2021年 05月 23日
ツバメマンション ~ 小満&芒種の頃’21
”日本においては、水稲栽培において穀物を食べずに害虫を食べてくれる益鳥として古くから大切にされ、ツバメを殺したり巣や雛に悪戯をすることを習慣的に禁じ、農村部を中心に大切に取り扱われてきた。江戸時代にはツバメの糞は雑草の駆除に役立つと考えられていた。「人が住む環境に営巣する」という習性から、地方によっては、人の出入りの多い家、商家の目安となり、商売繁盛の印ともなっている。また、ツバメの巣のある家は安全であるという言い伝えもあり、巣立っていった後の巣を大切に残しておくことも多い。一方で車庫や店内などの営巣による糞の落下の問題や、玄関内部での営巣により、不在時の戸締り困難になることによる、不審人物の侵入を許す可能性もある。よって、やむを得ず巣作りを妨害ないし作られた巣を撤去するというケースもある....” (ウィキペディア「ツバメ」から一部抜粋)
燕(ツバメ)は俳句の世界では春の季語ですが、都心部で生活している感覚でいえばツバメが町中をひらりひらりする姿を見かけるようになるのは、ようやく初夏も後半から梅雨入りも間近を匂わせる空模様が増えてくるちょうど今ごろの季節です。この頃は外を出歩くたびに、ツバメが巣作りの場所を物色するかのようにあちこち飛び交う姿はないかとあたりや上空をキョロキョロしたり、独特のさえずりを聞き分けようと耳をすませるのがつい私の癖になっています。
ツバメはカラスなど天敵から身を守るため、それらが近寄りがたい人家や人の出入りの多い場所といった人間の生活環境の中にあえて営巣することを好むと言われています。郊外や農村地域では民家や屋敷、納屋の軒先、天井裏といった場所を営巣場所に選びますが、深い軒先のあるような戸建て住宅や建物も少なく、大小さまざまな集合住宅やビルが複雑に立ち並ぶ都市部では、ツバメも苦労や工夫をさまざま凝らして巣作りに励みます。ビルのあいだのほんのすき間に張り出す出窓やエアコン室外機や換気口周辺、壁に伸びる配管ダクトのすき間などよく注意しないと気づかないところに気づかないうちに巣が出来上がっていたりするものです。そうしたわけで、ついそんな町の建物周りの細かなところにまで目を向けながらウロウロしている自分は、はたから見ればかなり怪しい人間に見られているのかもしれません。
行き行きて ひらりと返す 燕哉(正岡子規)
ツバメの巣は新しい場所に新たに作られる場合もありますが、たいていはお馴染みの安全な場所にある古い巣を継ぎ足し継ぎ足しいわばリフォームを繰り返しながら使用されている場合も多いため、私のような都会暮らしのライトな”ツバメウォッチャー”にも、自宅や仕事場近所にお馴染みの営巣スポットが何か所かあるものです。
仕事場から歩いてほんの数分の距離にある、車も人通りも絶えない通りに面した築50年は経過しているであろうオフィスビルを兼ねた中規模のマンションもそんなお気に入りの営巣スポットのひとつです。その建物は一階部分のほとんどを駐車場が占めており、その駐車スペースのやや奥まった天井近くのコンクリート梁の隅に長年ツバメが”巣くって”きたのでした。季節ともなれば、小さな巣にすし詰め状態の愛らしい雛が親ツバメにエサをねだる元気な鳴き声が都会の喧騒のなかでさえ界隈に響き渡り、ささやかな幸せをしばし味わうことができるのでした。
春風に 顔ならべけり 燕の子(正岡子規)
「”ツバメマンション”、取り壊されちゃうみたいですよ」
マンションの”異変”をスタッフのKさんが教えてくれたのが昨年も晩秋の頃。気になって仕事の合間に行ってみれば、すでに建物全体が足場用の鉄筋とシートカバーで覆われ、工事関係者やトラックで狭い駐車場があふれかえっていました。先月通りかかったときはそんな気配などみじんもなかったのに、と少なからずショックでした。
「もう古くてだいぶ空き部屋もあったみたいですし。場所はいいから新しく建て替えればテナントには不自由しないでしょうね」
”ツバメマンション”の命名者でもあるKさんの表情にも少し落胆の色がありました。
その後、ツバメマンションはどうやら建て替えではなく基本構造はそのままの大規模な修繕工事のようだ、との修正情報がKさんからもたらされたのは、年も明け春を迎えた頃でした。では、ひょっとすると巣のある駐車場は元のままかも、というほのかな望みは持ちつつも、実情はともかくこのコロナ禍の影響からか、工事が着々進行という気配はなく中途半端な状態のまま置かれている期間が長かったように見えました。相変わらず灰色のカバーに覆われたまま人の気配の途絶えた”ツバメマンション”は、その後もしばらくはずっと暗く沈黙したままでした。
五月の連休も過ぎた頃になって、またもKさんからようやくツバメマンションがリフォーム工事を終えすっかりお化粧直しを済ませた姿を見せ、一階駐車場も以前と変わらない様子ですと報告がありました。けれどもほとんどあきらめていたせいもあってか私はその頃にはもうあまりツバメマンションのことを考えることをしなくなっていました。かえって気になるのでその界隈を通り抜けるのもなんとなく避けてもいました。
*
ところがつい先日、Kさんが勢いよく部屋に入って来るなり、
「ビルのオーナーさんか工事業者さん、考えましたね」
「?」
「ツバメマンション!気がつきました?私もついさっきコンビニの帰りに気がついたばかりですけど」
ますます訳が分からないでいる私を見ながら、
「まぁ今度見てきてください(フフフ)。でもよく注意しないと分からないかもです」となぜかニヤニヤ顔。
忙しさで数日経ったある日の早朝、Kさんの言葉を唐突に思い出した私は、仕事場を抜け出し久しぶりにツバメマンションの前に立ちました。見ればなるほど元の建物構造のままきれいにリフォームされた建物は、そのことを知らなければ全くの新築のマンションとしか見えないほどの生まれ変わりようでした。けれども建物が完成しただけで人の気配もなく通りに接している駐車場も空っぽのまま、ツバメの姿や巣ももちろんありません。いったいKさんは何を言おうとしていたのだろう?としばらく建物をいろいろと眺めていてもやっぱりわからず諦めかけた時、ようやく「あれ!?」とあることに気がついたのでした。そして喜びについ持っていたスマホで写真も撮影したのでした。(実はほんの数メートルだけマンション敷地に無断で入ってしまいました。オーナーさんごめんなさい)。
駐車場の天井近くの壁、まさしくツバメの巣があった場所に、(どう考えても)営巣用としか思えない棚のような金属板がさりげなく設置されていたのでした。
今までの落胆が嘘のようにご機嫌(!?)に早朝の顛末を報告する私にKさんも笑顔。
「優しいオーナーさんですよね。すぐには無理かもしれないけれど、そんな場所にはいつかきっとまた(ツバメは)戻ってきますね」
*
「家(ハウス」は、レンガや石でできています。
でも
「うち(ホーム)」は、愛だけでできています。
作者不明(『幸せの鍵が見つかる 世界の美しいことば』前田まゆみ(訳・絵)創元社)
リフォーム工事が完了したとはいえまだガランとしたままの”新”ツバメマンションを見た時、私はふとこの言葉を思い出しました。冒頭のウィキペディアの引用にもあるように、ツバメとその営巣の営みは、五穀豊穣や商売繁盛、家運隆盛や子孫繁栄といった、その巣くう家建物に暮らす人々の幸福さと豊かさを示すバロメータでもありました。それは時代や社会環境が劇的に変化を遂げた今でも多少なりとも当てはまるのでしょう。けれども逆を考えれば、ツバメのような生き物は人の心や行動の機微に実に敏感で、ほんのささいな変化やちょっとした異常を感じ取れば、たとえそこがそれまでどんなに巣作りに理想的な環境であったとしても二度と寄り付かないか、あるいは何年も経過しないと再び戻っては来ないのです。外から見えるものごとも大切だが、幸せに最も決定的なのはそこに暮らす人々の内面に”巣くう”温かな愛であることをツバメたちは教えてくれるのです。
戸口出て 左へ曲がる 燕哉 (正岡子規)
愛とはむずかしいものです。カウンセリングという仕事をしていて一番難しいと感じるのは、結局愛とはいったい何だろうかということかもしれないと時に感じます。科学実証性や客観性あるエビデンス重視の心理学や精神医学の専門的知見・理論をベースとする現代のカウンセリング実践においては、ある意味「愛」というあいまいな概念を正面から取り組むのはなかなか容易ではありません。けれども、それをなしに心の問題に取り組むことはある種のごまかしのようにも思えてきます。家族愛や自己愛といった「~愛」という表現なり言葉を用いて対話を紡ぐことはあっても、それがいったい本当のところ何を意味するのか明確にすることはなかなか容易ではありません。
だれもが愛し愛されたいと願い、思いやりや愛情を周囲から望むのであれば、まずもって自分から相手にそれらを与えようとする気持ちなり姿勢が良好な人間関係の基本でもある、ということを誰もがわかっているはずと信じたい。でも一方で、カウンセリングに訪れる人々が家族や学校、職場や地域社会の日常において身をもって体験し、将来もその影響を受け続けるであろうさまざまな逆境体験が生み出す精神的危機の根深さや複雑さに触れるとき、愛とは?、誰にとっても変わらぬ自明のものとしての愛の存在意義など果たしてあるのか?、といった答えなど出せない問いを常に突き付けられているような思いもまたするのです。
まだ誰も住まわぬままのひっそりとした新ツバメマンションに愛が戻ってくるかどうかは、これからそこに暮らすであろう人だけでなく、結局は同じ社会で共に生きる私たち一人ひとりの問題なのだ、そうも思うです。
愛は、私たちがこの世を去るとき唯一持って行けるもの
ルイザ・メイ・オルコット(『若草物語』、出典同上)
いつもお読みいただいてありがとうございます。
by yellow-red-blue
| 2021-05-23 21:33
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