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花咲く季節はやってくる ~ 春分の頃’16

 

 「暑さ寒さも彼岸まで。」春分の日を迎え、日に日に明るい時間帯も延び始めてきました。少なくとも東京では、冷たい風と厳しい寒さがようやく和らぎ、気温も徐々に上昇を始め、日中の太陽の光も力強さを増していることを実感します。ほのかな春の木花の香りとともに、みずみずしくも柔らかな空気があたりを漂い始め、桜の開花とともに心待ちにしていた新しい季節の訪れももう間近です。個人的には、四季の移り変りを肌で感じることのできるこの国に生まれて本当によかったと心から思うときが今のこの時期です。長い冬の眠りから生き物全てが起き出し、新たなエネルギーと生命の息吹を感じるこの季節。自然や生命の営みをたたえ、生き物すべてを慈しむ日として、春分の日が国民の祝日となっているわけですが、自然とはいいものだとつくづく感じるのもまた今頃でしょうか。

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麻布十番は、活気ある昔ながらの商店街風情を残しつつ、地元はもとより多くの買い物客や観光客が外から押し寄せるいってみれば流行とトレンド発信の街です。カウンセリングルームはそんな街のちょっとはずれのひっそりとした界隈にあります。と、なにやら気取って書いていますが、実情は今言うところのミニマリストを地で行くような至って質素でこじんまりした(つまりは狭く何もない)空間です。ひとつだけ密かな満足を覚えるのが、東京のど真ん中のビル群に囲まれた界隈にあることを忘れせる、窓からの緑の眺めと静けさです。部屋の目の前には、狭いながらうっそうとした木立や草花が広がります。隣の敷地との境に目隠しに植えられている小高い樫の仲間やサカキ、ひいらぎなどの常緑広葉樹、きんもくせいに背の低く刈り込まれた笹、小石を敷き詰めた塀沿いの小道の隙間に見え隠れする草花が日々目を楽しませてくれます。


窓の外の木々をゆする風のささやきや鳥のさえずりに耳を傾け、小さな植物のひとつひとつに注意を向け、草花の間をひらひらと舞う蝶や餌をついばむ小鳥の動きに見とれ、建物の谷間からわずかに見える高い青空を揺れるちぎれ雲を体内に吸い込むように見上げたりしていると、日々の暮らしのなかで無用の緊張と不安に尖ってしまいがちでストレスに疲れた心がときにふっと楽になることがあります。そして普段いかに自然とその営みに込められた深い生の喜びに無関心であったかをときに痛感します。


“美しいものは、目と耳の使い方さえ理解すれば、どこにいようとかならずわたしたちの周囲にある。そして腹立たしいこと、くだらないことすべてを高く越え出て、内面の均衡をつくりだしてくれるのです。” 

 (『ローザ・ルクセンブルグ 獄中からの手紙』大島かおり編訳 みすず書房)


ローザ・ルクセンブルグ(1870-1919)は、学生時代から社会主義運動に加わり、政治亡命や幾度の投獄の境遇に見舞われながらも、ドイツ社会民主主義陣営の運動とその後のドイツ共産党の創始者としてその名を歴史に刻む政治理論家、革命家です。反戦活動にも力を注ぎ、妥協なき過激な革命指導者としての勇猛さのイメージや歴史評価がありますが、しかし彼女の遺した数々の書簡や獄中からの手紙から垣間見えるのは、自然や生き物への造詣厚く、芸術をこよなく愛し、そして小さき者、弱き者への限りない愛情と優しさとに満ち溢れた、繊細で人間味豊かな女性像です。



不思議なことに、周囲のささやかな自然の営みに意識の注意を向け始めると、かえってその自然のスケールの大きさと神秘性をあらためて感じます。そして私たち人間という存在もまたちっぽけながら、全き奇跡と神秘のなせる業では、とも思い当たるのです。ひとりひとりがはるかに大きな営みの確かな一部として存在しているという確信は、それが一時的な気休めに過ぎないとしても、今の慌ただしい世の中ではとても大切なことにも思えてきます。私たちの心も所詮はこうした大きな営み中のほんの小さな歯車の一つに過ぎず、だから結局はなるようにしかなりようがない、と時に自分を手放すことができると、なぜだか気持ちが随分と楽になることもあるものです。


悩むときも、希望が欲しいときも、自分を戒めるときも、自分の世界が日に日に小さくならないよういつでも広く大きく遠い眼差しを意識していく。そのために自分がずっと大きな世界の一部であり、そこに身を差し出すことで生きているちっぽけな存在でありながら、でも他の創造物と同じく自分もまた奇跡そのものなのだと信じていくことはときに必要なことなのかもしれません。


    “雲と小鳥と人の涙のあるところ、そこがすべてわが家なのです。“

     (『ローザ・ルクセンブルグの手紙』ルイーゼ・カウツキー編 岩波文庫)


 革命指導者として激烈な生涯を送った彼女の言葉であまりに気恥ずかしいですが、私のカウンセラーとしての密かな座右の銘です。


 何事につけままならないのが私たちの生きる世であり、私たちの人生なのでしょう。「生きていかねばらならない一日一日が、苦労してよじ登らねばならない小山のようで、些細なこと一つひとつにひどく心が痛み乱れる(ローザ・ルクセンブルグ)」時もしばしばあるはずです。


それでも花咲く季節はやってくる。

人生は美しく、生きる価値がある。そう信じ続けるため、ほんの少しの時間でも自然と謙虚に向き合うことは、都会に住む私のような人間にとってきっととても大切なことなのでしょう。


メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 麻布十番

~いつもお読みいただいてありがとうございます~

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by yellow-red-blue | 2016-03-19 23:59 | Trackback | Comments(0)

ただ理由(わけ)もなく ~ 春分の頃’16


「その音楽止めてもらえる?」 

「え?どういうこと?」

「それ聴いているとものすごく気持ち悪くなる。お願いだから。」


 訪ねてきた長い付き合いの友人が私と会うなりこの言葉を漏らしたとき、私の仕事部屋に静かに流れていたのは、モーツアルトの管弦楽曲でした。神童と呼ばれ不朽の名作の数々を残し、それらは今もって人々を深く魅了し続け、音楽の歴史にその名を刻む偉大なこの音楽家の作品は、現代では傷ついたこころに安らぎと安定をもたらし、さまざまな実験や実際の現場においてその高いリラクゼーション効果も確認されているヒーリングミュージックの代表格でもあることはよくご存じのことと思います。私も幼少の頃から聴き親しんでいたもので、たまに仕事の合間やプライベートな時に部屋の中で音楽を流すことがあります。この友人が訪れたのはそんなときでした。

 人それぞれ音楽には好みがあり、好き嫌いがわかれるのは当然のこと。また、その時の気分や置かれた環境や状況で、音楽を聴きたいときもあれば聴きたくないときもあります。でも、モーツァルトを聴くと「気持ちが悪い」といきなりやられるとこちらも正直「気持ちが悪い」のです。好き嫌いはあっていいのだけれど、『モーツァルトを聴くと気持ちが悪くなる』という表現にはついぞ今まで出会った経験がなく、なんとなく自分もまるごと否定されているような気分にもなってしまう。つまりある意味ショックでもありました。いったい私の友はどれほど気持ちがささくれだっているのかと。


苛立ちにも近い戸惑いに「わかった。でも、何でダメなの?」

と、こちらをキッと睨み付けるようにその友人は言ったのでした。

「理由が必要なわけ?嫌なことに。」


 そこではっと我に返りました。友人の本当につらそうなその表情を見て。時に私たちに理由(わけ)なんてきっと必要としないのだと。ひとが何かを好きになったり嫌いになることに、何かをしたいと思ったりやめてしまいたいと思った時に、辛いとき、悲しいとき、寂しいとき、泣きたいときに。私たちは本当の理由(わけ)訳なんて知りたくないし、知らないのかもしれないのだ。ただそうだからそれをしたりしなかったりするのだ。ただそうしたいからなのだと。

確かに心の奥底には何らかの原因はあるのかもしれません。つきつめれば思い当たる理由が芋づる式にあれこれと出てくるかもしない。でもだからといって、それが今の自分の気持ちや感情を正確に表現しきっているものなのか、上手にそれらを落とし込めているものなのだろうか?それは所詮、他人やあるいはひょっとすると本人にだって容易には理解できないことなのかもしれない。だから「理由(わけ)などない」というのが実は一番真実に近い本音の感情かもしれません。


理由を探そうとする、求めようとすればするほど、説明しようとすればするほど嘘になってしまう気がする。真実から遠のいて、誤解を招いてしまうような気がする。時が経てば別の思いが頭をよぎるかもしれない。でも本当は、理由(わけ)などない。ただそうなのだ。その気持ちだけは真実。その気持ちが一番大切。上手に言いたいことが言えているのかどうか自信はありませんが、そんなことをふと考えることってみなさんにはないでしょうか?ただ理由もなくなんてあり得ないと考えるのは周囲の勝手な思い込みかもしれません。

友人の例でいえば、「気持ちが悪い」その「つらさ」そのものを、理由や原因を求めずにただわかってあげる、その気持ちを受け取ることが本当は必要だったのでしょう。理由もなく辛い思いを表していることそのものに対して真剣に目を向けてみることへの大切さが求められていたのでしょう。

でも言葉では「わかった」と言いながら、その舌の根も乾かないうちに「でも、どうして」と原因探し、犯人探しを始めてしまった私。実のところ何もわかってはいなかったのです。私自身が納得あるいは安心したいためにいやもともと気持ちに寄り添う気がなく、あるのは「何故なのか」を知ろうとする個人的な欲や自己防衛の本能に過ぎなかったことを思い知らされたのです。


理由は?、何のために?、解決策は?、とたたみかけることはすなわち、「待てない」「信用していない」周囲が存在すること、苦しみを抱える人を受け入れることよりも、自分や企業や社会への適応を早急に促し、物事を迅速に普段通りに普通に対処することへの体のいい働きかけでしかない、と時に思ってしまいます。無関心ではいられない理由の大半は相手へのおもいやりとはかけ離れた、こうした他人事的な欲求なのかもしれません。


周囲を説得するため、自分を納得させるため、円滑な社会生活を営むために私たちには何かにつけ理由が必要なのでしょう。しかし、理由など所詮後知恵でしかないとも思ってしまいます。

私自身の経験で一番思い当たるのは、かつて勤めていた会社を辞めたときでした。いろいろな理由、その時の状況や将来についての思いなど、色々挙げればたくさんあったでしょう。時間が経過し少し冷静な距離で眺めれば、もっと別の理由だって考えつくはずです。でも、何故辞めたのかと問われれば、一番誠実でずっと変わらないこころの回答は「辞めたかったから」でした。それが一番スッキリするのです。


私たちは原因や理由を探りがちであり、いつも客観的な根拠、納得できる根拠を探し理解したという感情を共有したいと思いがちです。そうでなければ理解できないと言わんばかりに犯人探しを始める。原因を求める。ホッとしたいがために。安心したいがために。

でも本当は物事を感じたり考えたり行動する真の理由なんてときに意味をもたないのかもしれません。原因はあるのだがそうなってしまう理由は本人にだってわからないかもしれません。原因や理由を究明するまでには、長い道のりがありそれは常に変化し複雑なものです。私たちはそれをすべてたどることができるのか、待つことができるか、そこへ思いを馳せることがきちんとできるのでしょうか。


私たちのこころほど複雑でおぼろげ、そして不確かな世界はありません。そこには原因と結果があり、刺激に対する反応や行動があり、人の心の営みや行動を実証的なデータや科学的根拠に基づいて解明するのが心理学である、とは言うのは至極もっともなことなのかもしれませんが、でもそれではどうにも腑に落ちない多くの事柄について、どれだけ私たちは日々痛感し、理解をしているでしょうか。


私たちそれぞれに自分の思い描く景色があり、「理由などない」自分がいる。そうした自分を信じることができれば「理由などない」と胸張って前に進むこともできる。そして自分を信じることの大切さを他者に伝えることもできる。何かを感じたり苦しんだりするとき、したくない、できないことに「理由(わけ)なんかない」、ただそういうものが存在するということにもっと深い眼差しを向けるべきなのではと思っています。


理由の見えないところ、容易に理由はこれだからといえない苦しみに寄り添い、決して見捨てず、待つ勇気を持つ社会、理解を示す度量と柔軟さと思いやり。話は飛躍するかもしれませんが、現政権の高らかに掲げる「1億総活躍社会」の含むところにこうしたメッセージもあることを切に願うばかりです。

メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 麻布十番

~いつもお読みいただいてありがとうございます。~

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by yellow-red-blue | 2016-03-18 20:47 | Trackback | Comments(0)

フロイトと絵画 ~ 啓蟄の頃’16

 
 最初にお断りしなければなりませんが、タイトルから想像されるような濃厚な精神分析の世界や臨床心理学的知見のお話とは全く無縁の、たわいもないごく日常のお話ですのでどうかご容赦のほどを。


「ちょっと、これって詐欺だわよね~まったく。」

 まあまあと言いつつ、しかし密かに笑いを噛み殺しながらその方のお話を伺っていました。先日ある知人宅にお邪魔した際、彼女が最近訪れたある美術館で開催されている展覧会に対して一言モノ申していらっしゃったのです。

日本ではつとに人気の高いヨーロッパ絵画の巨匠2人の特別展ということで彼女が友人を誘い出かけたところ、その告知ポスターやパンフレットの宣伝文句とは裏腹に、有名作家2名の作品はそれぞれわずか1点ずつ、あとは別作家の作品ばかりだった、ということで冒頭のセリフとあいなったわけです。

 注意深く見れば、どうやらすべての作品が2人のものではないことは伺えるものの、確かに展覧会タイトルやポスターデザイン、宣伝パンフレットのうたい文句などから察するに、客寄せのための「誇大広告」「抱き合わせ商法」的と言えなくもない内容にも思えました。芸術鑑賞に慣れていらっしゃる方ならそのあたりは織り込み済みで特別珍しいことではないと考えるところかもしれませんが、巨匠の作品の鑑賞を期待して訪れた多くの方々は、やはり彼女と同じ思いをされたに違いありません。


 「そりゃこういう絵画を持ってくるのは大変でしょうから、展示作品の全部とまではいかないのはわかるわよ。でもあの宣伝のしかたで、展示の中のたったの2作品だけというのはあまりにひどいでしょ?」

ええ、まぁたしかに。事実、彼女によれば美術館側もそれを薄々承知して、チケット販売スタッフの方がそのあたりわざわざ確認をとっていたそうです。つまり「実際には2作品しかありません。それでよろしいですか?…」ということを。そんなあたりも彼女にとってはなおさら気に障ったようで、「そんなお断りしておきますがみたいに言うなら、もっと事前にはっきりしておくべきじゃない?あんなポスター作って一般常識人ならあれ見たらどうとるかなんてわからないはずないでしょう。全く頭にきちゃう。ああいう商売しちゃダメですよ。」

ええとハイ、確かに美術館も商売には違いはないですからその通りですね。で、それで頭にきて観るのをお辞めになったのですね?

「観たわよ~もちろん。交通費と時間をやりくりしてきたんだから、今さらハイじゃやめておきます、なんて言えるわけないじゃありません?ホント癪に障るったらありゃしない。」

ハハハ、そうでしょうね。(気持ちを切り換えるつもりで)でその2作品はやはり期待通り素晴らしかったのでしょう?他の作品にしても優れた芸術には違いないでしょうからいい作品なんかあったのではないですか?私も絵画鑑賞は好きな方ですのでそのあたり

「え?もう何だか最初からガッカリさせられちゃったから、特に印象に何も残ってないわね。どれもこれもそう。まあまあだったかしらね。ササーッと見て出てきちゃったわよ。」


ササーッとですか、と思いつつも、私たちにはそんなところもあるかなとも思いました。こうしたネガティブな情報が事前に脳にインプットされ、期待はずれというマイナスな思いのフィルターができてしまうと以降フィルター越しに物事を認識しがちな傾向にある私たちの脳は、言ってみればかなり気まぐれな存在です。逆に言えば私たちの行動は、ある種の権威や社会的評価、ブランド志向によるお墨付きがあると、つい無条件に信じ受け入れてしまうといった心理的傾向があるために、ときにある意味合理的でない判断をしてしまうということがあるのは、皆さんもご経験がおありなのではないでしょうか。こうしてみると、ぶれることのない自分自身の評価や判断、それに基づく選択がなかなかできないのがわたしたち人間なのかもしれません。



話は変わりますが、私も時間があると美術館へたびたび足を運びます。私にとってそれは気分転換あるいはストレス解消の方法でもあり、現実逃避の一手段ともいえなくもない、いってみればこころのオアシスのような存在です。最近では、より多くの方々に飽きさせることなく芸術作品に親しんでもらえるよう、美術館も様々な工夫を取り入れているようです。テーマや切り口が斬新な展覧会を催したり、より詳細でわかりやすい解説用パンフレットや作品リスト、会場に設置される凝ったディスプレイや音声ガイド、専門家による講演会や付随イベントなどなど、おかげで私たちも様々な楽しみ方ができるようになりとても喜ばしいことのように思います。

こうした展覧会での芸術作品の楽しみ方は人それぞれですが、私にもいつ頃からか私なりの鑑賞スタイルというか独特の一風変わった鑑賞のコツが身につくようになりました。


その1つは、作品や作者に関する情報、見どころや作品の芸術的・歴史的評価などの情報に事前に接することはせず、また展示の順番にも関係なく、ひたすらゆっくり接することができる作品から始めて、じっくりひとつひとつの作品と向き合う、というものです。もちろん展覧会について最小限の情報や知識は持ちあわせますが、その他の予断や予備知識を捨て、作品をランダムに自分なりの感性でまずはよく味わってみるのです。そして自分が感銘を受けた作品は繰り返し戻っては見るを繰り返す。パンフレットや解説、展覧会場での文字情報(ときに作品の題名さえも)は鑑賞後にゆっくり読んだりします。多くの来場者で混雑しがちな優れた作品の展覧会をどうしたら自分のリズムで心行くまで楽しめるだろう、と思いあれこれ模索の結果からこの方法に落ち着きました。


2つめは、作品の見方というか態度です。作品をじっと見つめはするのですが、あまり細部にこだわらずむしろ絵全体として、そのまま自分の中に写し取るイメージ、あるいは逆に作品に身をゆだねる感じというのでしょうか。力を抜いてリラックスしながら、視覚を用い頭で理解しようとするよりも、むしろカラダの中にそのまま取り込み受け取るような意識とイメージを持ってみることにしています。

そうしてしばらく作品に接していると、自分の中で次第に様々な想像力や情念が活性化され、後からじわじわと湧き出してくるものに気がつくことがあります。それはもはや作家の作品意図を超えたところのものかもしれませんが、より一層その作品の深部に到達したような感覚を覚え、結果細部へのこだわりや芸術性がいきいきと感じられるようになってくるのでちょっと不思議です。あとになって作者や作品についての詳しい解説や知識に触れ、自分の中の評価との比較を楽しむことにより作品の本質への理解がより一層深まるという次第なのです。こうすることで正しい鑑賞距離や作品と額の関係、額縁そのものの素晴らしさなど、作品周辺のいろいろなことも次第に理解が深まった気がします。あくまで「気がします」というレベルですが。

かの作品を客観的な評価に即座に浴するのではなく、主観的にそっくり取り込みそれを自分の内面(主観)と対峙対話させ相互反応させることによって、無意識的に浮かび上がるメッセージ性を楽しむとでも言ったらいいのでしょうか。


ただ、何かこういわく表現しがたいとても感覚的な話なので、うまい説明が見つからなかったのですが、あるときまさにピッタリの言葉に思い当たったのです。私にとってはまさに『灯台下暗し』と言う感じなのですが、心理学に明るい方ならよくご存じの精神分析学者のフロイトのあまりに有名な一説がそれです。

『どのようなものに対してであっても同等に向けられる漂うような注意のあり方、ボーッとした態度』

これは精神科医など心理療法を施すセラピストが相談者の話を聴く際の基本的な態度や姿勢として、フロイト先生が答えた言葉です。短いながらなかなかウンチクと噛みごたえある表現であり、カウンセラーにとってはある意味とても共感し得る姿勢に思います。観察することを放棄するわけでもなく、またただ漠然と接するわけでもないが、さりとて様々な予断や考え、意識や集中にとらわれ過ぎない絶妙なるバランスと自然体をもって臨むことが求められるということなのでしょうか。かえって対面していた時には気づかなかった部分があとからじわじわと浮かび上がるということがあります。集中力と観察力、事前情報や経験に基づいた現象の把握だけが人を見ることではないのでしょう。あまりに話の内容を理解することに集中しすぎていたり、相手のことを聴いているようで実は自分の考えを思い巡らせているだけで、結局相手から発せられているその他多くのメッセージを見逃していたり意味を取り違えてしまったりすることはしばしばあることです。「木を見て森を見ず」ということなのですね。


ついでと言っては何ですが、ここまで書いてきた文脈と少し異なりますが、フロイト先生同様なかなか味わいのある表現をちょっと長いのですが引用します。


『一つか二つの点は並外れて明晰に見るんだが、そうすることで必然的に、全体を見失ってしまう。深く掘り下げすぎて過(あやま)つ、ということもあるのだ。真実はつねに井戸の中にあるとは限らない。実際、重要な事柄に関しては、決まって表層にあるものだと僕は思う。深さは我々が真実を探す谷間に存するのであって、真実が見つかる山頂にではない。この手の過ちがどんな形をとり、どう生まれるかを考える上で好例となるのが、天体を眺めるという営みだ。ある星をはっきり見ようと思ったら、それをチラチラ横目で見るのが一番だ。その星に、網膜の外側(こっちの方が内側より弱い光に対して感度がいい)を向けることで、その光具合が一番よくわかる。全面的に目を向けてしまうと、それに比例して光は弱まってしまう。目に当たる光線の数としてはその方が多いんだが、チラチラ見る方が光を把握する力は精緻なのだ。過度の深みによって、我々は思考を惑わせ、弱めてしまう。あまりに長時間見たり、あまりに集中したり直接目を向けすぎたりすることで、金星それ自体すら天空から消してしまいかねない。』

エドガー・アラン・ポー『モルグ街の殺人』(「アメリカン・マスターピース古典編」柴田元幸訳、スイッチパブリッシング出版)


芸術鑑賞がカウンセリングスキルの向上に一脈通ずるものがある、と断言するにはちょっと都合のいいあまりに我田引水に過ぎる話でしたが、密かに私が日頃実行していることなのです。




私たちの生きる社会はとかく慌ただしく複雑で、肉体以上に精神を酷使しがちです。ありふれた言い方になるかもしれませんが、心のオアシスと呼べるそんな心のあり場所(居場所)をさまざま模索してみるのも大切です。あまり堅苦しく考えずに、とにかく好きだ、特別に理由はないがなんとなく続けている、気持ちが落ち着いたり前向きになれる、といった「日常のささやかな営み」を大切にしたいですね。そうしたことが日々の行き詰りを解消する何らかのきっかけを与えてくれものと考えているからです。


メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 麻布十番 

 ~いつもお読みいただいてどうもありがとうございます。


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by yellow-red-blue | 2016-03-04 20:30 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、カウンセラーとして、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。ブログのどこかに、読む人それぞれの「わたし」や「だれか」を見つけてもらえたら、と思っています。


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