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大人はわかってくれない ~ 小雪&大雪の頃'19


 11月も終わりにさしかかり、北国から初雪や積雪の便りが届き始め冬の到来を告げつつ、身に応えるほどの本当の厳しい寒さはもう少し先になるまでのほんのつかの間の時間、小雪という節季名にはそんなニュアンスが込められています。東西に長い日本列島には紅葉もまだまだこれからが本番という地域も多いですが、東京あたりのそれはもうすでに終わろうとしてます。

 冷たい北西の風が吹き抜ける日に街路樹の落ち葉が宙をちらほら舞い、枯れ葉がかさかさと足元にまとわりつきながら行き過ぎる光景は、毎年見慣れたものとはいいながらそのそこはかとないもの寂しさと控えめな自然の美しさにしばし心ひかれて歩みもつい鈍くなりがちです。

 少し話題はそれますが、和歌の世界においてこの季節ならではの木々の葉の色や姿の変わりようにもの寂しさの趣を感じ取り、美意識として評価されるようになるのは中世鎌倉初期、藤原定家らが編纂する「新古今和歌集」あたりからというのが定説です。それよりずっと以前、古代万葉の時代では、紅葉のその色鮮やかな美しさとダイナミックでミステリアスな自然変化の霊威への感動が歌の主たるモチーフであったといわれています。けれどもそれはもちろん古代の日本人に「寂寥」や「寂寞」といった心理感情が欠如していたわけではありません。膨大な和歌を収める万葉集の中でも、わびしさや貧しさ、寒さ病、別れや恋慕といった人生の苦悩を、終わり流れゆく季節と重ね合わせながら歌われているのを目にします。寂寥や寂寞という言葉は、静かで孤独なもの寂しさだけでなく、言い尽くせぬどこか満たされないざわざわしたこころの揺らぎともまた無縁ではありません。晩秋から初冬にかけての今頃は、そうした複雑な思いが私たちの胸を去来する一年のうちでも特別な季節であることに今も昔も変わりはないのでしょう。

 

 先日、いつも何かとお世話になっている先生が主催する勉強会に出席しました。深刻な心身の病に苦しむケースから、日常の暮らしで起こりがちなさまざまな困難や葛藤、悩みに至るまで、人生のリアルをディスカッションする場として、文字通り勉強になる機会を定期的にいただいているものです。

 そこで取り上げられた事例のひとつに、高校生男子を子に持つ母親からの相談がありました。成績優秀で一流大学へと進学するものと期待されていた子どもが突然こともあろうに、大学へは進学せず料理人になるための修行がしたいと宣言したことへの戸惑いと両者の対立がその内容でした。子を持つどの家庭でも起こりうる親子間の葛藤、わが子の将来のこのことを考える現実的、社会配慮的願望を持つ親の立場と、さまざまに心が揺れ動き漠然としながらも夢を語りたいがうまく切り出せない思春期の青年の心との溝はなかなか埋めるには難しい問題です。両者の心のひだのうちや人生の背景を読み解きながらどのようなかかわりと対話を進めるのがいいのかをさまざま話し合いつつふと、私は自分が大学生の頃家庭教師のアルバイトでしばらく通っていた4人家族(父母兄妹)の家庭のことを思い出していました。

 私が勉強を見ていた下の女の子が無事志望高校に合格し、本人や両親に喜ばれつつアルバイトを終え数日ほどたったある日、母親から連絡があり「相談に乗ってほしいことがある」と切り出されました。大学受験を控えた上の兄が勉強にまったく熱を入れず、学校でも問題児扱いされ毎日ただふらふらしているので、いろいろと言い聞かせてほしい、親とはほとんど口も聞かず自分達にはお手上げなのだということなのでした。何事にも熱心に取り組むまじめな妹の成功を目にしたばかりの親からすれば余計に兄の現状にあせりや危機感もあったのでしょう。けれども細かな事情も分からぬ赤の他人でしかもその高校生の兄とさして年齢も変わらぬ二十歳そこそこの当時の私にいったい何を語れというのか、正直とても困ってしまったのでした。

 けれども、食卓のテーブルを囲み母親と兄、(なぜか)妹と私の四人での話し合いで今でも覚えているのが、他人である私を前にしての多少の誇張なり照れもあったにせよ、その心配な様子とは裏腹の母親の息子へのいわば紋切り型ともいえる決めつけ的な評価と兄の心情への想像力の欠如でした。決して家庭や親になにか特別問題があるようには思えず、暖かく良い雰囲気を持った普通の家族でありながら、なおあるその深いギャップにやや大げさながら愕然としてしまったのでした。優しく控えめですらあった母親は、心底途方に暮れている様子だったのです。

 迷った挙句に私がしたことは、兄に言って聞かせるのでも母親の見方に異を唱えるのでもなく、つい数年前にそうだった自分が何を考えどんな気持ちを味わい、何にあれこれ思い淀んでいたのかをただできるだけ率直に話すことでした。そしてそれは説得を期待していた母親からすればおそらくがっかりするものであり、一方終始一言もしゃべらず誰とも視線を合わせようとしなかった兄は、話の途中ただ一度だけ私に和やかな視線と表情を向けてくれたのでした。多少なりとも共感するところがあったかもしれないし、そうでもないかもしれないなどと思いつつ、あの一瞬垣間見せた表情を母親は見ていて何か感じてくれたろうかと、ただそう思ったものでした。





 勉強会からの帰り、地下鉄の途中の駅で若い母親と女の子が乗ってきて、立っている私の横の空席に仲良く腰を下ろしました。小学校低学年らしき女の子はどこかの学校の制服にきちんと身を包み、行儀のよい利発な子どもに見えました。二人はしばしひそひそ会話を交わし、その後何やら神妙な面持ちでスマホ画面に没頭し始める母親の横で女の子はおとなしく座っていました。その向かい私の背後では、私が乗り込む前から二人の幼稚園ぐらいの女の子とその母親たちが腰掛けていました。ふと気が付がつけば、周囲にはなんとも理解できない二人だけのお遊びを楽しげに繰り広げる子どもたちとその傍らで気心の知れた母親同士会話がはずんでいる様子を、どういうわけだか私の前に腰掛けている小学生の女の子はそれこそ息をひそめるかのようにじっと、しかもやがて私が地下鉄を降車する段になって以降もやむことなくずっと凝視し続けていたのでした。その姿にはどことなくはりつめた緊張があり、膝の上の両手はぎゅっと白く硬く握られているのがわかりました。それでいてその眼や口元の表情には羨望とも諦観とも淋しさともとれる真剣なせつなさが色濃く浮かんでおり、まだ幼い少女がこんなにも複雑で陰影に富んだ表情をするものかと思わず見入ってしまったほどでした。もちろん何が彼女の中で起きているのかなどは推測のしようもありませんが、職業柄のうがった見方に過ぎないと片付けられないほど後々まで考えさせられるなぜか緊迫感のただよう光景でした。

 ただその時私は、傍らのお母さんは何か大切なものを「見逃した」かもしれない、と感じていました。彼女がだから母親失格なのでもスマホに見入ることが悪いのでもなく、親子とは言いながらすべてを観察し理解できるはずもないことも重々承知しながらも、でも私はそう感じたのです。



 

 私たちは日々ささいで大切なにかを見逃していて、その積み重ねが人の人生をときに難しくしていくのだと感じることがあります。人生とはさまざまな出来事を体験し、経験や学習や知識をつみ積み重ね人として成長していくものだ、人生は足し算でありいいことも悪いこともけっして無駄にはならない、とよくいわれます。分からないではありませんが同時に、私たちは日々多くを見逃して生きています。日々失いながらそれについては無知だったり気がつこうとしなかったりしながらもまた人生は進んでいるのだ、ということはつい見過ごされがちです。それは私が学生時代に経験したあの親子のときも、勉強会の事例で取り上げられた親子でもそうだったのでしょう。今でも日々の仕事を通じた出会いでそれを感じることがあります。

 カウンセラーとして私が可能なかぎり直接面接相談の方針を重視するには、そこに多様で複雑な「見逃せない」今があると思うからです。たとえアナログ的であろうとそこを丁寧にすくい取っていかなければと考えるのです。私たちの心と身体は驚くほど多彩な機微や表情、そして情報を発しているものです。それを感じ取りながら対話を続けていくことはとても根気のいる作業です。子供や青少年の心情は、とくに私たち大人が考えている以上におどろくほど日々揺れ動き、そして変わっていくものですが、彼らがそれを自覚しうまく整理して周囲に発することはとても難しいことです。けれども誰かがそこを見逃してしまったらもう二度とチャンスはめぐってはこない、そんなことだって人生には起こっているのだ、とも日々考えさせられてしまいます。

 


 自戒も込めて言わなければいけないことですが、昨今なにかと頻繁に用いられる「向き合う」「寄り添う」「見守る」といった困っている人々に手を差し伸べる意味での説得力あるように思える言葉は、そう簡単に実践できることではありません。なぜならそれらにはとても時間と手間暇が必要になるからです。いまどきの便利でお手軽な手段や媒体を駆使したやりとりに頼るだけではけっして十分とはいえない、心のひだの奥底をあれこれ手繰り寄せるそんな手間と暇を惜しまないことにほかならないからです。  

 そうした言葉は、本来文字通りの意味で使われるべきです。「向き合う」は相手と直接に会って話し合うことであり、「寄り添う」は本当に隣にいて見守り対話することであり、「耳を傾ける」とは予断を持たずに相手の言葉の背後の世界をさまざま想像しときにそこへ深く浸ることであって、それらはすべては何かを見逃しているのではないかと疑い、時間と手間をかけ、繰り返し心を配ることにほかなりません。けれどもそれはとりわけ今の社会が一番不得意とするところのように思えます。さまざまな「大人の事情」がそれを許さないのです。本来力を持っているはずのそうした言葉が、どこか周囲で支える側の自己都合やタイミング、迅速な目標達成結果重視を満たす方便として耳ざわりがいいだけのものごとなり施策に変わっていってしまっている気がします。相手に共感し支えていくための「どうして?なぜ?」が容易に「どうして!なぜなの!」に変わってしまうものなのです。

 

 向き合うとは、寄り添うとは、見守るとは、「見逃さない」よう辛抱強く心を配ることです。不可能なこともあるでしょうけれど、そうした意識を強く辛抱強く持たない限り人は本当には動くことはできません。そしてそれはまずもってまだ幼かったり若いうちに、家族や近しい相手がすぐそばにいる間だからこそかかろうじてできることなのかもしれないのです。見逃さずにいられるチャンスは大人になっていけば次第に減っていき、やがてそれは周囲の他の人々にゆだねられていきますが、見逃すことに慣れてしまっているその後の社会関係においてあれこれ求めるのはやはり難しいことです。私たちのようなカウンセラーが存在する理由のひとつがそれです。子供に罪はありません。大人の世界ですらできないことを子供や若者には求めようとしたり、彼らに対しては何とかできるはずだと安易に思うことこそ、今まで「見逃して」きたことの証しでもあるのです。

 心配ない、時間なんてたっぷりあるから問題ない、そう胸張って誰しもに応えられる大人が多く生きる社会が本当に豊かな社会なのだと痛感します。誰だって人知れず誰かの助けを借り、誰かの手を煩わせ、誰かの不幸の原因にすらなりながら、それでも生きるのですから。



 

 地下鉄を降り夕刻の路地を歩いていると、後ろから次第に近づいてくる二人乗り自転車の親子の会話が乾燥した空気に乗ってよく響いてきました。

「今日どうだった?楽しかった?」

「うん楽しかった」

「お弁当全部食べた?」

「全部食べた」

 後ろ座席の子供の弾むような返事がこだまします。

「えらい!」「うん」

「で、お弁当美味しかった?」期待げなトーンでたたみかけるお母さんに

「...」

 期待したタイミングで期待した返事が返ってこずに母親ばかりか私もあれ?と同時に、私の横をすーっと通り抜けていくママチャリ。うしろ座席の男の子はがっくり肩を落としうつむく一方、それを背中に感じ取るお母さんも無言のまま。コメディのワンシーンを見るようなその絶妙な間に私は思わず笑いをこらえました。

 枯れ葉を舞い上げながら夕闇の家路を急ぎ軽快に疾走していくママチャリ親子の姿はほほえましく、素敵に見えました。

 今日はいろいろな親子からいろいろなことを教わった、そんな気がしていました。




 

「大人は判ってくれない」(フランス、1959年)

製作・監督:フランソワ・トリュフォー

脚本:フランソワ・トリュフォー、マルセル・ムーシー  

主演:ジャン=ピエール・レオ、パトリック・オルフェ





 “学齢期の子どもは、内心感じ考えていることを的確に表現する言葉をいまだ会得してはいない。

 表面上は子ども子どもして屈託なく、あるいは葛藤なく見えても、内面ではこの世の現実の何たるかを次第に知り、事の本質の光と影を次第に垣間見知って、言語化を十分できないながらも、生について、現実的にいろいろ感じ思いめぐらしている、それは今日とて同じであろう。”

 (『ジェネラリストとしての心理臨床家~クライエントと大切な事実をどう分かち合うか』 村瀬嘉代子 みすず書房)






最後までお読みいただいてありがとうございます。

メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂

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by yellow-red-blue | 2019-11-23 09:04 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、仕事について、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。記事のどこかに、読む人それぞれの「わたし」や「だれか」を見つけてもらえたら、と思っています。


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