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9年目の彼方、置き去りにされるこころ ~ 啓蟄&春分の頃'20


 3月11日を前にするこの時期になれば、どうしたって数多くの犠牲者を出し国民すべてを恐怖と絶望のどん底へと追いやり、世界を震撼させた九年前に起きた大災害のことについて考えずにはいられません。

 この9年のあいだ、誰もが「決して忘れない」「頑張ろう」を表明し、「復興」「希望」「いのち」にまつわるあまたのドラマと思い出を語り出しているかのようです。そうした中には、無傷ではなかったにせよ安全と安心の此岸に留まってこれた側の楽観的でやや無神経な振る舞いにすぎないのではと感じられてしまうものも数多くある一方で、それは少し厳しすぎる見方かなとも思います。それほどまでに、あの体験は程度の差はあっても誰の心にも圧倒的な衝撃でした。何かをせずにはいられない、そうすることによってあの出来事を忘却しないまでも、前に進むに特段支障のない、健全な距離を保った過去の記憶としてとどめておきたいとの無意識的な欲求は、人として無理からぬものだからです。

 

 いっぽう、実際に被害に遭われ悲嘆と絶望の極に置かれた多くの方々のなかでも、無力だった自分と失われた尊い命、故郷への思いは尽きず、感傷や郷愁、自己憐憫に浸りながらも、その自身を外に向け隠さず振舞うことのできる人々はまだ幸運であるといえるかもしれません。それは遅々とした歩みであったとしても、圧倒的な喪失からゆるやかな回復軌道へと一歩一歩踏み出す力が芽生えている証であるといえるからです。

 しかしそのどちらにも属することのかなわない、抱えきれないほどの苦悩に押し潰されそうになりながらもひっそり誰にも知られることなく沈黙するまま、必死に地を這うように生きるほかない数多くの人々こそが、私たちが全神経を傾けて注視し忘れてはならない存在です。9年たった今こそ白日の下にさらされなければならないのは、そうした存在を拒む日常へと没頭しがちな私たちの心そのものです。





 人が他者を本当に理解するためには、他者が感じ方や行動、振る舞いの原則として抱えている準拠枠(前回ブログでも取り上げたスキーマもまさにそうです)からの視座で、自分たちも物事を見てみる、とらえようとしてみることは大切です。どう彼らと同じように内的に経験すればよいのかを考えるとき、私には忘れられないある本の一節があります。それは東日本大震災とはまったく関係のない、それよりも70年も前の第二次世界大戦中に起きたホロコーストを生き延びた人々についてのある精神分析医・心理学者の考察ですが、それはまさにこの東日本大震災を生き延びた人々の激越な苦しみの一端をかろうじてうかがい知る助けになると考えるからです。

 とりわけ、復興の「総仕上げ」という巧みな言葉のオブラートに包まれた、そろそろいい加減次のステップへ、正常軌道へとの無言の肩たたき圧力と「いつまでそうしているの?周りを見れば?」という無慈悲な空気とが、「忘れない」「被災地に寄り添う」の言葉とは裏腹にひときわ強烈さを増す9年たった今だからこそ。そして同じような苦悩が実は現代社会の私たちの周囲にもまたしばしばひそんでいるからこそ。

 

 

 

 “耐えることができないことを耐えるよう強いられた子供たちの恐るべき沈黙!彼らの苦悶はものを言わない。利用しうるすべての力を動員して彼らは、彼らに取り付いては離れぬ苦悩を、あまりにもむごいので口では言い表せぬ悲しみを魂の奥底に埋めてしまわなければならない。そしてこれは生涯変わることがない。あの破壊的な出来事が起きていたあいだだけではなく、それに引き続く戦争直後の時期だけでもなく、われわれ誰もがあの怨念、深い憂慮、怖れを言葉で言い表すのに苦労する児童期全体だけでもなく生涯にわたって、この種の傷口はその痛みがはなはだしく、広範囲にわたり、いつ、どこででも口を開くので傷を受けたとき以来全生涯が過ぎ去ったあとでさえ、それについて語ることは不可能であるようにように思える。その傷に苦しみ続ける人びとにとって、それは過去におきたことではない。その痛苦はそれが起きた日と変わらぬ現在性、現実性をともなって、あれから何十年たった今も持続する。一切の外見は正反対の様相を呈していても、これら過去の出来事の犠牲者たちにとって現在正常な生活を送ることは不可能なのである。

 “ひとびとが話すのをあれほど嫌がった理由の一つは、いかなる言葉も彼らの身に起こった出来事を表すのにふさわしくない、いかなることばもその経験を鎮めるのに無力であると彼らが信じきっていたことである。もっと深い理由は、他の人びとが彼らにその身に起きた恐るべき出来事と和解してほしいと願っていることに彼らが気づいている、少なくともそう思っている、しかもそれは不可能であることを彼らが知っている、ということである。彼らの話に聴き入る人たちは、犠牲者が受けた極限的な苦しみを理解しているつもりになっているが、犠牲者のほうは彼らが理解しているのはせいぜい事実だけであって、彼の苦悩の本質についてはまるでわかっていないことも知っている。とすれば、それについて話してどんな良いことがあるというのか。(中略)

 経験したとてつもない喪失が彼らに残した感情はこれらの犠牲者にとってあまりに圧倒的で、今にも彼らを呑み込もうとする。そして自分の悲しみによって溺死させられないように彼らが築いた防壁を崩壊させようとする。彼らはこのすさまじい破壊が終わった後みずからの生を作り出していくという困難な仕事を引き受ける能力を保持するために、こうした防壁を築かなければならなかった。それは骨の折れる努力を要したが、うまくいってもきわめて不確かな成果しか生まれたなかった。それゆえに、彼らはこころのバランスがくずれそうになるのがいやなのだ。

(ブルーノ・ベッテルハイム 『ホロコーストの子どもたち』 みすず出版、森泉弘次 訳「フロイトのウィーン」より)

 


 わが国は広島、長崎を経験したにもかかわらず、核のある世界をいまだ積極的に拒絶しようとはしません。わが国が誰に臆することなく世界に核廃絶を要求する資格のある唯一の存在であろうにもかかわらず。8月6日9日に毎年どれほど犠牲者を追悼し反戦と核廃絶を決意し平和を宣言をしようとも、そうした方針から脱却せずに済ませているのとおなじように、福島のあとでさえ私たちは原発NOを選択できませんでした。そうした意見を持つ人々は少なくないにもかかわらず。

 でもそうであるならば、せめてなぜそれを良しとしいまの生き方を続けていくのかについて、私たち一人ひとりが責任ある釈明を、自分自身と犠牲者に、そしていまだ彼方に置き去りにされたままの人びとに対して持たなければなりません。それが生かされた此岸にいる者の責務であり、「決して忘れない」という言葉の真の含蓄だと考えます。

 私たちが問われているのは、被災された方々に対して直接何ができるかということよりむしろ、私たちそれぞれの人生あるいは日常の暮らしや社会のあり方について何を感じ選択し、どう行動すべきなのかをあらためて真剣に考え直し、明確にしながら日々を生きることなのだと感じています。






最後までお読みいただいてありがとうございます。

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by yellow-red-blue | 2020-03-08 20:15 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、仕事について、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。記事のどこかに、読む人それぞれの「わたし」や「だれか」を見つけてもらえたら、と思っています。


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