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 あたりが一日の始まりの喧騒で騒がしくなる前の静かな早朝、自宅のベランダで外の空気にしばしぼーっとあたっていると、ときおりゴーというかすかな地鳴りのような音が響いてくるのを聞き分けることがありました。朝のトラックや清掃車、ゴミ回収車といった車両音のたぐいかなとずっと思っていたそれが、実は東京湾上空を羽田空港から離陸していく旅客機のジェットエンジン音だと気が付いたのはほんの最近のことです。はるか遠くに小さなピンのようにしか見えないあの旅客機の音がこんなにはっきりと響いてくることに驚きながら、それが空気という見えないものがあたりに満ちているがためその振動として伝わってくるのだということ、つまりあたりは無(真空)ではない証拠であるということを今更ながら実感したのでした。確実にそれは存在しているのだけれども実際には目にすることはない、意識しなければ気付かないような物事が、私たちの身の回りには実はたくさんあるのだということにしばしば気づかされます。

 少し話は飛びますが、たとえば先日現役野球選手からの引退を表明したイチロー選手は、生涯3089本ものヒットを打ちました。けれどもその陰で、その数倍もの打席数の凡退、つまり「見えない」失敗と負けがあったことの重要性を彼は強調します。野球では3割を超えれば強打者と言われるわけですが、しかしよく考えてみれば、それはつまり残りの7割近くは常に「負け」ているということです。その負けがあっての一流選手の証しということならば、私たちの人生にもまた失敗や無駄、遠回りなどない、と考えることだってけっして間違いではありません。



 身の回りにたくさん存在するのだけれども、見えていない、見ようとしないことといえば、この時期、受験という勝負と競争、試練に立ち向かいながら、望みをかなえることのかなわなかったたくさんの人々の存在もそうと言えるかもしれません。桜咲く春の到来のよろこび、卒業という新たな希望への旅立ちというお決まりの情景に隠れて、たくさんの落胆と苦悩があるのもまた現実です。定員10人の学校を100人が受験したなら、90人もの受験生は不合格となっていることになります。結局私たちが普段見聞き注目するのは、本当はずっと多いはずの「見えない」落胆と喪失体験ではなく、わずか10人の歓喜と笑顔ばかりなのかもしれません。

 私たちの生きている社会には、見えていないがいるはずの多くの人々、世に言われ信じられているものとは別の物事なり事情がある、ということにできるだけ繊細な感受性や優しい眼差し持っていたいなと私は思います。それはいつしか自分がそうした立場に身を置くこととなってしまったそんなとき、きっと素直にまずもって自分に、そしてだからこそ他者にも優しく寛大になれるはずだし、そうあるべきと考えるからです。



失敗して落ち込んで、後悔している自分へ

周囲の人間よりダメな人間だとしか思えない自分へ

周囲の人すべてがうらやましく思えてしまう自分へ

どうすればいいのか、よかったのか考えると胸が苦しくなってしまう自分へ

もう一度初めからなんて、こりごりだと思う自分へ

ひとりでいたいのか、誰かといたいのかわからない自分へ

卒業式なんか出たくない、桜が咲こうが咲くまいがどうでもいいと思っている自分へ

やっぱりいつもこうだと思ってしまう自分へ

泣きたいのほどなのに泣けないのはどうしてだろうと考えている自分へ

虹を見てもただ悲しく、むなしくなってしまう自分へ

ひとりぼっちだと思ってしまう自分へ


 どこへ逃げ込んだって、ふさぎ込んだって不機嫌でもまったく構わないのです。義務やら常識、前向きな思考やまわりの迷惑なんて、下品な言い方ですがクソくらえです。

 ただ、できることならせめて自分の気持ちに対しては素直でいたいですね。自分が苦しんだりしていることに言い訳なんていらないし、理由を明確にする必要なんてありません。ただ、「ごめんね。今とってもつらいんだ。」そうつぶやくだけで十分です。誰かに、さもなければ自分自身に。エネルギーが枯渇しているときは、明日への明るい見通しや希望なんて描ける力など残っているはずがありません。それがつまづいた人々に与えられた特権であり、社会における役割であるべきです。いつか助けや救いはどこからか、あるいは自分の中からきっと必ずやってくるものだと素朴に信じられる世の中こそが真に豊かな社会なのだと痛感します。

 人生には、時に悲劇の主人公になることだって必要なのですから。



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青春のとき

イチローさん

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by yellow-red-blue | 2019-03-22 14:09 | Trackback | Comments(0)

世界と私 ~ 啓蟄の頃'19

 ああ、やっぱり今年もこの季節がやってきてしまった。もちろんやってくることはとっくの昔にわかっていたことだけれど。もう先月はじめあたりから徐々にその気配は濃厚で覚悟はしていたが、本格的シーズンに入ってくると毎年のことながらやっぱりそのつらさが身にしみ気分も滅入るのだ...春がもうすぐそこまで来ているというのに、桜の花咲く季節もやってくるというのに、外出し友人と会いたい季節なのに。もろもろの願望を見事に打ち砕いてくれるこの微細な粒子どもは私にとってのまさに天敵だ。

 花粉やPM2.5が大量に飛散するこの季節は、おおげさなようだが地獄の苦しみの日々。これでも医者に言わせれば「あなたは軽症ですよ」だそうだが、バカも休み休み言えと心の中でつぶやいてしまう。

 まわりで、「どうやら今年ついに自分も花粉症デビューしたみたいです」などと半ば嬉しそうに(ついそう見えてしまうのだ)陽気につぶやかれると、なんだかその無神経さにむしょうに腹が立つ。そんな人に限ってわずか数年で「気がついたら今年は治ってましたよ」って、そんなの絶対に花粉症じゃない。単なる鼻かぜかそうでなければ気のたるみだ。あなたにつらさがわかろうはずがない、との暴言の数々をぐっとこらえることになるのだ。

 実際、花粉症対策に費やすお金や時間とエネルギーは毎年相当なもの。しかも仕事をはじめ日常生活におけるほとんどすべての活動に深刻な悪影響が出る。鼻づまりで口でしかほとんど呼吸できない状況では睡眠が十分に取れないし、夜中に起きると口内はカラカラ。日中も頭がボーっとしたり睡魔が襲ってくる。マスクをしたり処方薬を飲んでいると体のだるさや鈍い頭痛だってひっきりなしにやってくる。マスクをつけ続ければ、肌に合わないと顔がかぶれたりできものだって出来てしまう。まったくもってやっかいだ。というかほとんど疫病神に近い...

 花粉症対策は巨大なビジネスポテンシャルを有しており、我が国の経済に多大な貢献すらしているそうだがそんな話など聞きたくもない。大勢の人が花粉症にかかってしまうことによる悪影響やら経済的な停滞やら損失のほうがよほど甚大(実際にあちこちでそういう試算が出されているらしい)に違いない。これは十二分に深刻な国家的な損失であり、国を挙げ率先して取り組むべき喫緊の大問題だ、などと叫びたくなってしまう。

 ようやく寒い冬も終わりに近づき、徐々に暖かさとみずみずしさが戻ってきたあたりの空気と陽の光を満喫しながら、花粉・微粒子など存在していないかのように、花のように笑い、陽気に言葉を交わす家族連れやカップル、友達グループを見かけながらつい頭をよぎるのは、「(花粉症であることで)私の過去奪われた大切なときをどうしてくれるのだ」「これがなかりせば私の人生はもっと違うものになったのではないか」「いったい私の人生のどこがいけなかったのか」という聞くだになんともむなしい泣き言ばかり...

 

 毎年のようにひそかに私がつぶやいてしまうこうした鍵カッコ付きの嘆きは、事情は違えどかなりの頻度で相談者にいらっしゃる方々が、どこかのタイミングで実際に言葉として発せられるか感じていらっしゃるものです。抱えてきた精神的病や悩みについて、将来に向かっては何とか取り組みあるいは対処しようもあるのだが、それでは過去に自分が背負い辛酸舐めてきた苦悩の日々と人生はいったいどうしてくれるのか、そして(自分を含め)誰がそれを返しあるいは癒してくれるのか。戻ってくることはないとは知りつつも、そうした思いを完全に断ち切ることができないいわばかなり後ろ向きな動物が私たち人間であるといえそうです。

 残念ながら、私はそうした心をいやす魔法の言葉を持っていません。せいぜいが可能な限りその思いを精一杯理解し、自分なりの言葉でもって表現し返すことぐらいです。そんなことですぐに人が自分の苦悩を前向きに受け入れることなどはできようはずもありません。ただ、昔読んだ吉本ばななさんの小説のなかに出てきたあたりまえのような言葉がずっと妙に心に引っ掛かっていて、今でも時折カウンセリングの場面で触れることがあるのです。


「どちらがいいのかなんて、人は選べない。その人はその人を生きるようにできている」


 私たちはある意味、それぞれが感じる幸せや心地よさの域を出ないよう教わり学び生きてきたに過ぎません。だから人間という命ある生物として、自分を守るために常にそれなりに最善(あるいは最適)を選んできたのだと言えます。そうせざるを得ないのです。他の可能性なり選択肢があって、あのときもっと努力していれば、もう少しだけ我慢していれば、助言に耳を貸していれば、あるいは勇気があったなら、きっと違ったことになっていたはずだ、というのは幻想的な後知恵でしかありません。冷静に慎重に過去を振り返りこころを探っていけば、あるのはただ、その時その時の、そしてそれぞれの、他人には決してくみ取り尽くせない事情やこころの状態であって、決して他の選択はありえなかった、という真実に行き当たるものです。

 後ろ向きな私たちは、「私は常にその時点でベストを尽くしてきた」と納得したり公言することは許されないとおおむね感じて生きています。けれども、どんなことがあったにせよ精緻な因果論や原因究明は概してうまくいかないものです。なぜならばシンプルに私自身ひとりのために世界が動いているわけではないから。分かっていてもひとりそれを受け入れるのは容易なことではありません。どうしたらそのお手伝いができるのかを私は日々模索しているわけですが、何故だかそんなとき、冒頭のように花粉症にあれこれもがく自分が妙に被ってきてしまうのです。もうまもなく春一番が吹きそうな気配ですが、喜ばしいやら悲しいやら...



“世界は別に私のためにあるわけじゃない。だから、いやなことがめぐってくる率は決して、変わんない。自分では決められない。だから他のことはきっぱりと、むちゃくちゃ明るくしたほうがいい(中略)

 そのころの私には、その言葉の意図はつかめたけれど、ぴんとこなくて「楽しさってそういうものなのかな」と思ったのを覚えている。でも今は、吐きそうなくらいわかる。なぜ、人はこんなに選べないのか。虫ケラのように負けまくっても、ごはんを作って食べて眠る。愛する人はみんな死んでいく。それでも生きてゆかなくてはいけない。”   (吉本ばなな『満月-キッチン2-』角川書店)



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by yellow-red-blue | 2019-03-06 11:10 | Trackback | Comments(0)

 数年前、夕食に招待され知人宅を訪問した時のことです。中へ案内されると、そこには予想に反して、知人の勤務する企業の同僚の方6~7名も招待されていました。お互い自己紹介などを済ませ、しばし楽しい夕食の宴が進んだ後に、その知人がおもむろに、実は会社でちょっと困った問題があって意見をききたいのだ、という話を持ち出してきたのでした。

 聞くところによれば、先日会社であるプロジェクトがひと段落し、同僚社員や一緒に仕事をしてきた他社の仲良しのスタッフ十数名で、打ち上げの飲み会があったのだといいます。そこに、今年入社したある新人の女性職員も初めてその飲み会に加わったのだが、その席上、彼女に対して年輩の職員などからセクハラ行為があったのだというのです。

 付き合いの長い仲間に新たに加わる社会人一年目の新人へのある種の通過儀礼のような軽い冷やかし的な言動に始まり、お酒が進むにつれそれが次第にエスカレートし、ついには彼女の体にまで触れる行為もあり、最初は我慢していた彼女もしまいにその場で泣き出してしまい、一気にその場が気まずい雰囲気になってしまったということでした。その場はそれで収まったものの、翌日からハラスメント行為を受けたその女性はショックから会社を休んでしまう事態にまでなり、同席していた同僚の若手職員が会社に報告し問題が大きくなってしまっているということでした。

 今どきの会社内セクハラ問題で起こりがちな話ですが、彼女が受けたセクハラ行為については、私が呼ばれた席の全員が何らかの行為を目撃しているか、なかには実際に彼女にそうした行為を行ってしまった当人も混じっていました。つまりは、そこにいた男性女性含め全員が、いわば直接的であれ間接的であれ加担者側の人間で、私もそうした側の方から話を直接聞くのは初めての体験でした。

 話を聞いた限りでは、明らかにハラスメント行為であると断じられるものが多いように思えました。しばらく前の話なので、今ほど個人レベルでも企業レベルでもハラスメントに対する意識が高いものではなかったのかもしれませんが、私がお会いした人もみな一様に反省はしているようでした。が、何か今一つ納得がいっていないような空気もあったのでした。実際、その飲み会の席は男女含め幅広い世代が参加しており、意見は様々だったそうです。参加者のほぼ半数を占めた女性ですら意見が分かれたといいます。ただどちらかと言えば若い世代は男女ともにセクハラだと断じているのに対し、中年世代以降は意見は男女とも半々、さらに上の世代はそもそもセクハラという認識が薄いとのことのようでした。こうした場合、セクハラ行為に一切の言い訳は通用しません、それはあなたの単なる認識不足ですから必要なのは今時の常識と教育です、などとあっさり決めつけるだけでは決して問題は解決しないでしょう。またそのために呼ばれたのでもないとも思っていましたので、その場にいた方々の考えについて率直に話してもらうことにしました。

 彼らの意見をいろいろと聞いていると、2つに集約されているようでした。ひとつには、その場の空気や状況、参加者間の信頼関係などを抜きにしてその行為がハラスメントに当たるか当たらないか判断するのはどうか、というものでした。

 その場にいない冷静な立場で特定の場面だけ切り取れば確かに問題と判断されてしまうかもしれないが、定期的に開かれお互い勝手知った同士の飲み会のあの場の状況やお互いの話しっぷりや態度、雰囲気の進み具合を考えれば、これから長い間一緒に仕事を共にする仲間の一員に入るための通過儀礼的なフレンドリーな”イジリ”であって、新人でまだ慣れておらずひとりやや緊張気味の中とはいえ、そのあたりもう少し空気を「読んで」大人の振る舞いで接してもよかったのではないか、などというものでした。もちろんセクハラ行為には明らかに悪質な犯罪行為もあるが、一切そんな一線は超えておらず、徐々にお互いの反応をうかがいながら親しさの表現が増していった「場」があったのだというのです。実際同じようなイジリは他の若手職員も同様に受けていたものの、彼らは慣れもあってなのか、それなりに状況に合わせたりやんわり反撃するなりの振る舞いをしていたといいます。

 もうひとつは、セクハラ行為が、受けた側の主張のみで成立するその「恣意性」に納得がいかないというものでした。相手なりにそれこそ相手の好みや気分でそれはセクハラ、~さんだから問題ないなどといったら差別もいいところである。例えば文化的背景の異なる外国人の親しみを込めたスキンシップやハグをいきなりされても、それは(外国の人だからという状況を理解して)セクハラとは断じないではないか、などという主張なのでした。

 

 私たちには「内心の自由」が保証されています。自分一人の内側に思いがとどまる限りは、どのような想像や妄想、怒りや偏見であれそのことで罪に問われたり非難されたりはしません。けれども、それが何らかの形や表現をもって、ひとたび自分という領域を超え、いわば公共的な領域に持ち込まれ、第三者領域に踏み込んで投げ出されたときに、今度は「他者関係」という自分と異なる主観や感情の世界を持った相手の領域と対峙しているという認識を持つ必要があります。よくよく考えてみれば当たり前のことなのですが、そのあたりをしっかり線引きなり柔軟に切り替えることは意外や難しいのです。

 また、私たちは他者関係において、それぞれの人に対しある種の役割や行動・ふるまいのパターンを無意識に期待しています。親友は親友の、親は親の、会社の上司は上司としての役割や行動パターンを、自分に対して果たしてくれるはずだ、と(お互いが)無意識に期待しており、それがおおむねその通りになるから良好な人間関係を築くことができるといえます。ところが、そうした期待に反するような行動なり態度を相手が示してくる場合、私たちはそれに違和感あるいはもっとはっきりとした衝撃を受け拒否反応すら引き起こします。たとえば会社の上司であるという立場だけ関係の人間が、酒の席でいきなり部下の女性の体を触ってきたりペアでカラオケ熱唱を強要にされたりすれば、される側はそれはショックです。なぜならそうした女性は、上司と部下という関係性にそのような役割や行動パターンを期待ないし想定はしていないからです。もう一つたとえを挙げれば、電車内で座っていたところ、向かいの座席に腰掛けていた見ず知らずの人が自分に向かっていきなりプライバシーに関する質問をずけずけしてきたとしたらそれは確実にショッキングな出来事でしょう。なぜなら私たちは赤の他人に対しては、「自分のことは無視してほっておいてくれる存在」という役割と行動を期待、想定しながら日常生活を送っているからです。

 このように、相手への期待や予想を超えた行為に対しては人間は衝撃を受けるものですが、当然それには個人差があります。ちなみに今回の件で被害に遭われた女性は、お酒が飲めない方だったそうですが、そんな方に少なくないのが「酔っ払い」への苦手意識です。そうしたことも一因にあるのかもしれませんが、お酒の席における「人が変わってしまったような」酔っ払いの言動は、まさに上で述べてきたような、お互いの役割や行動パターンの期待に大きなギャップを生じさせてしまう状況まさにそのものでもあるのです。

 ここはハラスメントの定義やハラスメント対策のお話ではないのでこれ以上は詳しく説明しませんが、いずれにせよハラスメント行為とは、状況や関係がどうであれ、行う側が自分の領域にとどめておかなければならない期待を勝手に相手に押し付け、それが当然であるかのような行為にほかなりません。

 お互いの役割や振る舞いのパターンがお約束として共有されているからこそ信頼関係が築けるのであって、そのための手段がコミュニケーションなのです。ですから、ただお酒の席だから、上司と部下だから、先輩後輩だから、などというだけで、なんらかの信頼関係が築かれていると勘違いし、いとも簡単に相手の領域に踏み込む言動をするような人は、実はコミュニケーション力が貧弱な方なのです。本当のコミュ力とは、単に話し上手だったり、交際が幅広い、気配りが細かいなどで測れるものでは決してないことは知っておいていいと思います。

 しかしそうはいっても、やはりなかなか理屈では理解できるがやっぱり納得できないとおっしゃる方もいらっしゃいます。実はハラスメント行為とは、その場の状況や人間関係、行為の種別・程度の問題というより、むしろ理屈抜きの感情や感覚、主観の問題なのだということも知っておく必要があります。必要なのは理解ではなく、想像し感じる力といっていいかもしれません。そこで私は知人宅に集まっていた方々にこんな問いかけをしてみました。


 皆さんちょっと一度じっくり想像してみてください。(男性陣に向かって)もしあなたの大切なひとり娘や奥様、愛する恋人が他人の男性から(新人女性職員が受けたと)同じような行為を受けているところをあなたが目撃したとしたら、その瞬間どんな感じがしますか?どのような思いが頭をよぎりますか?(同じように女性陣に)、もし仮にあなたの大切な恋人やひそかに思いを寄せる素敵な男性が、飲み会の席上他の女性に対して同じような行為をしているところを目撃したら、その瞬間なにを感じるでしょうか?

 まず不快感を感じるでしょうか?あるいは胸がうずいたりざわつく感じがするでしょうか?もし一瞬でもそう感じたのなら、はずかしめを感じたのなら、やっぱりそれはセクハラ行為なんです。簡単なことです。後から状況や関係を加味して感じ方を修正する必要なんてないんです。セクハラはむしろ感覚・直観的に判断されるものだと思うのですがどう思いますか?

 

 この問いかけは、前回のブログで話題に取り上げた、カウンタークエスチョンのちょっとひねったバ―ジョンです。この場合普通考えるカウンタークエスチョンは、「もしあなたがその女性の立場だったら...」ですが、今まで上述してきた話の流れからからすると、それではあまり効果的なカウンター(パンチ)にはならないことは、何となくおわかりいただけるでしょうか。

 シンプルな問いかけ一つでしたが、「そう言われると確かに言葉がない。認識が違っていたかもしれない」とみなさんおっしゃっていただいたので、ある程度私の意図は伝わったようでした。

 ただし、こうしたカウンタークエスチョンは、決して他者を非難し間違いを断ずるためのスキルではありません。むしろ何かに悩み、怒り、不安な気持ちでいる自分や相手へ、説得力ある別の受け止め方や冷静で公平な視点という素敵な贈り物を届けるためのワザなのです。

 

 私たちの社会は「空気を読む」社会だといわれています。空気を読む力が重視される社会なのかもしれません。けれども、それはしばしば必要なコミュニケーションをおろそかにして「空気を押し付け」、「空気のせい」にすることで対人関係を済ます生き方にもなりがちです。空気とはすでにそこにある「はず」ものではなく、良好なコミュニケーションを通じて、互いの気持ちと期待を共有し尊重することによってはじめて成立する、本当の「信頼」によって都度作り出されるものなのではないでしょうか。



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by yellow-red-blue | 2019-02-17 14:50 | Trackback | Comments(0)

 暦の上では春の始まりを告げる立春ですが、実際には冬ももうそろそろ終わりですよの暖かさなどみじんも感じられない日々が続く、寒さに身が縮む思いのする厳しい季節です。けれども、都心から望むこの時期の富士山の雪化粧姿は一年のうちでも最も美しく、神々しさすら覚えて朝に夕にとつい見入ってしまいます。

 そんな富士を眺めながらふと、大雪に弱い東京の人間のくせに、この冬はまだちゃんと雪が降ってないな、そろそろまとまってこないかななどと、北国の苦労をよそに勝手に子供じみた願望をつい抱いてしまいます。そんな自分の幼稚さにきついお叱りを受けているかのようなこの寒さ、これからまだしばらくは続きそうです。


 

 週末の土曜日、夕方近くの午後も遅い頃、仕事を終え帰りの準備をしているときにこんなお電話がかかってくることがしばしばあります。

「どうしても今日お願いしたいのですが。」

「実はもう今近くにいるのですが。」

「他をいろいろ当たりましたが、週末で休みか事前予約なしでは受け付けていないので。」

 事情を聞いてみれば、

「嫌いな上司と仕事のことで口論となり、腹立ちまぎれに暴言吐いて会社を『辞める!』と飛び出してしまった。週明けの出勤を考えるだけでもうパニックなんです...」

「自分のウソがばれて先日会社を解雇されてしまったが、家族に打ち明けられずにいる...」

「妻に職場の同僚との浮気がバレてしまい、家を追い出された。妻は身重なんです...」

 週明けの月曜日までになんとかしなければ...そんな切羽詰まった思いが伝わってきます。


 カウンセリングに訪れる人のニーズは随分と多様化しています。かならずしも臨床的に診断される精神的病に苦しんでいる人や、病気とまではいえないが心身に同様の深刻な症状を訴える人ばかりではありません。むしろ、より日常の生活で起こりがちな問題への心理社会的なストレスに悩む人が相談に訪れることのほうが多いです。ただシンプルに人間的あるいは社会的常識に基づく助言や提案が必要な方もいれば、胸のつかえを洗いざらい告白することによって満たされ癒しを得て立ち直っていく人もいます。人生の意味や目標の喪失にどこまでも苦悩する方もいれば、単純に見えて実はとても複雑なもろもろが絡み合って、理解するのが難しいケースもあります。

 やや大雑把な言い方になりますが、長い間抱えて放置されてきた問題については、一定の効果や改善は短期間で現れることも少なくはないものの、やはり解決や(病気や症状の)治癒にはそれなりに時間が必要となります。 

 反対に、比較的最近に起きた出来事がきっかけとなった日常社会生活に起きがちな問題についての相談については、短い期間でカウンセリングが終結することが多いように思います。一度の面接相談で終わる場合も珍しくありません。

 短期間で終結するには3つの理由が考えられます。まず何よりも相談者本人が早急な解決を望んでいることです。上でいくつか例として挙げましたが、一刻も早く答えが欲しい、今日明日という感じで訴えていらっしゃることが多いのです。2つめの理由は、まだ起こって間もないホットな出来事に関することなので、問題の背景や構造がシンプルで問題の焦点が絞りやすいということにあります。


 けれども、早く終結する一番大きな理由(3つめ)は、たいていの場合に「答えは本人が知っている」から、というものです。確信的であれ無意識的であれ、すべきことの選択肢はわかっているのだけれど、それをまだ現実的な解決方法なり決断として明確にできない、それを確信させるプロセスなり心の準備をどう整えればいいのかがわからない、悩みに圧倒されて広い視野を持つ心の余裕が持てない、という感じです。ゴールはわかっていても、そこまで走りきる体力も気力も今あるとはとても思えない自信喪失のスタート直前のマラソンランナーといったところでしょうか。

 

 カウンセラーは、そんな人に並走し励ましながらお互い一緒にゴールを目指すパートナーのようなものですが、ではそうした場合に実際何をするのかと言えば、相談者とじっくり「話し合うこと」につきます。勇気をもって相談にいらした方の決断と労に敬意を払い、本人の気持ちを十分すぎるほどに耳を傾けながら対話を重ねていくことが第一で、ここにじっくり時間をかけていくようにします。ですが、簡単なようでいてこれは実際には難しいことです。ただ通り一辺倒の悩みの内容を聴きそれを理解するだけならば、たいていはものの10~15分もあれば済んでしまうからです。そこでついその先のアドバイスや意見、具体的な対象方法などの話に移ってしまいがちですが、それでは相談者本人はしっかりと自分を受け止めてもらえたという実感が薄く、問題に対する受け身的な姿勢から脱却できないままです。

 そうではなくそこからさらに、それこそ微に入り細に入りて想像力をめぐらせながら、プライバシーを不必要に掘り起こすことは避けつつ、様々な切り口や表現を駆使して繰り返し言葉を重ね、相談者の気持ちや考えを引き出し共有していきます。その過程を共に体験していくことが次第に本人の意識の変化へとつながっていきます。

 カウンセリングは1回60分が目安です。時には60分を大きく超える時間を話し合うケースもありますが、初めてカウンセリングを受けた方の多くの方が、「こんなに長い時間、自分のことについて他人と一緒に考えたり対話をした経験は、今までなかった」という感想を持たれます。普段私たちはさまざまな会話をしても、自分と向き合うような話し合いを専門家と行いながら内省の機会を持つことは稀です。そんなまとまった時間を体験することそのものが、実はカウンセリングの一番の強みです。たとえ出される結論がご本人がうすうす感じていたことと変わらなかったとしても、一緒にそれを感じ取っていく過程をともにすることによって、本人の受け止め方が随分と落ち着いて前向きなものとなります。状況を受け入れながら解決を現実のもの、実行可能のものとして実感できるようになっていくのです。



 そして、何となく準備が整ったと感じたあたりで、私は以下のようなシンプルな質問をしてみます。

「今どうしたら一番いいかなと考えていますか?」「どうしてそうなってしまったのかお考えがありますか?」

「もし、あなたにとってとても大切な人が同じ問題で悩んでいたとしたら、どんな言葉がけや助言をなさりたいですか?」

 十分な話し合いの後では、こうした質問に対して多くの人がしばらく考えた後に、たいていちゃんと回答することができます。そう、知っているのです。そしてその結論に対して、より冷静に気持ちが整理されていることに気が付かれます。あとはその内容について細かな確認や微修正を加えたり、相手の背中を上手に押すような助言なり話し合いをさらに重ねていきます。もちろんいつもそううまくはいくわけではありません。解決の糸口がみつからずに終始ギクシャクした対話で時間だけが経過するといった経験もします。私もまだまだ修練が必要ですが、そのあたりにカウンセラーとしての技量が問われるのでしょう。

 「どうしたらいいか」と聞いてきた相手に同じ質問を逆に投げかけてみたり、自分の問題をあたかも他人が抱えている問題として客観的な距離をおいて考えてみる、こうした問いかけを「カウンタークエスチョン」などと言います。「相手の身になって考える」「もしあなただったら」「こっちの身にもなってよ」「そう言われるこっちの気持ち考えたことある?」などとちょっと似ています。なんだそのくらい、と思われるかも知れませんが、このカウンタークエスチョンを上手に工夫するとそれは大きなパワーを持ちます。

 けれども、あくまでその前の「話し合うこと」がとても大切なプロセスです。そこをおざなりにしたカウンター(クエスチョン)をいくら繰り出しても、それは効果的なカウンター(パンチ)にはなりません。

 そんなカウンタークエスチョンが効果的に働いたちょっとしたエピソードを次回はご紹介したいと思います。


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by yellow-red-blue | 2019-02-04 19:25 | Trackback | Comments(0)

「君、三猿って知ってる?」

 三猿ですか?知ってますよ。例の「見ざる言わざる聞かざる」ですよね。

「そうそう。その『見ざる言わざる聞かざる』の本当の意味知ってる?」

 ええと、はい。確か悪いことを見たり、言ったり、聞いたりせず、ひたすら良いものだけを学び、豊かな心を育み成長してほしいといった先達の教えや願いのようなものですよね。

「ほ~よく知っているじゃないか。それでそれってどこにあるか知ってる?」

 ハイ、日光の東照宮ですよね。

「彫刻はね。でも今でも生きてるって知ってた?」

 何がですか?

「そこいらにたくさんいるよ。街歩いてごらんよ。電車やバス乗ってみな。三猿だらけだよ。ただいろいろと間違ってるけどね」

 は?

 

 「わからない?マスクしてさ、耳栓(イヤホン)してさ、携帯(スマホ)ばかり見てる人間多いだろ?電車の中でもお年寄りに気づきもせずに携帯画面とにらめっこしてさ、ゲームしたりニヤついたり。駅じゃ降りる人間がいるのに画面に熱中してかまわずまず乗ろうとするしさ。マスクにしたって風邪とか花粉症のためならわかるよ。だけど、中にはファッションや年齢隠しなんかでやっている人間もいるっていうじゃないか。そのほうが実際よりいい男とかかわいい女に見られるとか、人に話しかけられたり、顔見られたくないだの。サングラスかけているみたいに安心感があるって、いったいいつからみんな有名人気取りなのかって言ってやりたくなるよ。」

 「ああいう周りのことにはかかわりたくありません、関係ないです、みたいな態度で、携帯の中じゃいつでもどこでも友達とどうだこうだなんて、あきれるよまったく。若いもんならまだ子どもだからしょうがねぇなと思うけど、いい歳した大人までそうだから最近は。そこいらの通りをベビーカー押しながら携帯よそ見してる母親なんかしょっちゅう見かけるけどさ、世の中どうなってるんだよって思うよね。」

 「年寄りに見えていろいろ詳しいでしょ。まぁ暇でテレビばっかり見てるからってこともあるけどさ。だけど、世の中おかしいことは、コンピュータやら携帯なくったって、わかる人間にはわかるんだよ。そういうおかしな人のこと何ていうか知ってる?『草野球のキャッチャー』って言うんだよ。わかる?(キャッチャー)ミットもない、みっともねぇってことだよ。うまいこと言うでしょ?昔見た映画で(高倉)健さんが...」


 年明け早々、Sさんお得意の毒舌独演会がまた始まったと思いつつ、70半ばを過ぎてなお血気盛んな正義感の塊のような江戸っ子Sさんのご意見に耳を傾けるのは、自分がお説教されているようでなかなかにエネルギーが必要です。けれども同時に、ご意見はごもっとも、でも今の時代感覚からは残念ながらズレています、まともに取り合ってはもらえないですよ、と受け流してしまっている私たち身の回りのどこか「まともでない」部分にふと気づかされ内省させられるひと時でもあるのです。

 相手がお偉い社長や役人や政治家だろうが、過去にお世話になった恩人のような人であろうと、納得のいかないことについては、絶対に引かずに生きてきたと自他ともに認める、そんな気骨ある人情家のSさんですが、しかし今実際それを貫こうとすると、やれ認知症が入ってきただの、クレイマーだ、プライバシーの侵害だのと周囲から逆にとがめられるのがまったく納得がいかないとおこぼしになります。

 高校を早々に中途退学、家を飛び出し日本中をさまよいながらさまざまな仕事に就き、苦労しながらも若くして多くの事業を起こし財を成したSさん。けれどもそのあわただしく駆け抜けていた人生半ばにして、Sさんを早すぎる危機が襲いました。突然燃え尽き症候群を発症し、その後も次々に深刻な精神疾患症状に見舞われ、長い間入院生活と治療薬投与(本人にいわせれば薬漬け)の日々を送ることとなったのでした。その後周囲の懸命の支えもあって見事にカムバックなさったのでしたが、Sさんの詳しい話を聞けば聞くほど、人が一度の人生でこれほどの経験をできるものかと耳を疑いたくなるようなまさに波乱万丈、壮絶な人生だったのです。

 読書の虫で教養の塊のようなSさんに「あんたは友達だから言うけれど」と前置きされると、Sさんほどブレない生き方をしてきたとは到底言えない私は相当な気後れを感じてしまうのですが、

「いいんだ。あんたは友達だと思ってるから。年齢差なんて関係ないよ。あのさ、先生って字はつまり『先に生まれた人』という意味でしょ。先に生まれているということはやっぱりそれだけいろいろとわかっていることもあるんだよ。だから若いもんはそこは敬意を払わなくちゃいけない。真剣に耳を傾けなくちゃいけない。だけど、同時にこっちも『せいぜい先に生まれた』程度だということも決して忘れちゃいけないんだ。そこが上手にかみ合っての人生だろ。それが最近は『先生』って言われている人ほど勘違いしている人が多いのも情けないやね。俺の周りにもいるよ。結局どっちもどっちなんだけどな」

 

 精神的な支えとなり援助する側であるはずの私が、仕事の現場ではかえってクライエント(相談者)に教えられたり救われることがまぁなんと多いことでしょうか。それはなにもSさんのような人生の先輩のような方々からだけではありません。私よりずっと若く人生経験が一見浅くみえるかのような人に感嘆させられることだって珍しくはありません。話を聴けば、その抱えきれないほどの苦しみの深さに、いったいなぜこの人はまだ頑張れるのか、それでもまだ人生を前に進もうとするのか、自分ならとっくに途中下車しているに違いない、とほとんど尊敬と感動の念すらおぼえてしまうほどです。彼らは決して弱い人間、欠陥ある人だから問題を抱えるのではなく、逆に強くてしぶといから、そして誠実さといじらしさゆえに苦悩するのだということを痛感させられます。その強さ、しぶとさが実は自分にはあるのだ、ということに気づいてもらえたら、それでカウンセリングの目標の半分は達成したようなものだ、そう考えてもいるくらいです。

 ただ同時に、ひょっとすると私がこの仕事を続けているのは、けっして清廉で崇高な目的意識ややりがいを感じてきたからでもなければ、職業的に適性を感じているからでもなく、ただ人々からそうした感動を分けてもらいたいからかもしれない、ということに恥ずかしならが気づかされます。それは他人の悩みで酔うことでもあり、人に仕え、人を助けるというよりは、自分に仕え、自分を助けているだけなのかもしれない、自分もそんな矛盾を抱えた考え違いの三猿のままなのかもしれない、自戒を込めつつふと考え込んでしまうときがあります。



 ところで、Sさんには口癖があります。「人間はいちばん優れた生き物かもしれないが、同時に最も愚かな生き物だよ。」Sさんの言葉は、自らはまだ幼子だった時代の戦争の記憶と、戦死したりあるいは帰郷は遂げたもののその後決して普通の生活には戻れず精神的に病んでいった身内に接した体験から出たものでしたが、私は偶然にも昨年行われたある学術専門会議で講演者のひとりから同じセリフをすでに聴いていました。ただし、そのテーマは人間とAIの葛藤と未来に関するもので、人間の課題を克服するAIのポテンシャルについての内容だったのでした。

 そのことを伝えるとSさんは、「長年生きてきてひとつわかったことがある。『戦後日本(人)は豊かになった』なんてセリフは何度も聞いたことはあるけど、『人間が豊かになった』とはただの一度だって聞いたことはないということさ。それはなにかが間違っているということだろ。」「AIなんてよくわからんが結局は同じだよ。それで生活はなにがしか便利に快適にはなるさ。解消される問題もあるだろうよ。けれども、決して人間は豊かにはならないよ。生きる選択肢なんか結局増えないんだ。想定もしていない問題がこれでもかと噴出して、結局は常に弱いものが犠牲になるのさ。どうして科学や人間はそこのところがわからんのかね。欲張るのもいい加減にしろといいたいよ。」

 


 Sさんからいただいた何とも重い、最近何かと言われがちな「平成最後の」お年賀の言葉でした。私も年はじめのあいさつ代わりに、正月休み中に読んだ本の中から一節を。ウクライナ生まれの詩人アルセーニィ・タルコフスキー(19321986)の詩集から一篇をご紹介します。彼は、映画「鏡」「惑星ソラリス」「ノスタルジア」などで知られるロシア(旧ソビエト連邦)の名匠アンドレイ・タルコフスキーの父です。彼の多くの詩に接すれば、それが息子アンドレイの数々の名作の原風景であることが確かによくわかります。



自分になれ

     君がそれであるものになれ(ゲーテ)

               

どうにもならなくなったときに君は、

百ルーブルでも友人でも見つけるだろう。

自分を見つけるほうがよほど難しい、

友人やら百ルーブルよりも。


君は裏返しになって、

自分を朝早くから探し回り、

ひとつに現実と夢をまぜあわせ、

世界をはたから眺めてみる。


そして何もかも、誰もがもち場にいるのを見つけるだろう。

それなのに君は―まるでクリスマス週間の仮装者―

自分を相手にかくれんぼ、

君の芸術と運命を相手に。


他人の衣装を着けたハムレット、

なにやらむにゃむにゃ言っている、

彼の望みはモイッシを演ずること

父のあだ討ちなどではない。


百万の可能性のうち

君はそのひとつにめぐりあう、

だが、あてつけのように、

与えられない、君の聖なる数は。


空の半分を囲い込んだ天才、

その高さに届かなくても、

彼の足もとにすら及ばなくても、

君は自分になるべきなのだ。


預言者の言葉も君は見つけるだろう、

だが、聾(ろう)者の言葉はもっと素晴らしい、

盲人の色彩はもっとあざやかだ、

視角が探し出されて、

君がまばゆい光のもとで、

自分にすべてを見通されるときに

(アルセーニィ・タルコフスキー「雪が降るまえに」1962、坂庭淳史訳、鳥影社)

※「持つべきは百ルーブルよりも百人の友」というロシアのことわざがある。

※モイッシ:ドイツの名高い俳優のアレクサンダー・モイッシ。シェイクスピアやイプセン、トルストイの戯曲の役者として名高いことが知られていた。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

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by yellow-red-blue | 2019-01-21 22:48 | Trackback | Comments(0)


― 子どもの時 カエルを飼ってた

― 何言っているんだ?レオ

― これだけ話させてくれ

  フロッギーって呼んでた

  一番の親友だったんだ 

  友達が少なくて...

  本当はひとりもいなかった

  それで

  そのカエルにいつもキスしてた

  もしかしたら

  いつかお姫様に変身するんじゃないかって...

  母親に

  俺 母親に捨てられてさ

  父親は育児放棄

  だからフロッギーだけが友達だった

  大好きで いつも一緒

  それがある日 自転車のカゴから飛び出して

  後輪で ひいちまった

  死んだよ

  マジで死ぬほど悲しかった

  唯一 愛した親友だった

  で 出会った

  お前とロジャーだ

  2人とも本当によくしてくれた

― そうでもない からかったりいじめてばかりだろ

― いや いいんだ 俺は気にしない

  君らは家族だ

  友達だ

  フロッギーとは違うが 友達だ

  まあ...こんな話でも役に立つかな

じゃ俺 もう行くよ

― (レオが去り、亡き妻の墓標を見つめながら)変な天使を送ってくれたもんだ 

   話は通じた 分かったよ 君はいつもここにいてくれ ありがとう また来るよ

                        (ある映画のワンシーンから)



 カウンセリングに訪れる人には、人間(対人)関係や社会的コミュニケーションに問題を抱える方が多いようです。家族内であれ、社会生活や学生生活上の関係であれ、何らかの人間関係につまずき、それがきっかけとなって精神的な苦痛を訴え病気まで発症するケースもあれば、逆にもともと抱えてきた精神上の問題なりパーソナリティの課題が、人間関係の悪化あるいは他者との親密な関係の欠如という形で現れ、日常生活に支障をきたすというケースもあります。

 ところでしばらく前、あるメンタルヘルス関連のセミナーで講師が、最近に見られる対人関係の傾向、特に若い世代の友達に関する特徴として、①(本人の主張する)友人の数が多い。100人程度は当たり前、中には数百~1000人いるとサラリと答える人も珍しくない、②「親友」という言葉を多用したがる、③それにもかかわらず、その関係性は淡泊で継続性がなく、短期間での友人関係の増減が激しい。ほんのささいなきっかけでよく事情を確かめないまま友達関係を絶ってしまう、というようなことを挙げておられました。

 

 あくまで仕事上の経験の範囲での話ですが、私も同じような感想を持っています。若年世代からの相談の場合は、友達や職場の人間関係にまつわる悩みが多いです。広く若い世代一般がそうであるとは言えませんが、ひとつの特徴といっていいかもしれません。

 インターネット、携帯を介して構築される人間関係が主役となり、生身の付き合いが相対的に貧弱なものとなりつつある社会的背景もあって、人間関係の在り方は昔とはずいぶんと様変わりしているということもあるのでしょう。友達をどう認識するかはある意味各人の自由ともいえるわけですから、とやかく言うのもおかしいのかもしれません。けれども、「親友だと思っていたのに裏で陰口言われていた」「悩みを親しい友人に打ち明けたら、それを勝手に広められた。即友達リストから削除した」「文句を言ったら逆ギレされ悪口を流された」などの話を実際に聴くと、不確かな情報や誹謗中傷、ひそひそ話が無制限に交錯するインターネット空間で人との距離感を図ろうと、表や裏での探り合いに右往左往するような人間関係がむしろ当たり前のようになってしまった社会において、お互いひとまず正面から向き合わないで済むような交流を優先し、ある意味押し付け的な承認欲求ばかりが肥大化してしまっているとすれば、深刻な問題かもしれません。

 それは、自分なりの線引きで判断した相手への期待の押し付けの連続や積み重ねを友達(対人)関係とごちゃ混ぜにしているように思えなくもありません。「~してくれるはずだ」「(相手が)~すべきだ。~と考えるのが普通」などという思いが互いのやりとりの基底に強い場合、それは言い換えれば、「(相手がすべきこと)は(本人ではなく)自分だけが知っている」と主張することと大差ないということに気づけないでいるのかもしれません。 

 

 友達がなかなかできない、ごく表面上の人間関係ばかりでそれ以上発展させることができないでいるという悩みを抱える人もいれば、上述のように人間関係は多彩に見えるが、その出入りは激しく、友人だ親友だといいながら関係が継続せずに、その関係が壊れてしまう(あるいは壊してしまう)ことに首をかしげる人もいます。前者は孤独を感じる人、後者は拒絶されることを恐れるがゆえにのめり込むような人と言えるでしょうか。一見するとこの両者の悩みは正反対にも見えますが、カウンセリングを通じて感じるのは、実は根っこは同じであるということです。どちらも、他人よりも何よりもまず自分を大切な存在に思えていない、まずもって自分への尊敬を欠いているということです。他人がどうこうである以前に、自分がまず自分の「いいお友達」になろうとしていないのです。


 

 これは、自尊心(自尊感情)あるいは自己肯定感(覚)の問題といえそうです。自尊心とは、自分自身を何の条件もつけることなしに、価値ある存在であるとただ素朴に信じている心の状態です。自分の能力や行動、性格などについて自分で下す評価(自己評価)は様々あっていいのですが、それでもなお自分の価値や存在は変わらないと受け入れ肯定できる程度のことを意味します。ここで大切なことは、それは周囲との比較により生じる優越感や劣等感、差異の意識とは違うということです。また、何らかの課題や条件をクリア・達成することによって外から与えられる評価(成功か失敗か、優れているか劣っているかなど)によって決まる「自信」という感情とも違うということです。自分にはいいところも悪いところもある、他者に比べると劣っていることもあるだろう、けれども、そんな自分を「でもまぁ気に入っている」「これでもいい」とそれなりに感じることができている程度が自尊心の高さを示すのであって、自分への尊重や価値の存在を素直に認めることができることにあります。

 自尊心は、ある意味人間にとって水や空気と同じようなもので、生きるに最低限必要とされるものと言っていいのですが、普段自分達にそんなものが備わっているか欠けているか、その程度が低いか高いかななどを意識して生きてはいません。自分の人格の一部として、生まれつきの資質なり気質として備わっていたり、成長過程での様々な環境要因の中で獲得・学習するものでもあり、人それぞれです。ただ何らかの要因から健全なレベル(多すぎても少なすぎても問題があるので)の自尊心を育むことがかなわず成長してきた場合、生きるに困難な状況に様々直面することとなります。常にどことなく不安やあせり、周囲との比較意識の感覚が心の基調にある状態で生きるのはなかなか大変なことです。それに費やされるエネルギーは大変なものであり、最初から生きるハンデをしょい込んでいるようなものです。そのような悩みをずっと抱えてきたことを知らずに、「なぜ自分だけこうもうまくいかないのか」とひそかに感じながら生きている人が、実はかなり多いのではないか、と感じています。

 こんな2つの質問を自分にしてみてください。質問1:「あなたは、あなた自身をノーベル賞を受賞するような学者や金メダルを獲得したアスリート、成功している企業経営者達と同じ、ひとりの価値ある存在の人間だと思えますか。」質問2:「あなたにとって、両親や配偶者(または親しい友人)を、彼ら(質問1で挙げたような著名人)同様価値あるひとりの人間だと思っていますか。」もし、両方イエスと答える(多少は逡巡するにしても)ことができるなら、健全な自尊心を持っているといえるでしょう。しかしもし、前者がノーであるなら、そしてとりわけ逆に後者がイエスだと考えているなら、かなり自尊心に問題があるといえるかもしれません(すべての人にあてはまるわけではありません)。自分にとって大切な存在である家族はたとえ普通一般の庶民であるとしても、価値ある人間であると考えられるのにもかかわらず、自分自身にだけは厳しい評価を下してしまうからです。自分が最も大切に思い優しく扱わなければなならないのは、まず「自分」という人間である、という素朴で自然な認識が抜け落ちてしまっているのです。


 

 この自尊心向上に取り組むのはなかなか難しい問題です。健全な自尊心がないまま生きてきた本人にとっては、何の根拠もないのにいきなり「あなた自信を持ちなさいよ」といわれるようなものだからです。教わってすぐ得心するものではないので時間もかかります。過去の生活史上の心理的葛藤や傷つき体験などを探りながら、同時に現実的な対人関係の在り方に具体的に検討を加えていくような丁寧な取り組みも必要です。

 「人はみな違うのだ」という当たり前のことを心底信じていくことが第一歩になるでしょうか。人はみな違う、だからこそ、その目標も得意不得意も願望も適性も人生歩みのペースやプロセスもみんなそれぞれでいい。そうしたことを無視して皆が同じ山の頂を目指そうとするから苦しくなるのです。誰もがそれぞれに目指すべき山があってよく、それを探し求め、頂きをめざすことについては努力や苦労を惜しまないことこそが、私たちの人生です。

 そして自分を大切に思い、自分と対話を重ね何が自分に必要なのか、自分が本当に望むものは何なのか、何が自分にはできないのか無理なのか、ということに素直に向き合ってみることが次のステップです。そのうえで道を定めて迷わず進んでいく。その進む道の途中でふと出会うのが「友達」なのでしょう。数でもなければ出会う時期でもありません。望まない道で出会った人は、たとえいい人であったとしても、苦しい本人の目には友達とは映ってこなかったかもしれません。親友や尊敬できる人生の師と呼べる人とは、人生の終わり近くになってようやく出会える人だっているでしょう。遠い昔のあの人が親友だったと、後年気づく人だっているはずです。今、友人がいなくても、好きな人に出会えていなくても、それは今はまだ出会いの時ではない、ととらえなおしてみてください。それよりも今は自分を大切に見つめなおす時期、やるべきことが他にある時期なのかもしれません。単なる気休めと思わず、こんな風により多くの可能性に対して、心が平等に、等距離に開かれているかどうかも自尊心を高めるには問われていきます。


 難しいでしょうか?でも大丈夫、少しずつで構わないのです。それに冒頭の映画のレオのような「天使」は、意外や誰の近くにもいるものです。今は見えてないだけかもしれません。それにはまず、自分をしっかり自分の「トモダチ」にしてあげてください。

 素敵なクリスマスと新年がやってきますように。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

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by yellow-red-blue | 2018-12-22 18:00 | Trackback | Comments(0)

 初夏を思わせるほどの暑苦しさで始まった今年の師走は、大雪の頃を境にようやく本格的な寒波が全国を覆い始めたようで、正常に戻ったことになぜかホッとするやら、でもやっぱりこの寒暖の差には辟易するやら、なんだか妙な気分の年の瀬の始まりとなりました。

 この季節になると、青森に住む友人から地元の農家から直接仕入れたおいしいリンゴがいつも山のように届きます。青森でも今週ようやく雪が降り始めたと思ったら、この週末はもうドカ雪の予報だそうです。

 毎年当たり前のように受け取ってきたリンゴですが、段ボールにぎっしり詰め込まれた赤い実を眺めながらふと、厳しい寒さと風雪があたりを覆いつくす長い冬、周囲の純白の銀世界とは鮮やかに対照的なリンゴの赤い色は、青森の人々にとってはずっと特別な色なのかもしれない、色や形は同じといえども、都心に暮らす私のような人間が、人工照明で照らされたスーパーの食品売り場で出会うリンゴとは随分と違う存在に映ってきたのかもしれない、そう思ったのです。

 その友人の二人の子供は今年そろって受験を控えていて、もういろいろと大変なのだとか。青森のリンゴの赤色は、そこに生きる人それぞれの人生さまざまな出来事や苦労の思い出と記憶とが塗り重ね合わさった赤なのかもしれません。



 私がたびたび自宅を訪問するクライエントにWさんがいらっしゃいます。一人暮らしが長い70代後半のWさんは、足がご不自由なため、私の方から定期的に自宅に出向いているのでした。そこでいろいろなお話をするのですが、必ず出てくる話題が映画です。かつては娯楽の中心だった映画にWさんは小さなころから慣れ親しみ、それこそ数えきれないほどの作品を鑑賞してきたのだそうです。それは今でも変わらず、テレビの横の棚には通販で購入したと思しき、映画のDVD名画全集がずらり。それもそのはず、かつて終戦後間もない一時期、Wさんのお父さんは、ある地方都市の繁華街で当時としては珍しい洋画専門上映館を経営なさっていたのだそうです。戦時中長らく禁止されていた敵国映画たる欧米映画が、敗戦国日本にどっと押し寄せてきた時代でした。戦争に敗れ一面焼け野原から裸一貫の出直しを始めて間もないこの国で、映画館の薄暗い場内のスクリーンに映し出される西洋映画の織りなす銀幕の世界は、文字通り別世界のことのようにWさんの脳裏に深く焼き付いてきたのでしょう。

 今でも世界中でたくさんの映画が作られており、劇場だけでなく気軽にDVDやインターネットを通じて数多くの古い名画も楽しめる時代になりました。思い出の名画ばかりでなく、新しい映画作品もよく見るというWさんですが、Wさんに言わせれば、かつて今ほど娯楽に恵まれず社会環境も貧弱で、まだまだ多くの日本人が貧しかった時代に見た映画の世界は、単なる余暇の楽しみや気晴らしを超え、人生そのもの、人生における先生であり友人であり恋人でもあったといいます。

 たとえ今そうした映画を後年の世代が安楽に観ることができるようになったとしても、そこには冒頭述べたような、青森の人たちにとってのリンゴと私が経験してきた都会のリンゴほどの違いがあるのかもしれません。



 少し前の話になりますが、イギリスの国営放送BBCが、世界の映画専門家による投票をもとに選出された「映画史上最高の外国語映画100」と「映画史上最高のアメリカ映画100」をインターネット上で公開していました。両ベスト100中、上位10傑を以下に挙げてみます。


【映画史上最高の外国語映画100】(タイトル、製作年、監督名、国) http://www.bbc.com/culture/story/20181029-the-100-greatest-foreign-language-films

 第1位 七人の侍(1954)黒澤 明(日本)

 第2位 自転車泥棒(1948)ヴィットリオ・デシーカ(伊)

 第3位 東京物語(1953)小津安二郎(日本)

 第4位 羅生門(1953)黒澤 明(日本)

 第5位 ゲームの規則(1939)ジャン・ルノワール(仏)

 第6位 仮面(1966)イングマール・ベルイマン(スウェーデン)

 第7位 8 1/2 (1963)フェデリコ・フェリーニ(伊)

 第8位 大人は判ってくれない(1959)フランソワ・トリュフォー(仏)

 第9位 花様年華(2000)ウォン・カーワァイ(香港)

 第10位 甘い生活(1960)フェデリコ・フェリーニ(伊)


【映画史上最高のアメリカ映画100】(タイトル、製作年、監督名)

 http://www.bbc.com/culture/story/20150720-the-100-greatest-american-films

 第1位 市民ケーン(1941)オーソン・ウェルズ

 第2位 ゴッドファーザー(1972)フランシス・フォード・コッポラ

 第3位 めまい(1958)アルフレッド・ヒッチコック

 第4位 2001年宇宙の旅(1968)スタンリー・キュブリック

 第5位 捜索者(1956)ジョン・フォード

 第6位 サンライズ(1927)FW・ムルナウ 

 第7位 雨に唄えば(1952)スタンリー・ドーネン/ジーン・ケリー

 第8位 サイコ(1960)アルフレッド・ヒッチコック

 第9位 カサブランカ(1942)マイケル・カーティス

 第10位 ゴッドファーザーPartⅡ(1974)フランシス・フォード・コッポラ


 

 私も映画にはずいぶんと慣れ親しんできたつもりでしたが、100作品のうち見たことのある作品はせいぜい6~7割ぐらいで、知ってはいてもまだ見ていない作品も多かったです。また、数多くの日本映画がベスト100に入っていることは、ある程度予想されたこととはいえ、日本人としてやはり素直に誇らしく思えました。

 こうしたベスト100に数えられるような過去の名作を見ていて、特にここ最近20年くらいの映画(TV作品を含め)の多くが、いかに視覚上の刺激やスピード感、めまぐるしく変化する表面上のストーリー展開のみにその魅力の多くを負っているのかがよくわかります。常に何かが起きていないと、たえず刺激の侵入がないと耐えられない私たち。そんな私たちを飽きさせないものを供給しようとする映画製作者たち。ほんのわずかな隙間の時間ですらじっとしていられずに、思わずスマホの画面を操作してしまう現代人の姿がそれらとダブって見えてしまうのは決して偶然ではないのでしょう。

 

 もし、普段あまり映画にはなじみのない方や古い映画は見ないという方がいらっしゃったら、もうすぐやってくるクリスマスから新年にかけてのしばしの休み、このベスト100を参考に、名画の世界に浸るのも悪くないかもしれません。なにも1位から見る必要はありません。新しい製作年の新しい映画からでもいいし、タイトルや内容が面白そうだと思うものを選んでもいいでしょう。中には難解な作品もあります。退屈に感じたりすることもあるでしょう。映画が製作された時代背景や空気、作品の芸術的意義を理解したり、その時代を生きていなければ本当の良さは伝わってこないものもあるに違いありません。

 けれどもWさんがおっしゃったように、映画とは友であり、教師であり、恋人でもあるかもしれません。彼らとの間、そこには常に学びだけでなく葛藤や孤独、苦悩がある。だからこそ、その先の人生に喜びと希望もまたあるのだと気づかされるのです。

 映画を純粋娯楽として割り切って楽しむことだってもちろん悪くありません。実際私もずっとそうしてきましたし、楽しみ方はそれぞれです。けれどもそれではなぜ人は、はるか遠い昔に創作された映画や音楽、文学や絵画といった諸芸術文化とその作品をいまだ愛してやまず、その輝きと価値を後世へと継承しようとするのか。それは私たち人間の「生」にとってそれらが確かになくてはならないものだからに違いありません。では、それはまたどうしてなのか。ときに考えてみるのも悪くないと思うのです。いまどきの時代の先端や流行、旬な物事はいっとき人の耳目を集めはするが、すぐに次のなにか他のものに取って代わられ用済みになってしまうものがほとんどです。けれども真に価値のある画期的なものは、時代や世代を超えいつの時代にも新しく、私たち一人ひとりの現存在へ常に開かれているものです。それを人は端的に「古典」と呼んできたのでしょう。

 今年はどの映画を見て年末年始を過ごそうか、長いリストを見ながら久しぶりに今からちょっぴり楽しみです。


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by yellow-red-blue | 2018-12-07 15:59 | Trackback | Comments(0)


 そういえば、東京ではいまだ木枯らし一号が観測されていないようです。本格的な冬への扉が開く小雪の頃といえ、冬の始まり数歩手前で足踏み状態といったような陽気でしょうか。街中はまだ晩秋の趣が強く、紅葉がますます色濃く深みを増していくそんな日々が続いています。イチョウやポプラ、ケヤキにモミジといった公園や通りの並木におなじみの木々の紅葉は、私たちの目をとても楽しませてくれますが、個人的に一番紅葉が美しいと感じる木はソメイヨシノです。桜のクライマックスといえばもちろん春先なのでちょっと意外に思われるかもしれませんが、ソメイヨシノほど一年を通じて四季折々の美しさと多彩な色と姿で人を魅了する木はほかにないのでは、と思っています。

 場所や陽当たりの強さ角度によって紅葉と落葉の進み具合もさまざま、晩秋のやや力の落ちた陽光に照らされ五色鮮やかに輝くソメイヨシノの紅葉はとても美しいです。とくに、もうほとんど葉が抜け落ち裸同然となり、美しい桜の花には似つかないほど黒々武骨な木の幹や枝に、ほんのわずか数枚だけが寒風にさらされながら懸命に落ちまいと引っかかっている様子には、まもなく訪れる長く厳しい冬からそこを経てやがて初々しいピンク色の花咲き乱れる待望の早春の到来へと想像を掻き立てられ、その自然の大胆なまでの変貌と神秘性にしばし心奪われてしまいます。



 

 私が物心ついて最初に体験あるいは実感した「別れ」は、幼稚園の卒園式の時でしょうか。年少組の時には年長組のお兄さんお姉さんが巣立っていくのを見ていましたが、卒園といっても近くの小学校(というところ)へ行くことは知っていましたし、住んでいるところもみな変わらず近所で一緒でしたから、あまり別れという感覚はなかったのが当然といえば当然かもしれません。けれども、自分がいざ幼稚園での生活に別れを告げようとする卒園式で、担任の先生が目をはらしてひとりひそかに涙している姿を見て、これでもう先生や友達の何人かとは会えないかもしれない、ああこれがお別れなのだとおぼろげに理解をしたのでした。

 人は人生の節目節目でさまざまな「別れ」を経験します。それはあらかじめ予期されたものもあれば唐突にやってくるものもあります。状況や対象によって、離別、訣別、喪失、分離そして死別など、様々な表現がなされるでしょう。人との別れや死、今まで有していた役割や身分、資格や境遇との別れ、所属したり帰属意識を持ってきた社会組織や場所、住み家との別れ、さまざまな物との別れ、さらには病気や事故、加齢など何らかの原因で自分の身体機能の一部や健康が損なわれることなど、考えてみればこれらすべてが「別れ」です。自らの意思で決断する別れもあれば、必ずしも望みはしないが、結局それはいずれやってくるもの、やむを得ないもの、避けがたく向こうからやってくるもの、それが別れであるといえます。いずれにせよ、別れの繰り返しとそこからの回復なり前進が人生そのものといえるかもしれません。

 けれども私たちの人生には、別れを告げたい、別れなければ前へ進むことができないことが分かっていながら別れることができない、一刻も早くそれを消し去りたい、忘れたいのにどうしても自分から「別れがたく」自分の中深くにとどまり続けるものもあります。葛藤や不安、執着や恐れ、欲望や願望といった、私たち人の心の中に湧き上がるように存在する複雑で扱いの難しい心の動揺とでもいうべきものです。巧みにそれを「心の渦」と表現される専門家の方々もいます。どうにも自分では受け止めきれない感情や思い、直視しがたい出来事の記憶、悲しみや悔恨、罪悪感といった、意識するとしないとにかかわらず心に沸き立つそうした渦は、私たちと分かちがたく存在し心深くに潜み、私たちの思考や感情、行動に強い影響力を持ち続けます。消し去りたいのは自分のほんの一部であるにもかかわらず、あまりにも長い間自分の中に存在しているがために、あるいはあまりに受けた心の傷が深かったために、それはあたかも自分と不可分のものとして実感・意識され、自分がすなわちそれに過ぎないとの意識が捨てきれないこともあります。なぜだか心の渦に限ってはコントロールすることが難しく、否定しようとすればするほどその渦は心をかき乱し、それを否定することはまさしく自分の価値や存在そのものの否定となり、時に自分がいなくなればいい、消えてなくなりたい、決して周囲と交流することはできない、と人知れず苦悩するしかない日々を送ることすらあります。

 その別れを告げたいものとは何なのか、離れがたく分かちがたい思いとは何であるのか、容易には言葉にできない気持ちを汲み取り、表面上の現象ばかりに振り回されることなく、その奥底にある深いこころに残っている渦に気づくことをお手伝いし、別れへの道を徐々に模索しながら一緒に進む「おくりびと」としての役割もまた、私のようなカウンセラーにはあるのだといえます。


 

 カウンセリングルームには常に別れがあります。しかし、ここでの別れはとても喜ばしいことです。相談に訪れる依頼者が、新たな希望へ向かう準備が完了したことの証しとしての別れだからです。抱えている悩みや問題、症状が解消した、あるいは少なくとも改善し、将来への展望が見えてきたからこその別れであり、そんな時には笑顔と時として涙でカウンセリングの終結が宣言されます。でも、そこに何とはなしに一抹の寂しさもこみ上げてしまうのも事実です。それはいろいろなことがあったにせよ、自分が指導し幾時を共に過ごした子ども達が無事に学びを終え巣立っていくことを毎年見送る学校の先生の思いにも似た心情からかもしれません。確かにカウンセリング終了後しばらくたって、元気である旨連絡をいただいたとき、そこで初めて嬉しさがこみ上げるということのほうが多いように思います。

 もちろんそうしてしっかりと終結が確認されるカウンセリングばかりではありません。理想的な別れで終了することのほうが少ないかもしれません。最初のカウンセリング後、もうやってこないのが薄々わかる場合もあります。じっくり話し合い、相談者が自分の思いのたけを存分に聞いてもらったことで満足を得ている感触が伝わる場合には、たとえ何の予告もなく来なくなっても驚きはありません。また明確に不満や怒りを示され、カウンセリングが中断になってしまうケースも、カウンセラーとしての力が足りずに反省すべきところはあれど、相手のメッセージが明らかなので受け入れやすく切り替えやすいので、これもまたむしろ前向きの別れだと思っています。

 悩ましいのは、こうしたいわば明るいお別れとは異なる別れにしばしば立ち会わなければならないことです。順調にカウンセリングが進み、本人も少しずつ手ごたえを感じていた(とこちらは思っていた)のに、唐突にやってこなくなる人。明らかに症状や悩みはいまだ深いままなのに、二度と来なくなってしまう人。カウンセリング予約の電話を何度もしながら結局一度も姿を見せない人。相手の状態が気がかりで、何がいけなかったのか悶々と自らに問う日々が続くこともあります。こうした唐突な別れは、正直やはりしんどいものでこれもまた心の渦との別れの難しいところです。


 

 しばらく前のある休日、仕事場から少し離れたとあるスーパーマーケットで、かつてカウンセリングに訪れていたある相談者の姿を偶然に見かけました。子供ふたりと奥様と仲睦まじそうに買い物をしていたその方は、数年前に唐突なお別れを告げた一人でした。

 彼は、様々な事情から結婚と子育てを機に始まった、日常でのちょっとしたいさかいごとや対立が絶えない夫婦関係と自分の生来の神経質で完璧主義的な性格が将来の子育てに及ぼす影響にとても悩んでおり専門的な意見と自身の性格的な問題の解決を求めてカウンセリングに訪れてたのでした。こうしたケースは特に珍しいものではなく、たびたび出会います。

 厳格なしつけが支配的だった養育環境に育ち、すべての面において優等生的そうしたエリート指向的人生に努力を傾けることに慣れてきた反面、囲の評価や今の社会で支配的な価値観に敏感で、常に比較・競争意識を持って生き、周囲をその尺度で判断してきた自分がときにいやでたまらず、近しい人に対しかえって余計な不快感情や不信感をあらわにしてしまうことがとても不安だったのでした。社会的身分も高く優秀なビジネスマンの典型といった風情の彼は、その自信ありげでやや硬質な態度の下に、しかし涙で時折言葉が詰まるシーン見せるよう、自信なさげな不安定さが同居しており、そうした時の表情はむしろ自然、素直な印象に私の目には映りました。本来はどちらかといえば内気で、内的世界と向き合うことに長けたとても感情豊かな人柄だったにもかかわらず、そうした自分の感情や願望を素直に出すことを自分に許してこなかった、許されないと信じてきた、そんな生き方をしてきたことが話し合いの中からわかってきたのでした。そして、彼は数回のカウンセリングの後、何の前触れも予告もなく姿を見せなくなったのでした。

 久しぶりに見かけた彼の印象にさしたる変化はありませんでした。あれほど心配していた幼い姉妹はとても明るく楽しそうで、奥様とじゃれ合っている姿がほほえましい普通の家族でした。

 以前も垣間見えた少し神経質そうな眼差しの表情を見て、一瞬不安がよぎりました。けれども、駆け出す二人の子供とそれに追いつこうとする妻から少し距離を置きながら、心なしか弾むようなステップでゆったりとついていくかつての相談者の後ろ姿にどことない朗らかさと余裕を感じた私は、すぐに少しホッとしたのでした。


 

 この相談者は私とのカウンセリングに失望し別れを告げたのかもしれないし、少し勇気づけられたから別れたのかもしれません。別れは「それでも私は進む覚悟を決めた」ことの証しでもあるのでしょう。心に沸き立つ渦は今もって消えてないかもしれないが、それを抱えながら生きていくすべを何とか探し当てようと模索することもまた、私たちの人生そのものなのかもしれません。

 「心の渦」は、他の別れのように消えることはなく、それどころか渦との別れは永遠にやっては来ないものなのかもしれません。それもまた自分の一部として引き受けながら、人生を歩んでいくことに手を差し伸べるために、私ができることとはいったい何なのだろう、そして今まで自分は何ができてこなかったのだろう。

 普通の家族4人の姿を目で追いながら、私は自分に問いかけていました。

あなたの心に深く刻まれている「別れ」はどんなものでしょう?そしてあなたにひっそりと寄り添う心の渦とは?



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メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂

サザエでございます

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by yellow-red-blue | 2018-11-22 21:57 | Trackback | Comments(0)


以前のブログ(『パワースポット(Ⅱ)』)でも触れた、個人的にお気に入りの散歩コース途中にある運河沿いのとあるベンチに久し振りに腰掛けしばしくつろいでいた先日のことです。やはりお散歩の途中とおぼしきひとりのご老人が、ゆっくりとこちらのベンチに向かってくるのが目に入りました。年の頃85は下らないように見えた細身の方で、ステッキをつきながら足元が少々おぼつかない様子でゆっくり一歩一歩を踏みしめ、ここよろしいですか、とご丁寧に会釈をしてこれまたゆっくりとベンチへ腰を降ろしたのでした。そろそろ立冬を迎えようかという、おだやかながらやや冷たい秋風の吹け抜ける休日の運河の景色を眺めながら、しばしの会話が始まりました。

 近くの高層マンションに奥様とお二人で暮らしており、中学を卒業すると同時に遠い田舎から上京し、すぐに地下鉄マンとして就職し長年働き、定年後を含め、かれこれ60年以上もずっとここ芝浦に暮らしてきたとのことでした。

「いい時代でしたよ。まだ右も左もわからない田舎者に、仕事も住まいもお給料も何から何まで世話してもらったようなものでね。一人ぼっちだった私でしたが、いい先輩や同僚にも恵まれて皆が家族のようでしたから。仕事は大変でしたが皆がそんな時代でしたからね。幸せでしたよ。」ゆっくりと丁寧な言葉遣い一語一語に過去の日常への郷愁を織り込むかのような話振りは、自分なりに想像する老人の過去へと私を心地よく引き込んでいきます。

最近の大規模再開発を機に住み慣れた自宅から高層集合住宅への移住を余儀なくされたとのこと。では随分とこの辺りも変わってしまったのでちょっとお寂しいのでしょうねと話しを向けると、

「いやいや、そんなことないですよ。あまりに規模が大きいのでちょっと戸惑うこともありますが、とても立派だし快適なので感謝してますよ。みんなよくしてくれますし。1階なのでこの辺りは土地が低いですから、いざ大地震が来たときが心配なことぐらいですか。まぁこの年だからいざという時さっとにげるわけにもいかないでしょうからあきらめてますけど」ととてもあくまで和やかです。

そばの運河に沿った遊歩道を、小さな姉弟がペットの犬を散歩に連れて通りかかると、顔見知りなのかお互いに挨拶を交わしていました。

「知り合いでもないのに、ここに腰かけているだけで、ああやって私のような老人にも声かけてくれるしね。やっぱり恵まれているんでしょうね、私は。」

ふと気づけば、季節にピッタリの柿渋色の暖かそうなニットセーターに、今どき珍しい赤が基調のタータンチェック柄のハンチング帽にボーダー柄マフラーがとてもよく似合っていらっしゃいました。奥様の見たてかあるいはお子さんやらお孫さんからのプレゼントなのでしょう。驕奢は感じさせない庶民性がありつつ、どことない品の良さを感じさせる方でした。会話の中の言葉遣いや初対面の私へのそれとない気遣いからその人柄と言葉通りの幸せな人生が伝わってきたのでした。

「さて、寒く成りましたらそろそろ引き上げますか。」いま、家には家内の友人がいましてね。二人集まるとこれが結構なおしゃべりになるので避難してきたようなもので。でも散歩が唯一の楽しみのようなものですからね。ここはいいところですよ。ゆっくりゆっくりと立ち上がって軽い会釈とともに遊歩道をまた来た方向へとゆっくりと戻っていきました。そんな後ろ姿に私はつい見入ってしまったのでした。



 「ああ、失礼、ここいいですか?」

突然そう言われてハッと振り向くと、やはり一人のご老人が隣のベンチに腰掛けようとしたところでした。ビックリしたような私の顔をしばしねめつけながら、どっかと腰をおろし、座るやいなや懐からたばこをやおら取り出して一服。心地よさそうに煙をはき出してから、「ああ、煙草構わないかな?」とひと言。

 先ほどのご老人とほぼ同じ世代に見えましたが、こちらは対照的にやや恰幅のいいガッチリとした体格の赤ら顔の方で、足元はやや弱っているようでしたが、杖もつかず堂々としている雰囲気。一見して値の張る衣服に身を包んだその方の、あきらかな若輩者の私への言葉遣いのトーンはざっくばらんなものでした。企業でそれなりの地位まで上り詰めたかご自身で会社を経営なさっていた方、あるいは職人の親方さんのようでもあり、人を率いたり指示することに慣れてきた人のような、引退してなお壮健なお人柄が漂ってきました。

辺り一帯があきらかに喫煙NGの環境のようでしたがが、ええ、どうぞと気にしない風を装うと、それをも察知してか、「最近は落ち着いてたばこを吸う場所もないんだからね」と美味しそうに煙を出しながらもかなりの不満顔をしていらっしゃったのでした。

 そうですねと、今どきの喫煙者の肩身の狭さに同情するコメントをすると、

「自宅でもそうだからね。ベランダの喫煙はもちろんだが、自分の家の中で吸ってもそれが外にちょっと漏れると文句言ってくる人もいるしね。」聞けば住んでいるところは、さきほどのご老人と同じくすぐ近くの高層マンションのひとつ高層階。立派なところにお住まいですね。

「いや、まぁまぁだよ。でも見た目よりいろいろと不便だね。風も強いし。近所の騒音音やペットなんか結構気になるね。もうちょっとご近所迷惑を考えてもらいたいんだが、今どきの人はあんまりそういうことには...」と最後はぶつぶつ声に。

最初のご老人が自分の過去やよき思い出の話を柔らかく語っているのとは対照的に、この方は過去や自分のことはほとんど触れることなく、どちらかといえば変わってしまった今の世の中に何か納得がいっていないかのようなトーンに終始していたのでした。私のプライベートな話にもあまり興味がないご様子でした。

 すぐ前の運河沿いの遊歩道をジョギングする人が行き交います。

「休日なのにああやってせかせか走って。みんなマラソンでも走るのかね。」そういう人も結構いらっしゃるみたいですよ。最近は健康志向の方も多いですしね。

「そんなことわざわざやらなくったって、わたしなんか何もやってこなかったが、この通り身体は丈夫だし元気だけどね。ただ豊かになって食い物や生活がぜいたくになったせいなんじゃないかね。」とちょっと手厳しいですが、たしかに本当にお元気そうです。

犬を何匹か連れスマホに見入っている若い今どきのご夫婦が通り過ぎるのを眺めていたかの老人は、「うちの近所にもいるけどさ。最近多いね。何匹も飼っていたり、文字通り猫かわいがりというんかさ。ペット飼わずに子ども作れと言いたくもなるよ。」「なんというか、もうちょっと今の人が世の中や社会のこと考えればいいんだが...」


そんなご自分のお考えに同意を求めるかのような苦笑顔を向けられ、当たり障りのない同意の言葉を向けると、そんな私もまた自分とは違う側の世代であることに気が付いたかのように、「いや、そんなこと言うとまた文字通り煙たがられるかな」とたばこをまた深々と一服し、しばし無言の後、「じゃ失敬」といきなり席を立ち、また来た遊歩道を足早に戻っていったのでした。

ゆっくりくつろぐつもりで来たのに、私が相手ではお役不足、折角の散歩が台無しにされたかのようなせっかちな歩みに勝手ながら私には思えてしまったのでした。ただ、ぶっきらぼうながら悪い感じはしなかったのは、その方がある意味表裏のない率直な方であったように感じられたからかもしれません。

ほぼ同時代、同じ場所で生きたであろうお二人が、同じ風景を目の前にしてこんなにも対照的な物事のとらえ方、お話しをなさるのかと思うと、今さらながらそして当たり前のことながら、私たちはそれぞれが本当に「ただ違う」のだ、と改めて思い知らされます。



その後もしばし私はそのままベンチに腰掛けながら、何だか一人その場に取り残されたかのような、ちょっと不思議な感覚を覚えてしまいました。しいて言えば、ポツンとあるベンチが舞台設定の演劇か何かに出ているかのようなそんな感覚です。

出演者:老人A、老人B、そして中年男C、以上。

さしずめ、舞台に最後一人残された私は、なにがしかの気の利いたセリフでこの舞台を締めなければならないか、あるいはラスト幕が降ろされる間際に天上から聞こえてくるささやきめいたメッセージはどんなものか、などと勝手な思いが頭をよぎります。


『おまえもいずれ老人だ。それで一体お前はどちらの老人になるのだ?』

『いやいや、結局どちらもお前なのだ。そうではないか?』

『いろいろと勝手なことを妄想しているようだが、当の老人たちには、今のお前はいったいどんな人間に映ったのだろうな?』



 穏やかで謙虚、自分が周囲の助けや犠牲のもとで生かされてきたことに素直に感謝できる人もいれば、頑固一徹に一人道を切り開いて必死に生きてきたと信じている人もいる。現実に妙に逆らったり疑問を感じたりせず、受け入れ流れに任せる人もいれば、現実からの距離が取れて、世俗的な価値観を相対視することができたり、周囲をありのままをそっくりそのまま受け入れるのではなく、自らの価値基準と正義感覚を保ち続け、納得のいかないことには異議申し立てもいとわない人もいる。そして、結局そのどちらがより悪くてより好ましいというものではないのでしょう。そんなふうに考える私もまた歳を重ね衰えゆく年代にさしかかったのだと気づかされます。


一個人をどこまでも他に例を見ないひとりとして肯定し、理解し、支え続けること、そして周囲からはどう見えようとも、あなたの、わたしの事情や気持ちそれはそれで十分にくみ取る価値のあるものであって聴くに値するものである、との姿勢をメッセージとして送り続けることがなにより大切なのだということを、今の仕事を通じて少しずつ学んでいるように思います。そしておそらくそれは、私たち一人ひとりの人生においてもまた同じなのではないか。とにもかくにも元気そうなお二人を見てなぜかそんなことをふと考えさせられたのでした。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

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by yellow-red-blue | 2018-11-08 16:02 | Trackback | Comments(0)

All Rise ! ~ 霜降の頃’18


少しひんやりとした澄んだ空気と青空のはるか先に、雪化粧をまとった富士山の姿が美しく映えるのがとても印象的です。そのすぐ傍らを、大きな夕陽が西の山々に沈む情景を眺めていると、秋もいよいよ深まってきたことを感じます。

実り・食欲の秋、読書・芸術の秋、スポーツの秋などとさまざまな表現がなされる通り、秋は人の感性を静的にも動的にも一層刺激する季節なのかもしれません。

そのスポーツの秋といえば、日本だけでなく、世界各地でも多くのスポーツ競技がまさに熱戦の佳境を迎える季節です。海の向こう、野球の本場アメリカでは、メジャーリーグ(MLB)がいまちょうど、各地区・各リーグのチャンピオンチーム同士がNO.1の座をめぐって激しい戦いを繰り広げるポストシーズンの真っ只で、シーズン最高潮の盛り上がりを見せています。普段ほとんどテレビを観ない私ですが、メジャーリーグは昔からのファンで、特にポストシーズンを迎えるこの時期は、普段部屋の隅に追いやられている小さな液晶テレビを引っ張り出して、その熱戦につい見入ってしまいます。



 ところで、昨シーズンメジャーリーグの名門ニューヨーク・ヤンキースに一人の若者がすい星のごとくデビュー(正確には一昨年の途中のデビュー)し、いきなりの華々しい活躍とずば抜けた成績で話題となりました。アーロン・ジャッジ選手です。2メートルを超える巨体から繰り出される桁違いのパワーと高いバッティングスキルでホームランを量産、ヤンキースの快進撃をけん引し、圧倒的な支持を得て見事昨年の新人賞を獲得しました。その圧倒的なパフォーマンスもさることながら、若者らしからぬ謙虚で清々しい立ち振る舞いでファンの間でも絶大な人気を誇り、2年目の今シーズンは、もはやヤンキース不動の看板打者であるばかりか、まさに新世代メジャーリーガ―の象徴としての存在感すら漂わせる選手なのです。

 けれどもその彼が人々を強く惹きつけてやまないのは、そのパフォーマンスだけでなく、その名前(姓)であるジャッジ(judge)にもあることがわかります。その第一義的意味は、裁判官あるいは判事。苗字としてはアメリカでもやはり珍しい部類に入るようで、特別な響きと余韻をアメリカの人々にも与えるようです。法と正義の名の下公正な裁判を主催し、犯罪と悪を裁き審判を下す善良なる魂の守護者、絶対権力者である裁判官という名は、勝負を決める一発で相手を葬り去る男、ここ一番に決定的な仕事をする頼れるバッターとしてのイメージと完璧にマッチするのでしょう。

 ヤンキースの本拠地ヤンキーススタジアムのライトスタンドの一角には、彼の活躍を応援しようと、Judge's Chamber(裁判官室)という名の観戦エリアがチームによって特別に設けられ、試合中そこに座る観客がフェイクの法衣やかつら、木槌で仮装し、All Rise!(全員起立!)と書かれたボードを振りかざし、ジャッジ選手の打順が来るたびに熱狂する光景が繰り返しテレビで映し出されるのがお約束になっているほどです。それほどジャッジ(judge)という言葉には、どこか人を惹きつける威厳ある決定的な響きがあるのでしょう。



つい、好きな野球のことで熱弁をふるってしまいましたが、この単語judgeは私たち日本人にもお馴染みで、司法あるいは法律的文脈で用いられるだけでなく、一般的な意味合いとしての裁く、判断する、断定するという意味でも日常的に用いられる言葉です。そして、人間である以上私たちの誰もが実は毎日、というか瞬間瞬間ごとに行っている認知的作業がこのジャッジ(ジャッジメント)なのです。私たちはジャッジすることなく生きることはできないと言っていいほどです。ジャッジすることでいわばその後の自分の行動や振る舞い、感情が決定されていく。ジャッジその連続がまさに生きることに他ならない、といってもいいかもしれません。私たちの感覚知覚機能に取り込まれたり喚起されるすべての情報や出来事、記憶について何かにつけ常に私たちは裁いて(ジャッジ)しているのです。これは人間にとって生きるに当然かつ必要な行為であって、オートマチックに実行している作業なのでそう簡単にやめることはできません。やめることの方が不自然でしんどいくらいなのです。



ところがこれを常に正しく安定して機能させることはなかなかに難しいことのようです。私たちは時としてというかかなりしばしば、「ジャッジしすぎ」てしまうのです。他者を、自分を取り巻く状況や社会を、そしてとりわけ自分自身を。そしてそのジャッジメントをそのままあたかも事実、真実であるとして許容し続けてしまうというリスクを負って生きています。

本当かどうなのか事実か定かでないことに決定を下してしまう。うまく説明のつかないことに対して苦し紛れの都合のいいジャッジを相手に押し付けてしまったりする。勝手なジャッジ同士をぶつけあいすれ違いや摩擦を生んでしまう。もう過ぎ去った遠い過去に下したジャッジでいまだかたくなに自分や周囲を裁き続け、苦しんだり苦しめたりし続けてしまう。どうなるのかわからない未来のことに不要なジャッジを下して、不安に思い途方にくれたりする。私たち人間はそんな生き物といったらいいでしょうか。ジャッジしてしまうがために、自分と周囲に起きている変化を感じとれず乗れ越えられず、考え過ぎてストレスを溜め込んだり、過剰に自己防衛に走ったり、却って窮屈な生き方を背負い込んでしまいがちな人が多いことに気づかされます。

ジャッジするという行為そのものが悪いわけではありません。ジャッジしてしまうのが私たち人間なのですから。ジャッジがひとつの判断なり評価に過ぎないことを超えそれを動かしがたい事実、決して覆ることのない真実としてオートマチックに信じてしまい、そこにがんじがらめになることが、私たちの日常にとっていかに有害なものかについてひとり気づくことはかなり難しい、というところがとても悩ましいのです。それがあたかも当たり前のこととして私たちは受けとめているからです。ジャッジしているなどとはなかなか自省することのできないのが、残念なことに私たち人間と言えるかもしれません。



カウンセリングは言ってみれば、そうした相談者が下してしまっているジャッジとはどのようなものであるのか、そしてそれはどうしてなのか、ジャッジそのものを止めようと躍起になったり、ジャッジしたくなる気持ちを否認するのではなく、どうすればそのジャッジを手放すことができるのかを一緒になって考えていく作業でもあります。

考えてみれば、カウンセラーも常に相談者とその相談者が抱える問題をあらぬ方向へと裁いてしまうリスクを常に背負っていると言えます。憶測や偏見、過去の学習や経験、専門的知識などへと逃げる形で。そうしたことはときに避けられないとしても、その流れに完全に乗ってしまう前にその外へと一歩踏みとどまり、まずもって相手の気持ちや言葉に対して無条件に肯定的に寄り添ってみること、そしてつねに下されがちなジャッジを意識しつつ、それをひとまず脇に追いやり、相手の話す世界そのものに入っていこうとする姿勢は、カウンセラーだけでなくすべての人間関係に本来必要な心構えなのかもしれません。「無条件に肯定的に寄り添う」といっても、それは相手の考えや意見に同意することでも、またそうしたことに自分を合わせようとしたりすることでもありません。相手の言わんとしていることはまさに相手側の事情であり、そのように相手が実際に受け止め感じていること自体には偽りはないのであるから、そこにこちら側の事情や価値判断のフィルタを持ち込まずに、まずもってただそっくりあるがままに真摯に受け止め、理解しようとする態度が大切だというわけなのです。

とはいいながら、精神医学や臨床心理の世界でさかんに言われるこうした「無条件の肯定的な配慮」であるとか「執着を上手に手放す」という態度は確かに立派ですが、正直なところそれが本当にどのような意味を持つのか、どうすればそんな姿勢を維持し続けることができるのか、私にもちゃんとはわかっていないのだと思うのです。

日々のカウンセリングの中で一人ひとりの相談者と向き合い、私の、あなたのそれぞれのジャッジをていねいに辛抱強くたどっていく精一杯の姿勢が、今の自分にできる数少ないことのひとつだと感じています。

優しく、信頼されるAll Rise!をいつも誰かの心に響かせることができるよう。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

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イチローさん

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by yellow-red-blue | 2018-10-24 23:57 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、カウンセラーとして、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。ブログのどこかに、読む人それぞれの「わたし」や「だれか」を見つけてもらえたら、と思っています。


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