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カウンターが効く!? (Ⅰ)~ 立春の頃’19


 暦の上では春の始まりを告げる立春ですが、実際には冬ももうそろそろ終わりですよの暖かさなどみじんも感じられない日々が続く、寒さに身が縮む思いのする厳しい季節です。けれども、都心から望むこの時期の富士山の雪化粧姿は一年のうちでも最も美しく、神々しさすら覚えて朝に夕にとつい見入ってしまいます。

 そんな富士山を眺めながらふと、大雪に弱い東京の人間のくせに、この冬はまだちゃんと雪が降ってないな、そろそろまとまってこないかななどと、北国の苦労をよそに勝手に子供じみた願望をつい抱いてしまいます。そんな自分の幼稚さにきついお叱りを受けているかのようなこの寒さがこれからまだしばらくは続きそうです。


 

 週末の午後から夕方にかけて、そろそろ業務を終了しようか考えているときに、こんなお電話がやってくることがしばしばあります。

「どうしても今日お願いしたいのですが。」

「実はもう今近くにいるのですが。」

「他をいろいろ当たりましたが、週末で休みか事前予約なしでは受け付けていないので。」

 事情を聞いてみれば、

「嫌いな上司と仕事のことで口論となり、腹立ちまぎれに暴言吐いて会社を『辞める!』と飛び出してしまった。週明けの出勤を考えるだけでもうパニックなんです...」

「自分のウソがばれて先日会社を解雇されてしまったが、家族に打ち明けられずにいる...」

「妻に職場の同僚との浮気がバレてしまい、家を追い出された。妻は身重なんです...」

 週明けの月曜日までになんとかしなければ...そんな切羽詰まった思いが伝わってきます。


 カウンセリングに訪れる人のニーズは随分と多様化しています。以前のように、かならずしも臨床的に診断される精神的な病に苦しんでいる人や、病気とまではいえないが心身に同様の深刻な症状を訴える人ばかりではありません。むしろより日常の生活で起こりがちな問題への心理社会的なストレスに悩む人が相談に訪れることのほうが多いです。ただシンプルに人間的あるいは社会的常識に基づく助言や提案が必要な方もいれば、胸のつかえを洗いざらい告白することによって満足を得、立ち直っていく人もいます。人生の意味や目標の喪失にどこまでも苦悩する方もいれば、単純に見えて実はとても複雑なもろもろが絡み合って、理解するのが難しいケースもあります。

 やや大雑把な言い方になりますが、長い間抱えて放置されてきた問題については、一定の効果や改善は短期間で現れることも少なくはないものの、やはり解決や(病気や症状の)治癒にはそれなりに時間が必要となります。 

 反対に、比較的最近に起きた出来事がきっかけとなった日常社会生活に起きがちな問題についての相談については、短い期間でカウンセリングが終結することが多いように思います。一度のカウンセリングで終わる場合も珍しくありません。

 短期間で終結するには3つの理由が考えられます。まず何よりも相談者本人が早急な解決を望んでいることです。上でいくつか例として挙げましたが、一刻も早く答えが欲しい、今日明日という感じで訴えていらっしゃることが多いのです。2つめの理由は、まだ起こって間もないホットな出来事に関することなので、問題の背景や構造がシンプルで問題の焦点が絞りやすいということにあります。


 けれども、早く終結する一番大きな理由(3つめ)は、たいていの場合に「答えは本人が知っている」から、というものです。確信的であれ無意識的であれ、すべきことの選択肢はわかっているのだけれど、それをまだ現実的な解決方法なり決断として明確にできない、それを確信させるプロセスなり心の準備をどう整えればいいのかがわからない、悩みに圧倒されて広い視野を持つ心の余裕が持てない、という感じです。ゴールはわかっていても、そこまで走りきる体力も気力も今あるとはとても思えない自信喪失のスタート直前のマラソンランナーといったところでしょうか。

 

 カウンセラーは、そんな人に並走し励ましながらお互い一緒にゴールを目指すパートナーのようなものですが、ではそうした場合に実際何をするのかと言えば、相談者とじっくり「話し合うこと」につきます。勇気をもって相談にいらした方の決断と労に敬意を払い、本人の気持ちを十分すぎるほどに耳を傾けながら対話を重ねていくことが第一で、ここにじっくり時間をかけていくようにします。ですが、簡単なようでいてこれは実際には難しいことです。ただ通り一辺倒の悩みの内容を聴きそれを理解するだけならば、たいていはものの10~15分もあれば済んでしまうからです。そこでついその先のアドバイスや意見、具体的な対象方法などの話に移ってしまいがちですが、それでは相談者本人はしっかりと自分を受け止めてもらえたという実感が薄く、問題に対する受け身的な姿勢から脱却できないままです。

 そうではなくそこからさらに、それこそ微に入り細に入りて想像力をめぐらせながら、同時に不必要にプライバシーに立ち入らず、様々な切り口や表現を駆使して繰り返し言葉を重ね、相談者の気持ちや考えを引き出して共有していきます。その過程を共に体験していくことが次第に本人の意識の変化へとつながっていく感じです。

 カウンセリングは1回60分です。時には60分を大きく超える時間を話し合うケースもありますが、初めてカウンセリングを受けた方の多くの方が、「こんなに長い時間自分のことについては対話をしたのははじめだった」という感想を持たれます。普段私たちはさまざまな会話をしても、自己と向き合うような話し合いを専門家と行い内省の機会を持つことは稀です。そんな時間を体験することそのものが、実はカウンセリングの一番の強みです。たとえ出される結論がご本人がうすうす感じていたことと変わらないとしても、一緒にそれを感じ取っていく過程をともにすることによって、本人の受け止め方が随分と落ち着いて前向きなものとなります。状況を受け入れながら解決を現実のもの、実行可能のものとして実感できるようになっていくのです。



 そして、何となく準備が整ったと感じたあたりで、私は以下のようなシンプルな質問をしてみます。

「今どうしたら一番いいかなと考えていますか?」「どうしてそうなってしまったのかお考えがありますか?」

「もし、あなたにとってとても大切な人が同じ問題で悩んでいたとしたら、どんな言葉がけや助言をなさりたいですか?」

 十分な話し合いの後では、こうした質問に皆さんはしばらく考えた後に、たいていちゃんと回答することができます。そう、知っているのです。そしてその結論に対して、より冷静に気持ちが整理されていることに気が付かれます。あとはその内容について細かな確認や微調整を加えたり膨らませたり、相手の背中を上手に押すような助言なり話し合いをさらにしていきます。もちろんいつもそううまくはいくわけではありません。解決の糸口がみつからずに終始ギクシャクした対話で時間だけが経過するといった経験もします。私もまだまだ修練が必要ですが、そのあたりにカウンセラーとしての技量が問われるのでしょう。

 「どうしたらいいか」と聞いてきた相手に同じ質問を逆に投げかけてみたり、自分の問題をあたかも他人が抱えている問題として客観的な距離をおいて考えてみる、こうした問いかけを「カウンタークエスチョン」などと言います。「相手の身になって考える」「もちあなただったら」「こっちの身にもなってよ」「そう言われるこっちの気持ち考えたことある?」などとちょっと似ています。なんだそのくらい、と思われるかも知れませんが、このカウンタークエスチョンを上手に工夫するとそれは大きなパワーを持ちます。

 けれども、あくまでその前の「話し合うこと」がとても大切なプロセスです。そこをおざなりにしたカウンタークエスチョンをいくら繰り出しても、それは効果的なパンチにはなりません。

 そんなカウンタークエスチョン(パンチ)が効果的に働いたちょっとしたエピソードを次回はご紹介したいと思います。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

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by yellow-red-blue | 2019-02-04 19:25 | Trackback | Comments(0)

平成最後の... ~ 大寒の頃'19


「君、三猿って知ってる?」

 三猿ですか?知ってますよ。例の「見ざる言わざる聞かざる」ですよね。

「そうそう。その『見ざる言わざる聞かざる』の本当の意味知ってる?」

 ええと、はい。確か悪いことを見たり、言ったり、聞いたりせず、ひたすら良いものだけを学び、豊かな心を育み成長してほしいといった先達の教えや願いのようなものですよね。

「ほ~よく知っているじゃないか。それでそれってどこにあるか知ってる?」

 ハイ、日光の東照宮ですよね。

「彫刻はね。でも今でも生きてるって知ってた?」

 何がですか?

「そこいらにたくさんいるよ。街歩いてごらんよ。電車やバス乗ってみな。三猿だらけだよ。ただいろいろと間違ってるけどね」

 は?

 

 「わからない?マスクしてさ、耳栓(イヤホン)してさ、携帯(スマホ)ばかり見てる人間多いだろ?電車の中でもお年寄りに気づきもせずに携帯画面とにらめっこしてさ、ゲームしたりニヤついたり。駅じゃ降りる人間がいるのに画面に熱中してかまわずまず乗ろうとするしさ。マスクにしたって風邪とか花粉症のためならわかるよ。だけど、中にはファッションや年齢隠しなんかでやっている人間もいるっていうじゃないか。そのほうが実際よりいい男とかかわいい女に見られるとか、人に話しかけられたり、顔見られたくないだの。サングラスかけているみたいに安心感があるって、いったいいつからみんな有名人気取りなのかって言ってやりたくなるよ。」

 「ああいう周りのことにはかかわりたくありません、関係ないです、みたいな態度で、携帯の中じゃいつでもどこでも友達とどうだこうだなんて、あきれるよまったく。若いもんならまだ子どもだからしょうがねぇなと思うけど、いい歳した大人までそうだから最近は。そこいらの通りをベビーカー押しながら携帯よそ見してる母親なんかしょっちゅう見かけるけどさ、世の中どうなってるんだよって思うよね。」

 「年寄りに見えていろいろ詳しいでしょ。まぁ暇でテレビばっかり見てるからってこともあるけどさ。だけど、世の中おかしいことは、コンピュータやら携帯なくったって、わかる人間にはわかるんだよ。そういうおかしな人のこと何ていうか知ってる?『草野球のキャッチャー』って言うんだよ。わかる?(キャッチャー)ミットもない、みっともねぇってことだよ。うまいこと言うでしょ?昔見た映画で(高倉)健さんが...」


 年明け早々、Sさんお得意の毒舌独演会がまた始まったと思いつつ、70半ばを過ぎてなお血気盛んな正義感の塊のような江戸っ子Sさんのご意見に耳を傾けるのは、自分がお説教されているようでなかなかにエネルギーが必要です。けれども同時に、ご意見はごもっとも、でも今の時代感覚からは残念ながらズレています、まともに取り合ってはもらえないですよ、と受け流してしまっている私たち身の回りのどこか「まともでない」部分にふと気づかされ内省させられるひと時でもあるのです。

 相手がお偉い社長や役人や政治家だろうが、過去にお世話になった恩人のような人であろうと、納得のいかないことについては、絶対に引かずに生きてきたと自他ともに認める、そんな気骨ある人情家のSさんですが、しかし今実際それを貫こうとすると、やれ認知症が入ってきただの、クレイマーだ、プライバシーの侵害だのと周囲から逆にとがめられるのがまったく納得がいかないとおこぼしになります。

 高校を早々に中途退学、家を飛び出し日本中をさまよいながらさまざまな仕事に就き、苦労しながらも若くして多くの事業を起こし財を成したSさん。けれどもそのあわただしく駆け抜けていた人生半ばにして、Sさんを早すぎる危機が襲いました。突然燃え尽き症候群を発症し、その後も次々に深刻な精神疾患症状に見舞われ、長い間入院生活と治療薬投与(本人にいわせれば薬漬け)の日々を送ることとなったのでした。その後周囲の懸命の支えもあって見事にカムバックなさったのでしたが、Sさんの詳しい話を聞けば聞くほど、人が一度の人生でこれほどの経験をできるものかと耳を疑いたくなるようなまさに波乱万丈、壮絶な人生だったのです。

 読書の虫で教養の塊のようなSさんに「あんたは友達だから言うけれど」と前置きされると、Sさんほどブレない生き方をしてきたとは到底言えない私は相当な気後れを感じてしまうのですが、

「いいんだ。あんたは友達だと思ってるから。年齢差なんて関係ないよ。あのさ、先生って字はつまり『先に生まれた人』という意味でしょ。先に生まれているということはやっぱりそれだけいろいろとわかっていることもあるんだよ。だから若いもんはそこは敬意を払わなくちゃいけない。真剣に耳を傾けなくちゃいけない。だけど、同時にこっちも『せいぜい先に生まれた』程度だということも決して忘れちゃいけないんだ。そこが上手にかみ合っての人生だろ。それが最近は『先生』って言われている人ほど勘違いしている人が多いのも情けないやね。俺の周りにもいるよ。結局どっちもどっちなんだけどな」

 

 精神的な支えとなり援助する側であるはずの私が、仕事の現場ではかえってクライエント(相談者)に教えられたり救われることがまぁなんと多いことでしょうか。それはなにもSさんのような人生の先輩のような方々からだけではありません。私よりずっと若く人生経験が一見浅くみえるかのような人に感嘆させられることだって珍しくはありません。話を聴けば、その抱えきれないほどの苦しみの深さに、いったいなぜこの人はまだ頑張れるのか、それでもまだ人生突き進もうとできるのか、自分ならとっくに途中下車しているに違いないと感じ、ほとんど尊敬と感動の念すらおぼえてしまうのです。彼らは決して弱い人間、欠陥ある人だから問題を抱えるのではなく、逆に強くてしぶといから、そして誠実さといじらしさゆえに苦悩するのだということを痛感させられます。その強さ、しぶとさが実は自分にはあるのだ、ということに気づいてもらえたら、それでカウンセリングの目標の半分は達成したようなものだ、そう考えてもいるくらいです。

 ただ同時に、ひょっとすると私がこの仕事を続けているのは、けっして清廉で崇高な目的意識ややりがいを感じてきたからでもなければ、職業的に適性を感じているからでもなく、ただ人々からそうした感動を分けてもらいたいからかもしれない、ということに恥ずかしならが気づかされます。それは他人の悩みで酔うことでもあり、人に仕え、人を助けるというよりは、自分に仕え、自分を助けているだけなのかもしれない、自分もそんな矛盾を抱えた考え違いの三猿のままなのかもしれない、自戒を込めつつふと考え込んでしまうときがあります。



 ところで、Sさんには口癖があります。「人間はいちばん優れた生き物かもしれないが、同時に最も愚かな生き物だよ。」Sさんの言葉は、自らはまだ幼子だった時代の戦争の記憶と、戦死したりあるいは帰郷は遂げたもののその後決して普通の生活には戻れず精神的に病んでいった身内に接した体験から出たものでしたが、私は偶然にも昨年行われたある学術専門会議で講演者のひとりから同じセリフをすでに聴いていました。ただし、そのテーマは人間とAIの葛藤と未来に関するもので、人間の課題を克服するAIのポテンシャルについての内容だったのでした。

 そのことを伝えるとSさんは、「長年生きてきてひとつわかったことがある。『戦後日本(人)は豊かになった』なんてセリフは何度も聞いたことはあるけど、『人間が豊かになった』とはただの一度だって聞いたことはないということさ。それはなにかが間違っているということだろ。」「AIなんてよくわからんが結局は同じだよ。それで生活はなにがしか便利に快適にはなるさ。解消される問題もあるだろうよ。けれども、決して人間は豊かにはならないよ。生きる選択肢なんか結局増えないんだ。想定もしていない問題がこれでもかと噴出して、結局は常に弱いものが犠牲になるのさ。どうして科学や人間はそこのところがわからんのかね。欲張るのもいい加減にしろといいたいよ。」

 


 Sさんからいただいた何とも重い、最近何かと言われがちな「平成最後の」お年賀の言葉でした。私も年はじめのあいさつ代わりに正月休み中に読んだ本の中から一節。ウクライナ生まれの詩人アルセーニィ・タルコフスキー(19321986)の詩集から一篇をご紹介します。彼は、映画「鏡」「惑星ソラリス」「ノスタルジア」などで知られるロシア(旧ソビエト連邦)の名匠アンドレイ・タルコフスキーの父です。彼の多くの詩に接すれば、それが息子アンドレイの数々の名作の原風景であることが確かによくわかります。



自分になれ

     君がそれであるものになれ(ゲーテ)

               

どうにもならなくなったときに君は、

百ルーブルでも友人でも見つけるだろう。

自分を見つけるほうがよほど難しい、

友人やら百ルーブルよりも。


君は裏返しになって、

自分を朝早くから探し回り、

ひとつに現実と夢をまぜあわせ、

世界をはたから眺めてみる。


そして何もかも、誰もがもち場にいるのを見つけるだろう。

それなのに君は―まるでクリスマス週間の仮装者―

自分を相手にかくれんぼ、

君の芸術と運命を相手に。


他人の衣装を着けたハムレット、

なにやらむにゃむにゃ言っている、

彼の望みはモイッシを演ずること

父のあだ討ちなどではない。


百万の可能性のうち

君はそのひとつにめぐりあう、

だが、あてつけのように、

与えられない、君の聖なる数は。


空の半分を囲い込んだ天才、

その高さに届かなくても、

彼の足もとにすら及ばなくても、

君は自分になるべきなのだ。


預言者の言葉も君は見つけるだろう、

だが、聾(ろう)者の言葉はもっと素晴らしい、

盲人の色彩はもっとあざやかだ、

視角が探し出されて、

君がまばゆい光のもとで、

自分にすべてを見通されるときに

(アルセーニィ・タルコフスキー「雪が降るまえに」1962、坂庭淳史訳、鳥影社)

※「持つべきは百ルーブルよりも百人の友」というロシアのことわざがある。

※モイッシ:ドイツの名高い俳優のアレクサンダー・モイッシ。シェイクスピアやイプセン、トルストイの戯曲の役者として名高いことが知られていた。


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by yellow-red-blue | 2019-01-21 22:48 | Trackback | Comments(0)

トモダチ大作戦 ~ 冬至&小寒の頃'19


― 子どもの時 カエルを飼ってた

― 何言っているんだ?レオ

― これだけ話させてくれ

  フロッギーって呼んでた

  一番の親友だったんだ 

  友達が少なくて...

  本当はひとりもいなかった

  それで

  そのカエルにいつもキスしてた

  もしかしたら

  いつかお姫様に変身するんじゃないかって...

  母親に

  俺 母親に捨てられてさ

  父親は育児放棄

  だからフロッギーだけが友達だった

  大好きで いつも一緒

  それがある日 自転車のカゴから飛び出して

  後輪で ひいちまった

  死んだよ

  マジで死ぬほど悲しかった

  唯一 愛した親友だった

  で 出会った

  お前とロジャーだ

  2人とも本当によくしてくれた

― そうでもない からかったりいじめてばかりだろ

― いや いいんだ 俺は気にしない

  君らは家族だ

  友達だ

  フロッギーとは違うが 友達だ

  まあ...こんな話でも役に立つかな

じゃ俺 もう行くよ

― (レオが去り、亡き妻の墓標を見つめながら)変な天使を送ってくれたもんだ 

   話は通じた 分かったよ 君はいつもここにいてくれ ありがとう また来るよ

                        (ある映画のワンシーンから)



 カウンセリングに訪れる人のほとんどは、人間(対人)関係や社会的コミュニケーションに問題を抱えていらっしゃるといっていいと思います。家族内であれ、社会生活や学生生活上の関係であれ、何らかの人間関係につまずき、それがきっかけとなって精神的な苦痛を訴え病気まで発症するケースもあれば、逆にもともと抱えてきた精神上の問題なりパーソナリティの課題が、人間関係の悪化あるいは他者との親密な関係の欠如という形で現れ、日常生活に支障をきたすというケースもあります。

 しばらく前あるメンタルヘルス関連のセミナーで講師が、最近に見られる対人関係の傾向、特に若い世代の友達に関する特徴として、①(本人の主張する)友人の数が多い。100人程度は当たり前、中には数百~1000人いるとサラリと答える人も珍しくない、②「親友」という言葉を多用したがる、③それにもかかわらず、その関係性は淡泊で継続性がなく、短期間での友人関係の増減が激しい。ほんのささいなきっかけでよく事情を確かめないまま友達関係を絶ってしまう、というようなことを挙げておられました。

 

 あくまで仕事上の経験の範囲での話ですが、私も同じような感想を持っています。若年世代からの相談の場合は、友達や職場の人間関係にまつわる悩みが多いです。広く若い世代一般がそうであるとは言えませんが、ひとつの特徴といっていいかもしれません。

 インターネット、携帯を介して構築される人間関係が主役となり、生身の付き合いが相対的に貧弱なものとなりつつある社会的背景もあって、人間関係の在り方は昔とはずいぶんと様変わりしているということもあるのでしょう。友達をどう認識するかはある意味各人の自由ともいえるわけですから、とやかく言うのもおかしいのかもしれません。けれども、「親友だと思っていたのに裏で陰口言われていた」「悩みを親しい友人に打ち明けたら、それを勝手に広められた。即友達リストから削除した」「文句を言ったら逆ギレされ悪口を流された」などの話を実際に聴くと、不確かな情報や誹謗中傷、ひそひそ話が無制限に交錯するインターネット空間で人との距離感を図ろうと、表や裏での探り合いに右往左往するような人間関係がむしろ当たり前のようになってしまった社会において、お互いひとまず正面から向き合わないで済むような交流を優先し、ある意味押し付け的な承認欲求ばかりが肥大化してしまっているとすれば、深刻な問題かもしれません。

 それは、自分なりの線引きで判断した相手への期待の押し付けの連続や積み重ねを友達(対人)関係とごちゃ混ぜにしているように思えなくもありません。「~してくれるはずだ」「(相手が)~すべきだ。~と考えるのが普通」などという思いが互いのやりとりの基底に強い場合、それは言い換えれば、「(相手のすべきこと)を自分だけが知っている」と主張していることと大差ないということに気づけないでいるのかもしれません。 

 

 友達がなかなかできない、ごく表面上の人間関係ばかりでそれ以上発展させることができないでいるという悩みを抱える人もいれば、上述のように人間関係は多彩に見えるが、その出入りは激しく、友人だ親友だといいながら関係が継続せずに、その関係が壊れてしまう(あるいは壊してしまう)ことに首をかしげる人もいます。前者は孤独を感じる人、後者は拒絶されることを恐れるがゆえにのめり込むような人と言えるでしょうか。一見するとこの両者の悩みは正反対にも見えますが、カウンセリングを通じて感じるのは、実は根っこは同じであるということです。どちらも、他人よりも何よりもまず自分を大切な存在に思えていない、まずもって自分への尊敬を欠いているということです。他人がどうこうである以前に、自分がまず自分の「いいお友達」になろうとしていないのです。


 

 これは、自尊心(自尊感情)あるいは自己肯定感(覚)の問題といえそうです。自尊心とは、自分自身を何の条件もつけることなしに、価値ある存在であるとただ素朴に信じている心の状態です。自分の能力や行動、性格などについて自分で下す評価(自己評価)は様々あっていいのですが、それでもなお自分の価値や存在は変わらないと受け入れ肯定できる程度のことを意味します。ここで大切なことは、それは周囲との比較により生じる優越感や劣等感、差異の意識とは違うということです。何らかの課題や条件をクリア・達成することによって外から与えられる評価(成功か失敗か、優れているか劣っているかなど)によって決まる「自信」という感情とも違うということです。自分にはいいところも悪いところもある、他者に比べると劣っていることもあるだろう、けれども、そんな自分を「でもまぁ気に入っている」「これでもいい」とそれなりに感じることができている程度が自尊心の高さを示すのであって、自分への尊重や価値の存在を素直に認めることができることにあります。

 自尊心は、ある意味人間にとって水や空気と同じようなもので、生きるに最低限必要とされるものと言っていいのですが、普段自分達にそんなものが備わっているか欠けているか、その程度が低いか高いかななどを意識して生きてはいません。自分の人格の一部として、生まれつきの資質なり気質として備わっていたり、成長過程での様々な環境要因の中で獲得・学習するものでもあり、人それぞれです。ただ何らかの要因から健全なレベル(多すぎても少なすぎても問題があるので)の自尊心を育むことがかなわず成長してきた場合、生きるに困難な状況に様々直面することとなります。常にどことなく不安やあせり、周囲との比較意識の感覚が心の基調にある状態で生きるのはなかなか大変なことです。それに費やされるエネルギーは大変なものであり、最初から生きるハンデをしょい込んでいるようなものです。そのような悩みをずっと抱えてきたのことを知らずに、「なぜ自分だけこうもうまくいかないのか」と感じている人が、実はかなり多いのではないかと感じています。

 こんな2つの質問を自分にしてみてください。質問1:「あなたは、あなたをノーベル賞を受賞した学者や金メダルを獲得したアスリート、成功しているIT企業経営者達と同じ、ひとりの価値ある存在の人間だと思いますか。」質問2:「あなたにとって、両親や配偶者(または親しい友人)を、彼ら(質問1で挙げたような著名人)同様価値あるひとりの人間だと思っていますか。」もし、両方イエスと答える(多少は逡巡するにしても)ことができるなら、健全な自尊心を持っているといえるでしょう。しかしもし、前者がノーであるなら、そしてとりわけ逆に後者がイエスだと考えているなら、かなり自尊心が低いといえるかもしれません。自分にとって大切な存在である家族はたとえ普通一般の庶民であるとしても、価値ある人間であると考えられるのにもかかわらず、自分自身にだけは厳しい評価を下してしまうからです。自分が最も大切に思い優しく扱わなければなならないのは、まず「自分」という人間であるという素朴で自然な認識が抜け落ちてしまっているのです。


 

 この自尊心向上に取り組むのはなかなか難しい問題です。健全な自尊心がないまま生きてきた本人にとっては、何の根拠もないままただ、「あなた自信を持ちなさいよ」といわれるようなものだからです。教わってすぐ得心するものではないので時間もかかります。過去の生活史上の心理的葛藤や傷つき体験などを探りながら、同時に現実的な対人関係の在り方に具体的に検討を加えていくような丁寧な取り組みも必要です。

 「人はみな違うのだ」という当たり前のことを心底信じていくことが第一歩になるでしょうか。人はみな違う、だからこそ、その目標も得意不得意も願望も適性も人生歩みのペースやプロセスも違っていい。そうしたことを無視して皆が同じ山の頂を目指そうとするから苦しくなるのです。誰もがそれぞれに目指すべき山があってよく、それを探し求め、頂きをめざすことについては努力や苦労を惜しまないことこそが、私たちの人生だからです。

 そして自分を大切に思い、自分と対話を重ね何が自分に必要なのか、自分が本当に望むものは何なのか、何が自分にはできないのか無理なのか、ということに素直に向き合ってみるこことが次のステップです。そのうえで道を定めて迷わず進んでいく。その進む道の途中でふと出会うのが「友達」なのでしょう。数でもなければ出会う時期でもありません。望まない道で出会った人は、たとえいい人であったとしても、苦しい本人の目には友達とは映ってこなかったかもしれません。親友や尊敬できる人生の師と呼べる人とは、人生の終わり近くになってようやく出会える人だっているでしょう。遠い昔のあの人が親友だったと、後年気づく人だっているはずです。今、友人がいなくても、好きな人に出会えてなくても、それは今はまだ出会いの時ではない、ととらえなおしてみてください。それよりも今は自分を大切に見つめなおす時期、やるべきことが他にある時期なのかもしれません。単なる気休めと思わず、こんな風により多くの可能性に対して、心が平等に、等距離に開かれているかどうかも自尊心を高めるには問われていきます。


 難しいでしょうか?でも大丈夫、少しずつで構わないのです。それに冒頭の映画のレオのような「天使」は、意外や誰の近くにもいるものです。今は見えてないだけかもしれません。それにはまず、自分をしっかり自分の「トモダチ」にしてあげてください。

 素敵なクリスマスと新年がやってきますように。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

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by yellow-red-blue | 2018-12-22 18:00 | Trackback | Comments(0)

ニューシネマパラダイス! ~ 大雪の頃’18


 初夏を思わせるほどの暑苦しさで始まった今年の師走は、大雪の頃を境にようやく本格的な寒波が全国を覆い始めたようで、正常に戻ったことになぜかホッとするやら、でもやっぱりこの寒暖の差には辟易するやら、なんだか妙な気分の年の瀬の始まりとなりました。

 この季節になると、青森に住む友人から地元の農家から直接仕入れたおいしいリンゴがいつも山のように届きます。青森でも今週ようやく雪が降り始めたと思ったら、この週末はもうドカ雪の予報だそうです。

 毎年当たり前のように受け取ってきたリンゴですが、段ボールにぎっしり詰め込まれた赤い実を眺めながらふと、厳しい寒さと風雪があたりを覆いつくす長い冬、周囲の純白の銀世界とは鮮やかに対照的なリンゴの赤い色は、青森の人々にとってはずっと特別な色なのかもしれない、色や形は同じといえども、都心に暮らす私のような人間が、人工照明で照らされたスーパーの食品売り場で出会うリンゴとは随分と違う存在に映ってきたのかもしれない、そう思ったのです。

 その友人の二人の子供は今年そろって受験を控えていて、もういろいろと大変なのだとか。青森のリンゴの赤色は、そこに生きる人それぞれの人生さまざまな出来事や苦労の思い出と記憶とが塗り重ね合わさった赤なのかもしれません。



 私がたびたび自宅を訪問するクライエントにWさんがいらっしゃいます。一人暮らしが長い70代後半のWさんは、足がご不自由なため、私の方から定期的に自宅に出向いているのでした。そこでいろいろなお話をするのですが、必ず出てくる話題が映画です。かつては娯楽の中心だった映画にWさんは小さなころから慣れ親しみ、それこそ数えきれないほどの作品を鑑賞してきたのだそうです。それは今でも変わらず、テレビの横の棚には通販で購入したと思しき、映画のDVD名画全集がずらり。それもそのはず、かつて終戦後間もない一時期、Wさんのお父さんは、ある地方都市の繁華街で当時としては珍しい洋画専門上映館を経営なさっていたのだそうです。戦時中長らく禁止されていた敵国映画たる欧米映画が、敗戦国日本にどっと押し寄せてきた時代でした。戦争に敗れ一面焼け野原から裸一貫の出直しを始めて間もないこの国で、映画館の薄暗い場内のスクリーンに映し出される西洋映画の織りなす銀幕の世界は、文字通り別世界のことのようにWさんの脳裏に深く焼き付いてきたのでしょう。

 今でも世界中でたくさんの映画が作られており、劇場だけでなく気軽にDVDやインターネットを通じて数多くの古い名画も楽しめる時代になりました。思い出の名画ばかりでなく、新しい映画作品もよく見るというWさんですが、Wさんに言わせれば、かつて今ほど娯楽に恵まれず社会環境も貧弱で、まだまだ多くの日本人が貧しかった時代に見た映画の世界は、単なる余暇の楽しみや気晴らしを超え、人生そのもの、人生における先生であり友人であり恋人でもあったといいます。

 たとえ今そうした映画を後年の世代が安楽に観ることができるようになったとしても、そこには冒頭述べたような、青森の人たちにとってのリンゴと私が経験してきた都会のリンゴほどの違いがあるのかもしれません。



 少し前の話になりますが、イギリスの国営放送BBCが、世界の映画専門家による投票をもとに選出された「映画史上最高の外国語映画100」と「映画史上最高のアメリカ映画100」をインターネット上で公開していました。両ベスト100中、上位10傑を以下に挙げてみます。


【映画史上最高の外国語映画100】(タイトル、製作年、監督名、国) http://www.bbc.com/culture/story/20181029-the-100-greatest-foreign-language-films

 第1位 七人の侍(1954)黒澤 明(日本)

 第2位 自転車泥棒(1948)ヴィットリオ・デシーカ(伊)

 第3位 東京物語(1953)小津安二郎(日本)

 第4位 羅生門(1953)黒澤 明(日本)

 第5位 ゲームの規則(1939)ジャン・ルノワール(仏)

 第6位 仮面(1966)イングマール・ベルイマン(スウェーデン)

 第7位 8 1/2 (1963)フェデリコ・フェリーニ(伊)

 第8位 大人は判ってくれない(1959)フランソワ・トリュフォー(仏)

 第9位 花様年華(2000)ウォン・カーワァイ(香港)

 第10位 甘い生活(1960)フェデリコ・フェリーニ(伊)


【映画史上最高のアメリカ映画100】(タイトル、製作年、監督名)

 http://www.bbc.com/culture/story/20150720-the-100-greatest-american-films

 第1位 市民ケーン(1941)オーソン・ウェルズ

 第2位 ゴッドファーザー(1972)フランシス・フォード・コッポラ

 第3位 めまい(1958)アルフレッド・ヒッチコック

 第4位 2001年宇宙の旅(1968)スタンリー・キュブリック

 第5位 捜索者(1956)ジョン・フォード

 第6位 サンライズ(1927)FW・ムルナウ 

 第7位 雨に唄えば(1952)スタンリー・ドーネン/ジーン・ケリー

 第8位 サイコ(1960)アルフレッド・ヒッチコック

 第9位 カサブランカ(1942)マイケル・カーティス

 第10位 ゴッドファーザーPartⅡ(1974)フランシス・フォード・コッポラ


 

 私も映画にはずいぶんと慣れ親しんできたつもりでしたが、100作品のうち見たことのある作品はせいぜい6~7割ぐらいで、知ってはいてもまだ見ていない作品も多かったです。また、数多くの日本映画がベスト100に入っていることは、ある程度予想されたこととはいえ、日本人としてやはり素直に誇らしく思えました。

 こうしたベスト100に数えられるような過去の名作を見ていて、特にここ最近20年くらいの映画(TV作品を含め)の多くが、いかに視覚上の刺激やスピード感、めまぐるしく変化する表面上のストーリー展開のみにその魅力の多くを負っているのかがよくわかります。常に何かが起きていないと、たえず刺激の侵入がないと耐えられない私たち。そんな私たちを飽きさせないものを供給しようとする映画製作者たち。ほんのわずかな隙間の時間ですらじっとしていられずに、思わずスマホの画面を操作してしまう現代人の姿がそれらとダブって見えてしまうのは決して偶然ではないのでしょう。

 

 もし、普段あまり映画にはなじみのない方や古い映画は見ないという方がいらっしゃったら、もうすぐやってくるクリスマスから新年にかけてのしばしの休み、このベスト100を参考に、名画の世界に浸るのも悪くないかもしれません。なにも1位から見る必要はありません。新しい製作年の新しい映画からでもいいし、タイトルや内容が面白そうだと思うものを選んでもいいでしょう。中には難解な作品もあります。退屈に感じたりすることもあるでしょう。映画が製作された時代背景や空気、作品の芸術的意義を理解したり、その時代を生きていなければ本当の良さは伝わってこないものもあるに違いありません。

 しかしWさんがおっしゃったように、映画とは友であり、教師であり、恋人でもあるかもしれません。彼らとの間、そこには常に学びだけでなく葛藤や孤独、苦悩がある。だからこそ、その先の人生に喜びと希望もまたあるのだと気づかされるのです。

 映画を純粋娯楽として割り切って楽しむことだってもちろん悪くありません。実際私もずっとそうしてきましたし、楽しみ方はそれぞれです。けれどもそれではなぜ人は、はるか遠い昔に創作された映画や音楽、文学や絵画といった諸芸術文化とその作品をいまだ愛してやまず、その輝きと価値を後世へと継承しようとするのか。それは私たち人間の「生」にとってそれらが確かになくてはならないものだからに違いありません。では、それはまたどうしてなのか。ときに考えてみるのも悪くないと思うのです。いまどきの時代の先端や流行といわれるものは、いっとき人の耳目の集めはするものの、すぐに次のなにか他に取って代わられ、古くなり用済みになってしまうものです。けれども真に画期的であるものは、実は時代や世代を超えいつの時代にも新しく、私たち一人ひとりの現存在に常に開かれているものです。そしてそれを人は端的に「古典」と呼んでいるのでしょう。

 今年はどの映画を見て年末年始を過ごそうか、長いリストを見ながら久しぶりに今からちょっぴり楽しみです。


最後までお読みいただいてありがとうございます。


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by yellow-red-blue | 2018-12-07 15:59 | Trackback | Comments(0)

別れの予感 ~ 小雪の頃’18


 そういえば東京ではいまだ木枯らし一号が観測されていないようです。本格的な冬への扉が開く小雪の頃といえ、冬の始まり数歩手前で足踏み状態といったような陽気でしょうか。街中はまだ晩秋の趣が強く、紅葉がますます色濃く深みを増していくそんな日々が続いています。イチョウやポプラ、ケヤキにモミジといった公園や通りの並木におなじみの木々の紅葉は、私たちの目をとても楽しませてくれますが、個人的に一番紅葉が美しいと感じる木はソメイヨシノです。桜のクライマックスといえばもちろん春先なのでちょっと意外に思われるかもしれませんが、ソメイヨシノほど一年を通じて四季折々の美しさと多彩な色と姿で人を魅了する木はほかにないのでは、と思っています。

 場所や陽当たりの強さ角度によって紅葉と落葉の進み具合もさまざま、晩秋のやや力の落ちた陽光に照らされ五色鮮やかに輝くソメイヨシノの紅葉はとても美しいです。とくに、もうほとんど葉が抜け落ち裸同然となり、美しい桜の花には似つかないほど黒々武骨な木の幹や枝に、ほんのわずか数枚だけが寒風にさらされながら懸命に落ちまいと引っかかっている様子に、まもなく訪れる長く厳しい冬と、そこを経てやがて初々しいピンク色の花咲き乱れる待望の早春の到来へと想像を掻き立てられ、その自然の大胆なまでの変貌と神秘性にしばし心奪われてしまいます。



 

 私が物心ついて最初に体験あるいは実感した「別れ」は、幼稚園の卒園式の時でしょうか。年少組の時には年長組のお兄さんお姉さんが巣立っていくのを見ていましたが、卒園といっても近くの小学校(というところ)へ行くことは知っていましたし、住んでいるところもみな変わらず近所で一緒でしたから、あまり別れという感覚はなかったのが当然といえば当然かもしれません。けれども、自分がいざ幼稚園での生活に別れを告げようとする卒園式で、担任の先生が目をはらしてひとりひそかに涙している姿を見て、これでもう先生や友達の何人かとは会えないかもしれない、ああこれがお別れなのだとおぼろげに理解をしたのでした。

 人は人生の節目節目でさまざまな「別れ」を経験します。それはあらかじめ予期されたものもあれば唐突にやってくるものもあります。状況や対象によって、離別、訣別、喪失、分離そして死別など、様々な表現がなされるでしょう。人との別れや死、今まで有していた役割や身分、資格や境遇との別れ、所属したり帰属意識を持ってきた社会組織や場所、住み家との別れ、さまざまな物との別れ、さらには病気や事故、加齢など何らかの原因で自分の身体機能の一部や健康が損なわれることなど、考えてみればこれらすべてが「別れ」です。自らの意思で決断する別れもあれば、必ずしも望みはしないが、結局それはいずれやってくるもの、やむを得ないもの、避けがたく向こうからやってくるもの、それが別れであるといえます。いずれにせよ、別れの繰り返しとそこからの回復なり前進が人生そのものといえるかもしれません。

 けれども私たちの人生には、別れを告げたい、別れなければ前へ進むことができないことが分かっていながら別れることができない、一刻も早くそれを消し去りたい、忘れたいのにどうしても自分から「別れがたく」自分の中深くにとどまり続けるものもあります。葛藤や不安、執着や恐れ、欲望や願望といった、私たち人の心の中に湧き上がるように存在する複雑で扱いの難しい心の動揺とでもいうべきものです。巧みにそれを「心の渦」と表現される専門家の方々もいます。どうにも自分では受け止めきれない感情や思い、直視しがたい出来事の記憶、悲しみや悔恨、罪悪感といった、意識するとしないとにかかわらず心に沸き立つそうした渦は、私たちと分かちがたく存在し心深くに潜み、私たちの思考や感情、行動に強い影響力を持ち続けます。消し去りたいのは自分のほんの一部であるにもかかわらず、あまりにも長い間自分の中に存在しているがために、あるいはあまりに受けた心の傷が深かったために、それはあたかも自分と不可分のものとして実感・意識され、自分がすなわちそれに過ぎないとの意識が捨てきれないこともあります。なぜだか心の渦に限ってはコントロールすることが難しく、否定しようとすればするほどその渦は心をかき乱し、それを否定することはまさしく自分の価値や存在そのものの否定となり、時に自分がいなくなればいい、消えてなくなりたい、決して周囲と交流することはできない、と人知れず苦悩するしかない日々を送ることすらあります。

 その別れを告げたいものとは何なのか、離れがたく分かちがたい思いとは何であるのか、容易には言葉にできない気持ちを汲み取り、表面上の現象ばかりに振り回されることなく、その奥底にある深いこころに残っている渦に気づくことをお手伝いし、別れへの道を徐々に模索しながら一緒に進む「おくりびと」としての役割もまた私のようなカウンセラーにはあるのでしょう。


 

 カウンセリングルームには常に別れがあります。しかし、ここでの別れはとても喜ばしいことです。相談に訪れる依頼者が、新たな希望へ向かう準備が完了したことの証しとしての別れだからです。抱えている悩みや問題、症状が解消した、あるいは少なくとも改善し、将来への展望が見えてきたからこその別れであり、そんな時には笑顔と時として涙でカウンセリングの終結が宣言されます。でも、そこに何とはなしに一抹の寂しさもこみ上げてしまうのも事実です。それはいろいろなことがあったにせよ、自分が指導し幾時を共に過ごした子ども達が無事に学びを終え巣立っていくことを毎年見送る学校の先生の思いにも似た心情からかもしれません。確かにカウンセリング終了後しばらくたって、元気である旨連絡をいただいたとき、そこで初めて嬉しさがこみ上げるということのほうが多いように思います。

 もちろんそうしてしっかりと終結が確認されるカウンセリングばかりではありません。理想的な別れで終了することのほうが少ないかもしれません。最初のカウンセリング後、もうやってこないのが薄々わかる場合もあります。じっくり話し合い、相談者が自分の思いのたけを存分に聞いてもらったことで満足を得ている感触が伝わる場合には、たとえ何の予告もなく来なくなっても驚きはありません。また明確に不満や怒りを示され、カウンセリングが中断になってしまうケースも、カウンセラーとしての力が足りずに反省すべきところはあれど、相手のメッセージが明らかなので受け入れやすく切り替えやすいので、これもまたむしろ前向きの別れだと思っています。

 悩ましいのは、こうしたいわば明るいお別れとは異なる別れにしばしば立ち会わなければならないことです。順調にカウンセリングが進み、本人も少しずつ手ごたえを感じていた(とこちらは思っていた)のに、唐突にやってこなくなる人。明らかに症状や悩みはいまだ深いままなのに、二度と来なくなってしまう人。カウンセリング予約の電話を何度もしながら結局一度も姿を見せない人。相手の状態が気がかりで、何がいけなかったのか悶々と自らに問う日々が続くこともあります。こうした唐突な別れは、正直やはりしんどいものでこれもまた心の渦との別れの難しいところです。


 

 しばらく前のある休日、仕事場から少し離れたスーパーの中で、かつての相談者の一人の姿を偶然に見かけました。二人の子供とご主人さんと仲睦まじそうに買い物をしていたその相談者は、数年前に唐突なお別れを告げた一人でした。

 かつて彼女は、様々な事情から出産と子育てを機に始まった、日常でのちょっとしたいさかいごとや対立が絶えない夫婦関係と、自分の生来の神経質で完璧主義的な性格が今後子どもに及ぼす影響がとても心配で専門的な立場からの意見と性格を見直したいとカウンセリングに訪れていらしゃった若い母親でした

 厳格なしつけが支配的だった養育環境に育ち、すべての面において優等生的そうしたエリート指向的人生に努力を傾けることに慣れてきた反面、囲の評価や今の社会で支配的な価値観に敏感で、常に比較・競争意識を持って生き、周囲をその尺度で判断してきた自分がときにいやでたまらず、近しい人に対しかえって余計に不快感情や不信感をあらわにしてしまうことがとても不安だったのでした。社会的身分も高く優秀なキャリアウーマンの典型といった風情の彼女は、その自信と硬質な態度の下に、しかし涙で時折言葉が詰まるシーン見せるよう、自信なさげな不安定さが同居しており、そうした時の表情はむしろ自然、素直な印象に私の目には映りました。本来はどちらかといえば内気で、内的世界と向き合うことに長けたとても感情豊かな人柄だったにもかかわらず、そうした自分の感情や願望を素直に出すことを自分に許してこなかった、許されないと信じてきた、そんな生き方をしてきたことが話し合いの中からわかってきたのでした。そして、彼女は数回のカウンセリングの後、何の前触れも予告もなく姿を見せなくなったのでした。

 久しぶりに見かけた彼女の印象にさしたる変化はありませんでした。あれほど心配していた二人の小さな姉妹はとても明るく楽しそうで、ご主人とじゃれ合っている姿がほほえましい普通の家族でした。

 以前も垣間見えた少し神経質な彼女の目の表情を見て、一瞬不安がよぎりました。けれども、駆け出す二人の子供とそれに追いつこうとする夫から少し距離を置きながら、心なしか弾むようなステップでゆったりとついていくかつての相談者の後ろ姿に、どことない朗らかさと余裕を感じた私は、すぐに少しホッとしたのでした。


 

 この相談者は私とのカウンセリングに失望し別れを告げたのかもしれないし、少し勇気づけられたから別れたのかもしれません。別れは「それでも私は進む覚悟を決めた」ことの証しでもあるのでしょう。心に沸き立つ渦は今もって消えてないかもしれないが、それを抱えながら生きていくすべを何とか探し当てようと模索することもまた、私たちの人生そのものなのかもしれません。

 「心の渦」は、他の別れのように消えることはなく、それどころか渦との別れは永遠にやっては来ないものなのかもしれません。それもまた自分の一部として引き受けながら、人生を歩んでいくことに手を差し伸べるために、私ができることとはいったい何なのだろう、そして今まで自分は何ができてこなかったのだろう。

 普通の家族4人の姿を目で追いながら、私は自分に問いかけていました。

あなたの心に深く刻まれている「別れ」はどんなものでしょう?そしてあなたにひっそりと寄り添う心の渦とは?



最後までお読みいただいてありがとうございます。

メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂

サザエでございます

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by yellow-red-blue | 2018-11-22 21:57 | Trackback | Comments(0)

ふたりの老人 ~ 立冬の頃‘18



以前のブログ(『パワースポット(Ⅱ)』)でも触れた、個人的にお気に入りの散歩コース途中にある運河沿いのとあるベンチに久し振りに腰掛けしばしくつろいでいた先日のことです。やはりお散歩の途中とおぼしきひとりのご老人が、ゆっくりとこちらのベンチに向かってくるのが目に入りました。年の頃85は下らないように見えた細身の方で、ステッキをつきながら足元が少々おぼつかない様子でゆっくり一歩一歩を踏みしめ、ここよろしいですか、とご丁寧に会釈をしてこれまたゆっくりとベンチへ腰を降ろしたのでした。そろそろ立冬を迎えようかという、おだやかながらやや冷たい秋風の吹け抜ける休日の運河の景色を眺めながら、しばしの会話が始まりました。

 近くの高層マンションに奥様とお二人で暮らしており、中学を卒業すると同時に遠い田舎から上京し、すぐに地下鉄マンとして就職し長年働き、定年後を含め、かれこれ60年以上もずっとここ芝浦に暮らしてきたとのことでした。

「いい時代でしたよ。まだ右も左もわからない田舎者に、仕事も住まいもお給料も何から何まで世話してもらったようなものでね。一人ぼっちだった私でしたが、いい先輩や同僚にも恵まれて皆が家族のようでしたから。仕事は大変でしたが皆がそんな時代でしたからね。幸せでしたよ。」ゆっくりと丁寧な言葉遣い一語一語に過去の日常への郷愁を織り込むかのような話振りは、自分なりに想像する老人の過去へと私を心地よく引き込んでいきます。

最近の大規模再開発を機に住み慣れた自宅から高層集合住宅への移住を余儀なくされたとのこと。では随分とこの辺りも変わってしまったのでちょっとお寂しいのでしょうねと話しを向けると、

「いやいや、そんなことないですよ。あまりに規模が大きいのでちょっと戸惑うこともありますが、とても立派だし快適なので感謝してますよ。みんなよくしてくれますし。1階なのでこの辺りは土地が低いですから、いざ大地震が来たときが心配なことぐらいですか。まぁこの年だからいざという時さっとにげるわけにもいかないでしょうからあきらめてますけど」ととてもあくまで和やかです。

そばの運河に沿った遊歩道を、小さな姉弟がペットの犬を散歩に連れて通りかかると、顔見知りなのかお互いに挨拶を交わしていました。

「知り合いでもないのに、ここに腰かけているだけで、ああやって私のような老人にも声かけてくれるしね。やっぱり恵まれているんでしょうね、私は。」

ふと気づけば、季節にピッタリの柿渋色の暖かそうなニットセーターに、今どき珍しい赤が基調のタータンチェック柄のハンチング帽にボーダー柄マフラーがとてもよく似合っていらっしゃいました。奥様の見たてかあるいはお子さんやらお孫さんからのプレゼントなのでしょう。驕奢は感じさせない庶民性がありつつ、どことない品の良さを感じさせる方でした。会話の中の言葉遣いや初対面の私へのそれとない気遣いからその人柄と言葉通りの幸せな人生が伝わってきたのでした。

「さて、寒く成りましたらそろそろ引き上げますか。」いま、家には家内の友人がいましてね。二人集まるとこれが結構なおしゃべりになるので避難してきたようなもので。でも散歩が唯一の楽しみのようなものですからね。ここはいいところですよ。ゆっくりゆっくりと立ち上がって軽い会釈とともに遊歩道をまた来た方向へとゆっくりと戻っていきました。そんな後ろ姿に私はつい見入ってしまったのでした。



 「ああ、失礼、ここいいですか?」

突然そう言われてハッと振り向くと、やはり一人のご老人が隣のベンチに腰掛けようとしたところでした。ビックリしたような私の顔をしばしねめつけながら、どっかと腰をおろし、座るやいなや懐からたばこをやおら取り出して一服。心地よさそうに煙をはき出してから、「ああ、煙草構わないかな?」とひと言。

 先ほどのご老人とほぼ同じ世代に見えましたが、こちらは対照的にやや恰幅のいいガッチリとした体格の赤ら顔の方で、足元はやや弱っているようでしたが、杖もつかず堂々としている雰囲気。一見して値の張る衣服に身を包んだその方の、あきらかな若輩者の私への言葉遣いのトーンはざっくばらんなものでした。企業でそれなりの地位まで上り詰めたかご自身で会社を経営なさっていた方、あるいは職人の親方さんのようでもあり、人を率いたり指示することに慣れてきた人のような、引退してなお壮健なお人柄が漂ってきました。

辺り一帯があきらかに喫煙NGの環境のようでしたがが、ええ、どうぞと気にしない風を装うと、それをも察知してか、「最近は落ち着いてたばこを吸う場所もないんだからね」と美味しそうに煙を出しながらもかなりの不満顔をしていらっしゃったのでした。

 そうですねと、今どきの喫煙者の肩身の狭さに同情するコメントをすると、

「自宅でもそうだからね。ベランダの喫煙はもちろんだが、自分の家の中で吸ってもそれが外にちょっと漏れると文句言ってくる人もいるしね。」聞けば住んでいるところは、さきほどのご老人と同じくすぐ近くの高層マンションのひとつ高層階。立派なところにお住まいですね。

「いや、まぁまぁだよ。でも見た目よりいろいろと不便だね。風も強いし。近所の騒音音やペットなんか結構気になるね。もうちょっとご近所迷惑を考えてもらいたいんだが、今どきの人はあんまりそういうことには...」と最後はぶつぶつ声に。

最初のご老人が自分の過去やよき思い出の話を柔らかく語っているのとは対照的に、この方は過去や自分のことはほとんど触れることなく、どちらかといえば変わってしまった今の世の中に何か納得がいっていないかのようなトーンに終始していたのでした。私のプライベートな話にもあまり興味がないご様子でした。

 すぐ前の運河沿いの遊歩道をジョギングする人が行き交います。

「休日なのにああやってせかせか走って。みんなマラソンでも走るのかね。」そういう人も結構いらっしゃるみたいですよ。最近は健康志向の方も多いですしね。

「そんなことわざわざやらなくったって、わたしなんか何もやってこなかったが、この通り身体は丈夫だし元気だけどね。ただ豊かになって食い物や生活がぜいたくになったせいなんじゃないかね。」とちょっと手厳しいですが、たしかに本当にお元気そうです。

犬を何匹か連れスマホに見入っている若い今どきのご夫婦が通り過ぎるのを眺めていたかの老人は、「うちの近所にもいるけどさ。最近多いね。何匹も飼っていたり、文字通り猫かわいがりというんかさ。ペット飼わずに子ども作れと言いたくもなるよ。」「なんというか、もうちょっと今の人が世の中や社会のこと考えればいいんだが...」


そんなご自分のお考えに同意を求めるかのような苦笑顔を向けられ、当たり障りのない同意の言葉を向けると、そんな私もまた自分とは違う側の世代であることに気が付いたかのように、「いや、そんなこと言うとまた文字通り煙たがられるかな」とたばこをまた深々と一服し、しばし無言の後、「じゃ失敬」といきなり席を立ち、また来た遊歩道を足早に戻っていったのでした。

ゆっくりくつろぐつもりで来たのに、私が相手ではお役不足、折角の散歩が台無しにされたかのようなせっかちな歩みに勝手ながら私には思えてしまったのでした。ただ、ぶっきらぼうながら悪い感じはしなかったのは、その方がある意味表裏のない率直な方であったように感じられたからかもしれません。

ほぼ同時代、同じ場所で生きたであろうお二人が、同じ風景を目の前にしてこんなにも対照的な物事のとらえ方、お話しをなさるのかと思うと、今さらながらそして当たり前のことながら、私たちはそれぞれが本当に「ただ違う」のだ、と改めて思い知らされます。



その後もしばし私はそのままベンチに腰掛けながら、何だか一人その場に取り残されたかのような、ちょっと不思議な感覚を覚えてしまいました。しいて言えば、ポツンとあるベンチが舞台設定の演劇か何かに出ているかのようなそんな感覚です。

出演者:老人A、老人B、そして中年男C、以上。

さしずめ、舞台に最後一人残された私は、なにがしかの気の利いたセリフでこの舞台を締めなければならないか、あるいはラスト幕が降ろされる間際に天上から聞こえてくるささやきめいたメッセージはどんなものか、などと勝手な思いが頭をよぎります。


『おまえもいずれ老人だ。それで一体お前はどちらの老人になるのだ?』

『いやいや、結局どちらもお前なのだ。そうではないか?』

『いろいろと勝手なことを妄想しているようだが、当の老人たちには、今のお前はいったいどんな人間に映ったのだろうな?』



 穏やかで謙虚、自分が周囲の助けや犠牲のもとで生かされてきたことに素直に感謝できる人もいれば、頑固一徹に一人道を切り開いて必死に生きてきたと信じている人もいる。現実に妙に逆らったり疑問を感じたりせず、受け入れ流れに任せる人もいれば、現実からの距離が取れて、世俗的な価値観を相対視することができたり、周囲をありのままをそっくりそのまま受け入れるのではなく、自らの価値基準と正義感覚を保ち続け、納得のいかないことには異議申し立てもいとわない人もいる。そして、結局そのどちらがより悪くてより好ましいというものではないのでしょう。そんなふうに考える私もまた歳を重ね衰えゆく年代にさしかかったのだと気づかされます。


一個人をどこまでも他に例を見ないひとりとして肯定し、理解し、支え続けること、そして周囲からはどう見えようとも、あなたの、わたしの事情や気持ちそれはそれで十分にくみ取る価値のあるものであって聴くに値するものである、との姿勢をメッセージとして送り続けることがなにより大切なのだということを、今の仕事を通じて少しずつ学んでいるように思います。そしておそらくそれは、私たち一人ひとりの人生においてもまた同じなのではないか。とにもかくにも元気そうなお二人を見てなぜかそんなことをふと考えさせられたのでした。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

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by yellow-red-blue | 2018-11-08 16:02 | Trackback | Comments(0)

All Rise ! ~ 霜降の頃’18


少しひんやりとした澄んだ空気と青空のはるか先に、雪化粧をまとった富士山の姿が美しく映えるのがとても印象的です。そのすぐ傍らを、大きな夕陽が西の山々に沈む情景を眺めていると、秋もいよいよ深まってきたことを感じます。

実り・食欲の秋、読書・芸術の秋、スポーツの秋などとさまざまな表現がなされる通り、秋は人の感性を静的にも動的にも一層刺激する季節なのかもしれません。

そのスポーツの秋といえば、日本だけでなく、世界各地でも多くのスポーツ競技がまさに熱戦の佳境を迎える季節です。海の向こう、野球の本場アメリカでは、メジャーリーグ(MLB)がいまちょうど、各地区・各リーグのチャンピオンチーム同士がNO.1の座をめぐって激しい戦いを繰り広げるポストシーズンの真っ只で、シーズン最高潮の盛り上がりを見せています。普段ほとんどテレビを観ない私ですが、メジャーリーグは昔からのファンで、特にポストシーズンを迎えるこの時期は、普段部屋の隅に追いやられている小さな液晶テレビを引っ張り出して、その熱戦につい見入ってしまいます。



 ところで、昨シーズンメジャーリーグの名門ニューヨーク・ヤンキースに一人の若者がすい星のごとくデビュー(正確には一昨年の途中のデビュー)し、いきなりの華々しい活躍とずば抜けた成績で話題となりました。アーロン・ジャッジ選手です。2メートルを超える巨体から繰り出される桁違いのパワーと高いバッティングスキルでホームランを量産、ヤンキースの快進撃をけん引し、圧倒的な支持を得て見事昨年の新人賞を獲得しました。その圧倒的なパフォーマンスもさることながら、若者らしからぬ謙虚で清々しい立ち振る舞いで、ファンの間でも絶大な人気を誇り、2年目の今シーズンは、もはやヤンキース不動の看板打者であるばかりか、まさに新世代メジャーリーガ―の象徴としての存在感すら漂わせる選手なのです。

 けれどもその彼が人々を強く惹きつけてやまないのは、そのパフォーマンスだけでなく、その名前(姓)であるジャッジ(judge)にもあることがわかります。その第一義的意味は、裁判官あるいは判事。苗字としてはアメリカでもやはり珍しい部類に入るようで、特別な響きと余韻をアメリカの人々にも与えるようです。法と正義の名の下公正な裁判を主催し、犯罪と悪を裁き審判を下す善良なる魂の守護者、絶対権力者である裁判官という名は、勝負を決める一発で相手を葬り去る男、ここ一番に決定的な仕事をする頼れるバッターとしてのイメージと完璧にマッチするのでしょう。

 ヤンキースの本拠地ヤンキーススタジアムのライトスタンドの一角には、彼の活躍を応援しようと、Judge's Chamber(裁判官室)という名の観戦エリアがチームによって特別に設けられ、試合中そこに座る観客がフェイクの法衣やかつら、木槌で仮装し、All Rise!(全員起立!)と書かれたボードを振りかざし、ジャッジ選手の打順が来るたびに熱狂する光景が繰り返しテレビで映し出されるのがお約束になっているほどです。それほどジャッジ(judge)という言葉には、どこか人を惹きつける威厳ある決定的な響きがあるのでしょう。



つい、好きな野球のことで熱弁をふるってしまいましたが、この単語judgeは私たち日本人にもお馴染みで、司法あるいは法律的文脈で用いられるだけでなく、一般的な意味合いとしての裁く、判断する、断定するという意味でも日常的に用いられる言葉です。そして、人間である以上私たちの誰もが実は毎日、というか瞬間瞬間ごとに行っている認知的作業がこのジャッジ(ジャッジメント)なのです。私たちはジャッジすることなく生きることはできないと言っていいほどです。ジャッジすることでいわばその後の自分の行動や振る舞い、感情が決定されていく。ジャッジその連続がまさに生きることに他ならない、といってもいいかもしれません。私たちの感覚知覚機能に取り込まれたり喚起されるすべての情報や出来事、記憶について何かにつけ常に私たちは裁いて(ジャッジ)しているのです。これは人間にとって生きるに当然かつ必要な行為であって、オートマチックに実行している作業なのでそう簡単にやめることはできません。やめることの方が不自然でしんどいくらいなのです。



ところがこれを常に正しく安定して機能させることはなかなかに難しいことのようです。私たちは時としてというかかなりしばしば、「ジャッジしすぎ」てしまうのです。他者を、自分を取り巻く状況や社会を、そしてとりわけ自分自身を。そしてそのジャッジメントをそのままあたかも事実、真実であるとして許容し続けてしまうというリスクを負って生きています。

本当かどうなのか事実か定かでないことに決定を下してしまう。うまく説明のつかないことに対して苦し紛れの都合のいいジャッジを相手に押し付けてしまったりする。勝手なジャッジ同士をぶつけあいすれ違いや摩擦を生んでしまう。もう過ぎ去った遠い過去に下したジャッジでいまだかたくなに自分や周囲を裁き続け、苦しんだり苦しめたりし続けてしまう。どうなるのかわからない未来のことに不要なジャッジを下して、不安に思い途方にくれたりする。私たち人間はそんな生き物といったらいいでしょうか。ジャッジしてしまうがために、自分と周囲に起きている変化を感じとれず乗れ越えられず、考え過ぎてストレスを溜め込んだり、過剰に自己防衛に走ったり、却って窮屈な生き方を背負い込んでしまいがちな人が多いことに気づかされます。

ジャッジするという行為そのものが悪いわけではありません。ジャッジしてしまうのが私たち人間なのですから。ジャッジがひとつの判断なり評価に過ぎないことを超えそれを動かしがたい事実、決して覆ることのない真実としてオートマチックに信じてしまい、そこにがんじがらめになることが、私たちの日常にとっていかに有害なものかについてひとり気づくことはかなり難しい、というところがとても悩ましいのです。それがあたかも当たり前のこととして私たちは受けとめているからです。ジャッジしているなどとはなかなか自省することのできないのが、残念なことに私たち人間と言えるかもしれません。



カウンセリングは言ってみれば、そうした相談者が下してしまっているジャッジとはどのようなものであるのか、そしてそれはどうしてなのか、ジャッジそのものを止めようと躍起になったり、ジャッジしたくなる気持ちを否認するのではなく、どうすればそのジャッジを手放すことができるのかを一緒になって考えていく作業でもあります。

考えてみれば、カウンセラーも常に相談者とその相談者が抱える問題をあらぬ方向へと裁いてしまうリスクを常に背負っていると言えます。憶測や偏見、過去の学習や経験、専門的知識などへと逃げる形で。そうしたことはときに避けられないとしても、その流れに完全に乗ってしまう前にその外へと一歩踏みとどまり、まずもって相手の気持ちや言葉に対して無条件に肯定的に寄り添ってみること、そしてつねに下されがちなジャッジを意識しつつ、それをひとまず脇に追いやり、相手の話す世界そのものに入っていこうとする姿勢は、カウンセラーだけでなくすべての人間関係に本来必要な心構えなのかもしれません。「無条件に肯定的に寄り添う」といっても、それは相手の考えや意見に同意することでも、またそうしたことに自分を合わせようとしたりすることでもありません。相手の言わんとしていることはまさに相手側の事情であり、そのように相手が実際に受け止め感じていること自体には偽りはないのであるから、そこにこちら側の事情や価値判断のフィルタを持ち込まずに、まずもってただそっくりあるがままに真摯に受け止め、理解しようとする態度が大切だというわけなのです。

とはいいながら、精神医学や臨床心理の世界でさかんに言われるこうした「無条件の肯定的な配慮」であるとか「執着を上手に手放す」という態度は確かに立派ですが、正直なところそれが本当にどのような意味を持つのか、どうすればそんな姿勢を維持し続けることができるのか、私にもちゃんとはわかっていないのだと思うのです。

日々のカウンセリングの中で一人ひとりの相談者と向き合い、私の、あなたのそれぞれのジャッジをていねいに辛抱強くたどっていく精一杯の姿勢が、今の自分にできる数少ないことのひとつだと感じています。

優しく、信頼されるAll Rise!をいつも誰かの心に響かせることができるよう。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

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イチローさん

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by yellow-red-blue | 2018-10-24 23:57 | Trackback | Comments(0)

生きるは芸術 ~ 寒露の頃’18


仕事場の窓の外にある手すりに最近トンボが止まっているのを、ふとよく目にするようになりました。街中でもあちこちさまよう姿を時折見かけます。近くの通り沿いに立ち並ぶけやきの木のいくつかの葉がほんのりと色づき始めたのを眺めながら、こうして東京にも秋の気配が徐々に深まりつつあることに気づかされます。街中ではすでにハロウィンの気配が濃厚な一方、日本各地では稲刈りも終わり、秋の実りも収穫の時期を迎え、本格的な紅葉の便りが各地から聞かれ始めるそんなこの頃はまた、今年も残すところいくらも残されていないことにふと少し寂しく気づかされる季節でもあります。



先日、俳優の國村隼さんが、ある国際映画祭の審査員を務めた折、次のような発言をしたとインターネットのニュースが伝えていました。


「人々には今起きている葛藤や苦痛の中で生きるよりも、明るい未来の希望や温かい過去の記憶が必要だ。だから、なぜ今このように厳しい状況になっているのかが知りたいから、多くの映画が作られているのではないか」

 

 このシンプルなコメントは、映画に限らずすべての芸術や創作表現活動の根底に共通する本質的な問い、なぜ人間にとって芸術や文化が必要不可欠な営みなのか、に対するひとつの答え(あくまで一面についてですが)として、とてもしっくりくるように私には思えました。なぜなら、私たちにはそれらが必要であり、社会においても人間が生きるにおいても不可欠のものであると感じてはいながら、それはいったいどうしてなのかということについては、あまりよくわからずにきたからです。

考えてみれば、私たち人間が、身のまわりに起きている物事や存在する対象について、現実的、即物的な意味以上の何かを感じとる必要がないとしたら、そうした芸術や文化は必要ないでしょう。そんな面倒なことは考えずに、目に映る世界をただありのままのものとして捉え、実際起きたり見えている事物や関係、客観的な数字やデータだけに目を向け生きていくだけでいいではないか、その方が世の中はずっとうまく流れるかもしれず、少なくとも物質的には恵まれた世界を作ることができるであろう、という考えもある意味悪くはありません。

けれども、なぜか私たちは、文学を単に「インク」+「文字」+「紙」とは考えないし、絵画とはキャンバスに塗りたくられた絵具の複雑なパターンとは考えられない。さまざまな楽器の発する音の重なりに、わざわざ「音楽」という感動と精神的高揚までも植え付けようとする。私たちは、そこに客観や事実以上の捉えがたい何かしら深い意味やメッセージを込めたり読み取る作業過程を通じて、私たちの人間性や社会、文化がより豊かで洗練されたものに鍛えあげられていくと信じているのです。つまり、芸術や文化のような創作表現活動の価値が、現実や事実とは次元の異なる、いってみればさまざまなフィクションや錯覚、バイアスによって支えられているにもかかわらず、私たちはそれを渇望すらする不思議な生き物ものなのです。

もしかするとそれは、私たち人間が、自分の身の回りの現実である外側の世界だけでなく、内的な世界の存在をどこか信じて疑わず、それに生きることもまた必須であることを本能的に「わかっている」からなのかもしれません。心的な世界は限りなく広く、私たち一人ひとりが独自の宇宙を持っている。それは他者からは伺い知れないことはもちろん、自分ですら自分の本当の世界について全てを知っているわけではない。そうした内の世界と外の世界、自分と周囲との間の架け橋あるいは媒介として、知的で情緒的な相互作用を創生する役割を芸術や文化が担っているとするなら、実は私たち一人ひとりは、同じ人類という種でありながら、実はそれぞれがまったくの別種ほどの個体差を有している存在ではないのかと感じるのです。



ところで、冒頭で引用した國村隼さんのコメントは、そのままカウンセリングに訪れる人の心境といえるかもしれません。人は今起きている葛藤や苦痛の中で生きるよりも、未来に明るい希望を抱き、過去の温かな記憶を生きる糧としたいと願っている。だれもがストレスのない人生に憧れる。だから、今の厳しい状況をなんとかしたい思いカウンセリングにやってくる、のですから。映画や芸術より一歩踏み込んで、それぞれ具体的に救われる方法を求め問題を解消したい、といったほうが正しいかもしれませんが、だからと言って、カウンセリングもまた芸術であるとは到底言うことはできません。けれども、両者に共通あるいは類似することはいくつかあるようにも感じます。

カウンセリングでは、客観的事象だけでなく、相談者の心の働きや内面世界に意識を向け、そこで起きていることを探りながら、現実社会との調和を図るための様々な働きかけを相談者に対して行っていきます。物事の客観的な理解や科学的なデータや数値では把握し得ない心の世界や、葛藤や苦悩の奥深くを相談者ごとに個別具体的な形で表現(対話・コミュニケーション)していくという点では、両者の類似性はわかりやすいと言えるかもしれません。

もう一つは、これも先に述べましたが、芸術同様カウンセリングもまた、見たままの事実や対象とは異なるフィクション、錯覚に目を向けているということです。カウンセリングでは、それは相談者の主観的判断や決定、評価であり、バランスを欠いた思い込みであったり、物事のとらえ方や言動の偏り、極端な執着などと言い換えられるかもしれません。しかし、本人にとってはそれはとてもリアルな実感です。安易にそれは間違っている、思い過ごしだ、客観的事実とは異なるなどと決めつけてしまうのは正しい接し方とは言えない、というところに周囲が気づいていくこともまた大切です。不安や悩みを抱えている人にとっては、自分の思いや感情の状態はとても自然で自明であり、それは疑問を差し挟む余地のない実体・真実として映っているので、そうなってしまうには実は無理からぬ理由があり思いもよらない心理的因果関係が絡んでいる可能性に、ひとり気づくことはとても難しいことなのです。「私は私について一番よく知っている」「これが私の人間性なのだ」という実感が、一種の錯覚かもしれないというわけです。そこに分け入って、複雑に絡み合った問題の糸を丁寧にほぐしていくお手伝いをするのがカウンセリングです。

 もちろんネガティブに働く錯覚やバイアスばかりではありません。根拠に薄かったとしても、健全な楽観性や自信やポジティブな思考、それらに基づいて起こす行動は、時として個人や社会にとっていい結果をもたらす活力ともなり得るからです。そこもまた芸術との共通点といえるかもしれません。



 私たち一人ひとりの人生そのものが芸術(作品)である、とはよく言われることです。それがたとえどのようなものであったとしても、人生という唯一無二の物語を完成させる過程をたどることそのものが人生の意味であり目的であり、そのために私たちは生きているのだ、という確信は、人生において直面するさまざまな困難や悩みにたとえどれほどの時間やエネルギーを費やし、精神的辛苦を味わおうとも、そのことが決して無駄でも失敗でも挫折でもないことを教えてくれます。カウンセリングを通じてそれが決して安易な気休めの言葉ではないことをときに体験するとき、ほんのつかの間、素直に私は幸せを感じています。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

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by yellow-red-blue | 2018-10-10 20:19 | Trackback | Comments(0)

「家族」という事情 ~ 秋分の頃’18


数か月ほど前のある日、毎日のように届けられる封書手紙や荷物にまじって、小ぶりな郵便物ひとつが届いていました。差出人もあらためずつい無造作に封を切ると、中には大きめの手帳サイズぐらいの薄い本1冊が入っていました。同封の手紙や説明案内書きもなし。本のタイトルは、「歌集 欅(けやき)の広場」とありました。そんな本を注文した覚えのない私は、そこではじめて差出人をあらためると、それは私の伯父(父の兄)からでした。さらによく見れば、歌集の著者もまた伯父その人でした。ごく普通に会社に勤め家族を養ってきた伯父が、文化芸術に深い造詣と愛着を抱く人であり、仲の良かった弟である私の父もそれに深く影響を受けていたことを何となく知っていた私は、さもありなんと思いつつしばしその歌集に見入っていました。ごく身内向けのいわば私家版として出版し配った旨があとがきとして添えられていたその歌集は、自らも年を重ね、老いと病に向き合いながら過ごすここ何年かの日々の日常を、季節と家族、音楽や文学を織り交ぜ綴ったものでした。

その多くの歌の中に、3年ほど前に肺病でこの世を去った弟である私の父を歌ったものがあることに気づきました。「永遠の別れ」と題された数首の短歌俳句ののうちの一首にはこう歌われていました。


「疲れ果てたよ」独りで耐え来たこの言葉鮮烈なるか弟の声


亡くなるまで56年に及ぶ一人暮らしの病気療養生活を送り、老いてしまった自分を自虐まじりに多少卑下するところはあったものの、私たち子には、弱音や気弱なところを決して見せなかった父が、自分の兄にだけはその絶望にも似た悲痛な心の叫びを吐露していたことに、深いショックを受けたのでした。

幼くして早々に両親を失くし、貧しい中助け合い支え合って生きてきた父の兄弟4人のあいだには、私たち子に伺い知れない深い絆があったであろうことは理解できます。それでもやはり、私の中にはなんとも行き場のない戸惑いと後悔、苛立ちのようなものが沸き上がるのを抑えられなかったのでした。多少離れているとはいえ、病気になってからもできるだけ父のもとへ顔を見せ、会話をし、気づかいと支えになってきたつもりであったのに、せめてひと言私たちにそれを告げてくれなかったのか?

歳を重ねても親は親で、親であるからこそ打ち明けられなかった。実生活でも面倒かけていた分、それ以上の弱音を聞いて欲しいとは求めづらかったかもしれません。でも本当のところは、上述の「~つもりであった」の通り、私たちの思いとはこちら側の勝手な解釈でしかなく、私たちに打ち明けたとして何が変わるわけではないことのあきらめが父にはあったのではなかったか、と思うのです。結局私は父に対し、その兄弟ほどには信頼も安心も与えることができなかったことを悟ったのでした。



今も昔も、家族にまつわる問題や相談をカウンセラーが扱うことは多いかもしれません。相談者自身の悩みの主訴はまったく別のところにあるようでいて、結局掘り下げれば自分の家族(原家族や現家族)に行きつくということは珍しくありません。また、たとえ悩みが家族以外の全く別のところにあったとしても、真の意味で家族の支えがあったなら、それら抱える問題の負担はずっと軽いものとして受け止められたり、何とか対処する見通しも立てられるものです。私たちの社会が「人間関係」で成り立っている以上、その最も基本的で重要な関係が家族であることは疑いもなく、だからこそ家族は私たち一人ひとりの人格形成にどこまでも深い影響を与え続けるのです。

家族はまさに「有り」難い、つまり他にはない稀有な存在といえます。有難いその理由の一つは、生きる上に何よりも誰よりも一番頼りになる(はずの)存在だからです。家族とは、たとえどんなことが起きようとも、どんな結果がもたらされようとも、決して見捨てることなく一人にはしない、自分の側にいてくれる、どのような言葉や気持でも無条件に受け止めるよというメッセージを送り続ける、他の人間関係では決して経験されることのない「根源的」な安心と相互信頼そのものです。私たちは別個の人格でありながら家族はひとつであり、不可分一体の存在として意識しているものなのです。



けれども、家族はそれほどまでに近しい存在であるがゆえに、同時にまた厄介な存在でもあることが、「有り難い」存在であるもう一つの理由でしょうか。お互いが自分との区別、それぞれの領域に境界線を引きにくい存在であるがゆえに、ありとあらゆることにおいて、「他人事」ではいられない、という意味でまた稀有な関係です。

だからこそ、実は一番相談しづらく打ち明けづらく、自分を明らかにすることができない存在と感じる人もまた多いのです。迷惑をかけたくない、きっと悩む、言ったら家族がもっと困るだろう。そんなことに向き合う勇気はとても持てない。もっと多いのが、話してもむなしく(返ってくる言葉や反応があらかじめ予測がつくから)、結局ひとり自分で解決するしか方法はないと信じているから、という思いが心のどこかに潜んでいるのかもしれません。

一方、他人事でないがために、自身の心配や不安の解消、期待や願望の実現に執着してしまい、悩んでいる本人に向かってあれこれ求め、管理しようとしていることに気づくことがなかなかできない周囲にいる私たちは、つい妥協なき辛口コメンテーターや評論家と化してしまいます。悩んでいる本人の欠点や弱みを平気であげつらい傷つけるかと思えば、ただ無責任に励ましたり勇気づけたり、優しさたっぷりの愛情表現をしたり、ときに誇ったりもする。本人以上に深刻に悩みそれは自分の責任に違いないと苦悩を深めたりもする。そして、何もできないことが分かると途方に暮れてしまう。ちょうど私が経験した「~してきたつもりなのに...」のように。


そうした言葉や行動は、悩んでいる当の本人にしてみれば結局のところ、つまりあなたの悩みは分からなくもないが、それはやっぱりあなたのほうが間違っている、あなた自身の問題なのだ、そして私たちは家族に「過ぎない」、と突き放されているようなものかもしれません。だからつい自分にこもってしまう。世間体や周りの状況、社会的正論、家族の都合という条件付きの愛情で説得され、返り討ちに合うことがあまりにも自明だから、何も言えないのかもしれません。傷つき、敗北感を味わうことが分かっている相手に勇気を振り絞って心を開くことに、わざわざ無駄なエネルギーは使いたくないのです。

つまり、周囲の人々が何とかしなければのあまり、無条件にただ「聴いて」あげていないのです。悩む本人に、無条件に受け入れられ安心できる存在として家族が映っていないのです。あまりに長い間、私たちはただ「家族でいた」ために、安心と信頼の関係が、親子だからという理由だけでオートマチックにいつでも発動されるわけではなく、そうしたメッセージをお互いが受け取るためのそれなりの配慮や努力が欠かせないことに気づくことができないのかもしれません。ただ「家族でいる」それだけでは十分ではないのでしょう。


どうしたらいいのでしょう?

家族にできることの選択肢は多くはないかもしれません。ただ家族にしかできないことがあります。それが少し上で書いた、根源的な安心と信頼そのものである「有り難い」存在のままでいることです。

私たちは、コメントも質問も解決策も口にせず、ただ、「打ち明けてくれてありがとう」「ごめんね」「ゆっくりでいいんだ」「勇気がいったね」と穏やかに寄り添うことができるでしょうか。辛抱強くただ聴き続けること、本当の気持ちが表れるまで、本人が納得のいくまで聴き続けることができるでしょうか。何度かせいぜい数十分のところ話し合いを求め、その後は疑問への回答を求める質問の雨嵐。ひとたび言葉に詰まれば、思いやり半分にありがちな正論という名の条件付き愛情の表現をちりばめてはいないでしょうか?それらは、単なる予期された回答への説得でしかないかもしれません。


 無条件に受けとめられ安心できる存在として、悩んでいる本人に家族が映り始めるには、時間がかかるかもしれません。そんなときの一番の近道は、自分達もまたしくじり間違いを犯す存在であり、だから失敗しても実はまったく構わないのだと、心の底からまず認めることかもしれません。本人よりもまずは自分達の心に問いかけることが大切なのだと思います。まずもって自分達が開かれているからこそ相手も開かれる。悩む本人がかたくなであるなら、それは自分達もまた開かれてこなかったことを意味します。親子は、夫婦は、家族とは似た者同士なのです。

家族のことは自分が一番よくわかっているという幻想を捨て話しを聴くこと。たとえ周囲からはどのように映ろうとも、本人にとってはリアルな実感であることを認め、気持ちや苦しさに寄り添い想像する努力をしてみること。そして家族だからこその心からのありがとうや謝罪、支えの言葉を口にできる素直さは誰しにも必要なのではないでしょうか。たとえ今は、自分達には何の問題もなくよい家族だと思えるとしても。誰しもにいつかは訪れるであろう、家族の危機のときを乗り越えていくために。



伯父から「欅の広場」を送られてからというもの、カウンセリングを終え相談者の背中を見送るたび、果たして私にあの人達の相談に乗る資格があるのだろうか、との疑念が頭をよぎります。家族という存在のあり難さとむずかしさとの複雑なアンビバレンツのはざまで揺れ動き、思い悩む人々と日々向き合い、そうしたことを日頃痛いほど分かっているはずなのに、何のことはない、自分とその家族のことには全くの無知蒙昧であったのかと思うと、気持ちが萎えてくるのです。

けれども同時にまた、自分がカウンセラーを職業として選択したことを、父に深く感謝する気持ちがなぜかふと沸き上がってもきます。私もまた複雑でアンビバレントなただの人間でしかないのだと気づかされます。

人はどうしてかくもややこしい存在なのか?きっとそれが分かったとき、私が相談者の背中を見送ることをやめるときなのでしょう。

それがまだはるか遠い先の事のように思えてしまうのが少し悲しいです。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

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信号待ちの母子 ~ 冬至の頃‘17

メランコリィな9月 ~ 白露の頃’17

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by yellow-red-blue | 2018-09-23 11:10 | Trackback | Comments(0)

「最近何となく...」になってしまったら ~ 白露の頃’18


 ようやく暑い夏が過ぎ去ったかと思ったら、一気に朝晩を中心に冷え込む地域も多いようです。長袖上着が欠かせない季節が一気にやってきてしまった印象ですが、それにしても最近の気候の極端な様子には戸惑ってしまいます。

 9月に入って私の周囲の会話でよく聞かれるのが、「何となく~」というフレーズです。何となく最近「だるい」「疲れている」「気持ちがふさぐ」「落ち着かない」等々。ハッキリとした原因やさしたるきっかけに覚えがないというところが、この「何となく病」のやっかいなところでしょうか。これがしばらくほっておいて、1~2週間経ち気が付けば解消されていた、ということであれば問題はないのですが、それ以上か場合によっては数ヶ月たってもまだもやもやするとなれば、だれでも心配になってしまいます。でも、この感じは意外と多くの人が経験しているようです。

 それぞれの個人的な事情もあるでしょう。目まぐるしく変わる季節と天候に体のバランスを崩すということもありがちです。また、かつて経験したことのないような異常気象や深刻な自然災害の頻発、人々の不安を喚起させるような痛ましく凶悪な犯罪や事件のニュースなど、人々の不安を喚起させる情報が洪水のごとく、私たちの日常の中にいやおうなく侵入してくれば、それらは確かに私たちの心身に微妙な影響を及ぼし、「気疲れ」も起こすかもしれません。

 でも、そんなときどうしたらいいのでしょう?原因やきっかけをあれこれ追究しても確たる回答は得られないとなると、いったいどうしたらいいのでしょう?そんなときにもしかすると役立つかもしれない簡単な方法をご紹介します。簡単とは書きましたが、方法はシンプルなのですが、人によってはちょっと苦手と感じるかもしれません。ちょっとした言葉の遊び程度に思って試してみてください。もしかすると意外な発見があるかもしれません。


 

 心や身体の不調とは、簡単に言ってしまえば、私たちが普段意識することなく自然にしてしまっている「無理」です。無理なのですが、本人にその自覚があまりないため「なんとなく~」になってしまいます。こういう場合にありがちなのは、経験や見聞などを参考にしてあれこれ試してみる、つまり物事を新たに取り入れてみるというものですが、それはあまり効果がないかもしれません。どこかに「無理」があるのですから、何事かをさらにプラスして無理をすることよりもむしろ、何事かを控え諦め、緩めることがむしろ役にたつかもしれません。私たちが自分に課してしまっているなんらかのルールの縛りを変更することが求められるのです。

 できればそのあたりを自分自身に慎重に問い直してみたいところです。ところが、私たち人間はそうしたフレッシュな問い直しが実はあまり得意ではありません。私たちの頭は実によく回転はしてくれるのですが、頭の中でさまざま思い巡らせているばかりでは、思考という機能が勝手に先走り、あることないことさまざまなストーリーであふれかえってしまうことになります。

 そこで、頭からいったん取り出して、思考というジェットコースターからいったん降りてみます。私たちが今までの人生で学んできたり経験したりしたこと、こうあるべきだと思っている「自分」に尋ねずに、あくまで自然体、何の縛りも制限も常識もなく、無防備のまま心がおもむくままにまかせてみます。



 

私たち一人ひとりが、いったいどんなルールにしばられているのかを探り出す簡単な方法、それは意外なことかもしれませんが、「紙に書いてみる」です。

前述の「思考」でも触れましたが、頭の中にだけため込んであれこれと思いを巡らせるのは精神衛生上あまりよくありません。モヤモヤを吐き出すように我慢せずに言葉にしてオープンにするのはなかなか気持のよい体験であるように、文章にして具体的な表現で外に書き出してみると、私たちの中に意外な変化が起きます。

文字に集中すると勝手な思考が抑えられ、より奥深くに迫れることがあります。じっくりと時間をかけ、沸き上がってくる言葉を待つようにします。実際には考えること(思考)を止めることなんて不可能ですが、気にする必要はありません。ただ、自分に素直に、なにも弁解も防衛もしようとせず、ただありのままに沸き上がってくるどんなものでも待って書き留めるようにします。

たとえば、「最近なんとなく気持ちが沈んでしまう」と考えていたら、紙でもノートにでもこう書いてみます。


わたしは、最近なんとなく気持ちが沈んでいる。

なぜなら、わたしは、「         」だから。

 

そして、しばらくじっと眺めながら、空欄に入る言葉を思い浮かべてみます。コツは、書いてすぐ頭に浮かんだことを記入するというより、じっくり言葉がやってくるのを待ってみることです。文章を自分で考え出そうとするのではなく、文章の方から勝手にやってくるような感覚を大切にします。あくまでイメージですが、頭のあたりに浮かんでくる、頭上から考えがやってくるというよりも、下からじわじわ上がってくる、体の中から広がってくる感覚の方を拾ってみます。難しく考える必要はありません。イメージするのが得意でない人は気にせず、すぐに浮かんだ言葉でもいいから書いてみてください。

 二行目はいろいろな表現が考えられます。それは、「~したい(したくない)から」や「~する必要があるから」かもしれないし、誰か他の人についての気持ちかもしれません。主語が「私」ではないかもしれません。なんだかしっくりくる、気になる表現が見つかればとりあえず書いておいて、後で見直します。正しいか間違いかを問う必要はありません。

 

 

 たった一つの文章が浮かぶこともあるし、いくつも浮かぶことともあるでしょう。気にしないで、でも、とにかく「書く」こと、そして書いたことを眺めることがとても大切です。そしてそれが今の自分にしっくりくるかどうかを見守ってみてください。どんなに理不尽で現実的でない内容でも構わないのです。根拠を探さそうとせず、自分の中の常識や学習、経験で「検閲」しようとしないでください。

 紙を眺める状況や作業する日で違った言葉が浮かんでくるかもしれません。それでも構わずになんとなく一番しっくりくるような表現を最終的に選んでみますが、無理に一つに絞ろうとしないで構いません。後で別の言葉がよりふさわしいと思ったら変えて構いません。何か唐突な、思ってもみなかった言葉が妙にハマっていくかもしれません。

 


私は、最近何となくやる気が起こらない。

なぜなら、私は、「時計を見たくない」から

なぜなら、私は、「家族が嫌い」だから

なぜなら、私は、「海が見たい」から

なぜなら、私は、「寂しい」から


すぐには納得できないかもしれないが、そこに何か気になるものがあったとしたら、さきほどと同じように、言葉の意味について考えようとするのではなく、言葉から語り掛けてくるような感覚を大切にします。それはどのようなメッセージなのかを好奇心を持って待ちます。

うまくいかないと感じたら、その二行目を一行目に持ってきてもう一度問い直してみてもいいかもしれません(しなくてもいいのです)。


 私は、最近時計を見たくない(と考えている)。

 なぜなら、私は(       )だから。

 

 あるいは、次の文章をさらに加えてみてもいいかもしれません。

 だから、私は(       )したい(したくない)。

 

 

 完全な文章が浮かばない場合のほうが多いかもしれません。述語(動詞)は浮かぶのだけれど、「何が」がよくわからない場合です。


 私は、最近何となくやる気が起こらない。

 なぜなら、(私は)嫌だから。

 なぜなら、怖いから。

 なぜなら、知りたいから。

 なぜなら、足りないから。


 無理やり結論をひねり出そうとしないことです。自分をやさしくいたわるようにたずねていきます。以下のように続けてみてもいいかもしれません(しなくてもいいのです)。

 

 私は、嫌だ(と感じている)。

 私が嫌なのは、(      )だ。

 だから、私は(      )したい(したくない)。

  

 

上で挙げたような作業はあくまで例です。これが決まった方法だなどというものはありません。自分なりにアレンジして取り組んでOKです。ただ、文章構造はシンプルな方がよりいいでしょう。そうやって、じっくりと自分と対話していきます。すべて書き出してみます。うまくいかないこともあるでしょう。何だかへんてこな文章になるかもしれません。でも、書き出してみる、待ってみることにチャレンジしてみます。日を変えて、あるいは同じ問いをあらためて繰り返してもいいです。結論が出なかった、何だか混乱してきた、と感じたらそのまましばらく放置しておいて構いません。何か実行可能なものと思えたら少しだけでも行動に移してみます。でも、できてもできなくても、どのような選択をしようとOKです。

 

このような話になると、根拠のない心理理論やスピリチュアルな体験などと混同される方がいらっしゃるかもしれません。そうではなく、こうあるべき、これが普通一般常識、世の中ははこうなのだから、と頭でっかちになっている普段の私たちのこころと生き方について、たとえ根拠があろうとなかろうと、もう少し自分の中にあること、内からわいてくる「感覚」や「気持ち」にもっと信頼を置いてみるのも悪くないということです。大切なメッセージはいつも外から、他人からやってくるとは限らないからです。結論を出すことが大事なのではありません。大切なのはただ「なんとなく」を問い直すしてみること、そして「自分の」人生を生きようとすることです。「誰かの」でも「社会みんなの」でも、そして「世の常識」という人生でもなく。

私たちの日常行っている「思考」だったり「選択」は良くも悪くもない、一つの可能性に過ぎず、他の選択だって実は同じくらい可能性に開かれていることに思いを馳せることができれば、私たちのこころの自由はいっそう広がります。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

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夏期短期終結カウンセリングの実施について

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by yellow-red-blue | 2018-09-10 21:30 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、カウンセラーとして、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。ブログのどこかに、読む人それぞれの「わたし」や「だれか」を見つけてもらえたら、と思っています。


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