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読書の秋 ~ 霜降の頃'15


 10月も半ばを過ぎ、ここ東京でも次第に秋が深まってきました。紅葉がうっすらと始まっているところも出てきていますね。秋と言えば食欲の秋、読書の秋、芸術の秋。よく言われることですがこれって本当ですね。ひょっとすると、わたしたちのほどんどが何かしら思い当たるか、実感していることかもしれません。
 
 夏という季節は、きっと何か大切なことを実行したり考えたりという作業をするにはあまりにも人間にとって、いえ生き物にとって過酷な条件に違いありません。そんなときは無理をせず、体を休め耐えて生き延びる(大袈裟ですけど)ことで何とか厳しい季節をやり過ごす。そしてやがて穏やかな季節を迎え、次第に人は精神的にも肉体的にも活気を取り戻す。何かをしたい気分、積極的・野心的な気分、知的作業に没頭したい気分、とにかく何であれ人としての生命機能、生きる欲求が再び活性しだす季節なのでしょう。そうした意味では個人的な季節の好みはさておき、秋というのは実は人にとって最も重要な季節なのかもしれません。

 パソコンやインターネットの便利さを頼りにしつつも、いっぽうでできるだけその世界から離れていたいとの身勝手な欲求が強いこともあって、よく本を読みます。できるだけジャンルは問わず幅広くなんでも読むようにしています。ずしりと重厚で知的好奇心を満たす含蓄深い内容の文学作品や歴史研究書も好きですが、普段の気晴らしやストレス解消に、よりリラックスして読めるような内容の本も好んでよく読みます。わたしの場合、ミステリーハードボイルド、サスペンスや冒険小説などがそれで、欧米の作家の作品がほとんどです。

 読書をしていれば、いい言葉やこころに響く言葉に出会うという経験は誰もがお持ちだと思います。ところがそうした言葉は、高尚な文学作品や学術専門書、歴史的偉人の自伝や人生哲学本に限らず、もっと気軽に読める本の中にだって、いえ、かえってそこではより平易かつシンプルに、でもズバリ書かれていたりするので侮れません。深く心打たれるというよりも、自らへの戒めになりうる、あるいは自分の心の隙間にうっかりすると芽生えがちな感情、隠れた本音のようなものを剥き出しにされるかのような言葉や文章に出会い、作家の意図や文脈背景は違えども、ギクリとさせられることしばしばです。


『現在の事件であれば、数々の事実を手に取って調べられるし、証人にも会って話ができる。法医学的な証拠を集め人々の語る話に疑問を挟める。罪悪感と悲哀を推し量れる。事件の中に入り込めるのだ。それがリーバスにはおもしろい。人間がおもしろい。人々の物語にリーバスは魅了されるのだ。他人の物語にはいりこんでしまったとき、彼は自分の物語を忘れられる。』

『リーバスは自分の幸福の基準が低いことを知っている。自分のフラット、本、音楽、おんぼろ車があればよい。愛、人間関係、家庭のような、大切な事柄ではことごとく失敗したことを自覚して、自分の生活を単なる貝殻にしてしまったのだ。仕事人間だと責められたこともあるが、好んでそうしているわけではない。仕事に生きたのは、仕事を選ぶ方が、まだしも楽だったからに過ぎない。毎日、自分の人生には関係のない、他人と関わって暮らしている。他人の人生ならば、首を突っ込んだって、また簡単にそこから抜け出られる。だから他人の人生もしくはその人生の一部の中で生きていたいのだ。少し距離を置いて何かを体験することは、実体験よりも勇気がいらないからだ。』
 (イラン・ランキン「首吊りの庭」延原 泰子訳 早川書房)

『リーバスにとって仕事の喜びとは、煎じ詰めれば、覗き見の楽しさ、卑怯者の喜びだと彼女は見抜くに違いない。リーバスは他人の悩みをこと細かく調べることで、自分の弱さや失敗から目をそらしているのだ。』
 (イアン・ランキン「滝」延原 泰子訳 早川書房)

『どんな人間にも価値がある。さもなければだれにも価値はない。』
 (マイクル・コナリー「天使と罪の街」古沢嘉通訳 講談社文庫)

 いろいろと深く考えさせられるのもまた秋という季節です。
 皆さんにとって秋とはどんな季節でしょう? 20151023日)

 
メンタルケア&カウンセリングスペースC²-Wave 麻布十番


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by yellow-red-blue | 2015-10-23 23:04 | Trackback | Comments(0)

ものごとの見方とらえ方 ~ 寒露の頃'15


 ブラームス 交響曲第1番ハ短調作品68
・レナード・バーンスタイン指揮、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団(1983年)
・カルロ・マリア・ジュリーニ指揮、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団(1990年)

クラシック音楽を鑑賞するということは、過去の偉大な作曲家たちが残した数々の楽曲を、以後の時代の演奏家たちによる演奏を通して楽しむことと言えます。
 

ところが、同一作曲家による同一の楽曲であっても、それを演奏する演奏家や演奏された時代的背景、演奏環境や録音技術、そこに関わるスタッフなど、様々な要素が絡みあい生み出される作品は、決して同じではありえず、それぞれがまた違った音楽世界を持っています。
 ましてや、そこに今度は聴き手あるいは受け手としてのわたしたちという要素が加わり、それぞれの印象なり解釈をもって感動と感慨にふけるわけですから、様々どころか無数の音楽の世界がこの分野には存在するといっていいかもしれません。

そして、クラシック音楽最大の魅力は、まさに今述べた同じ「事実」としての作品から、演奏やわたしたち聴衆の受け取り方によって、無数の音楽世界という「真実」が広がっていることにあるといってもいいかもしれません。

もちろんこのことは他の分野でも言えることですが、殊にクラシック音楽ではその傾向が顕著なのではと思えてしまいます。クラシック音楽が好きな方なら、ある作品についてどの演奏を選ぶか、いえ実はその全部を聴いてみたいと思うのが本音なのかもしれません。

レナード・バーンスタインが久々にウィーンで、世界最高の舞台とオーケストラと組んだこの名曲の演奏は、発売当時は少々の驚きと圧倒的な喝采とをもって迎えられた記憶があります。

自らの溢れんばかりの独創的な情念と理想を憑依させるかのような音楽的表現を得意とする彼らしからぬ、バランスのとれた冷静かつ端正な演奏、重厚な響きを終始崩すことなく、この古典的名曲をドラマティックに見事に描き切り、それまでとはある種別境地に辿り着いたかのような評価を受け、私も同じような印象を抱いていました。


 ところが、今回改めて聴いてみると、より大きな普遍性と完成度の高さのオブラートに包み込まれつつも巧みに見え隠れする彼らしさ、すなわち、伝統への執着から自由でかつ独創的、自身の内面的欲求と理想を表現すべく妥協なき完璧主義を貫くその演奏姿勢は健在であり、それらとの巧みな融合こそが、彼に新たな別境地に辿りついたかのような印象を与えたのでは、という感覚を強く持ったのです。むしろバーンスタインらしさがよりはっきりしたコントラストとなって多面的に曲に織り込まれているのではとすら思わせます。 

第一楽章全編にわたる弦楽器の音色、官能的に過ぎるともいえなくもないほどこの上なく甘美な余韻を奏で、楽曲中ベストの出来栄えと言っていい第2楽章、そして冷静かつ重厚な響きを堅持しつつ、クライマックスへの高揚感をエモーショナルたっぷりに掻き立てる重層多面的な最終楽章の構築ぶりはその顕著な表れといっていいでしょう。


バーンスタインにとって音楽は、いわば自らの理想世界に到達するためのプロセスであり、楽曲の背後にうごめく情念や意思を表現することこそ重要なテーマです。そしてそれは時に作曲者自身や原譜のメッセージを超越し、溺れるほど心地よい自らの心象に灯る聖なる理想郷へ暴走と混沌とをはらみながら突き進んでいきます。そこには偉大な作曲家にして天才指揮者であるバーンスタインならではの音楽への姿勢とプライドがあり、その境地に浸るのはまた格別です。
 

 一方イタリアの生んだ孤高のマエストロ、ジュリーニのブラームスは、あくまで作曲者の意図あるいは楽譜に忠実に留まりながら、一音一音噛みしめるかのように丁寧に響かせることそのものに重きを置いていきます。ジュリーニにとって大切なのは、精緻なスコアの読みと丹念なリハーサルから紡ぎだされる音符一音一音そのものであり、全体の構成や楽曲間の繋がり、フィナーレへの布石や終曲に向かってのストーリー展開などには無関心を装い、ひたすら「今」「この時」に埋没し、旋律や曲はその積み重ねの結果にすぎないかのようなストイックな演奏姿勢に終始します。

 ところがこうしたリアリズムともいうべき、ドラマ性や幻想を排し、事実を淡々と丁寧に積み上げる姿勢に終始するそのぶれることのない安定感と余裕は、イタリア的な明快で流麗なタッチと巧みに溶け合い、かえって言いようも知れぬ心地よさと圧倒的な感動をわたしたちにもたらし、これぞブラームス第1の白眉といっていい演奏となっているのです。


 完璧主義者で理想主義的なバーンスタインとリアリズム重視の正統ロマン派のジュリーニ、精緻なスコア読み込みとリハーサルを忠実に再現しようとするジュリーニに対し、同じことを完璧に求めつつ、惜しげもなくそれらすべてを白紙に戻し演奏に臨むかのようなバーンスタイン、自らの全人格的情念や理想を音楽に投影させ、人間の内なる世界を野心的に表現しようとするバーンスタインに対し、ジュリーニの演奏はそれ自体が宇宙そのものであるかのようです。

 同じ曲(事実)であっても、それが意味するところのもの、それが語り掛けてくるもの(真実)は複雑かつ多様であり、人それぞれに受け取り方も異なるという話は、黒澤明監督の名画「羅生門」にも描かれたように、そもそもわたしたちの言うところの真実(現実)とは何かを問いかける極めて哲学的な議論にまで行き着くのでしょう。

ですがここまで、なにやらマニアっぽい物言いやたとえをつらつらと綴ったのは、こうした考え方は、心理カウンセリングの世界においてもとても重要な視点であるからです。

 

人が深く悩んだり心に問題を抱える原因の多くは、起きた事柄そのものよりも、むしろそのことについてどう感じ解釈(認知)するのか、そのいわば情報処理過程に問題の本質があり、その認知の方法が様々な辛い感情や身体反応を引き起こし、その後の行動まで影響を及ぼすと言われています。わたしたちは、出来事を構成する多くの要素の中から自分が感じたり気づいたりしたもの、つまりわたしたちの主観が構築したものを事実ないしは現実として捉えてしまっている可能性がある。したがって、自分にはある意味特別な認知のパターンあるいは思い込みの法則、行動パターンがあるということに気づき、そこに検討と修正を加えていく。遠い過去や潜在意識の問題にせまることも大切だが、むしろ客観的で検証可能な「事実」と「今」とに焦点を当て具体的に問題を検討していくことによって、様々なこころの問題が解決に向かっていく。こうした考えが、いわゆる認知療法あるいは認知行動療法の基本にあります。

起きた事実は変えられないし、心の反応としての苦痛を消し去ることはなかなか難しい。でも、認知や行動パターンについては選択したり変化を加えることは可能であり、それによって不安を和らげていくことも可能である。そこに問題解決の糸口があることを語り掛け、相談者と一緒に具体的に検討していく作業が、この心理療法には必要になってくるのです。


ところが当たり前の話ですが、音楽や芸術上での話ならともかく、ことカウンセリングの領域では、その違いや多様な真実性を楽しむなどという悠長なことは言ってはいられません。その多様で複雑な物事の捉え方ゆえに、人は苦しみ悩みや不安を抱えていると考えるからです。そして、わたしたちはその悩みの本質を見抜いた上で、問題解決へと導いていく必要があるからです。

でも、なかなかうまくは言ってくれないのがこの世界でもあります。認知行動療法は決して万能薬的な効果をすべての人にもたらすものではありません。これこそまさに、十人十色、同じ悩みでも問題解決へ同じ道のりは一つとしてないのは今も昔も変わりはありません。しかしそのことは同時に、わたしたちひとりひとりが、かけがえのないそれぞれの価値をもった人間であることの証でもあります。

カウンセラーは人の抱える悩みだけではなく、それぞれの人に確かに備わっている「もの言わぬ価値」にも気づき寄り添う必要について、常に肝に銘じておく必要があると思っています。(2015108日)
メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave麻布十番 

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by yellow-red-blue | 2015-10-13 15:06 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、カウンセラーとして、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。ブログのどこかに、読む人それぞれの「わたし」や「だれか」を見つけてもらえたら、と思っています。


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