2019年 09月 24日
「違い」を恐れる・攻撃する人の心理④ ~ 秋分の頃'19
はるか太古の昔に私たち人類が自然界で生存し続けるため身につけたさまざまな自己防衛のための心理的・生理的反応や行動パターンは、進化という歴史を経てもはや「生きるか死ぬか」の闘いの必要性が薄れてきた今では、むしろ絶えまない変化と多様化を見せる社会環境や対人関係という場において発動されるようになっていきます。そうした場が進化上の時間的スパンから見ればきわめて短期間のうちに形成され劇的な変化を遂げてきたにもかかわらず、私たち自身は相変わらずヒトという「種」のままでいるというギャップが、私たちをさまざまに悩ませてきたといえます。
人は、人間関係という外からの刺激や要請をときに驚愕や動揺、恐れなどといった感情や気分、思考を伴う「脅威」や「危険」として受け止め、排除しようと様々なストレス反応を起こすようになります。
けれども相手もまた人間である以上、「脅威」や「危険」を察知したからといって、生命を奪ったり目の前から排除するような直接的攻撃がもはや許されない社会生活に適応しなければならない私たちは、その代償行為としてときに相手に対し精神的間接的な攻撃で脅威に対処し、みずからの欲求を満たそうとします。精神的に圧力をかけ屈服させ、あるいは優位に立つことによって、みずからの立場の安心・安全を確保しようと欲するのです。
問題は、自然からもたらされるものは誰にとっても明らかな脅威なり危険であるのに対して、人間関係における脅威や危険は見えにくく、また誰にでも同じような脅威や危険を意味するのものではないということです。むしろある特定の人や状況において、脅威なり危険として受け取られてしまうところに事の難しさがあるのです。
と、ここまでは前回までのブログの内容をあらためてまとめてみたものです。
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では、相手を深く傷つけ、苦しめるほどの非常識な攻撃をしてしまう人が、もはや命のやりとりなどほとんど皆無といってさしつかえない日常の社会生活や人間関係において、非合理的な「脅威」や「危険」をかんじてしまうほどの生理的なインパクト(衝撃、刺激)とはどういったものをさすのでしょう?
その正体のひとつが、「違い」というとてもシンプルなインパクトです。
相手が自分とは違う、異なる、知らない、新しい、という状況は、本来人にとっては十分にストレスフルで衝撃的なのです。
人間には元々、同じであること、似ていること、いつもと変わらぬこと、ということに安心と安全、親近感を持つ動物であり、それはたいていの生き物も同じといえます。危険であるかそうでないかを区別するうえで最初で最も基本的な情報は、相手が自分と同じであるか、知っているか、慣れ親しんでいるかあるいはそうでないかということであって、そうしたことに私たちはとても敏感です。これは、前回お話した「コントロール欲求」という自己防御反応と同じと考えてもいいものです。
したがってどのような理由であれ、自分とは何らかの点で違う、異なる、あるいは普段の状況とは様子が異なるということを察知すると、とたんに心の警報が鳴り響きます。相手や周囲を警戒し緊張するようにできているのです。
そうしたオートマティックな反応が依然私たちに根強く残っています。違うもの、未知のもの新しいもの、今までに経験したことがないものという形の「違い」に注目・警戒します。そうした根源的な「違い」によってもたらされるインパクトは、現代社会が進むにつれてさまざまな思考感情へと置き換わり、そのバリエーションを増やしていくこととなります。
容姿や年齢、見た目や性差、言葉や文化的背景に始まり、考え方や意見、話し方に行動様式、価値観・倫理観、周囲からの評価や反応、出自学歴、能力や健康状態など、社会生活における自分とは違う、異なるという衝撃のバリエーションはそれこそ多彩です。こうしたことに穏やかに対処するすべを、私たちは経験や学習、養育環境や周囲の協力などの力を借りながら学んでいくのですが、これは今の人類でさえかなりやっかいな課題であることは今まで指摘してきた通りです。そうした衝撃を違和感や不満程度になんとか収めつつやり過ごすことができればいいのですが、なかには過剰に衝撃を受けとり「違い」に耐えられず、相手をやり込めなければ気が済まない、攻撃(彼らにしてみれば自己防衛)という圧力をかけ続けなければ自分の警戒感や不安は解消されないと信じているかのように振舞ってしまう人々もいるのです。
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世界で起きている民族間の紛争や宗教対立、人種差別や障害や病気を持っている人に対する根強い差別や偏見が消えることのない根底には、相手をよく「知らない」「未知」という形の「違い」のインパクトがもたらす「不安」と「不信」を消すことができないという葛藤が隠されています。
「転校生いじめ」「新入生いじめ」などは昔からよく聞きますが、でもそもそもなぜ彼らがいじめられるのか実際のところよくわからないことのほうが多いのです。いじめる側の人間性の問題だなどというばかりでは、この昔から続く攻撃を説明することはむずかしいかもしれません。これも同じように、「新しく」やってきた人、「なじみのない」人、「仲間ではない」「変わっている」と見なされる人が自分のそばにやって来たという「違い」は、ある人たちにとっては未経験という「不安」や「いらだち」として表現されてしまうのです。もちろんいじめる本人たちにそうした自覚はほとんどないといっていいでしょう。
「自分よりすぐれている」という「違い」もある人にとってはインパクトが大きいものです。学歴や能力、人気や人望、容姿、収入身分の差など、そうした自分との「違い」のもたらすインパクトは、容易に嫉妬や劣等感、敗北感に置き換わり、ハラスメントへと移行するエネルギーとなっていきます。
人には言えない苦労や失敗や挫折を重ねながらも必死に頑張って現在ある地位を得てきたような人にとっては、同じような艱難辛苦(かんなんしんく)を味わってこなかったり、そうした思いを軽視するかのように振舞う人間の存在は、その「違い」の落差ゆえに十分な脅威です。そのインパクトは、自分が大切にしてきた価値観を共有せず生き方を否定されているかのような「侮辱」や「怒り」に置き換わり、ハラスメントに発展するエネルギーとなっていきます。先輩‐後輩関係、上司‐部下、指導教育者‐生徒関係にみられる、いじめやしごき、パワハラ・モラハラなどにもよく見られます。
自分が耐えたり我慢していること、必死に努力してもうまくいかないことに対して、正反対の結果や反応を示す「違い」を持った人に対しても、同じよう屈辱と侮辱が生まれます。頑張ってダイエットして食事を制限してもなかなか痩せられない人にとって、細身でスタイルのよい人から、「ダイエットなんてできないし経験がない。むしろもっと太りたいぐらい。」などと笑って言われれば思わずムカッとしてしまいますね。
かのマリー・アントワネット王妃が、生活と飢えに苦しむ庶民の境遇に接し、「パンがないならお菓子を食べればいいのに」と言ったといいます(諸説あります)が、こうした無神経な言葉の背景にある階級格差という「違い」のインパクトが民衆の激しい屈辱と憎悪をかきたて、やがてフランス革命へと突き進んでいったことは周知のとおりです。
さらに、自分とは単に異なる意見や考えを持ったひとの存在、あるいは議論することに意欲的な人の存在だけでも、ある人にとっては十分な衝撃であり攻撃のターゲットになり得ます。何故なら「異を唱える」「議論する」という形で表現される「違い」を、そうした人は「自分にたてついている」「自分は否定されている」という形でのインパクトとして受け取ってしまいがちだからです。自分を守りたい人は、異なる考えを持つ人をやっきになって否定しようとハラスメントのターゲットと見なしてしまうのです。
セクハラの場合はどうなのでしょう。自分の人間関係上に、予想外に身近な存在として異性が現れた(会社で上司部下の関係になった、電車内での痴漢行為や飲み会の席上でのセクハラ行為など)という、いままでにはなかった状況という「違い」が、自分の潜在的な性的欲求やその他の日常生活上のフラストレーションを刺激したという点では、共通しているところがあるといえます。そして、相手の人格的尊厳を軽視し、性的な欲望を無理やり実現させたいとの身勝手かつ理不尽な要求なり行動は、れっきとした相手に対する攻撃に他なりません。しばしば痴漢などわいせつ行為を行ったのは、相手の服装が派手ないし挑発的だったことを理由にする人もいるのですが、これもまたそうした外見の「違い」に衝撃を受けた結果の、性的な行為という形を借りたゆがんだ攻撃的報復であると考えてよいかもしれません。
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今回は、人が「違い」からいかにインパクトを受けるか、ある人にとってはそれがいかに耐えがたいものになり得るかについて説明しましたが、実はもうひとつ人にはときに受け入れがたいインパクトが存在します。
それが実は「違い」とは正反対の「同じ」であるというインパクトです。なんだか矛盾しているようですが、それについては次回触れたいと思います。
最後までお読みいただいてありがとうございます。
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