2020年 01月 21日
人は見かけによる?よらない?・スキーマという呪縛① ~ 大寒の頃’20
大寒を過ぎても家の窓にいまだ結露が張る気配のないところをみると、やはり今年は暖冬なのでしょう。個人的にそれほど暖かいという実感はありませんが、暖冬の影響は列島各地で聞かれます。例年なら日常生活に支障をきたすうんざりするほどの積雪があるはずの豪雪地域ですら、積雪ゼロに近いところもあると聞きます。けれども、スキーや冬の雪観光で経済が潤ってきたような地域からすれば、雪のない冬は痛しかゆしを超えてまさに死活問題、今年は暖冬でよかったですね、などと能天気に済まされない切実な悩みなのです。
数年ほど前、地球温暖化対策や省エネルギーの推進に関するある地元自治体の会合に出席したときのことです。猛暑の続く真夏のその日の議題のひとつとして、都心部の深刻化するヒートアイランド現象が取り上げられ、問題点や健康に与える影響、対策等が盛んに議論されました。コンクリートやビル、自動車、エアコンといった熱源から排出される大量の熱と、湾岸にそそり立つ高層ビル群が海からの自然の空気や風の流れを遮断する影響で、さながら直射日光にさらされ続ける金魚鉢状態に置かれる真夏の都心の不快さが身に染みていた私も、門外漢ながらその障害と早急な対策の必要性について少々意見したものでした。
ところが、そんな議論を聞いていた専門家のある大学教授の委員から、そう話は単純ではないんですよとやんわり諭されたのでした。
先生によれば、たとえばヒートアイランドは確かに問題ではあるが、そうした現象を引き起こす都市は、同時に高度に「蓄熱機能」を備えた街でもあり、それはすなわち、冬の時期には逆に保温と発熱の装置として気温の低下を抑え、結果として暖房費などのエネルギー消費を抑え省エネや地球温暖化防止に貢献していること、さらに、そうした暑い時期に発生する熱を冬期にエネルギー消費の著しい寒冷地に振り向けることができれば、人々の快適な暮らしに資すると同時に、これまたきわめて有効な省エネと地球温暖化対策になりうるのだということでした。
地球温暖化と聞くと、東京のような地域に住む人間は蒸し暑く不快な夏にどうしても関心が向きがちですが、長い極寒の季節を過ごさねばならない多くの寒冷地を抱えるわが国の温暖化や省エネ対策は、冬の視点を忘れてはならないというわけです。世界に目を向ければ暑さが原因で命を落とす人々よりも寒さで亡くなる人の数のほうがずっと多いというのが現実です。自分の一面的な理解からくる誤解や認識不足を痛感したものでした。
よく考えてみれば、日本は小さな島国にもかかわらず、亜熱帯の様相を呈する地域から世界屈指の豪雪地帯まで他国に類を見ないほど多様な自然環境の中で実際に人が暮らしている国。暖冬や昨今の世界的な異常気象や大規模森林火災の慢性化長期化といった、深刻化すると言われている気候変動や地球温暖化の問題については、我々がまだ知らない実に複雑な背景や原因が絡んでいることをあらためて思い知らされます。
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随分とむかしある方から、『上手な文章を書きたいならすぐれた児童文学作品を読んでごらん』と助言をいただいたことがありました。知的満足を得るための大人むけの格調高い文言や凝った表現にやたら塗りたくられたスタイルよりも、相手の心に届くシンプルな文章作りに努めなさないということで、いまだに反省させられっぱなしの私には実に耳の痛い話です。
説明、講釈、説得よりも、誰にもわかりやすい言葉でシンプルに伝える大切さを味わう。大人目線だけでは決して通用しない子どもの世界を描く児童文学の作家は素晴らしいなと心から思います。そしてそれはとてもむずかしいことなのだとも思います。とりわけそれは、児童向けとはいいながら、大人目線のヒューマニズムや人権意識、教育意図が押しつけがましく感じられてしまう作品にしばしば出会うとき、いっそう強く感じてられてしまいます。
そんなわけで、以前から児童文学作品を時折手にとることにしています。仕事であれ日常生活であれ、なにやらやっかいごとを抱え頭が疲れているようなときに読んだりすると、童心にかえり物語の舞台に自分もいるかのような気分になり、生き生きとした懐かしさと爽快感がよみがえり、文字通り身も心も癒される思いがすることもしばしばなのです。
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先日も、図書館で偶然目にしたタイトルに惹かれ手に取り、そのまま最後までいっきに読んでしまった素敵なアメリカの児童文学作品がありました。読み終わった後に、本の著者が若い世代の黒人女性の児童文学作家であることに、私は一瞬驚いてしまったのでした。作品の登場人物や舞台設定、話の内容からすれば容易に想像がつくにもかかわらず、一瞬であれ私が意外性を覚えてしまった背景には、私の意識の中に絵本や児童文学作家のイメージについて、ある一定の「思い込み」があったことがわかります。
つまりたとえば、絵本や児童向けの作品の著者は「白髪交じりで眼鏡をかけ、いつも優しく微笑みかけているような、日本人か白人の年配女性」というイメージです。男性作家やアフリカ系、ヒスパニック系の作者も数多く存在することを知っているにもかかわらず、そうしたある種の先入観を持って読んでいたために、「若手の」「黒人の」というところに無意識のうちに引っ掛かってしまったというわけです。
こうした個人的な思い込みのもたらす日常の小さな驚きの経験は数知れません。主人公の黒人警官とその家族、コミュニティに暮らす雑多な人々が織りなす人間模様をリアルかつ抒情性豊かに描くギリシャ系アメリカ人作家、素晴らしい正統派フレンチを堪能後テーブルに挨拶に見えた若い女性シェフ、爽快で成熟、甘美極まりないマエストロ(巨匠)の音の響きを紡ぎ出す気鋭の女性指揮者と無名のオーケストラ、褐色の肌を持つ寿司職人、青い目の日本舞踊家、子どもを優しく巧みにリードしていく男性保育士、クラクションをやんわり鳴らし注意を促しながら狭い通りで大型ダンプを巧みに操る女性ドライバー、子育てや家事に手腕を発揮する主夫、外科医と紹介され、あとから医者は奥様の方だったことがわかったご夫婦、幸せそうに手をつないで街中をめぐる同性カップル...
今どきこうした情景などめずらしくありませんが、それでもなおふと自分の中の常識と照らし合わせた際に一瞬ズレを感じるのは、それほど何らかの「思い込み」が「前提」として意識の奥底に残っていたからでしょう。言い換えれば、それらは今ではあたりまえになった、(自分にとっての)かつての「非常識」の痕跡なり名残りといえるでしょう。
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このように、私たちが普段なんらかの判断をしたり行動したりする際、オートマチックに前提として参照するような思考や認知の枠組みを専門用語でスキーマと呼びます。スキーマとは、経験や学習によって形成されてきた知識体系の構造で、ある種の思い込みや信念、先入観といったようなものです。
社会文化的背景を持った普遍的(多くの人が共有する)なスキーマもあれば、カウンセリングなどで取り扱うこともある、より私的な精神領域にとどまるスキーマもあります。誰もがこうしたスキーマを様々な形で持ち、影響を受けながら暮らしています。
たとえば上で私の個人的な経験として挙げたさまざまな例は、主にジェンダーや性の多様性における典型的な社会文化的背景に基づいたスキーマからくるギャップといえそうです。
ほかにも人種、民族、移民や宗教にまつわる偏見や差別、障がいや疾患を持つ人への誤解、世代間格差や貧富の格差の広がりといった、近年つとにクローズアップされる社会文化的課題の根底にも、このスキーマの問題は潜んでいます。そうした問題に対する社会的認知も対策や改善も進んでいる反面、変化はそう素早くは訪れず、逆に反動や揺り戻しの現象にも事欠きません。実はそれほどこのスキーマは堅固であり、容易に変化するものではないからです。
けれども、こうしたスキーマについて、差別的前時代的発想だとして単純に悪者扱いにしたり、そうしたスキーマを持つことがあたかもその人の人間性の欠陥であるかのように決めつけることは正しいとはいえません。
スキーマとはいったい何でどのような役割を持っているのか。なぜ私たち人はスキーマを持つのかを理解したうえで、よりよい社会を築くためのスキーマはどうあるべきなのかについて考えなくてはならないのです。
次回は、そのスキーマについて述べたいと思います。
・リサ・クライン・ランサム『希望の図書館』松浦直美/訳 ポプラ社 2019年
・ジョージ P ペレケーノス 『変わらぬ哀しみは』 横山 啓明/訳 早川書房 2008年
・ミェチスワフ・ヴァインベルク:交響曲第2番/第21番 《カディッシュ》
ミルガ・グラジニーテ=ティーラ指揮、ギドン・クレーメル(ヴァイオリン)
クレメラータ・バルティカ/バーミンガム市交響楽団、グラモフォン 2018年
最後までお読みいただいてありがとうございます。
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