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おまじない ~ 小満の頃’16


「こもれび(木漏れ日)」

「まちかど(街角)」

「ひるさがり(昼下り)」

 ブログのタイトルでもあるこの3つの言葉に共通することっていったい何だと思いますか?

名詞であるということ、もっと詳しく言うと2つ以上の名詞等を組み合わせてできる言葉、複合名詞ということになります。(木漏れ)日、昼(下がり)、街(角)と言った感じです。名詞を複合的に組み合わせることによって、元の名詞の意味内容をより詳しく深く表現したり、変化を加え別のニュアンスをその言葉にもたらしたりするものです。

こうした言葉がなんとなく好きです。眺めたり聴いたりするだけで、時にひどく感心したり気持ちが安らぐことがあります。「ひるさがり」なんてなんと絶妙な!という具合です。きっとこうした言葉は、文字として使う以前に、実体験として本来さまざま味わうものなのでしょう。言葉の実際を日常で体験し、そこにさらに個人的な過去の思い出や情緒体験といった、容易に表現しつくせないこころの機微が加わり想像力を高め、なにやら味わい深いニュアンスを生み出すのかもしれません。

 

●想像その1

【木漏れ日】

木々に生い茂る枝葉の隙間から降り注ぐ日の光

【街角】

道の曲がり角あるいは一定のスペースのあるまちなか、街頭

【昼下り】

お昼のあとにやってくる、そして夕方を迎えるまでの午後の時間帯(勝手になんとなく午後330分くらいまでかなと)


●想像その2

【木漏れ日】

いま「木漏れ日」が一年のうちで一番気持ちの良い季節かもしれません。青い空を背景に目にも鮮やかに確かな自然の生命力を感じさせる新緑と、その揺れ動く枝葉の隙間からまぶしくも優しく差し込む太陽の光。青と緑、光の調和とコントラスト。その光のシャワーは私たちを取り巻く空気をとてもやわらかで爽やかなものにし、気分までなぜかウキウキとしたものにしてくれます。紫外線直撃がツライ女性にもちょっぴり優しく、やわらかな日差しと緑に身も心も委ね幸せを感じる季節。

【街角】

様々な人が集まり行き交う通りが交差する曲がり角にある空間。そこは人が行き交い、集まり、そして去っていく終着駅にも似た空間。広さに関係なく通るだけで何やら心地よい場所。角にある店に入ってひとときを過ごしたり、人と待ち合せたり、ひとりぼーっと行き交う人や車の波を眺めたり仲良しと溜まったり。街並みを区切り秩序と四方への眺めと広がりを生みだすだけでなく、人にスペースがあること自体の贅沢さと心の余裕を感じさせてくれる。そして自分にも何かが始まることを予感させる場所。

【昼下り】

午前中を終え活気ある昼食どきを過ぎ、人は再び屋内に引きこもり、街はほんの一時静寂が支配するような時間が訪れる。昼食を終え胃袋も落ち着き、何となく昼寝を誘うけだるいようで心地よいひととき。街に人が増え再び活気づく夕方に差し掛かる前のほんの2時間くらい。何かできる、何でもできる。午後とひとくくりにしたくないなにやら別枠の贅沢な時間。


●想像その3

【木漏れ日】

 そんなやわらかな日差しと緑に身も心も委ね幸せを感じることなんて最近あった?。普段そんなこと意識する時間なんかないし、休日といえばどこも人で一杯。だいいちそんな木漏れ日が降り注ぐ木々や並木なんて最近は簡単には見当たらないでしょ。今あるといったら、やおら再開発で騒がしいどこも似たような高層ビル施設や、その谷間に申し訳程度にある不自然な自然空間(⁉)とそれを揺らすビル風ぐらいじゃない?。

 →まぁでも「木漏れ日」がなくても生きていけるし別に困らないし

【街角】

そりゃ都会の中心部や大規模再開発地域ではそれなりにはあるだろうけど、普段の身の回りにそんな気持ちのよい余裕なんてめったにお目にかかれない。街角作る余裕あったら道路を広げて建物大きくするか隙間にビル建てたり、駐輪駐車スペースや広告看板で埋めてビジネスに使われるほうが今の世の中よほど効率的でしょう。

 →まぁでも「街かど」がなくても生きていけるし別に困らないし

【昼下り】

 そんな時間もちろん仕事しているでしょう。そんな時間を特別味わう余裕なんて滅多にありません。休日はどこでも人で一杯、家で昼寝かテレビ、スマホやインターネットかな。

 →まぁでも「昼下がり」がなくても生きていけるし別に困らないし


 この3つの言葉には、最近はあまりというかほとんど実感したり味わうことのなくなり、したがって人の意識にのぼらなくなってしまった世界の匂いが漂います。あるいは、本来は決して贅沢なものではないはずのなのに、今の世の中ではムダあるいは必要ないことを理由に、私たちの周囲や生活から次第に消えつつある余裕(ムダ、スペース、時間)といえるかもしれません。

もはやそれらは普段の私たちの日常生活では必要のない、どこかへわざわざ行って味わうものとなってしまったという妙に贅沢なものになってしまったような気もします。見た目の豊かさや贅沢さとは別次元の、こころで感じるとる人にとって必要な余裕がどんどん何かにすり替えられていってしまっている気もします。


 おそらくその何かとは、代わりに大きな存在として私たちの生活と心を占める、携帯やスマホ、パソコンといった電子メディアを介したインターネット空間というもうひとつの世界あるいは社会、そして他者との関係なのでしょう。私たちは今や、現実物理的に存在する世界と電子空間の2つの社会とを絶えず行き来しながら生きているといえるかもしれません。今や現実とバーチャルの世界の区別云々の見方はもはや意味はなく、電子空間は私たちが生きる世界とは別であるとはいいながらも、ひとつのリアルな世界として私たちの生活に深く浸透しているのが現実です。ここでは従来の公私の領域といった区分はもはや存在せず、それらは混在一体と化して時空を超え、私たちを容赦なくどこまでも追いかけ、巻き込んでいく存在です。

 そうした今の社会では、じっくりと腰を据えた「私」が存在する余地はもはやないのかもしれません。自分の存在とスマホ携帯を同等の天秤にかけ、利便性と迅速さ、手軽な親密さの獲得と引き換えに電子空間に自分を差し出し、絶えず周囲との繋がりを「期待」し押し寄せる情報に「反応」することを余儀なくされる。そして実際には自分を見つめ信じ、自分で考え選択・決断することをしなくなっているということにあまり頓着せず、結果かえって不信と孤独のリスクと隣り合わせに生きていくことから逃れられないでいるかのようです。

ほんの少しの時間の隙間でさえ、スマホの画面にひたすらうつむき続ける私たちにとって、あの3つの言葉に代表されるような複合名詞の織りなす世界は、それ自体物理的には存在はするものの、リアリティの欠如したほとんど意識し顧みられることのなくなった存在といえるでしょう。


私たちにとって言葉はとても大切なものですが、言葉はそれ自体の持つ意味とともに、私たちが言葉を見聞き使うことによって心に様々な情景やイメージ、よりクリアな体験の想い出などを思い浮かべることができるものです。こうした言葉の持つ多様な意味合いとそのことへ思いを馳せつつ日々を暮らしていく過程で醸成されていく想像力の引き出しの多さは、心の豊かさ、他者への理解と思いやりを生み、現代社会を生きる私たちが当然に受け入れている価値観とは別のより深い世界観を垣間見せてくれる可能性の源泉であるように思えます。言い換えるなら、言葉に対する感受性の豊かさが、今を暮らす私たちの日常の生活の中で一番失われているもののひとつでもあるような気がします。

そうはいっても、インターネットの作り出す世界についてあれこれ批判するだけでは意味がないのは明らかです。皮肉なことにそれとは無縁の暮らしは今後ますます「現実的」ではなくなるからです。本来とても役に立ち頼もしいはずの「文明の力」といかに理性と節度、良識をもって上手に付き合っていくのか、私たち一人一人が考えていかなければならない時期に今あらためて来ていると感じています。


というわけで、「木漏れ日 街角 昼下がり」なんて懐メロのタイトルや歌詞に出てきそうな何やら昭和のニオイぷんぷんですが、実はこれ、上で書いてきたような今の日常への自分なりの対処法といいますか、かつて慣れ親しんできた私的な領域の空間や時間に容赦なく流れ込んでくる諸々を止められない時代、効率とスピード、利便と結果のみに収斂されていくかのような世の中を生き抜くためのちょっとしたコツ、言い換えると私にとっての息詰まるツライ時、密かに唱える「おまじない」のようなものなのです。

木漏れ日が気持ちのよい昼下がりに、街角でゆったりする時間を味わう、ただそれだけのために休みを取るなんてバカげた贅沢といえるかもしれませんが、実際できないことはありません。結局自分の考えや決断次第です。こうした光景に出会うために時間をやりくりしてみる。そうした能力も仕事のうちと、ムダを味わってみることの贅沢さに気づいてみれば、豊かさとは何かを考え、今自分に何が必要なのか、何をしてみるべきなのかを気づくヒントが浮かんでくるかもしれません。

当たり前ですが、スマホや携帯、パソコンがなくなったとしても、自分は存在し続け人生は続いていきます。私たち人間は、集団生活に適応しながら生きていくことを求められる社会的動物でありながら、しかし同時に、世間の大勢や周囲の人間関係、社会の同調圧力がどうあろうとも、専門家や権威ある者、お世話になり尊敬に値する周囲の人々が何を言おうと、自分の意思と判断に従い行動する力も勇気も、そして権利も持った生き物です。世の中はどうあるべきか、自分はその中でどうしたいのかをじっくりと見定め、自らに忠実であることに恐れず生きていくことも大切なことです。そんなことをふと気づかせてくれる社会により近づいて欲しい。そしてそれにはまず、どんなささいなことからでもいいから、自分からとにかくあれこれ始めてみることなのだとも感じています。

みなさんには「おまじない」なんてあるでしょうか?


~最後までお読みいただいてありがとうございます。~

メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂 (旧C²-Wave 麻布十番)

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by yellow-red-blue | 2016-05-21 13:41 | Trackback | Comments(0)

こころの整理 ~ 立夏の頃’16

 

 立夏といえば暦の上ではもう夏の始まりということになりますね。まぶしい太陽の光と目の覚めるような青空、そして色鮮やかな新緑に彩られた、なんとも清々しい空気に心なしかウキウキとした気分にさせられる頃です。ちょうど世の中はゴールデンウィーク真っ只中で、旅行やレジャーにはまさにうってつけの時期。普段は多くの人で賑わう私の仕事場周辺界隈も、都会脱出組が多いのでしょう、この時期の人出はやや控え目、どことなくのんびりとした空気も漂います。


で、何やらすべてがキラキラと光り輝いて見える美しい今のこの季節に街なかを歩いていると、ちょっとそうした空気とは場違いな存在にしばしば出くわします。廃品回収業者の小さなトラックです。それなりの音量の宣伝をスピーカーで鳴らしながら、人の歩みよりもまだ遅くのんびりと街中を流す、たいていがちょっと薄汚れ古びたトラックです。昨今の複雑なゴミ処分やリサイクル規制などの事情ともあいまって、私の幼少の頃などひと昔前までは毎日のように見かけていた、古紙回収業者(いわゆるチリ紙交換屋さん)は消えてしまいましたが、代わってより大きな家財道具や家電製品、粗大ゴミなどを扱う廃品回収業者のトラックをよく街で見かけるようになりました。そのトラックの荷台の廃品の山を見ると、どうやら今の時期、業者さんにとっては「書き入れ時」でもあるようです。知り合いの引っ越し業者さんに訊けば、新年度を控えた3月からせいぜい4月の初旬頃までだと思っていた引っ越し時期のピークは、ゴールデンウィークの前半あたりまで続くそうです。なるほどこの連休中も引っ越し業者の大型トラックがそこここに止まっているのを見かけます。そんな中、こうした小さな廃品回収業者さんのような便利屋さんにもそれなりに大切な役割もあるのだなと思うと、今のさわやかな季節に場違いな云々...などという気持ちを抱いた自分に恥じ入りつつ、今どきの街中では珍しいほどのそのゆったり緩慢な動きを見せる存在に、ちょっぴり懐かしさと新鮮さを覚えてしまいます。


先日またその廃品回収業者のトラックを見かけた際、「おや」と思ったことがありました。まだカラに近かったその荷台には、ちょっとくたびれ汚れの目立つ大きめのクマのぬいぐるみがチョコンと置かれていました。その前の週末に同じトラックが界隈を巡回していた際、いずれ処分されてしまうであろうたくさんの不要品に交じって、同じぬいぐるみが荷台に置かれていたのをなにやらちょっぴり悲しい気分で見ていた私は、その処分を一時的にせよ免れたぬいぐるみを見て、思わずホッとしてしまったのでした。ゴミとして捨てられたぬいぐるみや人形が、行政のゴミ収集の職員や廃品回収業者によって拾われ、そのまま処分されず作業車に載せられたりしているような光景を皆さんも時々見かけたことがあるかもしれません。

引っ越しや転勤、子どもの成長や家族の数の変化等さまざまな理由から、持ち主に長い間ずっと大切されてきたぬいぐるみや人形にもやがてその居場所がなくなり、やむを得ず廃棄処分されるといったことは特に珍しいことではないでしょう。考えてみれば他の廃棄物同様、「モノ」には違いないし、どうしても不要となってしまったものは捨てるということに何ら変わりはありません。ところが私たち人間は、人形(ひとがた)や生き物をイメージし擬人化された対象として身の回りにあるぬいぐるみや人形のようなモノに対しては、個人の想いをさまざま投影させてしまいがちで、したがってそれを単純な「モノ」扱いして諦めるということがなかなかできません。たった今私も、ぬいぐるみや人形に対して「居場所」という言葉を使ったように、つまり「生きている」かのように無意識に感じてしまいます。ですからなかなか捨てがたい。諦めがたい。でも、廃品回収業者さんの荷台に乗せられたあのぬいぐるみの元持ち主にとっては、その人なりの「こころの整理」をつけることができたからこそ、廃品として差し出すことができたのでしょう。もうちょっと上手な言い方に換えれば、そうしたモノが担ってきた役割が終り、自分の人生をこれまで豊かなものにしてくれたことに感謝しつつ、廃棄・リサイクルされる新たな運命へ気持ちよく送り出すことができた、という感じかもしれません。


ところがやっかいなことに、そうした当事者の気持ちとは裏腹に、全くの他人であるにもかかわらず、どうやら回収業者さんは処分することが仕事でありながら捨てることに躊躇し、通りすがりの私もその行く末に一喜一憂してしまう。何のことはない、全くのひとごとであるはずのことに「こころの整理」をつけられず、他人事ではどうしても済ますことができない身勝手でお世話な存在の自分たちがいる、ということにふと苦笑いしてしまいます。人の心とは何とも複雑でままならないものかもしれません。

ぬいぐるみでさえそうなのですから、これが犬や猫など本物のペットであったりしたらそうした傾向はなおさらです。いえ傾向どころか、実際に生きている存在なのですから、それはもうペットの持ち主にとっては、家族であり友であり、時に自分を映し出す鏡であり人生のパートナーであり、まさに自分とは不可分の存在に違いありません。


『しょせん、犬猫にはかなわない。』


いつも何かと教えを乞いお世話になっている先生によれば、心理職に携わる人の間ではよく言われる言葉だそうです。カウンセラーあるいは心理臨床家としていかに懸命に勉学に励み知識を蓄え、そして経験を積み上げ、心のプロフェッショナルとしての自負を抱きクライエントに向き合あおうとも、ときにそれらが無力とも思えるほど圧倒的な心を癒す力をペットは持っている。何ら特別な働きかけをせずとも、そこに存在するだけ、生きているだけ、触れるだけで、人に穏やかな心ばかりか生きる勇気さえ与える力を持っている、ということなのでしょう。ペットと接していると自然と心が和み、呼吸や血圧が落ち着き、心穏やかになり、病気の治癒をも促進する等ということは、ペット療法などでもさまざま実践され効果が実証されていることですが、これはいったいなぜなのか今さらながら考えさせられます。

なによりもペットの愛らしい存在や姿、仕草に人は心惹かれるものがあるでしょう。あるいは、ペットという人生のパートナーを得ることで孤独感が和らぎ、喜びが生まれることもあるでしょう。とかく世話がかかり弱い立場の小動物の生命への責任感と使命感が自然に生まれ、共に生きていく勇気と力がみなぎることだってあるかもしれません。子どものころの金魚や昆虫はさておき、犬猫のような本格的なペットを飼った経験のない私の個人的な意見ですが、ペットがかくも人の心に対して効果的に作用する最も大きな理由は、その何ら見返りを求めることなく、ただ飼い主のそばにいつもあり続ける存在自体にあるのでは、と感じています。

シャンソン歌手、舞台俳優として活躍される一方で、長年人生の悩み相談に応じ、珠玉の金言を数々生み出す、まさにカウンセラーのような存在としても活躍されていらっしゃる美輪明宏さんが以前こんなことを言われたそうです。


『花が美しいのは、何も見返りを求めず見る人を慰め、ひたすら献身的だからなのよ。』


人生と花を重ね合わせての言葉だと思いますが、ペットもまた同じなのでしょう。彼らが心を癒そうと思って生きているわけではない。近しい存在でありながら決して何ら見返りを要求せず、傷ついたこころに土足で踏み込むことなく、いつまでもいてくれる、待っていてくれる、頼りにしてくれる。こうしたことが私たち人間の持っている自然治癒力と最も良く響きあう関係なのかもしれません。


逆に言えば、どんな状況であれどんな立場に置かれるにせよ、どうかすると直接的あるいは間接的に常に何らかの「見返り」を心に抱いたり、他者より自分にとって大事な「見返り」に近いものごとを求めて生きていかざるを得ないのが私たち人間なのかもしれません。社会貢献やボランティア、使命感や達成感、モチベーションや欲、目標や目的、やりがいや努力、人生へのチャレンジ、どんな言葉に置き換えようとも、何やかにやで周囲の人々を煩わせることで何とか生きているのが私たち人間であるといったら言い過ぎでしょうか。私たちの動機とは自分で考えているよりずっと複雑で、一切の見返りを期待しない行いをすることはとても難しく、それが一見正義と崇高さとに満ちあふれる考えや行動であったとしても、それを受け入れられない感情や反発と時に向き合わなければならないことは避けられないに違いありません。

考えてみれば、カウンセラーとて苦悩を抱える人に対して、報酬をいただくという点ですでに見返りを求める存在です。そのような生きるための直接的な見返りではなくとも、どこかに相手を救いたい、心を楽にして差し上げたい、悩みを聴いてあげたい、喜ぶ顔や感謝の言葉を聞きたい、などと自分本位の肩に力の入った使命感や達成感をどこか求めている自分がいるはずだと感じるのです。


先日、ある知り合いの方が熊本の被災地にボランティア活動のため赴いた際、訪れた避難所には、「カウンセラーはお断りします」との貼り紙があったそうです。これは心のケアが不要ということではないでしょう。日赤の救護チームや行政の保健スタッフ、支援する医療機関等から心理臨床の専門家が数多く派遣され、災害弱者である子どもやお年寄りを中心に心のケアを行っていることでしょう。そうではなく、今もって余震被害の絶えることのない被災地現場の混乱を却って助長するようなある意味不確かな存在の人間の介入ほど、被災者の心を痛めることはないからでしょう。この貼り紙は、良かれと思いつつ結果、土足で人の心に踏み込みんでしまいがちな周囲の心と当事者との心のズレを、私たち人間はなかなかくみ取ることが難しい存在でもあることを教えてくれています。『しょせん、犬猫にはかなわない。』のかもしれません。ペットであったら、いやそれこそ「くまモン」のほうがずっと人の心に響き、悩めるこころの整理に一層貢献するであろうことの意味を、人はよくよく考えなければならないのかもしれません。


でもそれだからといって、私たち人間が単純に欲深く、自分本位の身勝手な存在であるということで見切っていい存在かといえばそうではないと思うのです。

考えてみれば私たち人間は、動物であれ植物であれ、本来すべてが平等であるはずの地球上に数多く存在する生命の犠牲によって、つまり他の生命を奪うことによってしか生きる術を与えられていない何とも厄介な存在です。

そしてまた同時に、人間は社会という複雑で多様な文脈の中でしか生きられない存在です。地球上の他の生命に対すると同じように、その社会の中ではどんな人であれ立場はどうであれ、誰かに甘え、迷惑をかけ、犠牲を強い、お世話になり、周囲に何かを求め続けなければ生きていけない存在であろうと思うのです。しかしそんな中でも、自分がときに迷惑な存在でもあることを受け入れながら、周囲に感謝の気持ちを抱くことはできる。ありがたいと思う心を伝えることならできる。それが私たち人間にできる実は精一杯で最も大切なことかもしれず、そこからすべてが始まるのではとも思うのです。


カウンセラーとて同じです。他人の「こころの整理」をお手伝いすることがカウンセラーの仕事である一方で、カウンセラー自身もまた何らかの「こころの整理」を求めて、一人一人と相対する存在に違いありません。私たちはぬいぐるみにもペットにもなることはできないからです。

何ら見返りを求めず限りなく純粋な存在でいられることは難しい。よく言われる相談者の「鏡」としての存在であり続けることもまた難しいかもしれません。だからそういう存在である自分を認識して、しかしどんなに有難迷惑な存在であったとしても、そこにあり続けていること、時に人の心に土足で踏み込んでしまうような失敗があるとしても、ひるまずにけっしてひとごとではないことを表明し続けること、そうした部分もまた私たちの社会にあるのだ、ということを見せ続けることもカウンセラーの役割なのではと思うのです。



古びて少々薄汚れたトラックの荷台に私たちのたくさんの整理されたはずの物や想いを詰め込み、周囲の交通事情や流れに逆らうような歩みで、絶えず「不要品ありませんか?」の声を辛抱強く周囲にかけ続け、今日も街を巡回する廃品回収業者さんのトラック。それこそ不必要な人にとってはこれほど迷惑な存在はないかもしれません。けれどもカウンセラーもまた、私たちの生きるこの社会の中ではこうした存在であるべきなのでは、とふと思います。一見何事もなく平和に過ぎ去っていくように見える周囲の日常や目まぐるしく変化していく社会の中で、いつかはしなければならないこころの整理に苦慮し、人知れず悩む人々の側につねに見える存在であり続けること。

『人の中へ、街の中へ』

今もってそれを模索する日々が続いています。


いつもお読みいただいてありがとうございます。

メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂

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by yellow-red-blue | 2016-05-07 10:52 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、時にカウンセラーとして、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。ブログのどこかに、読む人それぞれの「わたし」を見つけてもらえたら、と思っています。


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