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刺激ある人生、けれども... ~ 立夏の頃’18


ゴールデンウィークの後は、全国的に雨模様の肌寒い陽気へと逆戻りの予報が出されているようです。それでも、花粉や黄砂が舞いまだまだ冷たい春風に上着やコートが欠かせなかった(私にとって)つらい季節もようやく終わりを告げ、早朝から窓を開け放ち、爽やかでみずみずしい大気を思い切り室内に招き入れ、初夏の心地良さを日々味わえるようになったのは嬉しい限りです。

元気よくあちこち飛び交う小さなツバメの姿や、早朝の静かな空気によく響く野鳥の一風変わったさえずり、新緑を優しくなでるように流れるそよ風と柔らかな木洩れ日、お目当ての草花を求めてあたりをひらひらと舞う蝶の姿。初夏にふさわしいあたりの情景にふと気づかされると、せっかくのゴールデンウィークだからとレジャーに特別足を伸ばさずとも、なんだかもうそれだけで満ち足りた気分になってしまいます。


かくも安上がりにできている私ですが、ところで、人には外界からの刺激や社会環境に対する感受性の程度にかなりの個人差があることがわかっています。そしてこのことが私たちそれぞれの性格形成にも少なからず影響を与えています。

その感受性の程度の個人差をもう少しわかりやすい別の言葉で言い換えると、「刺激欲求」の個人差と言ってもいいでしょうか。刺激欲求とは、多様で新奇、刺激的な物事の経験や感覚を欲し、身体的、社会的、法的、経済的冒険を志向する傾向にある性格を意味します。ごく大雑把に言って、刺激欲求の強い人は外向的な性格傾向を持つ人、逆に刺激欲求の強くない人は内向的な性格傾向の人に近いと言われています(心理学では、人格やパーソナリティ、性格、気質など、人の性質を表す言葉をそれぞれにある程度定義されて使いますが、ここではより一般的、通俗的な使い方としてそれらをあまり区別することなく使っています)

さらにこの「刺激欲求」については、最近のさまざまな研究から身体の神経システムにおける「最適覚醒水準」との関連性も示唆されています。つまりたとえば、刺激欲求の強い外向的な人は神経システムが興奮しにくく、強い刺激でないと当人が快適と感じる覚醒水準に達しない一方、内向的な人は、外向的な人が求める快適と感じるような刺激では神経システムが興奮しすぎてしまい、不快な覚醒水準に至ってしまうというものです。

こうした神経システムにおける体質的な個人差と心理学的な性格の理論の関連性はまだはっきりとはわかっていませんが、私たちが外界刺激に対してそれこそ三者三様の感受性を持っていることは確かなようです。その一方で私たちはまた、自身を取り巻く複雑で多様な人間関係をはじめとする社会環境情報の処理をまずまず的確に行い、適応することを日々求められます。そうした社会的要求と自らの個性との間のバランスというか、さじ加減が実に難しく悩ましい時代に私たちは生きています。結果そのはざまで、精神的困難や変調に苦しむ多くの人々が存在しているのです。


“外界への関心と依存が高く、積極的に外に向けて行動する傾向で、社交的でポジティブな思考を持ち、物質的価値観や上昇志向が強く、興奮することや刺激を求めるエネルギッシュな特性で、自己表現が得意なある意味自信家でもあり...”

これがいわゆる外向的性格特性です。これだけを見れば、なるほど今の社会において、特に職業生活上の適性としては、まことに望ましいというか喜ばしい性格傾向といえるかもしれませんね。

けれども、私たちの性格や人格は、代表的な際立った1つの要素だけで説明なり決定されているわけではありません。内向性をはじめその他重要な様々な性格的要素がミックスされそれぞれに唯一無二の個性をかたちづくっています。それらは等しく価値があり、上手にバランスされているのが本来好ましい人間像と言えるべきなのですが、今の社会を見ていて、またカウンセリング現場で感じるのは、国の施策や企業活動が暗に求めている人物像が結局のところ、いわゆる刺激欲求の強い外向性に傾いた人に集約されているようにも思えてくることです。

また、私たちの性格は決して固定されているものではありません。持って生まれた気性のようなものはあるとは言いながら、それぞれの人生の過程で(特に若い世代においては)絶えず変容・成長するものであり、状況に適応する力もあります。ところが本来予想だにできない複雑で豊かな存在であるはずの生身の私たち人間の個性が、昨今話題のビッグデータやAIによる評価システムやプロファイリングによるデータ数値化された固定的人間像に取って代わり、そうした属性に基づいた個人の選別化、セグメント化が様々な分野局面において今後急速に進むことが予想されることについては、なにか強烈な違和感と危惧とを感じてしまいます。歴史的にまた現在においても、欧米的諸価値観の強い影響を受けながら、経済先進国として経済成長や企業利益確保がまずもって優先され、物質的価値至上主義がある意味本音であるような資本主義体制の日本においては、無理からぬ時代のすう勢なのかもしれません。



本来、外向的な人間として真に価値があるのは、その特性が際立っているからなのではなく、他者理解や内的洞察の深みと複雑さ、思いやりと共感力の高さといった、内向性をはじめとするその他の人格的諸要素との間に豊かなバランスが備わっている場合に限ります。にもかかわらず、ややもするとたとえば内向性は単純に「外向的でない」性格ベクトルとしてネガティブなレッテルをとかく張られがちです。それは心理学におけるパーソナリティ評価であったり、インターネットなど各メディアでさまざま取り上げられる簡易で安直ともいえる性格判断や適性診断などでもそうした傾向があるようでとても気になります。外向性にも内向性にもとても素晴らしい素質がたくさんあり、本来は価値平等的に評価されなければならないはずです。多かれ少なかれ私たちは皆こうした多くの性格特性を何らかの割合で持っており、それらの特性が著しくバランスと柔軟性、適応性を欠き、持続的に精神的な苦痛を伴う場合に限って、パーソナリティの問題として慎重に考慮すべきなのですが、それをあまりに安易に色分けしたりレッテルを貼ったりするのは誤った判断といえます。

こうした偏った性格特性の重視や社会の精神性の在りかたには、必ずもう一方、足りないものへの要請なり揺れ戻しが、たとえば精神障害や格差社会、社会的弱者やハラスメントといった深刻な社会のひずみとなって表面化していきます。すでに十分すぎるほどのSOSを発している現状があると思うのですが、それらを国としての成長と繁栄のためにはやむを得ないコストであるとして暗に切り捨て見過ごすような社会の在り方は、とても健全なものとはいいがたく、むしろ病的ですらあるのでは、とふと考えてしまいます。

 

 ちょっと大げさな話になってしまいました。カウンセリングにおいてもまた、相談に訪れる方々の悩みと対峙しながら、それを単なる個人の問題に矮小化することなく、彼らの心の叫びの背後にある社会的文化的要因や国の舵取りの在り方への深い問題意識と関心が必要であることを日々痛感しています。

 


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by yellow-red-blue | 2018-05-06 21:59 | Trackback | Comments(0)

名前は魔法 ~ 穀雨の頃’18


先日出席したとある懇親会の会場で、荒井さんとおっしゃる方にお会いしました。苗字が私と同じなので、何やら親近感を覚え初対面ながらつい話し込んでしまったのですが、その折やっぱりこの方も私と同じく、日常のある小さな悩みを抱えていることを知ったのでした。

それはつまり、あまり正しく名前を覚えたり表記してもらえないという悩み。

これはもしからしたら難解な漢字や読み方のお名前をお持ちの方には、めずらしくないことなのかもしれませんが、荒井という比較的よくあると思われている苗字を持つ者にとってもそれなりの悩みはあるものです。

「荒井」はかなりしばしば「新井」と誤変換され、電子メールや郵便物・ハガキ、招待状や通知文などのあて名となり視覚的に私に伝えられます。もちろんたいがいはよくある変換ミスじゃないか、とさらっと済ませられるのですが、こうも頻繁に起きると正直あまり気分は良くないのです。これが知らない人や通販業者からの荷物やダイレクトメールのあて名ならまだしも、知らない間柄ではない方や重要な書類などに間違って表記されることもよくあるので少し悩ましいです。結構な知り合いからの、優しく気遣いのこもったメッセージの冒頭いきなり、「新井さんへ」などとされると、何だかその文面の誠実性まで疑ってかかりたくもなる気分にさせられてしまうことも。相手にはそんな意図がないことは百も承知ながら、「あなたにとっての私はその程度か」「またか」の一方的なひがみ根性を時として抱いてしまったりするのです。



また、電話をはさんでの氏名のやりとりなどで、「新(井)」ではなく「荒(井)」であることを相手に説明するのにもけっこう骨が折れます。

「荒井様の『あら』は新しいの『新』でよろしいでしょうか」

「いえ、そうではなくて」と伝えるやすかさず、

「あ、ではくさかんむりのほうですね。失礼いたしました」

ひと昔前なら、スムーズにこれで終わるのが普通でした。

ところが最近は「くさかんむりの」ほうと言っても、その意味が分からない世代が多くなったのか、伝わらないことが多いのです。そこでもうひと工夫して、「荒川の『荒』です」「荒川区の『荒』です」と説明する必要がでてくるわけです。


しかしここでも大きな難関が2つたちはだかるのです。ひとつには、「荒川」や「荒川区」は東京・関東近辺限定でなら通用するものの、他地域の人との電話口では「荒川?」と相手がわからないことも多いのです。

かくして、くさかんむりもダメ、荒川・荒川区も通じないとなると、別の表現を考えなければならないのです。歴史上の有名人やスポーツ芸能人で広く一般的に知られている人がいればその名前を挙げればいいのですが、悲しいかなあいにくそのような「荒井」の覚えもない。そこで相手となにやらめんどうなやり取りがかわされることもあったりします。電話の向こうの相手が引用する例えがまた傑作です。「荒ぶるの『荒』」「荒れくれ者の『荒』」「荒野の七人の『荒』」「荒っぽいの『荒』」など、聞いているこちらが思わずふきだしたりしてしまうのですが、名前の表記は意外とやっかいなものです。


そしていまひとつ立ちはだかるもっと深刻な問題が(しつこくてごめんなさい)、「『新』ではなく『荒』ですよ」問題をようやくクリアした後にやってきます。なぜか「荒」に続くのは「荒(井)」ではなく「荒(川)」であるとほぼ自動的に考える人が思いのほか多いことです。そして『「荒川」「荒川区」の荒です』と言ったが最後、以降私はいつのまにか「荒川さん」と認知され、その後荒川さん宛てのメールや郵便物が洪水のごとく押し寄せるのです、新井さんとおなじくらい。

当然のことながら直接「荒川さん」と呼びかけられることもしばしば。これが過去に1度や2度程度しか面識のない方に言われるのならまだしも、結構なお付き合いのある方からも、単なる言い間違いなのか完全に誤解しているのか判断しづらい程度に「荒川さん」を使われていると、これがなにやら今さら訂正しづらく、みずからのほろ苦い存在の軽さを味わったりします。

たとえばデータ上の氏名リスト上のような場合には、一度訂正すれば事足りるのですが、人間の認知においてはたとえ一度訂正が入ったとしてもそれがなかなか定着しないことがあるのでとてもやっかいなのです。

仕事やお付き合いの場面ではこうした間違いの連発は致命傷にもなりうるので、相手や状況によってはさりげなく訂正することもありますが、なんだかそんなことをいちいちあげつらうのも大人げないと思い諦めてしまいます。とはいいながら、なんだか基本的人間関係の入り口でまずもって誤解があるような気がして、何となく気分がすっきりしないのです。

冒頭で紹介したもう一人の荒井さんも、これら私と全く同じエピソードをお持ちで、慣れているとはいいながら、そのたびに心の中の苦笑を抑えられなかったのだそうです。



個人的な愚痴をたらたらと書いてしまいましたが、ある人と親しい関係になりたいと思う、あるいは良好な人間関係を築きたいと思ったら、その人の名前をできるだけ素早く覚え、さりげない会話の中で直接相手や相手の周囲に対して使うことは、とても大切な方策と言えます。誰でもないあなたという一人の人間に私は話しかけている、好意を持っている、信頼している、あの人は私を覚えていてくれる、自分を多少なりとも意識していてくれるなど、じつに豊かなニュアンスをこめたり、また感じることのできる名前は、私たち人間が元々持っている親和欲求を巧みに満たしてくれるいわば魔法の言葉です。状況や関係性を無視して、やたら人を親しげに名前で呼ぶのは逆効果ですが、たいがい悪い気はしないものです。人の名前を覚えることはそう簡単なことではありませんが、名前の上手な使い方を日常で少し意識すると、人間関係がより潤滑に進むことは覚えておいて損はありません。たとえば、名前は知らないのだけれど日常生活のちょっとした場面でしばしば出会い、挨拶や短い雑談を交わす程度の顔見知りの人の存在は誰にでもあるのではないでしょうか。そんなときは少し勇気がいるかもしれませんが、今度その人を見かけたらこちらから自己紹介してみる、もう少し長く話かけてみる、などはとてもいいトライかなと思います。たとえほんの少しの前進や積み重ねだったとしても、お互いの名前を知らずにいることと比べて随分と人間関係に幅が出るものです。


日本語の会話では、必ずしも主語は必要とされません。「私は」とか「~さんは」と言わなくても話は通じる場合が多いのですが、一方カウンセリングの対話場面では、できるだけ話の主体、主語をはっきりさせることを意識します。

「~さんはどう思いますか「「~さんが期待することはなんですか」「~さんがそう信じているのですね」確認と繰り返しがその思考感情や行為の主体は自分であることの意識付けになり、あらためて内省する機会をもたらすことにもなるのです。

たとえば、家庭内で暴力をふるってしまう人の中には、暴力や暴言の事実は認めることはできても、「私が~」というところは微妙に避けて表現する人がいらっしゃいます。自分が主体的に行っている行動であることから目を背けて、何かが(状況や他者)がそうさせているかのようなニュアンスを強調したり思い込んだりしてしまう。そこで「あなた自身が」ということに、優しくそして共感的に焦点を当て続けながら、さまざま対話をしていくことはとても大切なプロセスです。もちろん強引に相手に何かを認めさせるということは控えますが、あくまで主体はだれで何が目的なのかを探る、確認し続ける過程を通して、問題の背景や原因、良否の判断を導き出すのもカウンセリングの重要な役割なのです。



ところで名前について、過去に恥ずかしい失敗の思い出があります。夫婦関係の問題で相談に訪れていた女性とのカウンセリング中のことでした。長いカウンセリング期間の間にその方は結局離婚なさったのですが、離婚後もしばらく続いたあるカウンセリングの最中に、突然その方が私に訴えたのです。

「あの、すみません。先生わたしもう『鈴木』ではなく、『菊池』なんです。鈴木と呼ばれるのはちょっと...』

私は無神経にも、離婚後もそのまま婚姻時の姓で話しかけてしまっていたのです。

「ああ、申し訳ありません。配慮が足らず本当に申し訳ありません。」

見た目にも私はかなり落ち込んでいたのでしょう。

「大丈夫ですよ、先生。私もだいぶ強くなりましたから。」

今までに見たこともない明るい表情でそう話すその方が確実に立ち直りつつあることを、自分の失敗を通して気づかされたという、何ともほろ苦い思いです。

 

ちなみに、カウンセリングの場面では「先生」とよばれることが多いのですが、あくまで治療者と相談者は対等の立場での対話が基本の立場からすると、もっと気さくにお互いに名前で呼び合っても場合によってはいいのかなとも思わないではありません。お医者さんや学校教諭、政治家の方々と同じような呼び方をされるのがどうも苦手なのです。ただ、カウンセリングにおける関係は一般の人間関係とは異なり、治療という目的達成に焦点化された関係であって、相談者がその性質を親しい友人や家族関係の代わりのように過度にとらえることのないような配慮は必要です。問題解決への親密な協力関係を維持しながら、余計な感情や情緒と距離を置き、互いの立場を尊重するためには「先生」であることのほうがむしろいいのかもしれません。

でも本当は、名前で交流する方ずっと気が楽で嬉しいのです。『新井さん』や『荒川さん』ではちょっとつらいですが。


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by yellow-red-blue | 2018-04-20 21:57 | Trackback | Comments(0)

外の世界、内の世界 ~ 清明の頃’18


桜前線は徐々に北上するため、日本列島全体で見れば桜を楽しめる時期は相当長い期間になります。でも私たち普通一般の人の認識は、桜の見ごろのときはあっという間に過ぎ去ってしまうというものでしょう。ある調査によれば、桜が開花する季節、お花見を目的としたレジャーで何らかの外出をする人は、全国で毎年およそ6000万人にも上ると推計されるのだそうです。つまりおおよそ日本人の2人に1人はお花見を目的にどこかへ出かけ、何らかの金銭的支出を行い、そこに莫大な経済効果が発生しているというのです。こんな情報に接すると、やっぱり日本人は桜が好きなんだな、それにしても凄い人数だ、と思うことでしょう。

ところがこれがもし、ニュースなどで淡々と次のように報道されたらどうでしょうか。「桜も満開の季節となりましたが、ある調査会社がおこなった花見に関する調査によれば、実は日本人の2人に1人、人口にして6000万人以上の人は、桜の季節になっても特にお花見などに出かけないという推計結果が出たそうです。」意味するところはまったく同じにもかかわらず、随分と受け取る印象が違ってくるのではないでしょうか。「へぇ、意外とどこにも行かない人もいるんだ」「そりゃそうだ。年度末で忙しいだろうし、私なんかも通勤途中でチラリ見るぐらいで済ませるよ」「来年もあるわけだから」「もう会社や自治会で花見なんて時代じゃないだろうしね」という具合に、接した情報の認識に沿う考えやエピソードが頭を占めることになります。



 私たち人間は、このようにあるものごとについて構成される枠組みや切り口が変わることで、その対象の主観的な価値を容易に変えてしまう心のメカニズムを持つ傾向にあります。特に、インターネットやテレビなどといったメディアへの長期的あるいは反復的な接触は、私たちの想像以上に人の判断や行動に影響を与えます。つまりその人の現実認識を、メディアが描いているものに沿った形でいわば「培養」するのです。メディアである争点や話題が繰り返し、あるいは大きく取り上げられるほど、その争点やトピックを重要なもの、優先して取り組まれるべきもの、世の主流となっているもの、今世間の多くがそのように考え選択していると、意識的無意識的に信じてしまう傾向を持っています。結果私たちは、そうした普段接することの多い情報を、事実や実際の頻度とは異なるにもかかわらず、実例としてすぐ頭に思い浮かびやすいがゆえに、この世の中でよく起こっている「事実」であるとしばしば判断してしまうことになるのです。

 つまり人は、自分達を取り巻くさまざまな事象について、多様性ある視点から正しく認識解釈したうえで、じっくり腰を据えた意思決定や行動をおこなっていない可能性のほうが高いかもしれないのです。もちろん多すぎる選択肢は必ずしもベストな選択を生み出しはしないのですが、問題は、多様な情報媒体とネットワークを持ち、溢れんばかりの情報に接しているにもかかわらず(そしてそうであるがゆえに)、ある一方的な認識が自己増殖的に拡大していき、それでよしと考えさせていることになかなか気づけないでいることなのです。私たちを取り巻く広い意味でのネットワーク社会の最大の落とし穴はそこにあるといえるかもしれません。



でも人間である以上、こうしたかならずしも適切とはいえない認識傾向を持ってしまうのを避けられないとすると、いったい私たちはどうした方略を持って物事を判断しあるいは行動すればいいのでしょうか。

 世の中のすべての事象には必ず表と裏が同じくらいの量や割合で存在することを意識しておくことは簡単な一つの方略といえるかもしれません。私たち人間は、自分が望むポジティブなものには積極的に目を向ける一方で、同量の関心を払うべきネガティブ・ポテンシャルにはいわば盲目になってしまう心理傾向があります。どんなにバラ色に見え、いいことしか考えられないものごとでも、かならずプラスとマイナス、メリットとデメリット、光と影があるはずと認識することです。インターネットのように素晴らしいポテンシャルを持ち、私たちの生活を変えてきたものでさえ、やはり同じくらい深刻なネガティブ・ポテンシャルがあるのです。

 今日本では、海外や外国人の間で広がる日本人や日本文化伝統への高い評価がさかんにさまざま取りざたされていると聞きます。テレビやインターネットでもそうした情報や番組コンテンツに人気が集まるために、そうしたいわば「ニッポンは素晴らしい」的傾向に沿った情報が供給されることになります。日本人の私たちにとっては、自分が帰属する集団への周囲の高い評価に、自分を同一化させる機会が増えることになるため、とても気分が高揚しクセになる体験になってしまいます。それは悪いことばかりではありませんが、本当に私たちが関心を持つべきは、「クールでない」ジャパンという裏の視点への同量の配慮と関心かもしれません。これこそが真の国際化と相互理解と信頼の心理的基盤となるものです。

 たとえばクール・ジャパンの代表格である「おもてなしのこころ」の裏の顔とは、滅私奉公や空気を読めとの社会的同調圧が適正な限度を超え強く、精神文化的な凝集性が過度に高い社会が陰に陽に要求する、あうんの呼吸や細かすぎる他者への気遣いと過剰なまでのサービスや便利への忖度、日常社会生活における自己犠牲と耐えることへの暗黙の称賛の空気であり、そうした結果としての痛ましい過労死や自死、いじめやハラスメント、繰り返される企業や政官界の不祥事、低い労働生産性や疲弊する仕事現場での人手不足の悪循環などです。そこにはむしろ外面(そとづら)を維持するあまり、自分や自分にとって本当に重要な近しい関係の他者(たとえば家族や職場同僚や従業員など)を犠牲にする、いわば「釣った魚にエサはやらない」的な損得勘定の人間関係を無意識のうちに構築してしまう危険がひそんでいるといえます。



 もう一つの方略は、外からやってくる情報をときにシャットアウトし、内なる情報とじっくりと向き合うことをおそれないことです。今や「沈思黙考」と言う言葉がもはや死語となりつつある時代なのかもしれませんが、私たちをとりまく社会的な環境情報の処理に終始することに偏重し、自分の中に正しく判断するための能力や材料が元々あるにもかかわらず、その内なる世界へ関心と注意が向かわず、ものごとを根本から考え決断し、試行錯誤してみるという習慣を欠くような日々の精神活動は、自己信頼や自尊心といった健全な精神が育まれにくい心の素地を生み出してしまいます。外から入ってくる情報は所詮有限なものですが、私たち誰もが持つ内なる世界はある意味無限の可能性をも秘めているとも言えるのです

カウンセリングには様々な問題を抱えた方がおいでになりますが、結果としてシンプルに「もっと自信をお持ちになってよろしいのですよ」「あなたが悪い、間違っているというわけはないのですよ」というひと言がカウンセリングの入り口であり出口でもある場合が多いかもしれません。もちろん、それは簡単なことではありません。問題を抱えているときは誰でもそんなこと考えられないし、ゼロから自信などは生まれません。自分の中にはネガティブなものしか思い浮かんでこなかったのが今までの普通だったからです。

私たちの人生とは、答えの見つからず見通しもつかず不安ばかりに圧倒されそうな現在や未来そしてときには過去について、常に何らかの決定を迫られる過程そのものといえます。そうした只中にあって、相談者のこころに徹底して寄り添い、困難を転機に変える決して気休めではない実際の大きな力としての『希望』を説きつづけるのも私たちの仕事です。心理専門職との対話、コミュニケーションを足がかりにして、内なる世界に広がるポテンシャルを引き出す過程を体験することもまた、問題解決の大きな一歩になりうると考えています。


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by yellow-red-blue | 2018-04-05 13:52 | Trackback | Comments(0)

寒空の向こう ~ 春分の頃’18


これを書いている今日(321日)は春分の日ですが、東京は季節はずれの雪が舞い、厳しい寒さにふるえるあいにくの一日。行きつ戻りつを繰り返しながら春へ向かうこの季節ならではの一日とはいえ、これほどの極寒の日になるとはビックリでした。祝日のこの日はカウンセリングも普段はお休みなのですが、片付けなければならない仕事があって、やむなく仕事場へと足を運びました。途中見かけるどの桜も2~3分咲きあたりで足踏みしているようでした。

それでも新しい季節は確実にそこまでやってきています。近くの公園を流れる小さな渓流のせせらぎは水量を増し、日の出はずっと早くなり、そよぐ風は朝夕などはまだ冷たさを感じさせながらもそのみずみずしさは春模様そのものです。

この時期は、学校や職場、ご近所などさまざまなシーンで別れと出会いの生まれる季節、来る人去る人が行き交い涙が似合う季節とも言われますが、冷静に考えてみればこの時期にそんな出会いや別れを経験するのは、日本人全体からすればむしろほんの一部の人に過ぎません。人生区切りの情報に接する機会が増える時期であるためそのような空気がありますが、実際私たちの多くにとっては、さしたる別れも出会いもない、いつもの普段通りの日々でなのでしょう。



そんな普通の人のひとりである私にも、今朝方はちょっとした出会いがありました。薄暗い仕事場の部屋の電気をつけようとスイッチに手を伸ばした時、ふと窓の外のバルコニーの手すりに気配を感じ、カーテンの窓越しによく見ると、そこに一羽の野鳥の姿がありました。もっと姿をよく見ようと、音を立てないよう抜き足差し足慎重に窓に歩み寄ると、それは冷たい風雪の中、雨宿りするかのようにじっと羽を休めていました。これからどこへ行こうか思案しているようでもあり、仲間とはぐれひとり途方に暮れ、雨空を遠く見つめているようにも見えました。灰色と白色が美しく交じった羽毛に包まれたかわいい姿は、あとで調べてみるとどうやらハクセキレイという名の野鳥でした。やがて何かを決断したかのように、雪の舞う寒空高く飛び去っていってしまいましたが、ごく近い距離でその姿に魅せられていたそのほんの10分という時間は、めったに体験のできない心休まるひとときでした。

これもまた出会いのひとつ。こんなことでもなければハクセキレイという名もこの小鳥のことについて知ろうとすることもなかったでしょう。またやってきてくれるかも、と小さな期待に心躍ることもなかったでしょう。たまにはこんな出会いもいい、休日出勤もよしとしよう、単純ですが気持ちが少し明るくなりました。


 

 いっぽう季節や時期を問わずいつも出会いと別れを繰り返し、常に涙する人と向き合うのが私のようなカウンセラーでありカウンセリングルームといえるかもしれません。

こんなに日常から涙する人々と接する仕事は、葬儀屋さんとカウンセラーぐらいだと、ある人に冗談まじりに言われたことがあります。確かに日々人の死と向き合うお仕事をなさっている方々同様、カウンセラーほど人の涙と出会う職業はないかもしれません。こんなにも人が哀しさやつらさを切々と語り、人生の辛さに向きあう場所は他にはないかもしれない、と自負めいた感慨がわき上がらないことも時にないではありません。けれどもそうした人の苦悩をしっかりと受け止め、正しくこたえていくのはとても大変であることも日々痛感してしまいます。つらく、こころ折れそうになることもしばしばです。そんな時私も、カウンセリングの只中でも、相談のメールを読んでいても、つい涙してしまいます。治療者が涙することはあまりほめられたことではないとする考え方もあります。でも「もらい泣き」するこころを忘れない人間でいたい、ひそかに私はそう思うのです。


“雲と小鳥と人の涙のあるところ、そこがすべてわが家なのです”

                       ローザ・ルクセンブルグ

 

生きる悲しさを希望と勇気とに変えていくお手伝いがしっかりとできているだろうか。日々自問自答しつづけることもまたをカウンセリングであることを痛感します。



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by yellow-red-blue | 2018-03-21 23:18 | Trackback | Comments(0)

感度の違い ~ 啓蟄の頃‘18


 桃の節句あたりからのどの痛みを訴えていたのですが、この時期になると毎年のように花粉症に悩まされている私は、またいつもの花粉症だろうと軽く考え、のどの症状をそのまましばらく放置していました。ところが、気が付けばすっかりひどいカゼを引いてしまったことに気づき、慌てて近所の病院へ駆けつけても時にすでに遅く、結局お医者さんから数々の感冒薬を処方され、しばらくの安静を指示されるはめになってしまいました。もっと早めに病院へ行っていれば、これほどこじらせてしまい日常生活や仕事に支障をきたすことはなかったのです。おかげでブログの更新もすっかり遅れてしまいました。


何かと時間に追われ、なかなか休むということができない私(たち)は、こんなとき、「今カゼやインフルエンザも流行っているから、ひょっとするともっと重い症状かもしれない」「早めに医者にちゃんと診てもらおう」「大事をとって休むべきだ」などとは考えられず、「いつものまた花粉症だろう」「たいしたことない」「今休んだら周囲に迷惑をかける」「あと数日辛抱すれば週末で休めるから」などとつい自分をごまかしがちです。

個人的な願望や置かれている現状をできるだけ肯定的に解釈し、それを維持したい、変えたくないという思考傾向をもともと持っている私たち人間は、ものごとをいわば保守的な方向で推測、判断してしまいがちなちょっぴり(もしかしたらかなり)うしろ向きな生き物です。

心理学では、こんな私たち人間は元々ある種のバイアス(現状認識についての齟齬(そご)あるいはズレ)を有していると考えます。ちょっと難しいですが、たとえば以下に挙げるようなこころのメカニズムです。


✽正常性バイアス:

身の回りに起きるすべての事象について、同じように警戒注意レベルを保ち、正常異常を判断し区別するのは大変なので、ある程度の異常をも誤差の範囲内であると処理して、異常を無視すること

✽一貫性原理:

それまでとってきた行動や思考パターンを、直面する状況に応じすぐに変えることに抵抗を感じる傾向

✽現状維持バイアス:

現状を変えることは、良いことをもたらすより悪い結果へとつながる可能性を強調し、特別強い要因がない限り、変化を回避しようとする傾向

✽楽観性バイアス:

他者には起こっても、自分に限ってはそんなことにはならないだろうと、様々なリスクに自分が陥るにことについて低く見積もろうとする傾向


その他にも、自分にとって耐えがたいあるいは直視しがたい事柄から生じる不快な情緒体験を回避するため、心の平穏とバランスを保とうと、自己防衛のための多くの心の対処方法を私たちはとることが知られています。詳しく説明する余裕はありませんが、これをフロイトの精神分析学で言うところの「防衛機制」といいますが、これもまた類似するこころのメカニズムといえます。



けれども、こうした意識的あるいは無意識的なバイアスが、不適切で間違ったものであるとは必ずしも言えません。少し話は飛びますが、かつてまだヒトが弱肉強食、食物連鎖の環の一部であり、生きる糧をめぐり生存と獲物獲得競争を繰り広げ、厳しい自然環境の中生存と種の保存を確保するためには、周囲のあらゆる未知の危険を予知し回避し、対処する能力は必須のものでした。野生動物同様、リスクに敏感で警戒を怠らないことが、生き残るうえで常に必要とされていたわけです。けれどもその後数百万年もの長い進化の過程において、私たちヒトが獲得したのは、狩猟採集や定住農耕の効率を上げ、あるいはまた複雑な社会生活がもたらす様々な問題の解決に本当に必要な情報を適切に取捨選択するために、周囲の情報について時に適度に無視・回避し、逆にあることについては過度に警戒するという柔軟で効率的なこころのメカニズムでした。ましてや安全と安心がいわば日常的なものであり、めったなことでは生命や生存の危険を感じることのなくなった現代の私たちは、常時リスクを警戒する必要性から解放され、「安心して」さまざまなバイアスに身をゆだねることができるようになったのです。



もう少しわかりやすく言うと、私たちには火災報知器やガス警報器のような「こころのセンサー」が備わっており、日常生活や仕事、人間関係など社会生活全般において、注意や警戒、判断や意思決定が必要な事態に直面すると、警報を発し私たちがその後適切な行動や判断へと移れるよう合図を送ってくれているのです。ただし、その感度が敏感になりすぎたり、逆にほとんど反応しないことにならないよう、絶妙に調節されているのが本来の私たちの「こころのセンサー」なのです。

ところがこのこころのセンサーは、実はとても複雑で繊細なものです。さらにやっかいなことには、私たちはそのセンサーの発するメッセージに逆らうことがなかなかできません。センサーの判断を疑うことをしないのです。ときにちょっとおかしいかもしれないと感じつつも、心身はほぼ無意識的自動的にそれに従って反応してしまいます。もともと私たちのセンサーは、遺伝的要素や個人のパーソナリティ、それぞれの生育環境を構成する諸要素条件、学習や経験などが無限かつ複雑に絡み合って、それぞれがオリジナルな感度を持っています。極めて周囲の状況に敏感に反応するよう設定されている人もいれば感度が鈍く設定されている人もいます。センサーの設置状況(つまりは私たちの人生)にさまざまな変化が生じれば、センサーの働き方はおのずと変わってきます。長年の使用によって経年変化をきたすこともあれば、ときに誤作動を起こす可能性は誰のセンサーにもあるのです。

そうしたセンサーに微妙なズレが生じると、しばしば私たちは心のバランスを失い、人生や社会生活にさまざまな支障が生じます。それは例えていうなら、目玉焼きを食べようとキッチンで卵を調理しているだけなのに、センサーがそれを危険と判断し、火事だガス漏れだと過剰に警告を発し、その誤った警告を事実であると判断してしまうようなものです。ガス警報器や火災報知器と違い、このセンサーは私たちのさまざまな心のメカニズムと分かちがたく結びついているため、センサーのほうが誤っているとして無視することはなかなかできず、過剰に反応したり適切な反応を欠いてしまったりするのです。これが極端になると、「調理=危険」、「卵=危険」とまで受け取ってしまうばかりか、挙句には食べ物全般にまでその危険性と嫌悪感情を一般化し、料理することも食事もとれず、それどころかそこには住めない、といった比喩にも似たふるまいを、人生のさまざまな場面においてしてしまうことにもなりかねません。そしてセンサーの誤作動が原因であることに気づかず、ひたすら自分の性格や人間性を責めることに苦しむことになるのです。



私たちカウンセラーの仕事とは、ある意味において、こうした適切に作動していないかもしれないこころのセンサーの微調整あるいは点検・メンテナンスを行い、適度な鈍感さと柔軟性ある感度を維持すること、そしてカウンセリングを通じて、クライアント自らが自己調整できるよう導いていくことにあるといえます。残念ながら、センサーを新しいものに交換することはできませんが、センサーをほどよく調整し直すことは可能です。適切に点検・メンテナンスを行えば、私たちの一生の間まずまず破たんなく作動するようできているのです。

ここで大切なのは、あくまで問題はセンサーの感度に問題にあるのであり、決してその人本来の人間性や人格、社会的な能力とは何ら関係のないということを、自身もそしてとりわけ周囲の人も理解することです。これは私たち誰しもに起きることです。そしてひとたび起きれば自分でコントロールすることは難しいのです。つまり外から見てどうにも理解のできない行動や症状であっても、それは「無理からぬ」ことなのだという認識を持つことが重要なのです。心の不調は、目に見えたり原因物質を特定することもできないため、私たちはその症状だけをとらえ、その人の本質そのものと勝手にとらえ、時に精神的に弱い人間としていとも簡単に見下してしまうのです。インフルエンザや胃潰瘍を患っている人に対し、たとえそのことで周囲に何らかの迷惑がかかっていたとしても、「だからあいつはダメな人間だ」とか「何とか根性で乗り越えるべきだ」と言うことが、いかに理不尽なものかを考えればよくお分かりと思います。

本来はセンサーの感度の問題であるはずの症状に対して、お前(性格)に問題がある、他の人にそんなことは起きない、と決めつけることが、こうした悩みを抱え精神的困難に陥っている人々へ周囲が抱きがちなバイアスです。そしてそれは行き過ぎたバイアスであり、そうした考えを抱く人(こそ)が、こころのセンサーが不調なのかもしれない、ということに気付いて欲しいのです。


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by yellow-red-blue | 2018-03-09 14:40 | Trackback | Comments(0)

青春のとき ~ 雨水の頃’18


「結局、あの子たちはまだ青春なんです。50にもなるのに、いつまでも足元見ないで夢を追っかけてばかりいる」

「そうですか?いまだ青春なんて素敵だと思いますけど」

すると半ばあきれ顔で、「あんたも若いね。身内じゃないからそう言えるんですよ。あの子たちには、きっと自分たちがまだ子どもだってことがわかってないんだ」


溜息まじりにこうつぶやくAさんは、一年以上前から私のところへ通っていらっしゃる70代の会社経営者。別の相談でカウンセリングにいらっしゃっているのですが、結局なぜだかいつも、ご自身の二人の子ども達のことへと話は向かいます。なかばあきらめとも怒りともつかない言葉や表情に、寂しさと後悔がにじむようでした。Aさんが最も感じている思いは、「なぜこんなことになってしまったのか」という子と自分自身について、ぬぐいさることのできない疑問の数々だったようでした。

お話をお伺いする限りにおいて、お二人の子どもが特段道を外れただめな人生であったわけではありません。学校を無事卒業し、安定した就職先を見つけ、結婚し家を買って子どもを設け、幸せな家庭を築き穏やかな老後を迎えるという、いわば普通のありふれた人生が、いまでは数多い人生の選択肢の一つでしかなくなりつつある私たちの社会を考えれば、お二人の生き方は、よし悪しとはまた別の、よくある多様な人生模様の一エピソードにすぎないといえます。しかし、Aさんからみれば、結婚してもすぐ離婚してしまい、子や家庭も持たず(したがって、Aさんには孫の顔も見るチャンスもなく)Aさんの表現を借りるなら、ただ仕事にしがみついているばかりの娘と、大学にもやり海外留学までもさせておきながら、ある日突然医学の途もAさんの後継者となることも放棄し、180度方向転換の人生を歩み、あげくには家族が反対する結婚を強行した息子の2人は、たまに会えば喧嘩口論を繰り返す、いまではすっかり絶縁状態の、言ってみれば「できの悪い子ども達」でしかないように思えているのかもしれません。

自らの人生と子ども達に思い描いたはずの理想と現実とのギャップ、奥様に先立たれ年老いていく身の孤独と不安、会社経営者として立派に頑張ってきた人間の自信とプライド。多くの複雑な思いが交錯しながらも、どこで間違ってしまったのか首をかしげる苦しい日々を送られてきたようでした。


 

 世界トップクラスの長寿を誇るわが国ですが、日本人の平均寿命が50歳を超えたのは、今とは医療や衛生・生活環境が異なるとはいえ、実は第二次世界大戦後にしかすぎません。そして今や、いずれ人生100歳の時代がやってくるであろうというのが大方の予想といいます。すべてが目まぐるしく変わる今の社会の中で、100年を生きるというのはある意味とても大変です。ライフサイクルは大きく変化し、青年期や成人期、あるいは老年期といった従来の人間の発達過程の境界もあいまいで流動的になり、かつて思い描いていた人生設計は、幾度となく見直しや仕切り直しを迫られる時代です。むしろそうした柔軟性と適応力を持つことが、より豊かな人生を送る必須条件ともいえる時代にすでに私たちは生きているのかもしれません。だとすれば、そんな中で青春時代が長引こうが、あるいは幾度となく訪れようとも、それぞれが悩んだり迷ったり目標を追い続ける過程に身を置くことそのものが、最後の結果がすべての人生よりもむしろ大切なことなのかもしれません。

 

    A rolling stone gathers no moss(転石苔を生ぜず)

 この古いことわざには2つの意味があります。歴史と伝統の国イギリスでは、一貫性がなく職業や住まいを転々とする者は成功することはできないことを意味し、一方チャンスと自由の国アメリカでは、ひとつの物事にとどまらず、いつも活発に行動するものの才能は決して錆びつかない、ということを意味するとか。

 どちらが正しく間違っているということではありません。人生それぞれ人それぞれです。『人生は醜くくもなければ、美しくもなく、ただそれぞれに唯一無二なだけである』(イタロ・スヴェーヴォ)であって、そもそも正しい答えなどありはしないのです。そして、それでいいのではないでしょうか。

 人生に失敗はありません。失敗があるとすれば、それは自分を、そして人をこうあるべき、こうあるべきだった、と決めつけることそのものではないでしょうか。「青春」と言う言葉は、大人になり切れない青臭さが漂う言葉かもしれません。でも人生は一生青臭くても本当はいいのです。そして青臭いと密かに笑う人こそ、人生の敗者、失敗者なのではないでしょうか。



長く続いたAさんとのカウンセリングが終結を向かえた最後の別れ際、私は1冊の本をプレゼントしました。古い本なのでインターネットで中古を探してお渡ししたものです。Aさんが大好きだという往年の昭和の大スターの自伝(口伝)本なのですが、この中に青春について語っているとても素敵な文があるからでした。青春については、歴史上の多くの偉人や有名人が、金言・至言・魔法の言葉を残しているのはご存知の通りです。ですが、私はこの言葉(文)が一番好きです。わかりやすく率直で、とても爽やかだからです。

 少し長いのですが、そのお気に入りのくだりを以下に引用して、今回のブログを閉じたいと思います。




「青い春」と書いて青春と読む。

だから、青春時代と言うと、若いときになってしまう。

でも、振り返って見ると、僕はずっと青春だったような気がする。

一週間を振り返って、

(ああ、よかったな)

と思える人は幸せだと思う。

十年、二十年という、セピア色の思い出ではなく、

一週間、一か月、あるいは一年前という鮮明な“昨日”を振り返り、

その時の喜びを将来の励みにできる人は幸せだ。

「ああいうことが一年前にできたんだから、今年もやろう」

「来年は、それに輪をかけてトライしてみよう」

それは何でもいい。

ちっちゃなことでも構わない。

バカバカしいことでもいいのだ。

「縄跳びが今年は百回できた。よし、来年はそれを二十回増やそう」―そんなことでもいい。ちっちゃいこと、ささいなことが積み重なり、相乗し、やがて大きなものに膨れ上がっていく。

その過程を「青春時代」と呼ぶのではないか。

十代は十代の、四十代は四十代の、そして六十代は六十代の青春があると、僕は思っている。

「青春時代」は、そこにあるものではない。

自分で作るものだ。

「死ぬまで青春時代」

そう言える自分でありたい。

いや、自分にそう言い聞かせ、前途に希望と期待を抱き、今日という一日を全力で生きる悔いのない自分でありたいと願っている。

          (「口伝 我が人生の辞」石原裕次郎、主婦と生活社)


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by yellow-red-blue | 2018-02-20 13:38 | Trackback | Comments(0)

受験に克つ、こころの時間旅行 ~ 立春の頃’18


 一年のうち最も寒さが厳しくなる大寒を過ぎ、二十四節季最初の節季である立春は、いよいよ新しい春の季節の始まりです。けれども、何年に一度という強烈な寒気が覆う日本列島は、例年にもまして全国的に厳しい寒さに見舞われているのはご存知の通りで、立春を迎えても日本海側を中心に大雪が続いています。東京でさえ、最低気温が氷点下になる日もしばらく続くほどですから、やはり今年はことのほか厳しい冬のようです。2月を如月(きさらぎ)と呼びますが、元々は「衣更着」、つまり重ね着するほど寒さがとても厳しい季節を意味する言葉(諸説あります)。今さらながら、古人の繊細な言葉選びの妙を寒さに震えつつもひしひしと感じます。

 立春といえば、ちょうど節分と重なります。節分の豆まきは、文字通り季節の節目を迎え、寒さや風邪や病気など邪鬼(気)を払い、新たな春を迎えるためのいわばお清め儀式のようなものです。春というにはほど遠いながら、厳しい季節に早くひと区切りをつけ、春を心待ちする人の気持ちは今も昔も変わらないのでしょう。


 

ひと区切り、といえばとりわけ今の季節、一刻も早く区切りをつけ明るい希望の春を迎えたいと願っているのは、間違いなく受験生達とそのご家族でしょう。

 人生の未来と希望を託す学校へ入学するための、いわば失敗の許されない一発勝負。かつては私たち多くの大人もその厳しさを経験しているとは言いながら、受験生にのしかかるプレッシャーや緊張、不安は、決して外からは推し量ることのできないほど大きなものでしょう。『誰しもが経験すること』『条件はみな同じ』『不安なのはみな一緒だ』などという言葉は、受験只中の当の本人からすれば、何の気休めにもならないかもしれません。

 そんな厳しい受験を勝ち抜くため、学校や予備校、インターネットやSNSなど様々な機関や媒体、社会関係を通じ、受験対策に関するさまざまな情報が、受験生のあいだを飛び交っていることでしょう。その内容は、具体的な試験問題対策や勉強方法に始まり、普段の日常生活の体調管理から試験日当日や試験日前数日間の過ごし方に至るまで、実に様々きめ細かなものです。

 受験シーズンも後半を迎えちょっと遅きに失した感はあるのですが、今回は、懸命に頑張っている受験生を応援する立場の家族など周辺の方々向けの、ちょっとしたアドバイスなり知識を、と思います。


  

少し乱暴な言い方をお許しいただけるならば、人が私のところへカウンセリングを受けにいらっしゃる理由は二つしかありません。過去に対する後悔や悔悟にとらわれているか、未来や将来への不安にとらわれているため、あるいはその両方です。そしてその過去や未来への執着のために「今」を犠牲になさっているのです。ここでは細かな説明は省きますが、しかし考えてみれば、私たち人間は、過去の経験や学習、記憶を現在にさまざま活かし、そしてまた将来を見据え、想定や計画、準備をする生き物です。過去から成功や失敗を学び、将来へのモチベーションゆえに今を頑張るわけです。少なくとも私たちのこころは、過去と今と未来の間を自由に行き来する時空間を超えるシステムを備えており、これを心理学では『心的時間旅行』などと表現されたりしま。何と大げさな、そんなことあたりまえではないかと思われるかもしれませんが、これはヒト以外の生き物では、類人(オランウータンなど)を使った初歩的なほんの一部の実験の結果を除いては、他のいかなる動物にも確認されていない高度な知的能力です。

そうして考えてみると、精神的に深刻な困難を抱えている方を含め、私たちが悩んでいる状態とは、その「こころの時間旅行」がどうもうまくいかない、過去と今と未来の間を柔軟に行き来できずに、どこか不自然にギクシャクしてしまったり、あるいはどこかで身動きの取れない状態になっている、そう考えると少しわかりやすいかもしれません。こころの時間旅行がうまくできることは、時々刻々変化する周辺環境や社会関係に柔軟に適応し生きていくことを可能にしてくれるとても大切な能力なのですが、その柔軟性が失われてしまうと、ちょっと厄介なことになってしまうのが私たち人間です。起きてしまったことが忘れられず、まだ起きてもいないことにくよくよし、結果今にベストを尽くせずに迷う。そして受験とは間違いなく、若い受験生達をそうした厄介な状況におとしいれがちなライフイベントなのです。

つい、過去の思うようにいかなかった模擬試験や学校の成績、誰から言われたひと言が気になる。また同じ問題でつまづいてしまった、何度やっても覚えられない、時間がもうない、失敗したら、解けない問題が出たらどうしよう、当日体調を崩したらどうしよう、あわててつまらないミスは絶対できない、どうして友達はあんなに自信満々で明るいのだろう考えればそれこそきりがなくなってしまいます。


  

心理学においては、こころあるいは頭脳のはたらきをコンピュータのソフトウェアのようにとらえて、そこで行われる高度に知的な情報処理過程、たとえば知覚、記憶、思考、推論、意思決定、内省などを「認知」と呼びます。普段当たり前のように私たち人間は、あらゆる状況において認知活動を行っていると言って差し支えありません。しかし、この認知機能はコンピュータのメモリに似て、おのずとその処理能力に限界があります。したがって、限りある認知能力を状況に応じて上手に分配したり、あることには集中し不要なことにはその能力を振り向けないようにすることで、私たちの認知機能は破たんすることなく正常に機能するのですが、その調整のあんばいが実に悩ましいのです。

特に、何らかの精神的な負荷がかかっていたり、未解決のストレスを抱えている状況下であれば、私たちの意識はどうしてもネガティブな思考や感情で満たされます。そして考えまいとすればするほど、かえってそうした思考や感情は私たちの意識にのぼりやすくなり悪循環が生じます。ネガティブで不適切な思い込みや感情は、客観的事実や冷静な第三者的視点より優先して「事実」として認識されやすい強い支配力を持ったこころのはたらきなのです。こうしたことを意識からなんとか追い出そうとして、ついこころのエネルギーを無駄に消費してしまい、現在進行中の課題に割かなければならないはずのメモリ容量を余計圧迫してしまうのです。

 ネガティブな思考や感情が、実際の事実や現実認識を押し潰してしまうようなことがあると、なかなか私たちのこころは上手に機能してくれません。ちょっと難しい持って回ったような説明をしてしまいましたが、こうしたことは、受験生の繊細な心の中では、たとえ表面上は平静を装っていたとしても、常に起きていることなのです。


  

 さて、ではどうしたらいいでしょうか。

 ただでさえ余裕のない状態の受験生に、いまさらあれをしろ、これをしろなど、良かれと思うアドバイスやひと言が、それこそいらぬお節介と苛立ちを招くことは無理もない話です。受験のことはある程度は受験生に任せるしかないとして、上手にその気分を和らげ、やるべきことへと気持ちを集中させ、高いモチベーションを保つことに役立つちょっとした日常の気遣いがとても大切になってくるのです。

✽ 不快な言い回しや感情をぶつけない

 厳しい寒さの今は風邪やインフルエンズがはやる時期ですが、さらに悪いことに、精神的にプレッシャーがかかると私たちの身体の免疫機能は後退しがちで、病気やウイルスに対しどうしても脆弱な状態になってしまいます。ですから、うっかり風邪をひいたり体調を崩してしまったりすることはありがちなのですが、しかしそんな受験生に...

「ほらみなさい、あれほど注意したのに。本番でそうなったらどうするの。もっと気をつけないと。」

あるいは、ちょっとした日常生活での行為に...

「あんたはウッカリが結構多いから。試験では命取りよ。」

よくある親からの注意とさらりと流してしまいそうです。でも、それらはただの叱責であり、失敗をあげつらう言いっ放しに過ぎず、実は何も言ってはいません(つまり心に響きません)。ほとんど具体性もなく、叱責されたという事実と自分を責め苛立つ感情だけが受験生の心に残ってしまいます。誰もこんな大事な時期に風邪をひきたくてひくわけではありませんし、うっかりミスだってします。そんなこと本人も百も承知なのに、つい周囲が自分の感情をぶつけてしまうのはやっぱりよくありません。周囲の期待と心配の裏返しとしての棘のある言葉がありがちなのはよくわかるのですが、こんな時に「裏返す」必要はありません。そんなときこそ、ぐっとこらえてストレートに優しくいたわる言葉掛け。

「ウチの子どもはそんなヤワじゃない」

そう、普段はそうかもしれませんが、受験期はどんな子どもでもどうしたって普通の状態とはいいがたく、本人もまたそれをあまり自覚できていないものです。今の時期だからこそちょっぴりこだわりたいです。

✽ 抽象的、感情的な言葉掛けよりも、具体的な事実やもの事に言及する

「あたし昨日、変な夢を見たのよ。夕方の買い物しにスーパー行ったら、途中の駅前であんたとバッタリ会ってさ。あんた『試験出来ちゃった』なんてニコニコしてるんだけど、こっちはやだ、試験今日だった?なんてあわててるのよ。変な夢だったけど...正夢ってのもあるからね。とりあえずちょっと嬉しかった。」

「でも、去年の模擬試験だってダメだ自信ないとか言って、英語と国語は結構できてたじゃないの」

「そういえば、去年の面談のあとで先生もチラッと言ってたわね。今の調子で充分だって」

「今日、~ちゃんのお母さんとバッタリ会ったわ。やっぱり~ちゃんもプレッシャーかかって大変だって。でも~ちゃんあんたのこと、本番で強いタイプだからうらやましいって言ってたらしいわよ」

 ついつい受験間近になると、あとは気持ちの問題とばかりに、精神論で押してしまいたくなります。「あと少し。頑張れ」「大丈夫、きみならきっとできる」「気合と集中だ」「条件は皆一緒」言われればどれもその通り。ですが、受験生本人が感情的に不安定で負荷のかかっている状態では、感情面や気持ちを強調してもそれほど効果はありません。「抽象」「感情」ではなく、「具体性」「出来事」で押します。具体的な事柄、あったもの事としての表現や言葉掛けがより効果的です。たとえそれが事実と異なり、多少の脚色や創作が入っても、です。特に、第三者からの間接的な評価や評判は、とても私たちをその気にさせる効果があります。

 他にも、「試験が無事終わったらみんなで旅行へ行くぞ~」「終わったら、欲しいものなんでも一つ買ってやるよ」などは、しょせん「目の前のニンジン作戦」といってしまえばそうですが、具体的にイメージできるものはやはりポイントが高いのです。

このように、ポジティブな過去や未来への時間旅行へと上手に誘い、いまへのモチベーションを上げることはやっぱり効果があるものです。

✽ 笑顔を意識する

 意外とこれがなかなかできていないんです。つい心配から、子どもを大丈夫か、問題はないか、まだできることはないかと、「監視」してしまうものです。さりげなく普段から子どもの言動を観察して、わずかに気持ちが緩んだりリラックスしているときの状況や表情をとらえて、それに同調するような感覚で自然にリラックスの輪を広げる工夫をするといいです。無理やり受験生をリラックスさせようとして、周囲が意識的に明るく振る舞ったり、笑顔と笑い声をふりまいたり、無理に外出やレジャーなど気分転換を促すようなことは、逆に神経をさかなでしてしまいかねません。特別なこと、新しいことをする必要はありません。時には子どもへの注意よりも、自分を含めた周囲の様子を意識することも大切です。受験生のリズムに合わせて、さりげなく柔らかい空気を作る工夫をしてみてはいかがでしょうか。


  

 どれも言わずもがなの大人の知恵かもしれませんが、ちょっと心の隅に留めおくだけでも随分と違うものですし、受験間際でもそれなりに効果の期待できるものです。

 ネガティブなことはさておき、ポジティブな過去や未来に目を向け、「こころの時間旅行」をサポートしていけば、受験という「今」だってそうは恐れることはなくなっていきます。

 受験生とご家族のホッと明るい笑顔がもうすぐ、きっとやってきますように。


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by yellow-red-blue | 2018-02-04 21:41 | Trackback | Comments(0)

イスが教えてくれるもの ~ 小寒&大寒の頃’18


年末最後のカウンセリング業務も終わり、恒例となっているカウンセリングルームの大掃除をひとりしていたときのこと。カウンセリングに利用しているテーブルの下に潜り込み、床やテーブルの脚などを入念に拭き掃除をしていて、ふとクライアントがいつも腰掛けるイスの脚の部分を目にしたとき、「何かおかしいな」と感じたのです。よくよく眺めてみると、なんと椅子があらぬ方向へと歪んでいることに気が付いたのです。椅子が左斜めにかなり傾いていました。

椅子は新調してからまだ年たらず。カウンセリング中はできるだけリラックスして過ごしてもらおうと、丈夫でかけ心地の良さそうなたっぷりとしたサイズの椅子を選んだのでしたが、どう見てもそのスチール製の脚の骨格部分が斜めに傾いている。念のため、普段私が使用する同じ椅子やスペアの椅子をチェックすると、どれも異常はなく曲がってはいません。

 その椅子を普段他の用に使用することはなく、あくまでクライアント専用。体格もさまざまな不特定多数の人が1つ同じものを使用すれば、使い方にいろいろな癖がつくもので、劣化や変形は珍しくはないのかもしれません。が、ほとんどのクライアントはただ静かに腰掛け話をするだけ、体格もみな私より小柄な方ばかりなので、まさかこんな形でイスに負担が来ているとはそれまで思いもしませんでした。


清掃の手をふと止め、小さなカウンセリングルームを眺めながら、その椅子が語り掛けてくるもの、この一年もまたこの部屋をさまざまな人が訪れ、それぞれの物語を語りそして去っていく、それらと向き合ってきたことが思い出されました。

ある人は何度となく訪れ、今もって続く人もいれば、一度限りで去っていく人もいる。確たる理由も告げず、もののわずか分足らずで席を立ち出ていった人もいれば、こちらの穏やかな制止を振り切り、90分もの間、自分の思いのたけをぶつけ続ける人もいる。悲しい話を穏やかな笑みさえ浮かべ気丈に語る人もいらっしゃれば、ほとんど言葉を発することなくただ涙の止まらない人もやってくる。

その人の語る言葉だけでなく、カウンセリング中クライアントが発するありとあらゆる非言語的なメッセージにも注意を向け、彼らのこころに真摯に耳を傾けるのが私の仕事ではあるのですが、その傾いたイスは、私がまだ彼らが発するメッセージのほんの一部分を受け止めていたにすぎないことを物語っているようでした。



名の知れた寿司職人さんのあるエピソードが思い出されます。アメリカのワシントンのポトマック河畔の有名な桜まつりに寿司職人として呼ばれ、各国の要人にお寿司を振る舞った後のインタビューの席上、

「あなたの握る寿司は、回転ずしといったいどこが違うのですか?」とある現地のジャーナリストからちょっと意地悪な質問を向けられ、こう答えたそうです。

「わたしの寿司はあなたのために握る寿司なんです。」


誰彼となく毎日機械のようにただ同じものを作っているのではない。一人の客と真摯に向き合い、その人の為に心を込めて一つひとつ握っていく。それを淡々と続けていくことは実は容易ならざることであって、誰しもにできることではないのでしょう。


私たち人間は、状況依存的な存在であると同時に、依然として主観と感情の生き物です。しかし、いまのITAIがめざす社会とはどうやら、すべてを「ある種の」客観的な尺度で把握し、あるいは計測することで多くの価値判断や意思決定をおこない、最終的には私たちの主観と感情を克服することをもって良しとする、ある人々には大変都合がいいが、人間の本質から言えばかなり窮屈な社会であるような気がしています。


 カウンセラーの仕事も、あの寿司職人さんと同じ姿勢で臨むべきなのでしょう。一人として同じ悩みはありえない。「あなた」のためにその場かぎり精一杯クライアントと向き合うこと。そんなことを忘れずに今年もまた、一年という時を重ねていこうとあらためて思います。


“人間には、人間としての能力を持ったロボットを造ることはできない。まして、よりまさったロボットなんて無理な話だ。美的センスとか倫理観とか、信仰心を備えたロボットも造れない。電子頭脳は、唯物主義から一インチも出ることはできない。

 そんなことはできない相談で、ぜったいにできないのだ。我々の脳を動かしているものが何かを理解しない限りできない。科学が測定できないものが存在する限りできない。美とはなにか、あるいは良心とは、芸術とは、愛とは、神とは、我々は永遠に未知なるものの淵で足踏みしながら、理解できないものを理解しようとしている。そこが、我々の人間たる所以なのだ。“

               (アイザック・アシモフ『鋼鉄都市』、福島正実訳、早川書房)


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by yellow-red-blue | 2018-01-05 14:49 | Trackback | Comments(0)

信号待ちで ~ 冬至の頃‘17


 「あ、またあの親子がいる。」

そう思ったのがつい先週のこと。若いお母さんと幼稚園に通うぐらいの女の子というどこでも見かけるような親子が、仕事場近くの狭いながら交通量の多い通りの交差点で信号待ちをしているのを目撃したのは、もうこれで4度目くらいでしょうか。

 考えてみれば、ご近所にお住まいか通学の送り迎えの途中であれば、だいたい同じ時間帯に行き来するので、出会うことなどそう特に珍しいことではないのです。ただ、その親子のことがなぜ印象に残っているのかといえば、いつも同じ光景を目にするからです。お母さんが娘さんを厳しく叱責、お説教する光景です。

 どこか私立の幼稚園とおぼしき制服に身を包む幼い女の子と、そうした子どもの保護者にお約束のシンプルな濃紺のスーツに身を包んだお母さん。交差点脇で屈みこみ、小さな女の子の顔を下から睨み付けるかのように何事かしゃべっているお母さんはいつも苛立っており、そして女の子は真っ赤な泣き顔であることが、道路のこちら側からもよくわかります。私はデジャヴのように同じ光景をいつも目撃していたのでした。

 親子といっても事情はさまざまです。ある一場面を切り取ってその親子関係のすべてを語ることはもちろんできないし、親とて人間、いつも完璧とはいかないし、幼い我が子とは言いながら感情をむき出しにして当たり散らすことだってあるに違いありません。叱ることも時には必要、そんな親子も普段はとても愛情たっぷり仲良しなのかもしれません。

 実は最初この親子を見かけた時、交差点の同じ側のすぐ隣にいて、この親子のやり取りをすぐ近くて見聞きしていました。

  

「ねぇちょっと。お母さんどうしても理解できないんだけど、教えてもらえる?どうしてああなっちゃうわけ?」

「あり得ないよね。他のお友達見てごらんなさい。ちゃんと説明して?ねぇ、~ちゃん。」

「返事は?聞こえてる?」

「そういう返事の仕方でいいって誰から教わったの?手はどうするんだっけ?~ちゃん。」

「いい加減にしてもらえる?」

ひっきりなしの車の往来の騒音の中から漏れ聞こえてくる言葉の断片の抑揚や言い回しは辛辣で威圧的、またとても幼い子どもへ向けるべき言葉の選択ではないようにも思えました。それは間違いを叱責するというより自尊心を傷つける言葉の投げかけ、ハラスメントに近いものです。

 何よりも気になったのは、その親子の「目」でした。お母さんの目に見え隠れする、弱い立場の人間に優位性と支配性を示す密かなやり込めた感のある満足げな表情と、一方、矢継ぎ早に繰り出される言葉と大好きなお母さんの鬼のような形相に頭が一杯で、ひたすらに委縮する女の子の「目」。

 こうした関係が知らず知らずのうちに常態化すると、後々健全な親子関係の構築や維持には困難が生ずるかもしれませんが、これ以上詳しい事情を知らない親子のことをあれこれ言うべきではないでしょう。

 

でもただひとつ言えるのは、このお母さんだって懸命に頑張っているに違いないのです。私の所には、子育てに伴うストレスでつい家族や子どもにハラスメント行為を働いてしまうお母さんがやってきます。今どきの学校の先生が激務とストレスで身動きの取れない状況にあるのと同様に、お母さんとて仕事に子育て・教育、地域や学校から寄せられる様々な要求や人間関係をこなすなど、直面し処理しなければならない課題は日々パンパンの山積みです。子どもや家族に対しめったに弱音を吐けないお母さんには、それをしっかり受け止め、こころのうちを明かすことのできる身近な存在もまたあるようでないのです。冷たい余裕のない表情の裏には、優しいゆえの懸命なこころの葛藤があるに違いありません。人生において人が人に優しくいられるということはそれほど簡単ではないのです。

 

 交差点で見かけた親子に、どんな言葉掛けができるだろうか?ふと考えて、あるお母さんとの会話を思い出しました。しばらくのやりとりのあと、その方の表情を見てふと何の根拠もなくこんな質問をしてみました。

「あの、最近泣いたことってあります?」「泣いたことですか?」

「ええ、悲しくても感動でもいいんですけど。自分の感情が溢れるにまかせて涙することってありますよね。そんな経験最近なさいました?」そんなこと考えてみたこともなかったとおっしゃいました。

 私はそのお母さんに、親子で感動するような映画やテレビ番組、本などを一緒に見ることを勧めてみたのです。季節もクリスマスを迎える今頃のことでした。いささかカウンセラーらしからぬ直観的場当たり的なアドバイスとはわかりつつも。

 子供向けのアニメでも、ちょっと子どもには難しいかなぐらいの大人向けの映画でもいいのです。親子でこころから「泣ける」ひとときを共有できるような作品に接する機会をぜひ作ってみて欲しいのです。一緒に感動し泣いて、そのことについてできるだけ言葉を投げ合ってみる。親子の間だって、いえ逆に親子だからこそ本当にオープンになることなんて少ないかもしれません。

クリスマスは、きらびやかなイルミネーションや美味しい食べ物や物に囲まれることだけがすべてではありません。こころ揺さぶられる素敵な体験が共有できる絶好の季節でもあります。

お母さんの涙と告白は、本当は子供だって見たいし聞きたいのです。それが親子なのですから。


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by yellow-red-blue | 2017-12-24 16:24 | Trackback | Comments(0)

普通の人々(Ⅱ)~ 大雪の頃’17


“人がこんなにも哀しいのに、晩秋はあまりに金色に美しく、音楽はあまりに甘美と調和に満ちている。”

ロバート・レッドフォード監督の映画「普通の人々」(1980年)を端的に表現するなら、遠藤周作の表現を模してこんな感じになるでしょうか。幸せに暮らしていた善良なあるアメリカ人弁護士一家が、長男の不慮の事故死という悲劇によってそれぞれが深い心の傷を負ったことで徐々にその歯車が狂い始め、互いが幸せを望みながらも精神的苦痛と葛藤の連鎖から逃れることがかなわず、やがて家族が崩壊していく様を、初秋から冬へと移りゆくシカゴ郊外の美しい街と自然を背景に静かにきびしく描いた作品です。


 

ジャレット家の長男のバックは社交的でユーモアあふれる陽気な性格、壮健な肉体を誇り高校では水泳の花形選手、誰からも好かれ両親の誇りでもあるまさに理想的なアメリカ男子。そんな彼が、弟のコンラッドを連れて乗り出した海でのヨット転覆事故であっけなく短い生涯を閉じてしまう。

いっぽう次男のコンラッドは、バックとは対照的に繊細で物静か、まじめで心優しい性格の持ち主。大好きだった兄を目の前で失ったショックと兄を救うことができず自分だけが助かった自責の念に囚われ、精神のバランスを崩しリストカットなどを繰り返し、ついには自殺未遂騒動まで起こし精神病院に入院してしまう。退院後も精神科医のカウンセリングを受けながら、なんとか高校生活を送る日々を過ごしている

母親のベスは、度重なる子どもたちの不幸な出来事から立ち直っているかのように振る舞ってはいたが、実は長男の死をどうしても受け入れられず心を閉ざす一方で、精神的困難を抱え自殺未遂にまで陥ったコンラッドを哀れに思いつつも、どこか冷めた目しか向けられずに距離を置き話題にすることすら嫌う。そして悲劇的な過去と家族の現実と向き合わないために、彼女はひたすら外の世界へ目を向け、過剰なまでにエリート階級の社交生活にのめり込み、今をひたすら快楽的に生きることで幸せを実感しようとする。いっぽう優しく穏やかだがどこか気弱で、息子や妻に対して一歩深く踏み込めずに常に腫れ物に触るかのように接し続け、家族の間の板挟みに苦悩するエリート弁護士の父カルビン。



けれども3人が長男の死という危機を乗り越えることができなかった真の原因は、4人家族の時から各々が抱えてきた心理的原罪にありました。そして、長男の死をきっかけとしてそれら原罪の圧力が限界にまで高まった結果として、家族の絆が断ち切れていったことが次第に明らかにされていきます。

母親は、彼女なりに精一杯優しく愛情を持って息子たちと接して来たと信じてきた一方で、すべてにおいて対照的だった二人の息子にどうしても平等に愛情と関心を振り向けることができず、どこか自らのほとんど理想の男性像としての長男への偏愛の情を隠せずに2人を育ててきました。長男バックの死というあまりに大きな喪失を体験した彼女には、自責的に自殺未遂までして精神に変調をきたした次男コンラッドの行動が、長男の死でただでさえショックを受けている家族が負った深い傷に塩をすりこむかのようなあまりに身勝手で弱い人間の振舞い、そして自分達両親への当てつけにさえ映り、どうしても次男を心から思いやることのできなかったのです。

一方コンラッドは、母親の兄への偏愛と、自分(コンラッド)のことを否定も肯定もしない父親の寛容さとを、自分への無関心と失望、愛情の薄さとして敏感に感じ取りながら成長してきました。常に充分期待に応えていない、愛されていないに違いない自分との内的葛藤を生きてきたのです。表面上は常に平静を装いながら、懸命に愛されたいと願い両親の望む(兄のような)人間になるよう自らを鼓舞叱咤し、でもそうすればするほど本当の自分らしさとの乖離に常に悩み疲れるコンラッド。そして、そうした苦悩の末の彼の日々の言動に戸惑い、理解を示すことができない両親と友人たち周囲の人々。兄への深い愛情と羨望そして嫉妬、両親への愛の渇望と不信、自分への失望とが複雑に入り交じり、常に家族の顔色を伺いながら内的葛藤の圧力に抵抗と挫折の日々を繰り返してきたのでした。

 そして子育てのすべてを母親に押し付け人生の成功のためにひたすらにすべてを捧げ、功成り名遂げたいわば代償としての結果、そんな息子と妻のこころの機微を理解することができないまでに彼らとの距離ができてしまっていたことに、どこで間違ってしまったのか静かに悩む父親のカルビン。

互いに愛し愛されたいと願いつつも、自分では抱えきれない原罪の重さのもたらす心理的な歪みに沿う形でしか相手を理解し得ず、お互いが抱くどこかわかってもらえない不全感ゆえに、あえてお互いの関係性を深めないことで何とか幸せを演出し維持してきたジャレット一家。その貧弱な家族の絆を繋ぎとめていた唯一の存在であった長男の死を境に、三者三様の心の不協和が拡大しながら、ちぐはぐな家族の物語は進行していきます。

 


 この映画で特徴的なのは、彼らを取り巻く美しく調和と均衡のとれた世界をさまざま作品に織り込み、それらと家族内3人の姿とを対置させ、両者の激しいまでのコントラストを巧みに演出している点です。美しい自然、豪華な邸宅や庭、高級な車、きちんと整理が行き届いた、品のいい調度品で彩られたインテリア、社会的に成功を収めた人々との華やかな社交生活やレジャー(こうした物質的豊かさの代償でもあったのですが)、そして美しい音楽。そんな中ただひとり3人の世界だけ、一番親密なはずの家族だけが、苦悩と不安、猜疑心と虚しさにバランスと調和を欠き苦闘する存在として、巧みに浮き彫りにされていきます。

 とりわけ映画全体の底辺をつらぬくように響く、前回ブログでお話したパッヘルベルのカノン(正式な曲名は、『3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ』)の使い方は秀逸ともいえます。カノンという形式は簡単にいえば合唱などでおなじみの輪唱です。複数のパートが同じ旋律を時間差でずれながら追奏し、他のパートへと受け継がれながら進行していく音楽形式です。特にこのパッヘルベルのカノンは、その正式曲名の通り、曲の全般を一定の小節単位で規則正しく循環して演奏されるシンプルで親しみやすい通奏低音(コード)進行の上を、3つのパートが全く同じ旋律を追唱するというものです。映画は、全編を貫くように流れるこの3つのパートのシンプルで調和のとれた美しい旋律の調べに載せて、全く逆の混乱していく3人の心理状態を巧みに浮かび上がらせていきます。

 このカノンは、映画の冒頭でコンラッドが所属する合唱部の練習のシーンでも使われます。彼が本当に好きだったのは音楽であり、合唱で歌を歌うことでした。スポーツや外向的な活動を好むよりもむしろ物静かな芸術家タイプだったコンラッドは、家族内のいわばアイドルだった兄とは対照的に、家族内では毛並みの違ういわゆる「変わり者」のタイプだったかもしれません。

コーラスも、歌い手が複数の声部に分かれて各々の異なるパートを歌うことによって美しい音楽を奏でる演奏形態です。コーラスの美しい音楽の中に身を置くときのコンラッドの歌う喜びにいきいきとした表情と、家族生活での彼の苦悩の表情とのコントラストの痛々しさの演出と演技は見事で、観る者の胸を深く打ちます。



さまざまに提示されるこうしたコントラストはまた、真の調和と寄り添いを促す家族へのレッドフォード監督からのメッセージでもあったでしょう。そのことを象徴するシーンが、コーラス部で一緒に歌う同級生のジェニーン(のちにガールフレンドになる)との間で交わされる会話の場面です(記憶にある会話なので正確ではありません)。

「合唱団の後ろにいるでしょ、美声の持ち主さん。」

「君がぼくの前にいるの?」

「ええ、あなた元気一杯ね。」「僕が?」

「あそこのソロのパート、あなたが歌うべきだわ。本当にいい声よ。すぐわかる。」

「君自身歌いながらどうしてわかるんだい?」

「歌いながら周囲に聞き耳を立てるのよ。いろんなことがわかってくるわ。例えばメアリは凄く下手。ジャネットは口パクで歌ってないしね(笑)。」

「本当にいい演奏家とはいい耳を持っている人のことだ。聴くことのできない人はいい演奏家にはなれない。」ある著名な音楽家のこの言葉にあるように、美しい音楽を奏でるには、自分が上手に歌うだけでなく、きちんと周囲の音や声に耳を澄ますことが大切。ミスなく正しく歌えばいいものでもなく、自分だけの解釈を周囲へ押し付けるのでもない。すべてが調和してこそ一つのいい音楽になるのであるように、自己主張や勝手な解釈や憶測、相手を説得しようとすることよりもまず、ただじっと相手の気持ちに耳を済ませ、受け入れ寄り添おうとする真摯な姿勢をレッドフォード監督は静かに語っているのです。



「普通の人々」は、俳優としてすでに成功を収めていたレッドフォードが、どうしても作り世に問いたかった作品でした(こうした映画を作るために自分は俳優をしていたかもしれない、と彼自身が語っていたような記憶があります)。彼自身の人生体験や抱えてきた心理的葛藤と決して無関係とはいえないこの作品に込めた彼の思いを解く一番の鍵は、この映画のタイトル「普通の人々」にあるかもしれません。

 この映画を観終わった後で、なぜ「普通の人々」というタイトルがつけられたのか、ふと疑問に感じられる人もいるかもしれません。ジャレット家は庶民一般階級という意味での「普通の人々」ではないし、また彼らの身に起きる出来事は所詮フィクションの域を出ずとても普通とは言えない、との感想をもつかもしれません。しかしそれでもあえてレッドフォード監督が用いた「普通」に込められたメッセージとは何でしょうか?普通であるはずの家族が何故崩壊していかなければならないのでしょうか?

ここで「普通」の意味するものとは、ひとつには、この家族が体現あるいは象徴する、望ましい家族や人間存在の在り方として永らくアメリカ社会に君臨してきた、強く豊かで、楽天的かつ保守的な白人キリスト教(プロテスタント)的価値(いわゆるWASP)としての「普通」であり、そうしたWASP的価値が支配する社会への皮肉と異議申し立てです。

懸命の努力と勤勉の末に手に入れる学歴とキャリアが約束する明るい将来、男にとって理想的な美しい妻、女にとって豊かな生活を保障してくれる有能でたくましいエリート夫、明るく健康的な子どもたち。豊かな物質生活に裏打ちされた家族生活とエリート支配階級への階段をひたすら上ることこそが成功と幸福を意味し、いずれはそうなることを願い、皆一様に目指すのが望ましく良しとされてきたアメリカの「普通」への疑問がこのタイトルには込められているのです。


 映画の最後あたり、深夜の夫婦の会話の中で、常に弱腰で神経質であった父カルビンが、次男コンラッドを理解しようとしない妻のベスに涙しながら静かに宣言するくだりがあります。

 「わたしは今、本当に自分がお前を愛しているのか、愛してきたのかわからなくなってしまった。お前は本当に私を愛していたのか?(長男)バックを愛しすぎて、誰も、自分すらも愛せなくなってしまったのか?いや、君が愛しているのは自分だけかもしれない。わたしたち夫婦とはいったい何だったのか。」彼女はその夜家を出ていきます。

アメリカ社会のあるべき姿、望ましい姿として手に入れたものの陰で、最愛かつ人生の基本であるはずの家族がその足元から崩れていく様は、いったい何を私たちは目指してきたのか、どこで間違ってしまったのか、なんのための結婚と恵まれた生活だったのか、そして真に望んでいたのは愛なのか社会的成功物語だったのかを、この映画を観る者に強烈に問いかけてきます。こんな生活があるのだから、家族のだれもが幸せでないはずがないと言い聞かせるかのような家族の姿は痛々しく、同時に生々しいリアルな人間の姿としてあまりに「普通」であるのです。



もうひとつこの映画が語る「普通」とは、かつて4人家族だったときのように特別な問題があるようには見えない家族内にこそ、それぞれに理解の及ばない苦悩や葛藤、適応困難を抱えて生きる人が常に存在しうるという意味での「普通」であり、「普通」とはとりあえず「普通でいられる」側からの都合の良い、ある意味バイアスのかかった見方でしかないことへの警鐘です。

ある人が人生において、たまたま置かれた望ましいとはいえない環境(たとえば養育環境や両親の養育態度、母性行動、貧困など)に適応しようとして懸命に獲得した生き方や行動特性が、それ以外の普通の環境や状況下では理解しがたく望ましくない特性だと周囲から判断され、その後の人生において精神的社会的に犠牲を強いられ、さまざまな可能性に開かれることのない生き方を選択せざるを得ないという危機は、私たち誰にでも起こりうる(コンラッドだけでなく、実は母親ベスもまたそうした犠牲者であるかもしれない)ことをこの映画は示唆しています。そしてこのことは現代社会においてはなおのこと深刻であるといえます。



全ての物事に光と影、プラスとマイナスがあるように、「普通」であることは大切でいいことでもある。しかし、私たちが考えているほど普通であることで私たちが理解していることは少なく、知らずに気づいていないことが多いのだ、ということに気づくこともまたこの映画のメッセージです。レッドフォードは、私たちもまたこの映画の登場人物の誰かなのだと語り掛けているのです。ジャレット家の人間の誰かかも知れないし、彼らを取り巻く友人や同僚たち、隣人や学校の教師やコーチ、精神科医セラピストやガールフレンドであるかもしれません。突き詰めて考えてみれば、この映画の登場人物の中に悪人はひとりもいません。しかし、問題の本質が見えている人もまたほとんどいないという意味において、「普通」とは何であるかをそれぞれが考えるべきである、との痛切な訴えがこの映画には込められているのです。

「普通」であるとは、決して固定されたひとつの状態なのではなく、吟味され、選択されるべきものでなければならない。そしてそのためには、互いの心の語りの良き聴き手であろうと受容的、共感的にかかわる想像力を決して失わないこと。家族という人間社会の基本単位を舞台にレッドフォード監督がそう静かに語るこの映画は、私たち普通の人々こそ、「耳を澄ませて」見るべきすぐれた作品なのです。



【ご参考に】

家族と社会を考えるちょっと古めの秀作をいくつか挙げてみました。

「普通の人々」は、とりわけジェームズ・ディーン主演作品との共通点が見て取れるかもしれません。


『我が谷は緑なりき』(1941年アメリカ)監督:ジョン・フォード

『われらが生涯の最良の年』(1946年アメリカ)監督:ウィリアム・ワイラー

『エデンの東』(1955年アメリカ)監督:エリア・カザン

『理由なき反抗』(1955年アメリカ)監督:ニコラス・レイ

『ジャイアンツ』(1956年アメリカ)監督:ジョージ・スティーブンス

『秘密と嘘』(1996)、『人生は時々晴れ』(2002)『家族の庭』(2010)監督:マイク・リー(英)

『海辺の家』(2002年アメリカ):監督:アーウィン・ウィンク


最後までお読みいただきありがとうございます。

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by yellow-red-blue | 2017-12-07 19:39 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心安らぐ経験や出会いなど、時にカウンセラーとして、時に仕事から離れ、思いつくままつらつらと綴っています。


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