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今日はどうされました? ~ 穀雨の頃’16


 

 ちょっと変な質問かもしれませんが、これは病気かも、と疑ったり、体の不調を感じたにもかかわらず、医療機関を受診するのをついためらってしまう、という経験はおありでしょうか?

 私たちが病気になったり健康に不安があれば、医療機関を受診するのはごく当たり前の行動です。医師など専門家による診断や検査などで体調不良の原因が判明し、何等かの治療行為や薬の処方が行われ、結果病気が治ったり症状が改善して、ひと安心し気持ちも楽になったりするわけです。しかし、ときにそうとはわかっていても、あるいは放っておけば良くなるどころか悪化するかもしれないとわかっていながら、つい、受診を先延ばしにする、二の足を踏んだりしてすることを多くの人が経験しているのではないでしょうか。

 そうしてしまう理由はいくつか考えられます。たとえばこれくらいの症状であれば過去の経験から判断して、わざわざ病院へ行かなくても家で23日休養したり、あるいは市販薬を服用すれば症状が回復するだろうとの楽観的な見通し・期待ができる場合があるでしょう。また、仕事が多忙で医療機関を受診したり検査に時間をとられる暇もないという状況も考えられます。

 その他では、治療に伴う様々な肉体的苦痛を予期し尻込みしてしまう場合もあるでしょう。予防接種や採血などの注射、歯科医による虫歯の治療、内視鏡検査等々苦痛を伴うであろうとの想像と恐れは人を予想以上に委縮させてしまうものです。病院施設や白衣に対するアレルギー的拒絶反応、通院や長い待ち時間などの負担にも人は敏感に反応しがちです。

さらには、医療機関を受診し検査した結果、想像以上(あるいは内心恐れていた通り)の深刻な病気であることがもし分かってしまった場合の、そのことと向き合わなければならないことへの恐れや精神的負担の忌避感情からくる場合も多いかもしれません。

さしたるはっきりとした理由はないがとにかく医者嫌い、病院嫌いと言われる人も含め、今挙げたようなことの一つや二つは誰しも覚えがあることで、それは人間である以上致し方ないことかもしれません。なにかよっぽど特別なキッカケや経験でもしないかぎり、こうした考え方や行動パターンは治ることはないのかもしれません。ちなみに私などはどれも経験があります。

 

 ところで、これらとは別次元のお話ですが、受診する医療機関や医師へのちょっとした不満や違和感を感じ、それが理由で医療機関を受診するのを避けたり、あるいは他の病院に変わるということもあるのではと思います。もちろん完璧に誰もが満足するような医療環境を提供することは難しいことでしょう。どこも様々な制約の中でできるだけ質の高い医療サービスを提供することを心掛けていると思うのです。

ただ、そんな中、医療機関側は特別意識していないごく当たり前とも思えるルーチンが、受診する側からすると戸惑いなり不快を感じることがあるのでは、と先日考えさせられたのが、タイトルにもある「今日はどうされましたか?」なのです。

 私たちが医療機関へ行けば、たいていまずこの種の質問を受けると思います。受診に訪れた人々の簡単な具合を聞き、スムーズな診療と間違いのない的確な治療の助けになる判断の一助として、事前に情報を徴収することは至極もっともなことなのでしょう。

「今日は...」に始まる問診が問題なのではなく、「今日はどうされましたか?」を問いかける状況や周囲の環境への配慮、そしてそれを問うスタッフの問い掛け方というか心構えについて時々少し考えさせられるのです。身体の不調の問題の申告は、何気ないながらも実はセンシティブなプライバシーの告白に他ならず、したがって周囲を他者で囲まれている状況では慎重にされるべきという意識がやや希薄なのでは、と思える場面をよく経験するのです。このことはもちろん症状の内容や受診する診療科、個人の受け止め方等で様々でしょう。単純な風邪や熱、身体の軽傷などは問題ないかもしれません。ですが、実はあまり口には出したくない、周囲に聞かれたくない症状や箇所、状況などは男女を問わずかなりあるはずです。そして気にする程度は人それぞれです。医療機関側からすると治療に来ているのだから聞くのは当たり前、これくらいは大事ないだろう、という気持ちもわからないでもありませんし、もちろんそういう微妙な状況に十分な配慮なりスタッフ教育をしているところもたくさんあるでしょう。しかし私の経験なり周囲の反応を聞いた限りでは、そうしたことへの理解が行き届いているところは意外や少なく、そうした問診が人が集まる受付や待合室などで普通にやり取りされているようです。受付スタッフ(看護師ではない場合も)にまず訊かれたうえに問診表を書き、さらに順番待ちの患者さんがいる待合スペースなどでは看護師に再度問診を受けるといった流れが、オープンスペースで行われていることを私自身幾度か経験しています。その時私たち受診者のプライバシーはほとんど考慮されていないかのようです。同じことは、最近薬剤薬局でも経験しています。場所や状況、薬剤師個人にもよるのですが、むしろこちらのほうが薬剤師とのやりとりを通じて個人のプライバシーがかなり周囲に漏れてしまっていることについて、あまり気が付いていないのではと感じることがしばしばです。高齢者の顧客が多いせいもあり、はっきりとした口調で声量も大きくなりがちなことも原因のひとつだと思います。

余談ですが、近所にある内科クリニックの受付横の掲示板には、堂々とこのような張り紙がしてあります。「ED(勃起不全)でお悩みの方、お気軽にご相談下さい。」しかし先生を除いた数名のスタッフは全員若い女性です。仮に悩みをもつ男性にとって、ここを受診するにはとてつもなく高い壁が立ちはだかっている!?と大変不謹慎ながらもこの張り紙を見るたび思わず苦笑いを抑えきれないのです。


もちろん様々無理を言っているのは重々承知です。忙しくまた限られたスペースで多くの患者をケアしなければならない医療機関からすればできることは精一杯やっていることでしょうし、何かと至らない点もあるのは当然のことです。医療機関を受診するということは、ある意味私たち側にも適切な医療サービスを受け取れるよう病院への協力と配慮ともいうべきある種の「患者力」が必要でしょう。ですが、ときにそうした状況で様々な質問に答え、ほんのわずかな時間でも自らをさらけ出さなければならない人の表情や声、態度に潜む緊張や戸惑いについてもう少し敏感であってほしいと時に思うことがあるのです。

なぜそんなことを感じるかといえば、以前私が受診したクリニックの待合スペース室での看護師さんの応対にほとほと感服したからでした。比較的新しいそのクリニックは、わたしが風邪による発熱で初診で訪れた時も、待合スペースはほとんど待っている人で一杯の状態でした。こじんまりしたクリニックでしたので当然スペースも限られている中、その看護師の患者への対応はそれぞれ個別で異なるものでした。気分の悪そうで元気のない初診の女性には、ちょっと奥まった診察室に近いベンチにゆっくり誘いひそひそ声で問診をし、もうすでに顔なじみで症状もある程度把握している様子の高齢の女性に対しては、はっきりと声のボリュームを上げてその場で当たり障りのない日常会話を絡めながら笑顔で様子に気を配り、初診の私に対しては、周囲に人がひしめく中、ひざ元まで近づき身をかがめ落ち着いた一段低いトーンの小声に変え状況や具合について訊いてきました。マスクで顔のほとんどは覆われてはいたものの、その目の表情や声の調子からは、こういう混みあった周囲の状況の中できるだけ精一杯の配慮をしているというメッセージが充分に伝わってくるものでした。そしてそのことをまた理解し言葉を返した私にとっては、周囲に私のプライバシー(単なる風邪であったのですが)が漏れることになっていたとしても、とても納得できるものであり、同時にこのクリニックへの信頼感は高まったのです。不十分かもしれない。でも不十分であること、相手は心ではどう思っているかを了解したうえでできることはやります、内容の重い軽いにかかわらずそれはプライバシーであることを認識しています、というメッセージを伝える工夫をすることは、とても大切であることを実感したのでした。

個人情報の慎重な取り扱いと効率的な利用が時代の潮流であることは間違いありませんが、個人情報=データ化された情報や媒体ばかりではなく、ある状況の中でまさに今実際に発せられている言葉や態度もまたセンシティブな情報であり、そうしたことへの理解と配慮こそいっそう大切にすべきではないかと思うのです。それはとりわけ人の心の領域を扱うカウンセラーはとりわけ肝に銘じなければならないことでもあると考えています。


~いつもお読みいただいてありがとうございます~

メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 麻布十番

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by yellow-red-blue | 2016-04-23 00:30 | Trackback | Comments(0)

ミッフィーなんて大きらい ~ 清明の頃’16

 

 知り合ってもう何年も親しくお付き合いをさせていただいている年配のご夫婦がいらっしゃいます。たびたび自宅に招かれ食事やおしゃべりを楽しむ仲で、今でもそれは変わりません。

 そのご夫婦のお宅のリビングの壁には大きな油絵が一枚掛けられています。だいぶ以前に知人から譲り受けたものだそうですが、標準的な広さのマンションのリビングに掛けるものとしてはかなり大きなもので、おそらくは150号ほどはあるでしょうか。

 荒涼悠然たる海と赤色黄金色に染まる夕闇のほぼ中央、水平線に沈む夕陽という、絵柄としてはとてもシンプルな日没の風景画。作者は不明だそうで、これといった際立つ特徴や色彩感覚があるわけではないものの、決して小さくないサイズのキャンバスを破たんなく手堅い筆致でまとめ、一般家庭のリビングに飾るにはちょうどふさわしい「無名画家の佳作」といった表現がぴったりのなかなかの作品です。

 そのお宅にお邪魔するのはたいてい夕食時で、一日も終わってホッと一息、美味しい料理とお酒を囲みながら気の置けない同士で過ごすという心地よい雰囲気の中、ふと見上げる視線のその先にいつもこの油絵があり、ついドヴォルザークの名曲「家路」(遠き山に日は落ちて)の素朴で情感あふれるオーボエの旋律がBGMよろしく頭をめぐります。ところが


 ある晩いつものようにご夫婦宅に招かれ家族知人を交え和やかな雰囲気で食事が進む中、これまたいつものようにこの油絵が目に入った私は、会話の途切れついでに、「いつも思うけど本当に心安らぐいい絵ですね。どこの夕陽でしょうね。こんな日没見に行きたいなぁ。」と口にしたのです。

するとそのご夫婦一瞬ポカンとした表情を見せ、私の油絵への視線を一瞬追った後、ご主人が、「あ~夕陽ね、そう見える?なるほどね。」とやや意味ありげなトーン。そしてすかさず奥様が、「これね、朝日なのよ。つまり日の出を描いた絵なのよね。もう何度も来ているから知っていると思ったけれど」とクスクス顔。


 え!?あ、これはつまり朝ですか。そうですか、いやでもまさか

 「珍しいね。大概の人はこれ見て日の出というから。縁起のいいご来光好きの日本人だからかもしれないけれど。」

つまり、流れるべきBGMはドヴォルザーク(「家路」)ではなく、正しくはグリーク(ペールギュント組曲「朝」)だったと….


 その後何度もこのお宅にお邪魔するたび、「今度こそは日の出に見えるかも」と意味不明の密かな願望虚しく、見上げるたびいつも流れるメロディは「家路」であり、「朝」が流れることはけっしてなかったのでした。

そりゃ人それぞれですから、別にいいじゃないですか。夜勤の人にとっては、日没は気合の入る一日の始まりかもしれないし、日の出は長かった一日の終わりだろうし、夕陽を見ながらロマンチックな希望と夢に胸膨らませる恋人達もいれば、楽しい一日が終わり明日からまた仕事かと心沈む私たちだっている。そうそう人それぞれ。別に気にすることなんて…

 どうしても夕陽にしか見えないと困惑する私をじっと見つめ、あるとき奥様がポツリと言ったのでした。

「あなた疲れてるんじゃない?ストレス溜まってるでしょ?」

「……」

✽✽✽✽✽✽


以前地元の地域活動の折知り合いになったA子さんには3歳になる娘さんがいて、母親似のいつも元気でお絵かきと遊園地が大好きな女の子です。アニメキャラクターも大好きで、ディズニーやスヌーピー、ジブリのキャラクターなどは親子そろって熱狂的なファンで、関連グッズにはもう目がないといった感じの、今どきどこにでもいそうな普通の母娘といったところです。何かの折にそうしたアニメキャラクターものを私がお土産に持っていくと、そろって満面の笑顔を浮かべるところが何ともいえず微笑ましい2人です。

あるとき、バレンタインデーにいただいたチョコレートのお返しにまたなにやらそうしたアニメキャラクターのグッズでもと考え、仕事の帰りがけついでにお店を物色していた時のこと。しかし何をあげればよいやら。なにせ相当なコレクションを持っているようだし。と、ふとミッフィーキャラクターのグッズはどうだろうと思い当たりました。幼い頃ディック・ブルーナの描き出すキャラクターと絵本の世界が大好きだった私は、そういえばあのおちびちゃん、ミッフィーものは持っていなかったのではと思い、親子で気に入りそうなものをいくつかギフトラッピングしてもらい、会ったついでにA子さんにお渡ししたのでした。

後日たまたまお会いした折、A子さんは丁寧にお礼を述べてくれました。

そうですか、よかったよかった。僕もディック・ブルーナ大好きですよ。いいですよね~今でもお金があったら原画なんか欲しいぐらいなんです。 ところが…。


「それが実は」とA子さん苦笑顔。「仲いいから言っちゃいますけど実は私ミッフィー嫌いなんです。」

 え!?あ、ダメですか。

「せっかくいただいたのにごめんなさいね。いまだに苦手なんです。なんでだかさっぱりですけど。ヘンテコなキャラやお化けもへっちゃらだったのに、ミッフィーだけは小さな頃からイヤなんですよ。なんというか見ていて悲しくなるんです。」

そうですか、いやでもまさかう~んでもなるほど、なんとなくわかる気もする。いつも真正面を外さない目線や変化のない表情、言語的・非言語的コミュニケーションのほとんどがそぎ落とされ、他のほとんどすべてのアニメキャラクターが持っているような人格性や個性(つまりは人間っぽさ)の排除によって生み出される独特でシンプルな静寂性が支配するミッフィーの世界は、そこがまさにブルーナの大人をも魅了する芸術性の本質だとしても、まだ幼く繊細で敏感な感性の持ち主の幼児にとっては、普段見慣れたキャラクタ―にはない違和感を超え、不安や悲しみ、さみしさ、あるいは恐怖に似た感情をも引き起こすかもしれない、と大袈裟ながら思い当たったのです。

 するとひょっとしてまさか

 Aさん妙に納得げに、「で、ウチの子もミッフィー怖いんです。」

「……」

✽✽✽✽✽✽


「いや~先生、効きましたよあのオイル。びっくりです。一晩あっという間にぐっすりです。」

 数年前ひざを怪我したおりにお世話になって以来、その後もなにかと公私にお付き合いのある理学療法士の先生が、毎年花粉症に悩まされている私を見かね、友人の勤めている外資系精油メーカーから評判の天然植物由来成分100%の濃厚ナチュラルエッセンシャルオイルを手に入れプレゼントしてくれたので、早速試した後の感想がこれでした。睡眠も十分にとれずモヤモヤするのが花粉症の時期なのですが、ほんの微量をこめかみに塗り寝たところ、本当に気持ちよく眠れたのです。ところが….


「え、どういうことですか?」と先生キョトン。

いや、ほらこのあいだいただいたあのオイルの小瓶ですよ、花粉症で眠れないってぼやいていたらくれたでしょ、アレ。

「ええ、はい。でも私が差し上げたのは、鼻づまりや頭のモヤモヤがひどいとおっしゃっていたので、かなり強めのリフレッシュ効果がある成分の入ったオイルですよ。ですから就寝前には使っちゃダメなんですよ。眠れるなくなりますから。」

 え、そうなんですか?でも、いや、よく眠れましたけどアレ?

 かなり怪しむ先生は、改めて気持ちを落ち着かせリラックスさせてくれる精油を何種類もブレンドした濃厚なオイルも渡してくれたのでした。こっちは間違いなくぐっすり眠れるはずですからと。

 ところが、何度試しても、やっぱりよく眠れるのが最初のオイル。2番目のリラックスオイルは全く効果がありません。説明書やインターネットで成分効能を調べてもやっぱり先生の言う通りだったのですが。

 ま、でもとにかく改善がみられたことは確かだし….

 「え~そんなのあり得ないですよ、冗談抜きで特異体質かなにかですか?」

 「……」

✽✽✽✽✽✽


個人的な日常のしくじりエピソードをダラダラとご紹介してしまいましたが、「すべての定義が失敗するほど、人間は幅広く、多岐多様な存在である」(マックス・シェーラー)の通り、私たち人間は、それぞれが様々な差異や特徴を持って生きる多様で複雑な存在です。つまりは、私たちは「違う」のであり、個人を個人たらしめているものはまさにこの違いです。そしてそれゆえ私たちは人間なのでありそうであることが私たちの存在意義そのものに違いありません。違うこととは、人格や性格、気質、気質(かたぎ)や性質(たち)、あるいはひととなりといったもので、いずれも(人格)心理学的には異なるものではありましょうが、ようするにこうした人間のこころには個人差があるからこそ、様々な物事の考え方やとらえ方、身体反応や行動様式もまた異なり、コミュニケーションや他者関係、周囲への適応もまたそれぞれに違うのです。同じ類のことを経験しても主体とその状況が異なればそこから導き出される経験則もまた微妙に異なることでしょう。そうしたことに良い悪いはなく、ましてや正しい間違いであるという考えが入り込む余地は本来ないはずです。


私たち人間には、「一緒でいたい」「仲間になりたい」という本能があります。そうした社会的動物としての本能が、何らかの帰属グループの一員でありたいと願い、家族や学校、会社や電子ネットワークその他様々な組織を作り社会を形成してきました。一人で生きていくことは難しい。相互が助け合い、補い合い、ときに自分を犠牲にすることによって全体として社会が機能していく。集団や周囲への適応力が必要となるということです。そしてそれは、今の私たちの暮らす社会においてもまた変わることはありません。

しかし、一方で人間には自己保存本能と一貫性(自己同一性)を保ちたいとの根源的な欲求があります。これが「違い」つまり「個」の本質であろうと思います。


こうした社会と自己、適応と違い、この両者の間にうまく折り合いをつけ、バランスを保ち、多様な価値観の実践を担保しつつ健全な心身を育み生きることが本来の成熟した価値ある社会であるはずです。しかし、私たちを取り巻く環境や価値観の変化・多様化・複雑化が急速に進み、ITテクノロジーの加速度的進歩がもたらす今の高度情報科学技術社会は、どうやらそれらの間にかつてないほどの緊張関係とアンバランスをもたらし、両者の折り合いが極めて難しい社会へと突き進んでいるように思えてしまいます。多様な価値を担保する社会を目指すどころか、むしろ、ただでさえ複雑な課題に対しスピードと効率、結果を最優先に適応することへ一方的に自己を差し出すことを求める社会へと進んでいるというのが現実なのかもしれません。


私たちは「違う」、このような当たり前のことをことほど左様に強調するのは、そんなことは百も承知のくせに実践できていない、それについてついそ知らぬ顔をついしてしまうのが私たち人間と私たちの暮らす社会なのでは、と思うからです。そしてなぜ冷淡になってしまうのかといえば、そうした「違い」を容認するためには、「待つこと」「試行錯誤」「無駄」「余裕」「間」「失敗」が大切なものであるとの実感に根ざした懐の深さと寛容さが求められるにもかかわらず、そうした心構えが今の私たちがもっとも苦手とすることのようだからです。

違うこと、弱いこと、足りないこと、しくじることは、本来決して「間違い」でも「悪」でもありません。にもかかわらずそれが理解容認することはできないとべっ視の視線をむけるという勘違いを起こしてしまう。だからいじめ、差別、暴力、精神の消耗が止むことがない、そうふと考えてしまうのです。

社会と自己、適応と違いの折り合いを健全に保ちえない社会のはざまで苦悩する人々に真摯に寄り添うことにこそ、私たちのような心理療法家の存在意義がある、そう日々実感しています。

~いつもお読みいただいてどうもありがとうございます。~

メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 麻布十番


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by yellow-red-blue | 2016-04-06 21:05 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、カウンセラーとして、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。ブログのどこかに、読む人それぞれの「わたし」や「だれか」を見つけてもらえたら、と思っています。


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