けれども、職場の労働環境は入社当初から厳しいものでした。一級建築士の資格を取得してからはさらに苛烈を極め、主任技術者として早朝から夜遅くまでの建設現場での勤務、その後会社に戻り残務処理などの業務に追われ、休日には住宅販売の営業業務もやる毎日。毎晩帰宅は深夜の一時か二時。それでも翌朝六時には自宅を出て建設現場へと戻る毎日でした。現場では日々様々な工事遂行上の困難や作業従事者に関するトラブルが立ち上がり、それらへの対応の難しさからくるストレスに疲れ果て、次第に精神的に追い込まれていきました。
会社には俗に「過労死(待機)リスト」なるものが存在していたそうです。それは公然の秘密で誰もがそれを知っていました。周囲には過労死や精神的破綻に追い込まれていった人も実際にいたといいます。けれどもМさんの働く業界でそれは珍しくないことであり、そうしたことに対する根本的な疑問の空気はほとんどなかったといいます。それが当時の会社であり社会でした。
やがて自分の名前がリストの筆頭に上がったことを同僚のうわさで聞かされたМさんは、会社や周囲から強い説得や引き留めもあったものの、悩んだ挙句に退職し独立開業の道を選びました。本当にもう限界でした。自分がまだそうした決断ができる精神状態であったことがせめてもの救いだった、そうお話になります。
独立開業後は好景気にも支えられ、仕事を依頼してくれる人もいて何とか続けていくことができました。けれども実際仕事が軌道に乗るまでは厳しい道のりでした。ただ設計していればそれでというものではなく、現場作業の管理に加え、現場作業員をかき集めたり、給与報酬の交渉もひとりでやらなければならないこともあったそうです。トラブルも珍しくなかったといいます。ある時、施工依頼主から作業が止まっているとクレームがあったのでМさんがあわてて現場へ行ってみると、現場の棟梁が突然消えてしまい工事がストップしていました。このまま契約の履行がなされなければ莫大な賠償金を個人で負担しなければならなくなってしまうことから、とにかくその日のうちに代わりを探さなければいけなくなったМさんは、山谷のいわゆるドヤ街まで出かけ、簡易宿泊施設を回り夜遅くまで代わりの職人を必死に探し回ったそうです。他に頼る人もいないため、Мさんの奥様も同行し手伝ったそうですが、当時山谷は女子供が安心して行けるような場所ではなく、奥様は内心とても怖かったそうです。
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Мさんが会社を去るにあたって一番つらかったことといえば、会社を辞めることを知った身内からの非難と無理解でした。自分の将来をどぶに捨てるような決断をして後できっと後悔する、誰もが我慢して頑張っているのに、なんて弱い情けない人間だとМさんはさんざんにののしられました。挙句、非難の矛先はМさんの奥さまにまで及んだそうです。きっとあの嫁にたきつけられたに違いない、都会育ちの嫁がいらぬ入れ知恵をした、好き放題に生きているあの女がМさんをダメにした、など根拠のない辛辣な陰口をささやかれたそうです。
実際は、Мさんのことを理解し支え続けたのは奥さまだけでした。彼女がいたからこそ何とかここまでやってこれたとМさんは言います。それでもそんな身内や知人からの仕事の依頼で助けられたこともあったから、文句もいえなかったといいます。家族とはありがたくもあり迷惑なものでもあるとМさんは苦笑しながら当時を振り返ります。
あの時の選択が正しかったのか間違っていたかはわからない。別の人生もあったかもしれないし自分も若かったからもう少し器用に生きてこれたかもしれない。でも今がまあまあ幸せと感じているのだから、正しかったでやっぱりいいでのはないか。そうМさんは考えています。
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ところで『安全第一』の意味知ってる?とМさんが質問をしてきました。はて、建設の現場などでよく看板表示されているお馴染みの標語だとすれば文字通りそのままの意味、危険と隣り合わせの工事現場での事故防止と安全な工事実施を徹底しますとの近隣住民への配慮と現場作業従事者の自覚を宣言したものではないでしょうか、といった感じで答えると、
『安全第一』は、もともとアメリカの鉄鋼王のカーネギー(それはМさんの記憶違いで、実際は有力鉄鋼製鉄企業USスティールのトップだったエルバート・ゲイリー)が宣言した『safety first』の翻訳で、劣悪で危険な労働環境で犠牲者も多かった二十世紀初頭の時代に、彼はそれまでの利益第一主義、安全は二の次だった経営方針を転換して、安全第一、利益や生産性はあくまでその次との新方針をはっきりと打ち出したのが始まりだといいます。
つまり安全第一という標語は本来、会社にとって最重要なのは従業員の安全であり、企業利益や生産性はあくまでそれが達成される限りにおいて追求しますという、「経営者の労働者に対する誓い」だったのです。つまりは「安全第一」の看板は工事現場ではなく、社長や重役達の部屋に掲げられるべき言葉なのだと。それがいつしか時代とともに形骸化し、その他にもいろいろな標語がやたら編み出され、結局現場の作業員を律するような合言葉みたいになってしまったところはいかにも日本的といえるのかもしれません。
その後もМさんの話はさまざまに続きます。絵を描きたいと思うようになったのは、独立を決めて東京を離れてこっちへ引っ込んで随分と経ってからだよ。絵を描いているとき何を考えているかって?何も考えない、本当に何も考えずにただ描くんだ。自分が設計した建物への愛着?もうあまり覚えていないよ。でも自宅だけはやっぱり愛着あるかな。仕事場は六本木? あのあたりでも昔ビルや建物を設計したね。古いけど今でもあるんだろうか? 機会があったら行ってみたいけど。でも無理かなもう。趣味がない?そりゃいけないな。なんでもいいから持つといい。忙しすぎるのもダメだがヒマもいけないよ。(私の職業について)そんな職業当時もあったかもしれないが、いやそれでもなんともならなかったかな。それが異常なことだという認識や空気が会社や現場ではなかったから。『それが会社だ』って時代だったからね...
来年東京ではオリンピックが開かれる。「建設ラッシュ、新しい施設や景観と経済効果への期待、興奮と感動、未来への希望。五十五年前の東京オリンピックのときとなにも変わりはしないよ。多くの人の汗と努力の結晶だと人はまた言うだろうね。けれどもそんな言葉は、所詮は後年まだ生きている人達の自己満足の感傷にすぎないよ。犠牲となっていった人々やその家族は、昔も今もそしてこれからも語られないままなのさ」。
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Мさんの絵はとても穏やかです。パワーは感じられないが力が抜けている。心に負った何かをだましだまし癒すかのようにゆっくり描いていきます。
最後にМさんは言いました。
「そのうち絵を送るよ。たくさん描いても貰ってくれる人もいないからねぇ」
最後までお読みいただいてありがとうございます。
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