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優しい気持ちでいられるために(Ⅱ)~ 小雪の頃'15

 癒しや絆とは、突き詰めれば人と人との様々な「ふれあい」ということにもなるでしょうか。ふれあうことの意味や役割が変化し、またそこから疎遠になりがちなわたしたちの生きる今の社会を象徴する言葉ともいえるかもしれません。

 互いを理解し、親しみや信頼の気持ち、あるいは愛する感情を育み、心を通わせるための様々な表現手段、心の相互作用としての「ふれあい」。「考える」より「感じる」、「見る」「読む」に偏らない五感を使ってのコミュニケーション手段といってもいいかもしれません。わたしたちには、いつしかこのふれあいが不足し、「ふれあうこと」に不器用になってしまったのかもしれません。もちろんこれはあくまで個人的な印象です。

 個人的な印象といえば、以前幼児や児童とその保護者と交流する仕事をしていた時にしばしば感じたのは、子ども達が文字通りお互い「触れ合う」遊びをあまりしなくなったかな、ということでした。いっそう進化したゲーム機や流行りもの玩具が子ども同士の間に割り込み、遊びを通じた心身のふれあいを妨げているかのように見えて、自分が子供だった頃とは随分と違うなという感想を持ったものでした。お互いの感触と匂いを肌で感じ、様々な言葉と表情、しぐさを交わしながら成長する機会が少なくなった子どもたち、それを知らずに成長する子どもたち
 
 昔はよかった式の物の言い方はいつの時代もあるもので、時代が変われば人も生活も言葉だって変わっていくのは自然の流れです。変わったからといってそれが悪いということにはなりませんし、あまり的を得た公平な見方ではないと思います。ただふれあいは、肉体的にも精神的な意味でも、人間と言う生物にとってはとても大切な儀式というか活動なのでしょう。それが急激な時代の移り変わりとともに形を変え、必要性が薄れしたがって学ばなくなり、見えなくそして意識されなくなり、いつしかそうしたものがあったことすら忘れられてしまってきたのかもしれません。そして、今やふれあいは、ITネットワークコミュニケーションに取って代わられたかのようです。

 先日、あるメンタルヘルスに関するセミナーで講師の先生がおっしゃっていたことは、「今の人たちが誤解しているのは、電子メールは情報伝達手段ではあっても決して真のコミュニケーション手段にはならない。」ということでした。IT技術のもたらす様々な恩恵と将来のポテンシャルは疑うべくもありません。パソコンや携帯スマホによるやりとりもコミュニケーション手段ではあるのでしょう。

 ただ、おそらく講師の先生がおっしゃりたかったことは、ITに比べ直接の人間同士で交わされるコミュニケーションにおいては、実はお互いについてはるかに多くの情報をもたらすことが可能で、それらは複雑かつ重層的に絡み合みあいながら、よりダイナミックな相互作用と関係性をもたらすものである一方、ITはそれを補完する道具として重宝するものであっても決して代用することはできない、ということなのでしょう。
 そして、にもかかわらず現代社会ではあたかもITがそれらを実現する同じ「手段」としてイコール並列的に捉えられ浸透して、それで「済ませ」ている、それで「お互いは分かりあえた」かのような幻想を抱かせ、かえっていっそうの誤解や疑念、不正、余計な意思疎通確認を日々生み出し繰り返している、という問題をその先生は指摘されたのでしょう。視覚によって得られる情報を「処理」したり「考える」ことに偏り、かつてのわたしたちが自然に体験していた、五感を駆使することで人を感じ、理解してきたことを忘れがちな現代社会を象徴しているともいえるのではないでしょうか。

 こうしたことは、カウンセリングの場ではより一層顕著なこととして実感されますし、多くの人も日常生活の経験の中で薄々とは感じていることなのでしょう。
 なぜなら人間はその本能あるいは習性として真のふれあいを渇望する生き物で、それは決して他では代用することができないはずのものだから。そこで再び真のふれあいの模索が始まり、それを解釈する新たな言葉として「癒し」「絆」なるものを編み出す。だから「癒し」「絆」という言葉そのものは古くからある日本語でも、その意味するところ、背景は違うものなのだということを何となく最近理解し始めたところです。

 でもふれあい慣れしていない現代のわたしたちは、なかなかよいふれあいを持てずに、どうしてもぎこちない生き方を選びがちなのかもしれません。インターネット世界でのバーチャルなふれあいから、お金を払っての様々なふれあいの形(今流行のエステやマッサージ、ペット飼育などもそうなのかもしれません)をなんの躊躇もなく求めがちです。その程度ですめばまだしも、暴力や虐待、ハラスメント、痴漢や盗撮、買売春などの性犯罪行為に至るまで、いびつに膨れ上がったふれあいを渇望する極端な行為に走る人々もいて、バランスのとれたふれあいを求めていくことに苦慮するわたしたちの今を見るような思いがします。

 先月末、東京の街はハロウィーン一色のような大騒ぎでした。いつの頃からこんなに一大イベント的お祭り騒ぎになったのかしら、と思うほどの世代を超えた弾けように少々戸惑いと違和感を覚え、つい無駄な外出は控えようと尻込みしてしまったものでした。そのハロウィーンの終わった翌朝、休日にしてはけっこうな乗降客でごったがえす最寄り駅の改札口付近で、じっと抱き合っている若いカップルの姿がありました。それこそちょっと異常なまでに相手をむさぼるかのように抱きしめ、陶酔しきった感じで、行く手を塞ぐまわりの迷惑なんてあまり気にも留めない様子。
 
 「若いっていいですね~」などとほほえましい眼差しを向けたいところなのですが、でも見ているこっちが気恥ずかしさを覚えるような、ちょっとうらやましい幸せ一杯の恋人達の風景とはどうも様子の違う、なにやらちょっと不自然でぎこちないといいますか、むしろそんな自分達を露出していることを実感したいかのような空気が漂い、今風にお下品な言葉遣いでとても心苦しいのですが、『何だか妙にウザく、暑苦しいオーラ出しまくり』の様子なのでした。
 今回に限らず時折そんな光景を街で見かけます。やっぱりこれって不慣れな一種の歪んだふれあいの形なのではないかなぁ….

 と、オイオイちょっと待ちなさいよ、そんなよく事情のわからない街中のカップルのことにいちいち「ウザく暑苦しい」だなんて。なんのことはない、わたしにもやっぱり「ふれあい」が足りていないのでは。
 単にカルシウム不足とかだったらいいのだけれど.....(2015年11月20日)

メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 麻布十番

 ✽今月の無料相談日は1127日です。


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by yellow-red-blue | 2015-11-21 00:36 | Trackback | Comments(0)

優しい気持ちでいられるために(Ⅰ)~ 立冬の頃'15

 先日街を歩いていると、目の前のお店から出て前を歩く若い女性2人の会話が自然と耳に入ってきました。
 どうやらそのお2人、店先に行列ができるような最近流行りのパンケーキのお店で食事をしたようなのでした。

 「あ~食べたぁ、どうだったここ?」
 「美味しかった。ワタシ的にはアリかな。」
 「ハァ~(しばらくして)、久し振りに深く癒された。」
 「だよね。じゃ、あの新しくできたZARA的な店次行ってみる?」

 ウ~ン、なるほど。深く癒された、か。若い世代の感性というか言葉の選択に、違和感を超え正直感心してしまいました。なにやらとっても実感がこもっていたものですから。
 
 随分と前から、「癒し」という言葉やそれに類する表現が、現代社会を象徴するキーワードとして、街や日常生活、はたまたビジネスへと広く浸透しています。その言葉としての使い方というか使い勝手たるや、それこそ無限大といった感じが正しいかもしれません。尊敬するある年長の方に、以前こう指摘されたものです。「最近何かって言うとすぐ癒し癒されたいのって不快ね。だいたい使い方が間違っているわよ。言葉としての表現が貧しすぎるのよ。」とまぁかなり手厳しいです(わたしが叱られたわけではないのですが)。たたみかけるように、「あのね、書いたり読んだりするのが難しい字には、それなりの奥深さと含蓄があるものなんです。」とも。

 おそらくは、そんな日常的にそして安直に言葉として表現されるものでなく、心のもっと深い部分で感じ取り、理解すべき含蓄深い精神世界の話だということでしょうか。そして、その言葉が使われるべき本来の領域にたどり着く前に普通にもっとできること、表現があるだろうに、と。「癒し」という言葉を使う必要のある領域に行かざるを得ない状況の前にできること、言葉の持つ含蓄の深さを学習、経験することなしに生きてきたがために、そうした難解な言葉に安易にすがりつく結果として、本来それが本当に必要な場面や人を飛び越え、上滑りの安直な言葉だけが世の中に漂っている、ということでしょうか。

 そんな大袈裟真な、と思いつつも、いまだに「癒し系~」なんて聞くと正直背筋がゾクッとしてしまうわたしにとって、たしかにそういうこともあるのかなぁ、といまだふと感じることもあります。
 ただ同時に、そうした奥ゆかしいはずの言葉が頻繁に登場しなければならないほど、わたしたち現代人は、ここずっとしばらくある意味病んでいるか、あるいはそれらを渇望しているのでは、とも思うのです。

 「絆(きずな)」という言葉も同じでしょうか。
 東日本大震災という未曽有の大災害によって、多くの日本人の心と脳裏に深く刻み込まれたこの意識感情は、その後も、「絆」「きずな」「キズナ」はたまた「kizuna」として、世の中を席巻していきました。「癒し」と「絆」、この二つの言葉に何らかの形で接しない日はないのではないかと思うほど、いまもって世の中には満ちあふれているようです。

 わたしたち人間には、ある種の強い不安や生存をおびやかされるような脅威を感じたり経験したりすると、誰かと一緒にいたい、誰かとつながっていたい、一人ではいたくない、皆で一致結束したいという欲求が働きます。このようなものを「親和欲求」といい、そういう欲求を満たすために「親和動機」が働きます。

 たとえば、東日本大震災のような大災害が起きた場合もそうですし、オリンピック競技やワールドカップ大会のように、真剣勝負で勝ち負けがかかっているようなスリリングである種不安定な緊張感情が支配するような場合、気分が高揚し、普段意識しない「国」や「国民」「日の丸」が感情として共有される場合もそうです。「絆」もそうした動機から自然と浮き出てきた感情表現です。今さらながら良い響きだと感じられずにはいられません。

 ただ気になるのが、さきほど「癒し」でも触れたように、スローガン的な言葉だけが上すべりして、ある種の虚しさ漂う陳腐な表現が満ちあふれていると感じさせる状況がある一方で、わたしたちの身のまわりには(大震災の被災に遭われた方々に限らず)、救いの声が届かぬ世界に囚われ、決して癒されることもなければ、周囲との絆など意識できようはずもない、深い悲しみと絶望に打ちひしがれ、出口の明かりすら見えない長い暗いトンネルをさまよう人々、時間が止まってしまっている人々が数多く懸命に生きていらっしゃいます。あるいは逆に、「頑張ろう日本」や「前を向いて」の空気や社会的配慮に自分を封じ込め明るく振る舞いながら、その実心には苦悩が蓄積していることに気づかない人もいるに違いないと思うのです。

 そうした方々にとって、高らかに宣言されるこうしたたぐいの言葉や空気は、果たして心に届いているのだろうか?本当に意味があるのだろうか?逆に彼らを遠くへ隅へと追いやってはしないかと、ふと考えてしまうのです。
 困難に立ち向かう大勢の人々がいる一方、その真の苦悩からは実は距離も境遇も遠く離れた自己満足と功利性剥き出しの表現手段を、わたしたちは濫用してしまっているのではないか?そして、本当の意味の「救い」、「癒し」と「絆」とは、いったいどのようなもので、悩める人とどのように関わっていくべきなのか?

 仕事柄とはいえ、若い世代の何の気なしの会話の断片から、大袈裟にも言葉の持つ重みについて、猛省あるいは考えさせられました。(2015年11月5日)

メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 麻布十番

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by yellow-red-blue | 2015-11-06 22:45 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心安らぐ経験や出会いなど、時にカウンセラーとして、時に仕事から離れ、思いつくままつらつらと綴っています。


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