2021年 09月 15日
初風薫る ~ 白露&秋分の頃’21
度重なる台風や低気圧の発生の影響もあってか、8月中旬以降の日本列島は全国的に例年になく不安定で場所によっては大荒れの天候が続きました。東京でも、夏からぬさりとて残暑とも秋ともつかない陽気が日替わりにやってくるそんな空模様でしたが、ようやく9月も初旬を過ぎ、早まる夕暮れや朝夕あたりに漂う虫の声、青空をキャンバスに軽やかなタッチで筆を奔放に散らしたかのようにうっすらとたなびく上空の雲に本格的な秋が感じられるようになってきました。
次の季節の到来や変わり目ということでいえば、秋はたとえば春一番や木枯らし一号、あるいは初霜や初雪といった他の季節のような客観的に観測されるはっきりとした節目あるいは区切りのしるしとしての気象現象はあるようでなく、どちらかといえば控えめであいまいに「気がつけば秋」といったそれぞれの感性頼りの移り変わりが常かもしれません。
ただ、秋にも春一番や木枯らしのような「初風」に秋を感じることは古くからありました。私が好きな和歌のひとつにこんな歌があります。
わが背子が 衣の裾を 吹き返し うらめづらしき 秋の初風
(古今和歌集 巻第四・秋歌 上)
(現代訳)私の夫の着物の裾を吹き返す、(衣の裏が美しいように)心ひかれる秋の初風であることだ。
「うら」とは表の逆、内面の「こころ」を意味します。そこに衣の「裏」の意味も響かせるうっとりするような素敵な歌です。
「源氏物語」の中で紫式部もこの和歌へのオマージュを響かせやはり秋の初風を記しています。
”秋になりぬ。初風涼しく吹き出でて、
背子が衣もうらさびしき心ちしたまふに、
忍びかねつゝ、いとしばく渡給ひて...”
(二十七帖 篝火)
(現代訳)秋になり季節の初風が涼しく吹き始め、古歌《わが背子が衣の裾の裏》もあるように、源氏の君もどうにもうら淋しさの募るお心を抑えきれず、しきりに玉鬘(たまかずら)姫のもとへとお出かけになり...
*
季節の多彩な移り変わりの機微や自然の美しさ、生命の不思議と神秘にさまざま思いを寄せることは、ひるがえって、日常の暮らしの歩みをしばし止め、今の自分のうら(こころ)と冷静にそして謙虚に向き合うよう導かれるような気持ちにさせられます(花咲く季節はやってくる)。それは、自然の持つ優しさ弱さ繊細さすべてが自分の中にもまたあるのだという気づきと許しなのだろうとも感じます。
人は、今抱える問題を解決ないしは改善しようとすると、どうしても物事を早く前進させよう、何かを付け加えることによる変化の方向性を選択する傾向にあるようです(たとえば『人間は、引くことによる改善を好まない』)が、好ましい変化や改善は、止める・減らす・後退・争わないといったマイナスの方向や現状維持でも起こりうるものです。プラスがマイナスに働くこともあれば、マイナスがプラスへの転機にもなりうる。何かを増やしたり加えるにしても、別で負担を減らす方法も同時に取り入れてみることだって私たちにはできるのです。
「急がば回れ」「急いては事を仕損じる」「逃げるが勝ち」「押してもダメなら引いてみな」あるいは「鹿を追う者は山を見ず」「すぐ役立つものほどすぐ役立たなくなる」など、しばしば見聞きする古き日本人のこうした知恵は、世間話のたぐいの気休めなどでは決してなく、日頃人が取りがちな方向性なり努力が最適解であるとは限らず、一見後ろ向きに見える別の選択肢のほうがかえって近道になることもあるのだ、という大切な指摘でもあることを知っておきたいです。
何かを手に入れようとするばかりで、もうすでにあるものの大切な意味や価値に気づかずにいる、そんなことが私たちの人生にはしばしばあるのではないでしょうか。
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今何が自分を苦しくさせているのか、自分は本当は何を欲しているのか、日常の歩みをときに止め謙虚に自分に問いかける時間を持つことはとても大切です。そしてそこでどんな気持ちや考えを抱いたとしても、決してそれで自分を責めないこと。素直な自分が本当の自分、一番よい自分です。素直な自分をまずは優しく受けとめる、いつもそこが希望への正しいスタート地点です。そして今はいったい何ができるのかを少しずつでいいから拾い出してみる。
悩みを抱える人の実際の生活が少しでも改善し安定した方向へ向かう方法を共に探りながら、希望を抱き続けることをあきらめさえしなければ必ず人は正しい方向へ進む力を持っている、よくなると共に信じ続けていくこともまたカウンセリングなのだと気づかされます。何も変わらないようでいて常に何かが起きている。こころの内でも外でも。それが人という「奇跡」であり「不思議」なのだと思っています。
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普段とても寡黙なクライエントのTさんが、カウンセリングを終えての帰り際にポツリボツリと会話を始めました。
「ブログ時々読んでます」
-そうですか。ありがとうございます。
「でもちょっと自分には難しいです。というか分かりづらいです」
-そうですよね。すみません。
「それにちょっと長いかな、文章が。スマホで見ると疲れちゃうんです」
-下手なんです。もっとスッキリと書きたいといつも思うんだけれどなかなかできなくて。
「カウンセリングとか真剣な話になってくると、どうしても自分のこととして考えてしまってしんどいって思っちゃいます」
-よくわかります。
「周りがあれこれと助けようとするの分かるけど...本人にとっては逆に追い込まれるというか。余計に負担をしょわされて恥じるというか...」
-そうかもしれませんね。「なんとかみんなで支えて...」でかえって逃げ場がなくなってしまう、包囲されるような、そんな感じなのかな。
「そう」
-そういえば最近は、テレビやインターネット、SNSでもメンタルの話題多いですね。
(ただ、うなずく)
-引きこもりやいじめとか。でも本人からすると、そんな言葉を見聞きすること自体が本当は苦痛なんでしょうね。
「そうそう、つらすぎるよ、あんなの見るの。わかってないよね」
-無理に見なくていいんですよ。私のだって。
「あ~、でも季節や食べ物の話題とか。昔の体験話とか。そういうのは好きです。」
-それは嬉しいです
「だから、そこだけ読みます...あとは読まない(キッパリ)」
二人で笑い(私は半分苦笑)
Tさんを出口で見送りながらふと、こんなにしゃべるTさん初めてだったことに気付きました。けれども和やかな表情に秘められた「うら」については、Tさんは今でも詳しく語ろうとはしません。そこだけは語ることができない、そんな感じがなぜか痛いほど伝わってくるTさんの普段の笑顔です。
*
「あ、キンモクセイですね!」
すがすがしい風があたりを渡る穏やかな晴れ間の先日のある日、久しぶりに昼食に外出したその帰り道に近所の坂にさしかかった折、一緒にいた仕事場のスタッフさんが突然たちどまりあたりを見上げながらそう声をあげました。どうやら今年の秋の「初風」は、きんもくせいの甘くほのかな香をのせて私たちのもとへとやってきたようでした。
マイナスがいいこともある。Tさんの助言に従って、あれこれ削って(これでも)短めに。
“美しいものは、目と耳の使い方さえ理解すれば、どこにいようとかならずわたしたの周囲にある。そして腹立たしいこと、くだらないことすべてを高く超え出て、内面の均衡をつくりだしてくれるのです。”
(ローザ・ルクセンブルグ『獄中からの手紙」大島かおり編訳 みすず書房)
最後までお読みいただいてありがとうございます。
メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂