2020年 07月 07日
学校に想う ~ 小暑の頃’20
一昨日7月5日、東京では東京都知事選挙が行なわれた日でした。実は私、選挙が好きなんです。そう書くと私がよほど今の都政や政党・政治に関心が高い人間なのかと思われるかもしれません。関心はそれなりに持ってはいますが、実際はそういうわけでもなく、実は選挙投票所へ行くことを楽しみにしているのです。
投票所といえばたいていは小学校や中学校、各種の集会所といった地元の行政教育機関が会場に指定されます。私の指定投票場所も地元の小学校なのですが、その誰もがかつて通っていた昔懐かしい学校の敷地や校舎内に堂々と(!?)入ることができる滅多にない機会ゆえに、投票行動をともなう選挙日がひそかな楽しみなのです。
サイズもそれぞれ、青や赤などに縁どられた上履きがきちんと収納されている下駄箱がずらりと並ぶ正面玄関を抜け、投票会場はこちらですの表示に従いながら長い廊下をたどっていく。窓の外に広がる校庭を眺め、壁一面に貼られた絵や習字、並んだ小さな机が入口窓から垣間見える誰もいない教室のいくつかを通りながら、学校のなんともなつかしい香りと空気を味わっていると、まさしく過去にタイムスリップしたかのようで、さまざまな記憶とともに胸の奥から静かに押し寄せる郷愁と感傷の高まりがなんとも心地よく感じられます。
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敷地内に堂々と入れるめったない機会、と書きましたが、それは独身者や子供を持たなかったりあるいはすでに子どもが大きくなった部外者ともいえる大人達に限らないようです。昨今きわめて厳格になった児童・保護者に対する犯罪防止等のセキュリティ対策や不測の事故災害対策等の観点から、ここ数十年の間で学校教育機関の地域への開放事情はきわめて限定されたものになったようです。
かつて少なくとも私の記憶している限りにおいて、開校時放課後休日問わずたいていフリーアクセス的に地元民に広く開放されていた場所が今では、関係者以外は言うに及ばず、状況次第とはいえたとえ保護者や関係業者と言えども、事前連絡や身分提示を経たアクセス制限が厳格に適用される状況があり、放課後など授業時間外の子どもの利用も昔に比べてずっと制限されていると聞きます。
少し以前の話になりますが、ひさしぶりに自分がかつて通っていた小学校を放課後の時間帯に訪れたことがありました。校門がどこもしっかりと閉ざされ、入口付近を中心に民間のセキュリティ警備担当者らしき人が巡回し目を光らせていたのを覚えています。私が懐かしさからしばしひとり近くにたたずみ児童達の姿を眺めていると、かなり警戒するようにじっとこちらをにらみつけていた(ちょっと主観がはいってますが)のには、少なからずショックというか多少憤懣やるかたなさも覚えたものでした。警備スタッフの存在が子どもたちや保護者に安心感を与えていると理解しつつも、やはり時代は変わってしまったと寂しく感じたことも事実でした。何人か子どもたちは遊びに来ていましたがその数は多くはなく、いい天気の日だったにもかかわらず彼らは校庭ではなく体育館で遊ぶよう指導されていました。できるだけ大人の注意が行き届く範囲で子供たちにいてほしいという安全配慮がなされていたのでしょう。
時代が変わったとは使い古された言葉で私もついそうした思いになりがちにもなります。それがどちらかといえば、いい方向へよりも悪い方向へ向かっていると意識されるのは、私自身が年齢を重ねるにつれ時代の流れにうまく適応していないからではと感じてきました。つまりは、実際はそれほど悪くはないし過去に比べても多くは改善しまずまずうまく機能はしているのではないかと。
たとえばいま述べた昨今の地域に閉ざされた学校空間にしても、私たちの暮らす社会の安全がそれほど脅かされているかと言えばそのような根拠は存在しません。むしろ各種の統計データが示す結果は真逆であり、犯罪発生件数等は常に戦後最少を更新し続けており、青少年犯罪や凶悪犯罪も減少の一途をたどっているのが実情です。つまり少なくとも犯罪の発生件数という意味における実際上の安全は一層高まっている傾向にあるにもかかわらず、多くの人がそうとは感じていないということになります。これは、ニュースや報道されている情報に接するかぎり不穏でショッキングな出来事や話題には事欠かないがために私たちが持ってしまうバイアスの一つといえます。それが証拠に、では実生活で危険を感じたり、状況が悪化している事実を確認できるのかについて個別に調査確認していくと、それはむしろ否定する人が多かったというような調査研究結果も出されており、事実と実感、空気感との間の矛盾やギャップは以前から指摘されていることなのです。
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家庭と同様健全な自我の発達を育み、良質な知性や知識を身につけ人として成長し、有意義な人生を送るための基本を学ぶ場であるはずの学校現場において、学ぶ側にも教える側にも疲弊と苦悩の色濃い状況がそう珍しくないのであれば、どんなに国がさまざまな統計上の数値は改善し、経済的には成長は続いている、適切な政策や対応に努めていると主張したとしても、真の意味での豊かさ、人の心もまた豊かにはなっているとはいえない実情に穏やかではいられない気分についなってしまいます。
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空気を読むことを尊び、原因や背景について深く追求し根本から考え直してみようとするより、そこそこあいまいな余地を残し残りは水に流すほうを選びがちで、どちらかといえば事実よりも空気感を重んじ、自分から求めるよりもむしろどこからか(例えばお上という発想)与えられ制約を受けた状況の中であれこれやりくり工夫を凝らすのを好み、そして最終的にはこの国にいる何となしの安心「感」にどこか寄りかかっている、そうした傾向は良くも悪くも私たち日本人の無意識深くに横たわる独特な文化的土壌といえるかもしれません。
けれどもコロナ禍の影響もあって、当たり前のことが当たり前にすることが難しくなってしまった現状にある今だからこそ、大人が時に自分達の生活を少しわきに置いても、子どもたちや次世代の将来のため教育や文化、福祉のあり方を真剣に吟味し直すべき時だともいえると感じています。
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7月に入り学校を始め社会にもだいぶ日常が戻りつつあるような状況ですが、新型コロナウイルスが指定感染症である以上、皆がどこか抑制的で神経質な七夕の日を迎えていることでしょう。目立ったイベントもなく、華やかなはずの七夕飾りも街中や学校でごく控えめなのはやはり寂しいものです。
私たちの意思を政治に反映させる最も有効な機会であり、民主主義の原点ともいえる選挙投票という権利行動が、選挙権を持つ成人の大半にとって遠い昔の思い出の場である学校という場で行使されることの象徴的意味合い(むしろ皮肉かもしれませんが)を、今ほど意識することはありません。
子は親の思うようには育たない
子は親のするように育つのだ
何年か前に見た、近所のお寺の掲示板に書かれていた言葉が思い出されます。
* 「犯罪は増えていて凶悪化している」という誤解(田村正博 京都産業大学法学部教授)
* お寺の標語②
最後までお読みいただいてありがとうございます。
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