2020年 12月 22日
自分を生きる ~ 冬至の頃’20
「老いる」ということは「年をとること」だが、同時に「年をとらされること」でもある。単に身体機能が加齢に伴い衰えていく現象ではなく、実社会における心理的文化的環境から受ける影響や圧力もまたその背景にあるのだ、ということを前回のブログで触れました(『年は取るもの取らされるもの』)。
人が抱える精神的ストレスや病もまた同じように複雑な背景を持っているといえます。
単に脳という身体器官の機能上の変質や変調、生物遺伝学的な素因だけでなく、一人ひとりの生い立ちや生育歴、学習や体験、対人関係といった、人生の発達過程で経験される多彩な要因の相互反応がもたらす心理社会的なストレスもまた、同じようにさまざまな精神的困難をもたらすのです。
社会は、多彩な人間と人間関係が相互反応的に絡み合いながらも分かちがたく結びついている集団世界です。前回も述べましたが、人間は自分が一番大切で大好きで、それでいて誰かと一緒でありたいと願う生き物です。自分も他人もどちらも「気になって仕方がない」生き物なのです。こうした原始的生存本能を動機的背景として、私たちが生きる中で育む自己愛と他者愛の一人ひとりの持ち方や現れ方の濃淡もまたキリがないほど多彩です。
そうした多彩な人間が、優しさが公平に行き渡ることはなく、たいてい誰かにとっては都合がいいけれど他の誰かにとっては不都合な「普通」や「みんな」を要求してくる社会現実とうまく折り合いをつけていくことは、実はとても難しいことです。
周囲のペースにうまく足並みをそろえられずに人知れず心労辛苦が重なり、心が疲れ、不愉快な思考感情を受けとめる余裕がなくなるような状態が続いてしまえば、結果私たちの行動に選択の余地はあまり残されません。
知らず知らずのうちに、「自分を守りたい」だけが突出して周囲に絶えず干渉し振り回すか、「好かれたい」ゆえにただ盲従し消耗するか、さもなければ「仲間になれない」と信じ込み悲観し逃避するか、という苦しい人間関係の繰り返しを生きることにもなってしまいます。
結局そのどれを選んだとしても、周囲へ過剰な目を向けるあまりその分かえって自分をおろそかにしてしまいます。自分を離れ他の誰か(あるいは何か)を常に気にすることに生きてしまうのですが、その他の誰かや何かとは、よくよく考えてみれば思い込みのもたらすフィクションに過ぎない場合もしばしばなのです。
”まず、ある文化、ある時代に流行する物語がある。そして、多くの人がこれを標準、あるいは、理想と考えることによって苦しむことになる。たとえば、現在の日本であれば、どんな子どもでも努力さえすれば一流大学に入学できて、そこを卒業して一流企業に勤めて...、というような幸福物語が流行する。そして、そのためには「よい幼稚園」に入学して...、というように物語の細部までが決められてしまい、親はすべての子どもに、そのような幸福物語を生きることを期待する。期待くらいであればまだしも、強制となってくると子どもの負担は急に大きくなる。
もっとも、いつの時代でも流行物語に適合する個性をもった人はいるので、そのとおりに生きている人が悪いとか変だとかいうことはない。それはそれでいいのだ。問題は、流行物語に縛られて、自分の物語を歪ませたり、生きられなくなっている人、あるいは、それを生きられない自分を過小評価し劣等感に苦しんでいる人たちである。それらの人が心理療法家のところに訪れてくる。” (河合隼雄「心理療法入門」岩波書店 2002年)
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「誰かを気にすることに生きる」ということが少し分かりにくければ、たとえば今広い世代に浸透している痩身(やせ)願望やダイエット信仰、俗に言う「外見スペック主義」の背景にある、ある種のやせ礼賛、見た目礼賛文化を考えるとわかりやすいかもしれません。
世界中のさまざまなメディア媒体によってさかんに喧伝され、大量の視覚情報に絶えず晒され刷り込まれる典型的な文化社会的な圧力は、自己評価が低い根本の原因を体型や見た目だと錯覚させ、体型や見た目の不満や劣等感をどんどん強化させています。
「今の自分には何かが足りない」といかに考え続けさせるかがあらゆるビジネスの本質です。いつかどこかで見た「誰か」や「みんな」に執心し、それを自分や周囲の人の評価基準にさえしていることに無自覚な人々を数多く生みだすリスクをはらんでいます。
私も仕事柄、ダイエットや美容整形に過度にのめり込んだり、摂食症に悩む人々と出会います。抱える事情や症状はさまざまですが、彼らの中には自分以外の誰(何)かになるための決してゴールの見えない迷宮をさまようことに人生の貴重な時間とエネルギーをつぎ込んでしまっているように見える人がいます。「だって結局見た目じゃないですか、人生って」そう真剣に訴えかけてきます。
そこにすがらざるを得ない、そう信じるしかないさまざまなつらい体験に傷ついてきたことを思えば、その気持ちもとてもよくわかります。ダイエットや美容整形施術が絶対駄目だということではありません。心や身体の病気が疑われるような場合はともかく、よく考えたうえでやりたければチャレンジすればよい。見た目を磨くことだって大切だしその人の強みにも自信にもなる場合だってあるでしょう。差別や偏見をなくすためと称してそうした生き方を全面的に否定すること自体、多様で寛容な生き方に水を差し「これこそ正しい」ドグマを強制するものです。
けれども、スポーツ選手や俳優、モデルといった職業を生業とする人々にとって、厳しい体重のコントロールとそれで得られた身体は、まずもって「自分を生きる」ために行なう特別な努力とスキルの結果であることを忘れてほしくないと思います。自分で選び取った生活の糧であり生きる源泉であって、自己否定を覆い隠すための苦行ではありません。それは誰しもにとって幸せで価値ある生き方ではないし、それに付き従う必要もまったくないのだ、という現実にもまた目を向けて欲しいと思うのです。
人生それしかチャンスは巡っては来ない、という視野狭窄的な思考こそ私たちが突き崩していかなければならないフィクションです。
”いまや世の中は、SNSという情報ツールを中心に動いている。ゆったりと思索するという習慣は前世紀に置き去られ、インパクトある視覚情報という簡便な自己表現が無数に行きかい、それらは”いいね”のかりそめの承認によって支えられている。このような”映え”文化は、やせた身体を見せることで母なるものに触れた気がする摂食症の姿に似ている。自分の存在が気になり、何かと自分を作って見せ、誰かに気づいてもらうことでその不安が解消したかに思うが、それは一瞬で長続きしない。場合によっては、孤独はますます深くなる。近年、摂食症の診断のつく人の割合に大きな変化はないが、予備軍は確実に増え、すそ野は日々広がっているといわれている。” (野間俊一 『摂食症(ディソレクシア)という病ーうまく”食べられない生き方”』こころの科学、No.209/1-2020 日本評論社)
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まず自分を生きようとするべきなのでしょう。考えなしに受け入れられているものごとを自分から考え直し、選び取ろうとすべきなのです。まわりか自分かのどちらかを改めようとするなら、まず自分から殻を破ってみようとするほうがよほど理にはかなっているし、実は楽になる近道だといえます。なによりそれは自分ひとりで、たった今からでも始めることが可能だからです。人生において「始める」ことの喜びほど自由な体験はありません。
ただその「始める」や「自由な」が人から指摘され、なるほどそうですかと簡単には生まれてはこないのも確かです。困難や葛藤を抱える人から「自由」を奪い、「始める」ことを恐れさせるような考えやこだわりがいったいどこからくるのか?それを一緒になって突き止め、突き崩すこともまたカウンセリングに与えられた大切な役割です。
最後までお読みいただいてありがとうございます。