2020年 12月 08日
年は取るもの、取らされるもの ~ 大雪の頃’20
いささか旧聞に属する話ですが、しばらく前インターネット上である動画が話題になりました。若かりし頃バレエ団の踊り手として活躍し、その後アルツハイマー病を患っていたある女性に、彼女を支援する施設団体のスタッフが彼女がかつて華麗に舞ったチャイコフスキーの「白鳥の湖」を聴かせたところ、老いと病に満ちていた彼女の表情が突然プリマドンナのそれに一変し、音楽に合わせ往年の振りを舞う(実際には上半身)という内容です。(イギリスBBC放送サイトから引用します)https://www.bbc.com/japanese/video-54913564
私はこの動画を見た時に、以前ある特別養護老人ホームを訪れた際に職員が明かしてくれたエピソードを思い出しました。
その施設には以前、重度の認知症を抱えた90歳ぐらいの女性が入所していたそうです。彼女は言葉も発せず顔には表情もなく、歩行も困難でずっと車いすでの入所生活を送っていました。
その老人ホームでは毎年、夏祭りのイベントが盛大に行なわれ、屋内の集会所を盆踊り会場に見立て華やかに飾りつけをして踊りを楽しむのだそうです。そんなある年の夏祭りの盆踊り会場にその女性が職員に付き添われて顔を出していた時、たまたま女性の生まれ故郷だった九州のとある地方の民謡が流れたのだそうです。するとどうしたことか、それまで何の反応も見せず無表情で車いすにぼーっと座っていたその女性が突然ひとりすくっと車いすから立ち上がったかと思うと、音楽に正確に合わせて踊り出したというのです。あっけにとられた周囲は目の前でいったい何が起こっているのか理解できず唖然呆然の状態だったそうです。
背筋がすっと伸びて引き締まった表情、一歩一歩確かなステップを踏む女性の姿は今も忘れることができない、と職員の方がしみじみ話して下さいました。そして老齢や衰えを決めつけているのは実は本人よりもむしろ周囲の方で、良かれとの思いからの扱いがかえって高齢者の尊厳を損ない、老いをかえって進行させている面はなかったろうか、心身の機能がさまざまに低下している(はずの)施設入居者への接し方や介護支援のあり方について改めて考えさせられた出来事だったといいます。
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音楽が人の心に素晴らしい効果をもたらすこととは別に、2つのことについて考えさせられました。
ひとつは、大脳だけでも150億個を超え、中枢神経系全体では1000億個近いと言われている脳神経細胞が織りなす複雑で巨大な情報処理ネットワークを有する私たちヒトの脳については、脳機能を可視化する先進的な技術開発をはじめ現在さまざまな研究分野において多くの知見が蓄積されつつあるとはいいながら、いまだそのメカニズムが十分に解明されていない、あるいは知られてすらいない機能を発揮する領域が数多く存在しているということです。衰え損なわれたと思われた機能を回復させ、バックアップし、未知の迂回ルートを確保し代替し、既存の能力を加速すらさせるような驚異のポテンシャルにも私たちの脳は開かれているようです。2人の女性が見せた突然の踊りがたとえ厳密には本人達の踊りたいという認知や意思から出た行動というより、むしろ本能の原始的反射に近いものだったとしても、そこにはやはり何か説明したがいパワーがまだ眠っていたことの証しのように私には思えました。
2つめに、身体に何らかの病を持っているいないにかかわらず、「老いる」とは心身の機能が年齢に伴って衰えるという単なる生理的な加齢現象ではなく、実社会における心理的、文化的環境もまたその背景にあるということを忘れてはならないということです。よく言われるように年は「取るもの」であると同時に、人や社会によっていわば「取らされるもの」でもあるのです。
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社会の中で私たちは、常になんらかの集団的社会秩序、法制度や規範、慣行や観念といった外環境から寄せられるさまざまな文化社会的な要請に応えながら人生を送ります。社会集団深くに根付いて、疑問をさしはさむ余地のほとんどない理屈抜きに共有されているそうしたルール、より端的に表現するなら、「普通」や「みんな」とは、私たちがつつがなく人生を送る際にとても都合のよい仕組みであって、実際私たちは無自覚ながら日常生活においてさまざまな恩恵を受けています。ただ同時にそれらは、一人ひとりの個体差なり実情、時代の変化に無頓着で、ときに非合理だったり脈絡のない有形無形さまざまな振る舞いや思考行動パターンを刷り込みあるいは高圧的に求めがちで、私たちが本来それぞれに抱いてもおかしくない「らしい」生き方への探求や意欲を削いでしまう懸念もあります。
やむを得ない面はあるにせよ、老人ホームのような施設入所者はケアする側のお世話になる「ケアされる者」である、という一方向的な関係は、実はヒトという生き物にとってはかなりストレスフルな状態といえます。それは私たちの(年齢とは関係のない)本能に反するからです。私たちは「生きたい」という本能を持っていますが、同時に「仲間でいたい」という本能もまた持っています。「仲間でいたい」とはつまり仲良くなりたい、相手の役に立ちたい、喜ばれたい、といった愛他的・利他的な行動や承認欲求でもあるのです。
老いゆく人々が、ケアを受け穏やかながら失いつつある人生を半ば諦観するにまかせるのではなく、何か彼らから受け取れるもの、彼らが与えてくれるものがきっとあるはずだという双方向対話的な視座を周囲が持ち続けることが、高齢世代や障がいを持つ人々との「共に生きる」社会のあるべき姿だと感じます。
そしてこうしたことは、定年退職や加齢による心身の不調や病、家族や親しい友人との死別や別れなど、人生を歩む過程でやがて経験するであろうさまざまな喪失体験によって誰もがいずれ年を「取らされ」ていくことを考えれば、決して他人ごとではないと思うのです。
"Health is a state of complete physical, mental and social well-being and mot merely the absence of disease or infirmity."
「健康とは、身体的・精神的そして社会的に完全に良好な状態にあることであって、単に病気あるいは病弱ではないということを意味するものではない。」(世界保健機関(WHO)憲章 前文より)
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