2020年 02月 19日
非日常の日常・スキーマという呪縛③ ~ 雨水の頃'20
人はみなそれぞれに違います。歩む人生もまたそれぞれです。もともと持って生まれた生物遺伝学的ないわば先天的素因だったり、生育環境の違い、幼い頃から親家族や周囲から受けてきた教育やしつけ、成長過程でのさまざまな学習・経験、日々体験する日常の出来事といった、さまざまな条件なり事情が網の目のように複雑に絡み合い関与しながら私たちの人格、パーソナリティは形成されていきます。したがって、それぞれの人生の過程で私たち個人に備わるスキーマもまたきわめて多彩多様です。
個人的なスキーマは、自己や他者、世の中や人生についての動かしがたい信念や固定された概念であり、ときに絶対服従ともいうべき強固な人生ルール、疑問を挟む余地のない「事実」として私たちの思考や行動パターンを支配しているマイ・ルールといえます。
人生においてそれなりに健全なスキーマを柔軟に行使しながら生きることが望ましいのでしょう。けれども、前回も述べた通り、スキーマにはひどく柔軟性に欠けるところがあって、それは個人レベルでのスキーマもまた同じです。つまり、そうはなかなか上手に働いてくれないのが私たちが持つスキーマなのです。過度にポジティブだったりネガティブだったり、現実とはつり合わない非合理的で極端な思考や行動パターンを生み出してしまうような個人的スキーマが染みついてしまうと、人生を生きることがとてつもなく困難なことのように感じられてしまいます。
*
とりわけ、過去において肉体的精神的虐待や情緒的なネグレクト、貧困といった逆境的困難、問題ある社会生活環境や対人関係に継続的にされされてきたような人、あるいはまた非日常的で異常な災害や事故、犯罪に巻き込まれるなどの強烈な被害体験をした人にとっては、そのあまりに過酷な体験に圧倒され深刻に傷ついてしまった自律心や自尊心、心深くに刻み込まれてしまった自己否定的感情や根源的恐怖、対人不信ゆえに、不適切で生きるにつらいスキーマが形成されていきます。そうした結果としてその後の人生において心身の健康や社会適応に悪影響がもたらされ、場合によっては情緒・認知面での深刻な疾病や障がいにつながるケースもあることが知られています。
「人生は苦痛でしかない」「だれも信用できない」
「失敗や叱責、間違いは決してあってはならない」
「私は欠陥ある人間だ。だれも相手にしてはくれない」
「安全な場所などない」「私は汚れた存在だ」
個人的スキーマは客観的にはこのような表現として理解されますが、ほとんどの場合、本人が自覚して明確に言葉にできるようなものではなく、無自覚的にこれらに沿った行動、判断、振る舞い、対人関係を通して「選択」されていきます。
トラウマなどを受けたことによる根源的な恐怖、不安、恥辱感や自責感情と、そこから導き出されるスキーマを基底とする行動や振る舞いは、周囲からはしばしば理解しがたいものであり、本人もまたそうした不適切なマイ・ルールを持って生きていることを容易に自覚することはできません。こうしたマイ・ルールを持ちそれでもなんとか生きていくことは、絶えずブレーキを踏んでいることに気づかないままアクセルを吹かせ前に進もうと必死になるような苦しいものです。
けれども本人にとっては、スキーマに基づく不適切で場合によっては破滅的ですらある人生観や生き方のほうがむしろ当たり前の「日常」なのであって、そうしたことに疑問を持つことを知りません。そうすることは人生を生きる上でその人なりの精一杯の対処法であり、自分の身を護るためのもろいけれど偽らざる心の鎧だからです。
非日常的な世界に対処するためのスキーマが当たり前になってしまった人の目には、他者が普通に受け入れている日常こそが「非日常」であり、そこには恐怖と不安、乗り越えるにはあまりに高いハードルが日々待ち構えているようにしか映りません。そして結局その日常にすら逃げ場がないとすれば、残された逃げ場は自分のこころの中にしかなく、そこへ退避しひたすら閉じこもることしか他に道は残されていないのです。
*
カウンセリングを通して、私はこうしたスキーマにまつわる困難な状況に至るには、必ずしも今まで述べてきたような誰にもわかりやすいあまりにひどい体験や過去を経る必要はなく、普通に暮らしている(ように見える)多くの人もまた、その人なりのオリジナルな人生の事情なり体験からくる、他者からは理解困難なスキーマを抱え悩んでいるのだということを知りました。
人間である限り私たちは誰もがスキーマを抱え生きているのであり、そのすべてが健全なものであるとは限りません。そのことが意味するのは、社会を揺るがせ私たちを不安にさせる虐待やいじめ、ハラスメント、凶悪犯罪、ひきこもりといった痛ましい社会問題が根絶に程遠いのは、自分達とはまったく無関係でかけ離れた、まともでない人間の所業なのではなく、それらがまさに誰の運命にも起こり得る(た)共通の課題であり、被害者と加害者とはある意味混然あるいは同居しうるのだ、という目をそむけたくなる現実があるからなのだと感じます。
社会に生きている以上、そこで起きるさまざまな現象の背景に私たち一人ひとりは直接的間接的に「加担」しています。そうである以上、今身の回りで起きている様々な問題について私たちは、表面上の異常性ゆえにそれは自分達とは無縁の特別事情でしかないと目を背けるのでなく、私たち自身にとても今ある問題であることを真剣に受けとめることが求められています。
最後までお読みいただいてありがとうございます。
メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂
