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誰が為に鐘は鳴る(Ⅰ) ~ 春分の頃’17


今月20日は春分の日。昼夜の長さが同じになると言われるこの日を境にようやく冬は終わりを告げ、春の始まりが本格化します。春分の日はお彼岸の中日でもありますから、3連休の今年は先祖供養墓参りをなさる向きも多いことでしょう。息詰まる受験シーズンも終わり桜の開花も間近、卒業式に春休み、そして新入学、社会人スタートへと、新しい季節とエネルギーが躍動し始めるのもこの3月。しかし6年前、あの東日本大震災という未曽有の大惨事以降、わたしたち日本人はそれぞれに程度の差こそあれ、ある種の心的外傷体験を心の記憶にとどめながらこの月を迎えることにもなったように思えます。被災地ではいつ終わるとも知れぬ不安と悲しみ、孤独をいまだ心に抱えもの言えぬ多くの人々が、足早に日常に戻り経済の歯車のリズムに適応することを迫られ、社会の隅で次第に希薄な存在となりつつある現実を突きつけられると、死と再生、絶望と希望とが慌ただしく過ぎゆくこの3月を、今後も繰り返し体験することをどう受け止めればいいのか、なにかこう納得のいかない不全感にふと襲われてしまいます

 先日、あるクライアントを訪問した時のこと。部屋に入ると照明が消えて暗い中、その方はテレビ画面をじっと眺めていらっしゃいました。挨拶をしつつ画面を横から眺めると、髪を短く刈り込んだ往年のハリウッド女優の姿が映し出されていました。

「ああ、イングリッド・バーグマン。『誰が為に鐘は鳴る』ですね。」

「あら、ご存知なの?若いのに。それにしても何度観てもいい映画ねぇ。」70歳半ばのクライアントにとってみれば私のような中年男でもまだ若者であるようで、少し驚いたようでした。

「亡くなった母がバーグマンとゲーリー・クーパーの大ファンでしたから。」と返す私。

 アーネスト・ヘミングウェイ原作の同名小説が映画化されたのは第二次世界大戦も真っ只中の1943年。スペイン内戦に義勇兵として橋梁爆破の任務を遂行するため派遣されたアメリカ人技師ロバート(ゲーリー・クーパー)と悲劇的な過去を背負いながらも反ファシストゲリラの一員として生きる若き娘マリア(イングリッド・バーグマン)との燃え上がる恋と悲劇的結末を、迫力ある戦闘シーンを交えて感動的に描き出したオールドファンにとっては懐かしのハリウッド映画の傑作です。これもまた往年の名画『カサブランカ』同様、戦時中のファシスト枢軸国側への敵国心をかきたてる国威発揚の効果も狙っての映画でもあることは明らかですが、原作同様、感動娯楽映画としても素晴らしい出来栄えのあたりはさすがにハリウッド。結局この日の訪問は、一緒に鑑賞しながらのあれやこれやの会話となりました。

 「それにしても、まぁここ(入所されている介護福祉施設)の職員の人達ときたら、ものごとをな~んにも知らないのよ。映画も文学も、歴史や世界のこともそうだけど、自分の郷里の知識もないからビックリよ。本も新聞もほとんど読まないみたいなこと言ってるんだから。職員お互い同士のことにも関心ないみたいだし。それでみんな大学出よ。優しいけれど若いのになんだか覇気がないのよ。こっちが話したり説明したりすることだって理解しているのか会話にならないことだってあるんだから。やることといったらあたしたち老人を誰彼構わず同じように幼児扱いすることだけ。いえね、世話になってるんだから感謝はしているのよ。悪気はないんだろうけど。だけどこういう仕事には知識とか仕事どうこうよりもっと大切なものがあると思うんだけど、そういうこと誰からも教わってこなかったんだなと思って。結局悪いのは親や教師、職場の上司なのよね。」

 映画の最中もひっきりなしに会話があちこち飛びながら、相変わらずの正論と嫌忌相なかばする毒舌ぶりに、今日はますますもってお元気そうと思いつつ、こうした方々とお話していると部外者ながら福祉現場のむずかしさについてあらためて考えさせられます。入所者の健康と心身の状態は人それぞれ、日ごとバラバラです。猫の目のように状況はくるくる変わり時間も人手も十分でない中、行き届いた介護サービスを提供し、入所者も施設側もともに満足している現場は少ないというのが私の限られた経験からの実感です。理想と現実とのギャップ、心身ともに厳しい労働環境に低く抑えられた賃金報酬、当初抱いていた福祉職への情熱を維持していくのは難しく、短期で辞めていく人も後を絶たず、結果労働不足が常態化し在職者は疲弊と不満を募らせていってしまう。ボランティアを受け入れるにもそのボランティアを指導、管理することが却って負担となることもあります。職務の連携や経験の継承が十分になされないまま、やむを得ず適正を無視して安易な人材確保に走ってしまう、ということを繰り返さざるを得ない状況があると聞きます。見た目新しく豪華な施設でもその内情はお寒い限りのところもあれば、設備は古く充分でないながらも本当に皆さん頑張っていらっしゃると感じるところもあります。実はそういったことは、何日か数時間施設で過ごし観察しているだけでわりとすぐわかってしまいます。行き届いておらず不十分なところをよく意識したうえで、さまざま対処していることが伝わってくる現場と、一見すると人当たりこそいいものの、問題意識が希薄で細かなことに関心を寄せられず、ただ職務をこなしている空気がある現場との違いです。

「そのもっと大切なものって。なんでしょうね?」話を向けてみるとしっかりその答えが返ってきます。

「この間、ここの偉い先生が同じこと訊いてきたからご意見したわよ。必要なのは私たちや働いている者同士それぞれへの思いやりと想像力だってね。あたりまえのことでしょ?別に難しいことじゃないんだから。でもそれが今の人にはできない、わからないのよ。」

 入所されている方々の状況は本当にそれぞれです。70歳を過ぎたばかりの方もいれば100歳を超える方もいらっしゃいます。老衰や認知症が進み、コミュニケーションも難しく生きるほとんどすべてを職員にお世話される方もいらっしゃる一方で、このクライアントの女性のように、身体的にはご不自由があり自宅での生活が困難な事情があるとはいえ、頭脳明晰で教養も豊か、知的探求心の意欲もいまだ衰えを知らない、言ってみればごく普通の生活ができたはずの方もいらっしゃいます。そんな人にとって高齢者施設は、十把一絡げにただ年寄り扱いされる、息詰まるはなはだ不満足な空間にしか映らないのかもしれません。さりとて自分一人では着替えもトイレもままならぬ境遇はこの先ずっと変わらない。慎ましい自尊心までが砕かれ精神的に孤立し、やり場のない怒りとフラストレーションをぶつけてくる方もいらっしゃるのです。

 性格にもよりますが、ケアを受けている側の高齢者からすると、施設に利用料を納めているとはいえ、「自分は厄介になっている」「お世話になっている」「ひとりで日常生活をするのは困難」との意識が強い分、文句や贅沢は言えない、我慢し人知れず耐えていらっしゃる人もいます。ましてや、相手が無報酬のボランティアとなると、かえって入所者のほうが気を使って自分を抑えてしまうことだってあるやもしれません。

「だからいいのよ。報酬を払っているからあなたにも文句も言えるし説教もできるでしょ。これが対等な人間関係ってものですよ。」私の仕事の趣旨を理解いただいている全くありがたい彼女の物言いですが、誰でもができるように見える話し相手や傾聴が、相手の表情や言葉を敏感に受け止め、やり取りに微妙な変化を常に加えながら、注意と知識を総動員して取り組まなければならない本当に難しい活動であることを、こうした方々に改めて教えられる毎日です。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

メンタルケア&カウンセリングスペース C²-Wave 六本木けやき坂

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by yellow-red-blue | 2017-03-21 00:01 | Trackback | Comments(0)

行き雲 ~ 啓蟄の頃’17

現代社会は日々さまざまな側面で変化し、その変化のスピードは著しい。その激しい変化のなかを、手本なしに、時間に追われながら、われわれは、生きることを余儀なくされている。家族は著しい変貌を遂げているし、男性らしさ女性らしさの変化も著しい。情報化の進展も著しく、大人から子どもまで自然から離れ、直接的な対人関係が希薄化し、時間に追われることが多くなった。

 産業構造の変化によって伝統的な地域社会は崩壊し、地域社会が共通の信念と目標を持って共同の活動を行うことは稀になった。これらのことは、一方から見れば望ましい進歩の結果生じたことでありながら、心の不安定を誘うものである。

 さらに、心の危機が生じたさいにも、地域や家族がもっていた伝統的力や知恵に頼って解決することが難しく、個々人が個人として、その困難に向かわなければならないことが基本となってきた。(小野けいこ編著『心理臨床の基礎』2014、放送大学教育振興会

 

 わたしたちには超能力が備わっていて、しかもそれは年齢性別を問わず赤ちゃんから老人にいたるまで、誰もが普段の日常生活において毎日のように発揮している驚くべき能力です。さて、それはいったい何でしょう?

 そんなばかな、そんなものあるわけがない、と思うかもしれませんね。確かにわたしたちが普段「超能力」と言う言葉から連想するような、オカルト的あるいはスピリチュアル的な意味合いからすると、そういった能力はひょっとしたら存在するかもしれないが、誰もが持っていると言われると異議を唱えざるを得ないのが大方の見解でしょう。

では超能力をたとえば、「鳥の飛翔能力や視力、犬の嗅覚のような、他の生物では絶対にありえないヒトだけが持つ驚異的あるいは圧倒的な能力」と考えるとどうでしょう?つまり超(絶)的能力と捉えるとちょっと考えが変わるかもしれませんね。

すぐに思いつくのは、やはり人間の「知性」あるいは人間が営む「知的活動」でしょうか。知覚や記憶、言語から、さらには認識、理解、思考といった、ヒトの高度に発達した脳世界の働きが実現する知的能力や機能です。抽象的あるいは論理的な思考、発明や科学技術、芸術を生み出し理解活用する能力も言われれば確かに超(絶)能力といえるでしょう。他の生物には決してまねのできないことですから。しかし「誰もが」「毎日」発揮しているとなると、やはりちょっと首をかしげてしまうかもしれません。

その答えは、顔を認知する能力(顔認識能力)です。どういう意味?なんでそれが超能力?と思われるでしょう。ですがこれは、認知心理学や認知神経科学など心理学の世界においてはごく一般的な知見といってもさしつかえないものです。

わたしたちヒトは、顔表情から発する多様な情報を極めて敏感かつ瞬時に察知し、その後の社会的ふるまいや意思決定に反映させる不思議な能力を有するに至った霊長類です。顔を見てそれが誰であるのか、自分の知った人であるのか知らない人であるのかという個人の識別や、顔かたちを見て美しさや醜さ、好み等の一定の価値判断をすることに加え、どのような感情状態にありそれが何を訴え意図しているのかといった表情識別を行い、微弱な視線移動にも敏感かつ情動的に反応し、さらには口の動きから言語情報をある程度察知することまでもできることが知られています。実際、脳神経科学や認知神経科学などの分野では、ヒトの大脳には、顔の処理に特化した独立の脳神経メカニズムないし顔処理中枢システムが存在しているとする知見も存在するほどです。

しかしよくよく考えてみればこれはとてもすごいことです。なぜならわたしたちヒトの顔にはほとんど違いがないからです。当たり前ですが、頭(頭頂部)の下、ほぼ同じ位置に眉毛と眼が2つ横に並び、その下の中央に鼻が位置し、さらにその下に口があり、顔の左右の同じ高さ位置に頬や耳がある、というレイアウトは決して変わらず、つまりヒトの顔はほとんどみな同じといっても差し支えありません。にもかかわらず、そこにわたしたちは考えられないほど多くの情報を表現し受け取ることができるのです。わたしたちは言語活動を抜きにして、誠実な笑顔と作り笑い、嘲笑を区別し、目や眼差しに思いやりと軽蔑を読み取り、その視線移動に指示や協調の意思を察知し、相手の本心あるいは本心とは裏腹の感情をその表情から察知することが可能なのです。顔や目鼻口を用いた慣用句やことわざは各国の言語にも数多く、その言い回しにも多くの共通性があることなどはよく知られていますが、わたしたちにはほとんど違いのない顔かたちの表情や視線から、さまざまな「意味」や「意図」を発信し受け取るという驚異の能力、超能力が備わっているのです。


わたしたち人間は、時々刻々変化する厳しい自然環境だけでなく集団的社会環境にできるだけ迅速かつ柔軟に適応していくことで生き抜き、種の存続を実現するため、きわめて高度な思考・情報処理能力を有する脳を発達させてきたと考えられています(『社会脳仮説』とも言われます)。しかもヒトは所属欲求が根源的に強い、言ってみれば寂しがり屋の生き物です。集団を作り、集団の構成員が協力することで生き延びてきました。集団生活内で、拒絶されることなくいかにうまくやっていくかが生き延びる条件でした。こうした適応的な社会行動を実現していくために様々に進化していった高度な知的機能のひとつが顔認識能力であったと考えられています。言語の発達が不十分であったり獲物に気配を悟られてはならない太古の狩猟現場においては、お互いの動きや意図を表情や目(まさにあうんの呼吸、アイコンタクトです)から読み取るのはとても重要な能力であったでしょう。また日常生活において誰が優しく親切で親しくすべきか、誰が仲間で誰が敵なのか、この人は今どのような感情状態にあるから、では自分はどう振る舞うべきなのかなどを考えることは、生存に直結した重大な問題だったでしょう。そうした集団の中で自分がいかなる位置にいるのかといった相互関係のダイナミズムを敏感に察知するためにも、さまざまなニュアンスをやり取りする顔認識能力はとても重要であったと考えられています。このようにしてヒトは、周囲に適応し生き延びていく必要から、ほとんど同じである他者の顔や表情を繊細に区別する経験と学習を幼いころから延々と継続することによって、極めて高度な顔認識能力を身に着け進化させていったといわれています。

「人の顔色をうかがって(生きている奴)」とか「(嘘をついても)目は口程に物を言う」「(言わなくても)顔に書いてある」など、何かとネガティブな意味に使われがちなのがわたしたち人間の顔表情です。あまりに他者や周囲の文脈の中で生きることは良しとすべからずというのは、たしかにもっともな意見ですが、「(口ほどに)目でものを言い」、「(人の顔色)をうかがいながら生きて」きたからこそ今のわたしたちがあるのです。それらは厳しい環境を生き延び、種を維持存続させるために欠かすことのできないまさしく処世術でもあるのです。

かつてわたしたちの祖先は、集団内で限られた資源を分かち合いながら、日々の食糧や住み家、安全を確保し、子孫を残していくという極めて基本的で根源的な願望を満たすために生きてきました。そうしたシンプルな願望が満たされることが幸福であり満足のいく人生でもありました。

しかし、冒頭でも引用しましたが、ここ百数十年の間に急速に発展した近代文明、さらにはここ数十年の社会の高度情報化とグローバル化はいっぽうで、そうしたヒトにとって極めて基本的なはずの願望の実現を妨げるさまざまな心理的社会的要因をも生み出すこととなりました。人類史上過去に例をみないほど複雑で多様で流動的な社会では、生きる基本が十分に満たされる保証のないままに、高度な思考・情報処理能力をもってしても処理することがなかなか困難な問題が日々生まれています。そうした世の中に必死に適応していくことにエネルギーを費やすことを余儀なくされる現代の人々には、もはや周囲や顔色をうかがい、目を読む余裕すらなく、その意味すら希薄なものになりつつあるのかもしれません。

物質的には明らかに満たされ、脳のある一部の機能は極めて進化してきたものの、ヒトをヒトならしめている心と身体のゲノムはやはり頑固かつ強固なのであって、変化のスピードがあまりに速すぎる現代文明社会に適応できるよう十分に進化するには、ひょっとしてまだ途方もない時間がかかるのかもしれない、そんなことをふと考えてしまいます。



久し振りに晴れ間ののぞいた桃の節句の東京の朝、どんよりと重たく雲が広がることが多い冬には珍しく、シュークリームのような積雲の群れを南の空、遥か遠く太平洋上の空に臨むことができました。澄み切った青空にのんびりと浮かぶふわふわとした雲を眺めていると、心なしか気持ちもなごんできます。春も間近なんですね。いずれ梅や沈丁花がほのかに香る優しくみずみずしい空気があたりを漂い始め、心待ちにしていた新しい季節が今年もやってくるのでしょう。寒く厳しい季節が過ぎ空気が緩み始めると、何故か毎年のように、つらい時期を何とか乗り越えたような安ど感と、「今年こそ何かいいことがあるかもしれない。」という何の根拠もない希望と変化への期待感が心に満ちてきます。決して冬が楽しくなかったわけでもないのですが、これはもう生き物の習性に近いものかもしれません。

 「唯一、人間という動物だけが未来について考える」(ダニエル・ギルバート)ですが、まだ起こっていない先のことについてあれこれと考えることは、期待と不安、ポジティブとネガティブの両面を併せ持っていることでしょう。でもたとえ根拠のない曖昧模糊とした心情だとしても、明日への希望をどうにか何とか抱き続けることが、人が生きていく上でどんなに大切なものか、それがなければ決して前に進むこともできなければ周囲の人を思うこともできないということをつくづく感じます。

「わたしたちには明日がある」とりあえずそうワンテンポ置いて、わたしたちそれぞれに今日一日がどんな日であろうと、明日のことは脇へ置いて今と今日をまず丁寧にじっくりと生きてみる。その時その時のやることに集中し、一所懸命に取り組むことそのものに人生の生きる意味がある、という禅道で言う「喫茶喫飯(きっさきっぱん)」の心構えに似ているかもしれません。そして空に浮かぶ雲であろうとそよぐ風であろうと行き過ぎる人の笑顔であろうと、何かにどこかにすがりつき生きる喜びの手がかりをたぐり寄せながら、過去が、未来がどうであれ、ただ前に少し歩を進めていく。人生とは前に進むことそのものです。そしてただそれができるだけで、本当はわたしたちは幸せなのかもしれない、ふとそう思うのです。


最後までお読みいただいてありがとうございます。

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by yellow-red-blue | 2017-03-03 23:22 | Trackback | Comments(0)

「いま」について日々感じること、心動かされる体験や出会いなど、カウンセラーとして、また時に仕事から離れ、思いつくまま綴っています。ブログのどこかに、読む人それぞれの「わたし」や「だれか」を見つけてもらえたら、と思っています。


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