2020年 06月 10日
「わたし」であるとは?③ ~ 芒種&夏至の頃’20
人は人生さまざまな時期や状況において、自分について考え悩み苦痛や葛藤を抱えるが、それはいったいどういうことなのかが、前々回のブログのそもそもの出発点でした。そして前回そのとっかかりとして、私たち人間の存在を構成する身体と精神という2つの次元のうち、身体にとっての基礎体温という切り口から考えました。
私たちには基礎体温という、周囲や環境がどうであれ、自分の身体を常に正常な状態に保ち生存し続けるために必須の微動だにしない機能が備わっており、それは普段決して「感じることがない」「感じない」ことに決定的に重要な意味がありました。
他のありとあらゆる状態から弁別することによって、健全な身体を「定義」しておく必要があったからです。
この「あるのだけれどない」ゼロの感覚は、人類が生存・適応するために長い年月をかけて獲得し進化させてきた卓越した自己管理能力のひとつだったのですが、では精神領域においてもまた何らかのそうした機能が備わっているのではないだろうか? 精神にもまたいわば基礎体温(平熱)のようなものがあるとするとそれは何で、それは私たちにどのように役立っている(きた)のでしょうか?
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少し考えてみれば精神という言葉は、心、魂、意識、良心などさまざまな他の名称で呼ばれたり使われますが、私たちが普段あまり深く考えることのないこれら自体が、言ってみれば「ある」のだけれど「ない」ものといえなくもありません。ただこれらは基礎体温とは性格が違うようにも思えます。
心(ここではそれらを代表として「心」にします)とは抽象的な概念です。身体器官そのものではありませんが、脳という中枢神経系を担う身体器官(臓器)と密接に関連しています。米国のある著名な精神医学研究者がかつて、「踊り手と踊りの区別がつかないように、脳と心も区別がつかない」と巧みに表現しましたが、心とは言ってみれば、脳のさまざまな働き、活動を意味するものであって、脳と心は不可分のものです。脳=心ではなく、同じものについて物(臓器)としての側面を脳と呼び、その活動や機能の産物・現象としての側面を心と呼んでいるもので、人間が生きているかぎり、両者ともに他一方失くしては存在しえないものです。
いまだ解明されない未知の部分も多く、複雑で緻密な構造とメカニズムにおいて他の臓器や身体器官を圧倒する、ひとつの広大な宇宙ともいえる脳で起きるさまざまな活動や現象を破綻なく正常に機能させ、身体における基礎体温のように健全な心を「定義」しておくために、他のあらゆる状態を弁別する役割を担うもののひとつが、ひょっとして「わたし」なのではないかと考えています。前々回のブログのエピソードは、幼い私がその片鱗を(意味も分からず)垣間見た瞬間なのかもしれません。
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ブログの最初から「わたし」について少しずつ触れている(タイトルからしても)ので、何だそんなことか、と思われるかもしれません。けれども、私たちが普段「わたし」として意識するものは、たいてい過去や今現在、あるいは将来の人生や、日常生活や社会生活において直面するであろう問題や出来事、人間関係について、悩んだり精神的に不調や苦痛を感じたり、逆に幸福感や達成感、優越感を抱く際の、自分あるいは周囲について評価する「わたし」です。たとえば「わたしは~と思う」「~したい」「わたしは~だ」などと内心思ったり外に向かって表明する時のように。あるいはまた、唯一無比の存在の主体として、他者や社会という集団世界の中で相互に絡み合い葛藤しながらもそれぞれに生きる価値を見出し人生を歩む「個人」という実存的解釈としての「わたし」です。
ただ、本来の「わたし」はそれらとは次元の異なるもののような気がしています。むしろちょうど基礎体温のように、私たちの複雑な脳の働きすべての根底に無意識に通底するような内的システム、ある種の持続的な調子(リズム)、無機質的な機能なり状態を指すようにも思えます。あるいはまた、他者との意思疎通や状況理解、環境調整といった高度なコミュニケーション能力と社会性を獲得するために必要な、自分と他人との間を線引きする見えない「境界線」かもしれません。定義でき「ない」こと、意識でき「ない」ことこそが「わたし」の本質であり「わたしである」という状態かもしれません。
すべての人に基礎体温が備わっていても、人それぞれ顔かたちから体格、体質、身体能力までひとりとして同じ人間がいないように、「わたし」はすべての人にありながら、ひとり一人の「わたし」はすべて別物です。
その「わたし」は、基礎体温とて常に一定ではなくある範囲内を変動することもあるように、「わたし」も生活をしていれば多少の変動はあって当然で正常といえます。しかし、なんらかの原因や機序からある一定の範囲を超え、「わたし」が高すぎたり低すぎる(多すぎたり少なすぎる)状態を引き起こす状況に遭遇したり継続的に置かれたときに、私たちの心はなんらかの不調に陥るでしょう。私たちは「わたし」を直接には感じ取ることができない。「わたし」というゼロ点から逸脱するような事態や状況に仮に「わたしは~」というラベルを加え貼りつけることによって「わたし」を理解しているだけなのかもしれません。
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「わたし」についてはいまだよくわかっていません。そもそも私たちが考えているような「わたし」は存在しないのではと思えなくもないし、「わたし」という言葉を使っているから余計に混乱してくるのかもしれません。
なにかとっかかりのようなものを探りたくて書き始めたのですが、まだたくさん考えていることがあってきちんと整理できていません。尻切れトンボのようで申し訳ありませんが、いずれこの続きを書きたいと考えています。
「わたし」を考えることは、精神医療や心理臨床の場でもとりわけ重要なテーマだと感じていますが、それは私たちの実生活や人生においてもまたしかり。まだまだ勉強が必要です。
最後までお読みいただいてありがとうございます。
メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂
