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遠い夜明け ~ 秋分の頃’16

 

 前回のブログで、動物を愛し大切にすることについて理解と関心を深めてもらうため、法律で動物愛護週間が定められていることに触れましたが、人の命もまたかけがえのない尊いものであることについて考えてもらうために国が定めた期間があります。さる910日から16日は、今年4月に改正施行された自殺対策基本法において新たに規定された自殺予防週間でした。自殺対策基本法に基づいて、国が推進すべき自殺対策の指針として定められた「自殺総合対策大綱」(平成24828日閣議決定)の冒頭にはこんな一節があります。


人の「命」は何ものにも代えがたい。また、自殺は、本人にとってこの上ない悲劇であるだけでなく、家族や周りの人々に大きな悲しみと生活上の困難をもたらし、社会全体にとっても大きな損失である。このような悲劇を積み重ねないよう、国、地方公共団体、関係団体、民間団体等が緊密な連携を図りつつ、国を挙げて自殺対策に取り組み、一人ひとりがかけがえのない個人として尊重され、誰も自殺に追い込まれることのない社会の実現を目指すものとする。


平成10年に年間3万人を突破して以降増え続けていた自殺者の数は、ここ数年の間減少を続け、昨年その数は25,000人を下回るまでに改善されました。これは国や自治体、民間含め数多くの関係団体が一丸となって自殺防止のネットワーク作りに尽力し、さまざまなや活動や取り組みが実を結んだ結果です。自殺問題への理解や対策の重要性が社会や国民の間にも徐々に浸透し、精神的な病を含めたこうした問題にかつてあったようなある意味タブー的な空気は薄まり、自殺は「防ぐ、克服することができる」「社会の問題である」として、よりオープンに相談あるいは治療の対象として様々な取り組みやサービスを利用できるようになってきたといえます。自殺は事業不信や過労、失業などの仕事にまつわる問題から、いじめやひきこもり、看護・介護疲れ、貧困などの生活上の問題、また身体や精神疾患などの健康上の問題など、さまざまな要因が絡み合いながら複層的に起こることも多いため、従来の縦割り行政頼みの対策を見直し、民間も巻き込んだ分野横断的で総合的な取り組みがなされてきていることは、本当に大きな前進といえます。

にもかかわらず自殺は依然として深刻な問題であることに変わりがないのが現状です。年間24,000人余りという数値は多すぎる数であり、その自殺率は先進諸国の中で突出して高く、さらには30代以下の若年層世代の死因の第1位が病気でも事故でも犯罪被害でもなく、自死であるという他に例を見ない異常さは、以前から国内外から指摘されていたことです。これは数字や統計には出ない自殺予備軍・未遂者を含めれば、いかにとてつもない数の人々が日々身を削られるような問題に悩み、追い込まれ「死」を意識する毎日を送っているのか、そしてその背後にはそうした人々の影響を受け生き続ける何倍もの間接的な被害者である家族や周囲の人々がいるのか、いかにこの問題がこの国に深く刻まれた病巣であるかの証です。

今月の9日、自殺防止事業に取り組む日本財団が全国4万人を超える人を対象に行った自殺意識に関する大規模調査の結果もこうした実態を裏付けるものでした。若者層(2039歳)が最も自殺のリスクが高い世代であること、4人に1人が「本気で」自殺を考えたことがあり、自殺未遂経験者が53万人(推計)に上り、5人に1人が家族、友人、恋人など身近な人を自殺で亡くしていること、自殺未遂経験者の半数以上が誰にも相談しなかった、などの調査結果が報告されています。

まさに人生で一番の充実期ともいえる時期に差し掛かった多くの人たちが、病気や事故、災害、犯罪を原因とするのではなく、今と将来を悲観し、生きがいや希望も持てずに絶望に追い込まれ、自ら死を選ぶという愕然たる事実です。残念ながらこれが私たち日本の国の現状です。

 

 世界では、貧困と不公正、宗教間や人種間の対立などを巡り、テロや地域紛争、難民流出など争いが絶えず、おびただしい犠牲者を出す現実がある一方、我が国は戦争もなく、銃や麻薬にまつわる犯罪はまだまだ微々たるもので、諸外国に比べてより安全で安心できる国であると私たちは考えがちです。しかしこの国の自殺者の多さは、こうした世界における「生存」のための闘いとは別次元の悲劇、自ら生存を止めたいとの心の叫びを繰り返す人々の闘いが毎日のように繰り返されており、心が壊れることによる命の犠牲という闇の深さが、看過できないほどの深刻さをもって私たちの一人ひとりのすぐそばに存在していることを物語っています。独特の豊かな歴史伝統文化を持ち、控え目で礼儀正しく規律ある民族性を持ちながら、同時にハイテクやアニメ、サブカルで世界を魅了するとびきりクールな日本がことさら強調される昨今、そうしたいわば私たちの国の表の顔が突出すればするほど、日本のもう一つの真実、自殺大国という裏の顔がいやおうなく歪んだ形で私たちの前面に突き付けられてくるのです。

 何故このような社会になってしまうのか、その根本への問いかけがなされぬまま、欠陥構造を抱えたまま日本という乗り物は、大勢の人間をすし詰めにしながらひたすら前に進んでいる、そんな気がしています。

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生きる目的がなんであれ、この世に生を受けた私たちは、好むと好まざるとにかかわらずそれぞれの人生を様々歩んでいくことになります。当然のことながら人生は山あり谷ありで、私たちは人生の節目節目において様々な困難にぶつかることとなります。そうしたことを経験する中で、わたしたちはときに挫折を味わいときに試行錯誤を重ね課題を克服し、悲喜こもごもを繰り返しながら成長していきます。いつもうまくいくとは限らず、いえ、うまくいかないことのほうが多いわけで人生とは全くままならないやっかいなものです。

 決して消極的でもシニカルな意味でもなく、自己の人生に多くを望まず、また周囲に過大な期待をすることなく、世の中とはそうしたものだと達観し、柳の枝のごとく風にふかれるまま折れることなくしなやかにひらひらと生き続けていくことができれば、本当はいうことはないのでしょう。そうした真の意味で強い人というのもこの世の中にはたくさんいらっしゃるかもしれません。しかし、自分と周囲との折り合いに苦労し、精神的な悩みを抱え、人知れず日常生活に支障をきたしている方々も想像以上に多いのがこの私たちの暮らす「ストレス社会」の現実です。

当たり前のことですが、私たちは同じ人間であっても、機械や製品のように全く同じであることはなく、人はそれぞれの性格や能力、物事の受け止め方や感じ方で十人十色、そしてまさにその違うということゆえにこの世の中が立派に成立・機能していると言ってよいのです。人生という十字架を背負って生まれ、そして生きていくことだけで十二分に大変で、そして立派なことです。人生において何ごとかを成し遂げ、目に見える成果を挙げ、人の記憶に残り称賛を浴びることに人生の価値を見出す人もいるでしょう。それはとても立派なことです。しかし人それぞれ人生それぞれ。100人いれば100通りの人生、生き方があります。大切なのはゴールの場所ではなくて、歩みのペースはそれぞれ違っても、皆がそれぞれのゴール(らしきところでもいいのです)へと向かって生きるというプロセスそのものにあるのですから。

ところが多様な価値観やライフスタイルを許容し自由で豊かな時代と言われてきたこの国では、実際のところは、そうした個性化や多様性とは本来相いれないはずの、効率と利益と結果本位に大きく傾いた生き方に支配されているのが現実であるように思います。結局のところ、ほとんど増えることのないパイを巡る争いにさまざまな格差や対人関係の複雑さと緊張が絡み、真の豊かさやゆとりを実感することなく、想像以上に画一的で排他的な生き方の流れに乗らなければ、人生において私たちが選択することが許される領域が極めて限られるとても窮屈な社会になってしまっているようにも感じます。

ありとあらゆる無駄を探索し排除して、利益と効率性を求める世の中。ちょっとの「余裕」や「すきま」が、「チャンス」という言葉に置き換えられ否応なくビジネスに巻き込まれるか、あるいは貧困や経済格差のもたらす基本的な生存欲求への手当にふりむけなければならない世の中。「のびのび」「いきいき」「ふれあい」などの表現がむなしく響く子供達の学校生活やお年寄りの老後の生活。途中下車も乗り換えも許されず、分刻みダイヤの高速列車にすし詰め状態に乗せられていくかのような私たちの社会。そして終点がいったいどこなのか知る人は誰もいない...

 適度な対価として提供される目新しいモノとお金とがこうしたことを疑問に思う余地すら奪い、便利さと豊かさの代償であるとして当然のごとくストレス社会を受け入れることを強いられ、私たちの行動と思考は考えている以上に多様性を失い日常に麻痺し流されていく。人間らしい生き方や幸せを考える余裕すらなくなりつつある社会は、人の心までも蝕んでいくのでしょう。

皮肉なことに、冒頭にあげた国の自殺総合対策大綱の中でそれはよく表現されています。「一人ひとりがかけがえのない個人として尊重され、誰も自殺に追い込まれることのない社会の実現を目指すものとする。」とは、すなわち、個人が尊重されず、自殺に追い込まれる現状がいまのこの社会にはあるとの認識に他なりません。

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こうした状況を私たちはどうしたらいいのでしょうか?自分には何ができるかだろうか、何かやるべきなんじゃないかなんて考えることってあるでしょうか?あるいはもっと漠然と、この世の中をもっと良くしたいな、なんてとふと考えることはあるでしょうか?

今こうした質問を自分へ問いかけるには難しい世の中なのかもしれません。少し上でも述べましたが、人生という十字架を背負って生まれ、そして生きていくことだけで十二分に大変でそして立派なことです。そうです、私たちはたぶん今でも皆頑張っているのです。自殺を考え深く悩んでいる人もまだそこまでは考えていない人も、そして今人生に幸せを感じている人も。

 でも、この世の中のために自分なりに考え行動することだって少しは大切なことです。何故ならば、上で述べたような今の世の中のあり様としくみは、たとえそれらを嫌悪し、嘆き、生きるためにしかたなく追従せざるを得ないとしても、結局のところ私たちが生み出しているからです。私たちの一人ひとりが、この自殺大国であるストレス社会の犠牲者でありながら、でも同時にそれを継続させ、次の世代へとツケを回していることに目をつむっている、積極的ではないにしても消極的な加担者であろうと思うのです。そしてそうした認識を持つことは、人が自殺に追い込まれることのない暮らしやすい社会を実現するため、何ができるかを考える上で強力なモチベーションになるはずなのです。

 

私たちは、自殺は決して特別なことではなく、だれにでも起こり得ることなのだという認識を今こそあらたにしなくてはなりません。いや、あれは自殺者個人や家庭の問題で、少なくとも自分なら自ら死を選ぶことは決してない、と考える人は想像以上に多いのです。しかし、動物が好きな人や飼っている人がペット虐待を、お酒を飲めるならアルコール依存症に、宝くじを買ったことのある人ならギャンブル依存症になり得る(そうした人に限られるわけではもちろんありませんが)のと同様に、私たちが人である以上、自ら死を選ぶという行為は誰にでも起こり得るのです。しかも、それに至る原因や状況、自殺に思い至り死を遂げる過程が千差万別であることに加え、人間が生命体として持つすさまじいまでの生存本能、自己保存防衛本能に逆らってまでもなぜ「自殺」を選び実行してしまうのか、多くの謎が解明されないまま残されています。

だからこそ自殺は重いのです。自殺は安易に理解することも許さなければ共感することも許さない、想像を超え隔絶されたもうひとつの世界でありながら、しかし同時に私たちのすぐ近くに寄り添う世界でもあり続けます。自殺を防止するということは、その人の命が削られるのを防ぐためだけでなく、一見なんの関係もない私たち自身を救っていくことと同じことなのだ、ということを感じ取っていかなければならないと思うのです。


いつだって誰にでも起こりうることなのだ、運命なり偶然がそうした人々にほんの少しつらく当たっただけで、そして次は自分の番かもしれない。そうは考えたくはない私たちは、この世の中は公正な世界であって、よい人にはよいことが起こり、悪い人には不幸が起こるはずであるという因果応報的な世界観を堅持したい傾向にあります。自分はこんなにも頑張っている、正しく生きようとしているのだから、自分は違う、自分の身の回りには起こらないはずだと。したがって、こうした信念が脅威にさらされるような異常な事件やあまりに悲劇的な事柄に直面した時、私たち人間は同じようなことが自らに起こる可能性を拒否し、さまざま原因のあら探しを始め、ときに被害者に何らかの非があり自業自得なのではないかとすら考え、何とか自分達の信念を守ろうとしてしまいがちです。こうした人間の心理に住まう防衛的な責任帰属意識に抗い、自殺の問題を「社会の問題」であるとして責任の所在をあいまいにすることなく、私たちもまた「間接的加担者」なのだという意識を持つことは、今の私たちの社会においてはとても難しくしかし、大切な課題なのです。



そのうえで私たちがしなければならないことは、何よりもまず、私たちが自分で物事を根本から考え見直し、自分の思うところに従い行動し生きていくことだと考えています。大切なことは、悩み苦しむ人々のために何か行動しなければとか、彼らに働きかけたり励まそうとかを考える前に、私たちがまず私たち自身の言動と向き合い、何が正しいのか間違っているのかについて自分自身で考え、信ずることを行う勇気をどれほど持っているかということにあるのではないでしょうか。自殺者意識調査結果にある、多くの自殺未遂者が、結局は誰にも「相談する勇気が持てない」ことと、周囲にいる私たちが「勇気をもって」生きることとは表裏一体なのです。私たちが私たちの一人ひとりの生き方と社会の在り方と向き合い、問題意識を持って行動していく空気があればあるほど、彼らにもまた勇気が生まれてくるに違いありません。

それは普段敬遠している政治家の政策に耳を傾け考えてみたり、選挙に行くことから始まるかもしれません。身近な自治体行政に関心を持ち、疑問や意見を投げかけたりすることかもしれません。最近見かけないなと感じたら、その隣人のドアを何か理由をつけてノックしてみることから始まるかもしれないし、普段街中や通勤途中でよく顔を合わせながらそ知らぬふりしてきた人に笑顔や挨拶をすることから始まるかもしれません。職場でふさぎ込みがちの同僚をランチに誘ってみることなのかもしれません。些細なことでも、毎日の生活に漫然と流されたり立ち止まって省みることなくそれは私の責任ではないと歩み去るのではなく、私たちが私たち自身と向き合い、「これでいいんだ」という気持ちから一歩踏み出してみること。自死の犠牲者の数は、そうした行動を私たち自身に促すにはもう充分な数値です。

多様な価値観とは本来相いれない、効率性と絶え間ない弱肉強食の競争社会へと人々を送りこむ一方で、「和をもって尊しとなす」ことを同時に要求する私たちの社会において、「打ち明けられない」「行動できない」空気を打破し、勇気を持ち行動していくのは私たち側からでなければなりません。そして私たち一人ひとりが今の世の中を少しでもいい方向へと変えていくために出来ることは、周囲に苦悩する人がいるといないとに関わらず、すぐそばに、自分自身の中にあるはずなのです。

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【参考サイト】

日本財団自殺意識調査2016

自殺総合対策推進センター


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by yellow-red-blue | 2016-09-23 21:05 | Trackback | Comments(0)

悲しい条文 ~ 秋分の頃’16

 

 来週の920日~26日は「動物愛護週間」です。広く国民に、動物を愛し大切にすること、適切な飼育についての理解と関心を深めてもらうためこの期間、国や地方自治体、各関係団体等が協力して、動物の愛護と管理に関する普及啓発のためのさまざまな取り組みやキャンペーンが実施されるわけです。こうした「~週間」あるいは「~強化月間」などはよく見聞きしたりすると思います。動物愛護週間もそのひとつなのですが、意外と知られていませんが、実はこれ法律に謳われている決まり事、つまりれっきとした法律の条文でもあるのです。


「動物の愛護及び管理に関する法律」(いわゆる動物愛護管理法)

第4条  ひろく国民の間に命あるものである動物の愛護と適正な飼養についての関心と理解を深めるようにするため、動物愛護週間を設ける。

2  動物愛護週間は、九月二十日から同月二十六日までとする。

3  国及び地方公共団体は、動物愛護週間には、その趣旨にふさわしい行事が実施されるように努めなければならない。


でも、特定の目的の運動キャンぺーンとその期間までが、いかつい法律でわざわざ決められているなんて何だかちょっと不思議な気もしますね。

ここ何年かの間に、ペット連れの人を街中で見る機会がぐっと増えました。実際最近では、家族だけでなく独り暮らしの若年層やカップル、高齢者にも飼育する人が増えているとのこと。都市化、少子高齢化が進み、様々なストレスや悩みを抱える人々が増える中で、家庭で動物を飼うことによって人の心身に良い影響を及ぼし、生活に潤いを与えるなど重要性が注目されているのはご存じのとおりで、ペット関連の産業や事業も拡大傾向で、すでにペットは単なる愛玩動物から「伴侶動物」、大切な家族や人生のパートナー、自己の一部としてさえ考えられるようになったといっていいかもしれません。

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そうした一方で、ペットにまつわる様々な問題も深刻さを増しているようです。行政や関係団体等に寄せられる苦情や相談、遺棄・虐待の事例は減ることはないようですし、ペットをめぐる訴訟も増えつつあるといいます。しかし、最も深刻なペット問題は、殺処分、すなわちさまざまな理由から行政が引き取り収容し、最終的に処分される運命にある犬や猫の命です。

身寄りのないペットが保健所で処分されているということは聞いて知っている人は多いと思います。しかし、その数がどのくらいほどのものかを知っている人は多くないのではないでしょうか。最新の国の統計によれば、平成26年度、全国で収容された犬と猫の総数は151,095頭、そのうち返還されたり新たな譲渡先に貰われていった数が50,217頭。そして残る101,338頭の犬と猫が『殺処分』されていきました。普段私たちの身のまわりでよく見かけると同じあの愛らしいペット達が、1年で10万頭以上、人の手によってやむを得ず処分される。これがこの国の現状です。この10万という数があまりにも多いと思う方には、さらにショックなことかもしれませんが、かつてペットにまつわる法的トラブルの問題の調査に携わったこともあり覚えているのですが、10年ほど前にはその殺処分の数は40万頭を超えていたのです。その間、動物愛護管理法の改正や行政、関係各機関団体等のさまざまな取り組みと努力によって、その殺処分数は近年になってかなり減ってきました。しかし、それでもいまもって10万頭以上、どのように考えてもこの数は重すぎます。そしてその多くが、残念ながら私たち人間側の「生活都合」との引き換えに差し出された命なのです。


・引っ越しで飼えなくなった。

・子どもにアレルギーが出た。

・以前から飼っていたペットとの相性が悪かった。

・思っていたよりも大きくなってしまった。

・仕事が忙しくなってしまった。

・子どもが生まれつい世話をする時間がなくなってしまった。

・近所から苦情がきた。

・病気や高齢で世話が難しくなった。

・ペットショップ経営に行き詰まった。


「飼い始める前に、彼らと幸せに暮せるかを熟考し、目の前の命を慈しみ、そして、大切に最後まで飼うという、飼い主としてあたりまえの責任を果たすことで42万頭という数は確実に減らせるのです。」(平成18年環境省自然環境局総務課動物愛護管理室発行パンフレットから)

当たり前のことですが、ペットもわれわれ人間も「命」ある、その尊厳が守られるべき生き物であることには変わりありません。私たちは、何をもって過去おびただしい数の犬や猫の殺処分を「やむを得ない」こととして見過ごし、知らぬふりをしてきてしまったのでしょう?こうしたペットを取り巻く状況を思うにつけ、法律条項にことさらに愛護週間を定めなければならないこの動物愛護管理法の第4条は、胸がつまる悲しい条文に思えてならないのです。

次回は、私たち人の命について触れたいと思っています。


✽参考にご覧ください

統計資料 「犬・猫の引取り及び負傷動物の収容状況」(環境省自然環境局 総務課 動物愛護管理室)

動物の愛護及び管理に関する施策を総合的に推進するための基本的な指針(平成18年環境省告示第140号)


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by yellow-red-blue | 2016-09-17 17:26 | Trackback | Comments(0)

私の知らない世界 ~ 白露の頃’16

 ここ数十年、私たち人間の脳の機能や中枢神経系の情報伝達機能に関する研究、医療診断技術が進み、人間の認知や知覚、思考、記憶、あるいは視覚情報や感情の制御や処理、行動の計画・企図といった、より高次な機能と脳活動に関する知見が飛躍的に蓄積されました。脳を科学することにより、人間の様々な営みや疾病疾患のメカニズムを説明したり改善したりすることができるという、いわば「脳科学神話」とも言うべき時代に私たちはいます。 

精神医学の世界でもそれは例外ではありません。脳の活動や活性状態をリアルタイムで視覚的に捉え分析することが可能となったいわゆる脳機能画像技術が高度に発達し、特定の疾患に特有な脳の活動状態が徐々に明らかになってきました。また、神経生理学的な研究の進歩によりさまざまな精神疾患と関連があるとされる遺伝子情報なども特定されるなど、多くの精神疾患の原因が、脳の機能障害や遺伝的素因など生物学的要因にあると推定されるようになってきたのです。もちろん生物学的要因の特定イコール精神疾病の真の原因とは必ずしもいえず、むしろ疾患発症の前提条件のひとつに過ぎないとも言えるのですが、いずれにしても、今やいわゆる「こころの病(やまい)」は「脳の病(やまい)」ととらえることが時代のすう勢となっているようです。

しかし、その実態や定義が定かでないとはいえ、なんとなく「こころ」という言葉にある種の実存感を前提に仕事をし、科学実証的世界ではとらえきれない何かが人とその営みのはざまにさまざまあると信じたい私にとっては、脳科学の世界のちょっとドライで硬い理詰めの言葉と方向性につい居心地の悪さを感じてしまいます。ただ理系の話についていけない文系の人間だから、というのが本当のところかもしれませんが、カウンセラーとして「こころ」の存在と向き合うほうがよりしっくり馴染む私にとって、ある意味厄介な時代といえばそうかもしれません。

ただ、同時にいずれこうした脳研究や生物学的研究がさらに進むことによって、私たちが普段認識あるいは表象している世界、つまり人間の通常の五感感覚の可視聴域では、どうにも説明のつかない現象や世界の存在、あるいは「こころ」とは何かについてもっと鮮明にされるのではないかと期待していることも確かなのです。何とも説明のつかない出来事や相談事に遭遇し、途方に暮れるときはなおさらです。今回はそんなエピソードをひとつ。


学生時代に何かとお世話になった先輩のご実家に、以前夕食に招待されたときのことです。先輩とそのご両親、そして私の4人でとても和やかで打ち解けた雰囲気の中夕食は進み、当時普段からいい加減な食生活を送っていた私は、先輩のお母さんが用意してくださった食べきれないほどの食事とお酒をすすめられるまま堪能し、すっかりいい気分になっていました。

4人しばらく無言でナイフとフォークを動かしていた時のこと。突然先輩のお母さんが手の動きを止めました。

「あ、地震。」

彼女の声を聞いた私もしばらく手の動きを止め周りの気配を伺ってみました。が、揺れている気配やその予兆のようなものは感じられません。お酒も入っていたし、多少は緊張もしていたのでほんの小さな揺れなど感じなくても大して気にも止めませんでした。気のせいかもね、と思いながら私は、「あ、そうですか。」と言葉を返しました。

ところが、その後しばらく無言で4人で食事を続けていると、先輩のお母さんがまたつぶやいたのです。

「かなり大きかったわね、今の地震。」 

「え?」

今度はさすがにわが耳というか自分の感覚を疑いました。多少酔っているかもしれないが揺れてはいないし、ましてやそんな大きな地震だったらいくらなんでも気づくはずだし。いや、やっぱり絶対に揺れていない。ところが今度は先輩のお父さんが料理から顔も上げず一言、

「あ~、そう。」

待てよ待てよ、訳がわからない。しかし私は食事を続け、平常を精一杯装いながらさりげなく、

「今地震、ありましたですかね。」

「そうね。でもかなり遠そうだけど。」冷静に切り返すお母さん。

「ふ~ん。」とまたお父さん。そしてまた沈黙。


まったくの意味不明。何かのこの家独特の言葉の遊びか、客人にはわからない秘密の合言葉なのか、酔った頭でも一瞬の間に様々な推測が頭をよぎりました。しかしついに私は食べる手を止め、先輩ご家族3人の表情を覗き込みながら訊ねました。

「あの、今揺れましたか?僕全然気がつかなかったですけれど。」

すると、横に座っていた先輩が事情を察して笑いながらこう説明してくれました。

「そっか、知らないよね。うちの母さんね、地震が起きるとわかるのよ。」

「いや、それは誰でもわかりますよ、揺れるから。」

「ううん、そうじゃなくて、遠く離れた場所で起きた地震がわかっちゃうのよ。特に大きいのが。」

な、何ですかそれ?


「じゃ例えば、東京が全然揺れてなくても、北海道とか九州とかで地震があればすぐわかるっていうこと?」

「そんな感じ。でもそういうあまり近くのは逆に感じない時があるらしいの。感じるのはもっと遠いところの地震ね。」

「遠くって?」「たとえば地球の裏側とかずっと遠いところ。」

ハァ?いや、やっぱりまったく訳がわからない。つまり先輩のお母さんには全地球の鼓動を感じ取るセンサーがついているっていうこと?超精密人間地震計?まじめな話なのか冗談なのかよくわからないまま、適当な返し言葉が見つからないので、とりあえず無難な感想で会話をつなぐことに。

「すごいですね、超能力みたいですね。じゃひょっとして地震の予知なんかもできるとか。」

「あ、そういのはないのよ、そうでしょ母さん。」

「ええ、それはちょっと難しいわね。」

「ちょっと変わっているのよ、うちの母さん変なところ敏感で。」

「あら、あんたもそうじゃない。敏感なのは。」


翌日の朝刊で、中央アジアあたりで局地的な大地震があって、かなりの被害が出たとの大きな記事を目にした時は文字通り仰天しました。地震発生時間(日本時間)がピタリと一致…うわっ、

でも単なる偶然でしょう?という私の希望的観測を打ち砕くかのように、実はその後も同じ経験をすることとなりました。こうなるともう偶然ではなく、何だか説明がつかないけれどとにかくこの方には、特別な何かセンサーみたいなものが備わっていると考えるしかなくなりました。

後日、「それってなにか心理学的とか神経生理学的に説明できるわけ?それとも超能力?」との問いに、

「まったく、わかりません。」と素直に答えるしかなかったのでした。


私たち人間には五感があり、人それぞれに敏感の度合いがあってそれはその人の生活環境とか体質とか遺伝的なものによっても異なるのでしょう。しかし、それにも限度があるのでは。なんというかまさに「超」能力というか一般常識の理解を超えたものを「もってる」人が世のなかにはいる、ということを思い知らされたのでした。

オリンピックやプロスポーツのアスリートを見るまでもなく、鍛えたりトレーニングを積めばそれなりに私たちの肉体は進化したり、卓越した身体能力を身につけることも可能です。人間の感覚や精神といった領域においてもそれは同様であると考えるのはごく自然なことかもしれません。犬の驚異的な嗅覚や鳥類の圧倒的な視力などはまさに「超」能力の見本のようなものですが、人間という生き物もかつてはこうした現代人類からは想像もできない「超」能力を持っていたいのかもしれません。それが進化の過程、文明の発達に伴い次第にそうした能力は必要でなくなり、結果として退化していったという仮説はかなりの説得力を持つといえるのではないでしょうか。ただ、おそらく人間全てが一様にそうした能力を忘れてしまったわけではなく、人によっては過去持っていた様々な「超」能力を受け継ぎ、その断片を身体に留めながらこの世に生を受けている人もいるということなのかもしれません。普通の人にはわからない、見えない、感じ取れないものがわかる人がいる。五感ではなくもっと別の、そう第六感とか霊感とかいった類の「私の知らない世界」のお話なのかもしれません。そうして考えると、特別なものを明らかに何も持たない私は損してる平凡な人間なのかなぁ、とちょっと寂しく思ってしまうのです。


いつもお読みいただいてありがとうございます。

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by yellow-red-blue | 2016-09-11 21:54 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、時にカウンセラーとして、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。ブログのどこかに、読む人それぞれの「わたし」を見つけてもらえたら、と思っています。


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